Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

婦人部・女子部最高会議 晴れ晴れと「仏法は勝負」の決着を

1999.10.8 スピーチ(1999.10〜)(池田大作全集第91巻)

前後
1  ネパールから貴重な「法華経写本」
 毎日毎日、広宣流布に、けなげに尽くしてくださる婦人部・女子部の皆さまに、スピーチを贈らせていただきたい。
 先日、ネパール王国のビレンドラ国王が(「池田SGI〈創価学会インタナショナル〉会長に」と)署名された、意義深き「法華経の写本」を、私は拝受いたしました。
 四年前(一九九五年)の秋、私は、首都カトマンズの王宮に国王を表敬し、一時間二十分にわたって、友好の語らいをさせていただいた。国王が総長を務められる国立トリブバン大学と創価大学との交流についても、大変に喜ばれていた。
 国王が「教育は若い世代に対し、将来、彼らが直面するであろう困難に打ち勝つ力を与えます」と語っておられたことも、忘れることはできない。
 また、ネパールSGIが、民衆のために教育・文化の活動を進めていることについても、国王は大変に温かな理解と期待を寄せてくださっている。同SGI理事長はじめ、わが友の「真剣さ」と「誠実さ」が、釈尊生誕の国土に、どれほど深く、信頼と友情を広げてこられたか。私は、心から賛嘆申し上げたい。(=二〇〇一年六月、ビレンドラ国王は逝去)
2  「法華経」といえば、牧口先生は、獄中で特高刑事から、「法華経とは、いかなる教えか?」と尋問された。それに答えて、先生は堂々たる「破邪顕正」の論陣を展開されたのである。
 すなわち、「法華経は、天地の森羅万象を包摂する宇宙の真理である。そして、われわれ人間の生活の行動規範となる根本の大法則である」(『牧口常三郎全集』第十巻、第三文明社)等と。
 三畳間の狭い独房に捕らわれながらも、牧口先生は、人類最高峰の哲理・法華経を説き、ヒマラヤのごとく、「何ものにも動じない大境涯」であられた。
 これこそ信心の真髄である。その意味からも、この貴重な「法華経写本」を、私は、十一月十八日の「創立の日」ならびに「殉教の日」を前に、牧口先生の殿堂・東京牧口記念会館の御宝前に、謹んで供えさせていただきたい。
3  釈尊への大弾圧は悪王と邪師が結託
 そもそも釈尊が、出世の本懐である「法華経」を説こうとされたとき、いったい何が起こったか? 大聖人の御書を拝すれば、そのとき、法華経を説かせないため、広宣流布を邪魔するために、大弾圧が続いたのである。
 釈尊を、なき者にしようとして、次から次へと魔の軍勢が襲いかかってきた。まったく事実無根の嘘を浴びせて釈尊を陥れようとする陰謀も続いた。その激しさは、世間の人々が「仏の力も、悪人にはかなわないのか」と思うほどであったと、御書には記されている。(上野殿御返事に「世間の人のおもはく・悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思ひて信じたりし人人も音をのみて・もの申さず眼をとぢてものを・みる事なし」とある)
 その黒幕は、だれであったか? それは、釈尊への嫉妬に狂った提婆達多であった。なんとしても正法を説かせまいと、あらゆる策略をめぐらしていたのである。
 また、この提婆達多がたぶらかし、結託していった権力者が阿闍世王であった。
 「阿闍世」とは「未生怨」、つまり「生まれる以前から(父に)恨みをもっている」という意味である。今世だけのことでなく、前世からの黒い因縁のもとに生まれた悪人であった。
4  大聖人は、釈尊の当時の様相について、こう仰せである。
 「不孝の悪王と謗法の師とよりあひて候しかば人間に二のわざはひにて候しなり、一年二年ならず数十年が間・仏にあだを・なしまいらせ仏の御弟子を殺せし事・数をしらず
 ――不孝の悪王(阿闍世王)と謗法の師(提婆達多)が、手を結んだのであるから、人々にとって二重の災難であった。それが、一年や二年の間だけではなく、数十年もの間、仏(釈尊)を迫害し、仏の弟子を殺したことは、数え切れないほどであった――と。
 「人の道を踏みはずした悪逆の権力者」と「仏法に背いた謗法の坊主」の結託。極悪は極悪と結びつく。いつの時代も同じである。
