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日蓮大聖人・池田大作

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第38回本部幹部会、第10回東北総会 善の拡大で「我此土安穏」の楽土を

1999.10.7 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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1  創立七十周年! 「この七十年は五百年に匹敵」と識者
 来年(二〇〇〇年)は、いよいよ創立七十周年。この佳節を晴れやかに迎えることができるのも、学会員の皆さまが真剣に頑張ってくださったおかげである(拍手)。(二〇〇〇年は「二十一世紀開幕 青年の年」と決定。戸田第二代会長の生誕百周年、池田名誉会長の第三代会長就任四十周年、SGI発足二十五周年でもある)
 ある識者が言っていた。「創価学会の七十年は、五百年にも匹敵するであろう」五百年分の歴史をつくった七十年であった、と。(拍手)
 学会の発展は、世界の広宣流布のためである。永遠の平和のためである。この地球の「我此土安穏(我が此の土は安穏にして)」のために働いているのである。
 これほど尊い団体はない。まさしく皆さまは仏の使いであり、菩薩の行をしておられる。不思議な方々なのである。そうでなければ、これほどの広布の偉業は成しえない。
 大聖人の御聖訓のままに、「戦闘」し、「突進」してきた尊極なる使命の創価学会を、十方の仏菩薩が永遠に守り、賛嘆するにちがいない。広布に働いた皆さまの功徳も、未来永劫に尽きないと確信していただきたい。(拍手)
2  世界の人々が今、学会の行動を正しく認識し、宣揚し、賛嘆し、擁護してくださっている。日本の蛮行のゆえに、歴史的に反日感情が根深い韓国でも、創価への信頼が広がっている。中国でも。ロシアでも。
 つい先ほども、ブラジルから連絡が入った。このたび、素晴らしき歴史と自然の町「ピンダモニャンガーバ市」の市議会が決議し、市長、市議会議長の承認のもと、同市にある主要道路が「牧口常三郎大通り」と、その通りの近くの道が「戸田城聖通り」と公式に命名された。(拍手)
 正式名称は、「牧口常三郎創価学会初代会長大通り」と「戸田城聖創価学会第二代会長通り」である。閑静な新興住宅地にある道という。なお同市からは、昨年六月、私も「顕彰証書」をいただいている。
 (その際、オダン市会議員がこう語った。「この顕彰には″SGIの平和・文化活動が、さらにこの町にわき上がってほしい″、そして″池田博士の哲学が、わが町から世界へ広がってほしい″との願いが込められています」)
 ブラジルでは「牧口常三郎通り」は四都市目。「戸田城聖通り」は二都市目となる。(拍手)
 (さらに「牧口常三郎公園」がクリチバ市に、「戸田城聖公園」がサンジョゼ・ドス・カンポス市にあり、「池田大作博士平和公園」もロンドリーナ市で進められている)
 世界が学会の味方である。ただ日本だけが、正視眼で認識しようとせず、御書に仰せの通り、嫉妬し、迫害し、誹謗し、中傷している。
 「人類のため、人間性のために、今、何が必要なのか」――そういう視野で、ものごとが見られない。「島国根性」が、いつまでたっても直らない。
 しかし、御本仏の日蓮大聖人は、深い御慈悲で、最も陰険で、迫害の大きい、根性の悪い日本に、お生まれくださった。そして、この五濁乱漫の日本においてさえ、一千万近くの我が同志が、「地涌の菩薩」が、陣営を築いた。二十一世紀への準備は、全部、でき上がった。(拍手)
 国のため。平和のため。永遠の法のため。自分自身の幸福のため。目前になった二十一世紀に向かって、大宇宙のリズムと合致しながら、勇敢に、生命を燃焼させましょう! 悠然と戦い、最高に意義ある人生を生き抜いていきましょう!(拍手)