 このように、最大の正義の人をいじめ、苦しめ続けたために、社会は、どうなったか。
 御聖訓には、こう述べられている。
 「天いかりを・なして天変しきりなり、地神いかりを・なして地夭申すに及ばず、月月に悪風・年年に飢饉・疫癘来りて万民ほとんど・つきなんとせし上、四方の国より阿闍世王あじゃせおうを責む
 ――諸天は怒り、天変が、しきりに起きた。地神(大地の神)が怒って、地夭(大地の異変)が、しきりに起こったのも言うまでもない。月々に悪風が吹き、年々に飢饉や疫病がやってきて、万民は、ほとんど死に絶えようとした。そのうえ、四方の国々からも、阿闍世王の国を攻めてきた――と。
5  責めれば悪の″仏罰″は厳然
 釈尊の命を奪おうとした、提婆と阿闍世の暴虐に、憤然と声をあげた人たちがいた。釈尊の弟子たちである。「断じて、釈尊を守護するのだ!」
 弟子たちのはやり立つ心を落ち着かせながら、釈尊は悠然と語られた。
 「仏は、必ず怨敵に勝つ。いかなる悪も、仏を害することは絶対にできない」と。
 事実、提婆達多が、どんなに邪知を振りしぼって画策しても、釈尊だけは倒せなかった。
 その厳たる実証を目の当たりにして、阿闍世の心にも、動執生疑が起こった。提婆達多という「魔」の正体が明白に、あばかれていったのである。
 釈尊と師弟一体で阿闍世を真っ向から諫めていったのが、名医「耆婆」である。
 「耆婆」という名前は、サンスクリット語で、「生き生きとした」、また「生命を与える」などの意義があるという。「医王」とうたわれた知性の人であり、人格の人である。耆婆は、阿闍世のもとで、大臣も務めていた。
 御書には、耆婆の闘争について、こう仰せである。
 「阿闍世王の眷属五十八万人が、仏弟子に敵対している中で、ただ耆婆大臣だけが仏(釈尊)の弟子であった。阿闍世王は、耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われなかったが、最後には他の六大臣の邪義を捨てて、耆婆の正法につかれたのである」(御書一一六〇ページ、趣意)
 邪悪と戦うことが「信心」である。
 「師子王の心」で、仏敵と戦ってこそ「仏」となる。間断なく謗法を責めてこそ、「仏罰の現証」も相手に厳然と現れる。
6  正義が栄えてこそ、社会も自身も栄える
 御金言には、「今にも国が滅びようとしたとき、阿闍世王は、耆婆の勧めなどによって、提婆達多を打ち捨て、釈尊の御前に参上し、さまざまに今まで犯した罪を、お詫び申し上げた」(御書一一四九ページ、趣意)と。
 国が滅びんとして、ようやく権力者は自身の悪行に気づき、迫害していた「正義の人」に謝罪したのである。こうして、味方からも見放され、提婆達多は、生きながらにして無間地獄に堕ちていった。「仏法は勝負」の峻厳なる決着である。
 懺悔し、心を改めた阿闍世王は、賢い王となって善政を行った。他国からの侵略もやみ、国土も安穏となっていったという。
 さらに、阿闍世王自身も大病を克服し、寿命を大きく延ばして、法華経をはじめ仏典の結集にも、おおいに貢献していったと伝えられている。正義が栄えてこそ、自身も、社会も栄えていくのである。
7  大聖人は、末法の大難も、まったく同じ構図であることを示されながら、四条金吾にこう仰せである。
 「日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへども或は心ざしうすし・或は心ざしは・あつけれども身がうご合期せず
 ――日蓮を助けようと志す人々は少々いるけれども、あるいは志が薄い。あるいは志が厚くても身がそれに伴わない――。
 気持ちはあっても、「行動」しないのでは、広宣流布は進まない。
 「心ざし人にすぐれて・をはする上わづかの身命をささうるも又御故なり、天もさだめて・しろしめし地もしらせ給いぬらん殿いかなる事にもあはせ給うならば・ひとへに日蓮がいのちを天のたたせ給うなるべし
 ――(あなた=四条金吾は)日蓮を助けようとする志が人よりすぐれておられるうえに、日蓮がわずかの身命を支えることができるのも、あなたのおかげである。このことは、必ず天も知っておられ、地もご存じであろう。もし、あなたの身に何かの災難でも起こったならば、それが何であれ、日蓮の命を、天が絶とうとするのと同じである――。
 そんなことは、絶対にない。ゆえに、難に負けてはならないと激励しておられる。
 当時、金吾は讒言によって、領地替えなどの厳しい逆境に立たされていた。現代で言えば、深刻な不景気やリストラの苦境にも通ずるかもしれない。
 しかし、戦うべき時に戦った人は、いざという時に、十方の諸仏から、また諸天から、必ず必ず守られていく。
 学会は創立以来、法華経の通り、御書の仰せの通りに進んできた。ゆえに強い。ゆえに永遠に行き詰まらない。
8  国連の白書によれば、地球の人口は、今月十二日で六十億人を突破する。
 新たな千年へ、人類は今、明快なる「哲学」「理念」「指針」を求め始めている。
 なかんずく「法華経」は、女性の本源的な解放を高らかに謳い上げた哲理である。明年の夏には、信濃町に待望の「創価世界女性会館」が完成する。(=二〇〇〇年九月八日に開館式が行われた。地上七階、地下二階建て)
 「女性の世紀」へ、いよいよはつらつと、大確信をもって対話を進め、楽しく朗らかに仏縁を結び、広げていただきたい。
9  わが子を広布の組織人へ
 ところで、一九四一年(昭和十六年)七月に、発刊された機関紙『価値創造』の創刊号には、当時の創価教育学会の組織が紹介されている。
 そこには、会長・牧口常三郎先生、理事長・戸田城外(城聖)先生のお名前とともに、東京の九支部、ならびに福岡、久留米、神戸、青森など地方の七支部の支部長の名前が留められていた。
 そのうち、東京の目白支部の支部長としては、牧口洋三さんのお名前が記されている。牧口先生の三男であられた。
 当時、三十四歳。甲子園の高校野球にも出場したことのあるスポーツマンの洋三さんは、若き支部長として、牧口先生のもとで、広宣流布のために奔走しておられたのである。
 (洋三さんは、のちに徴兵されて、牧口先生が逝去される三カ月前に、三十七歳の若さで戦死)
 初代牧口先生のお宅でも、わが子を、広宣流布の組織人として苦労させておられた。この神々しい「信心の継承」の姿を幹部は、絶対に忘れてはならない。
 大聖人は(「顕仏未来記」に)法華経の薬王品の経文から、「閻浮提えんぶだいに広宣流布して断絶せしむること無けん」――(末法の一切衆生を救うため)全世界に正法を広宣流布して決して断絶させないようにすべきである――を引いておられる。わが子を広布の人材に育てていただきたい。
 また、わが地域の青年を立派な人材に育てていただきたい。そして世界の若人とともに、二十一世紀もまた「完全勝利」してまいりましょう!
10  「女性の世紀」を健康・長寿で
 大聖人は、富木尼御前の病気の報告を聞かれ、こう仰せになっている。
 「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり、此の尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事灯に油をへ木の根に土をかさぬるがごとし、願くは日月天其の命にかわり給へと申し候なり
 ――尼御前(富木常忍の夫人)のご病気のことは、私自身の身の上のことと思っておりますので、昼も夜も諸天にこう申しております。「この尼御前は、法華経の行者(日蓮大聖人)を支えて、灯火に油を加え、木の根に土を重ねるように、供養してきた人である。願わくは、日天よ月天よ、尼御前の命に代わって助けられよ」と――。
 さらに、尼御前に、こうも仰せである。
 「法華経にあわせ給いぬ一日もきてをはせば功徳つもるべし、あらしの命や・をしの命や、御姓名並びに御年を我とかかせ給いて・わざと・つかわせ大日月天に申しあぐべし
 ――法華経にめぐりあわれたのですから、一日でも生きておられれば、その分、功徳がつもるのです。なんと大切な惜しい命でしょうか。惜しい命でしょうか。あなたのお名前ならびにお年を自分で書いて送ってください。大日天、大月天に報告しておきましょう――。
 私も、この大聖人の御心を拝し、病気の同志のお名前と年齢を御宝前にお供えして、平癒のご祈念を真剣に続けている。
 「病魔よ、立ち去れ!」
 「わが学会員の病を治し給え!」
 「わが学会員の寿命を、さらに増し給え!」と強く深く祈り続けている。
 いよいよ「創価の世紀」の開幕である。「健康第一」で、尊き一日を、生き生きと前進してまいりましょう!
 (創価文化会館)

1
1