3  悪を滅ぼせ、正義の戦闘こそ「信心」
 トルストイは喝破した。
 「人が真実の信仰を知ることは、暗い部屋に明かりを灯すようなものである。すべてが明らかになり、心が朗らかになる」(『人生の道』)
 「真実の信仰」――世間には「インチキの信仰」が、はびこっている。とくに聖職者がそうだ。トルストイは、そう鋭く見破っていた。
 「すべてが明らかになる」――真実の信仰に立てば、全部見えてくる。「何が善で、何が悪か」「何が幸福で、何が不幸か」「今、何をすべきか」。光に照らしたように、はっきりしてくる。これは、仏法にも通ずる考え方である。
 御書には「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」とある。
 「心が、朗らかになる」――明るく、また軽く、心が光ってくる。人にも親切になる。皆、会って、ほっとする。元気が出てくる。それが「真実の信仰」の人である。
 反対に、いつも、どんよりとして(笑い)、心が重く、笑顔がない。いばったり、自分の感情のままに人に接する――そういう指導者は「真実の信仰」の人ではない。
 幹部が会員に会うのは、その人のためである。その後輩のためである。自分のためではない。「皆を喜ばせるために」幹部がいる。皆を喜ばせていこう。元気に、幸福にしていこう――その祈りから智慧が生まれる。その慈愛が、自分の福運を増やしていく。
 皆にいやな思いをさせれば、その分、自分も罪をつくる。自分中心の指導者のもとの組織は不幸である。我々は、真実の信仰者らしく、「賢明に」そして「朗らかに」いきましょう!
4  プラトンは述べている。
 「徹底的にどうしようもなく道を踏みはずした悪人に対しては、怒りをあらわにすべきである」(「法律」森進一・池田美恵・加来彰俊訳『プラトン全集』13所収、岩波書店)
 どうしようもない悪人には「怒り」をぶつけよ!――学会の精神も、これである。プラトンと同じである。
 日蓮大聖人は「瞋恚しんには善悪に通ずる者なり」と仰せである。
 悪に怒りを燃やすのは「善」なのである。「燃え上がる怒り」がなくなったら、もはや「正義」の心はない。心は死んでいる。死んだ心に、功徳もない。喜びもない。幸福もない。
 怒りの炎を燃やして「戦闘」する! 「叱咤」する! 「攻撃」する! 「追撃」する! これこそが仏法であり、正しき人間の道である。
 草創の学会は、悪と徹底して″ケンカ″した。「戦闘精神」が、みなぎっていた。
 しかし「最近は青年部が、おとなしくなった。婦人部の上のほうの幹部の中にも、貴婦人みたいに気どっている人がいる。むしろ年配の多宝会の人たちほど元気だ。青年のようだ」――こう言う人もいる。
 二十一世紀へ、もう一回、本当の「学会精神」を燃え立たせましょう!(拍手)
5  アインシュタイン博士もたたえた東北の人々
 きょうは、東北総会! 遠くから、たくさんの東北の同志が集ってこられた。ご苦労さまです。(拍手)
 今から七十七年前(一九二二年〈大正十一年〉)の十二月のことである。かのアインシュタイン博士が、東北の地を訪問した。(仙台市の東北大学)
 この前月には、慶応義塾大学で講義をし、牧口先生と戸田先生も出席されている。戸田先生は、その思い出を何度も何度も語っておられた。
 アインシュタイン博士は、東北で出会った人々の印象を、日記に、こう書いている。
 「優れた人たち。晴れやかで慎しやか、自然と芸術を愛する。忘れ得ない」と(金子務『アインシュタイン・ショック』河出書房新社)。
 さすがアインシュタイン博士である。東北に住む人々の美質をよく見ていた。東北には、一度つきあうと忘れられない人が多い。優れた人格の人が多い。温かな人間性の人が多い。
 歴史的に見ても、東北は、かつて燦然たる栄華を誇った。「金」も採れたし、古来、文化の一大中心地であった。一方で、その繁栄ゆえに、絶えまない侵略の波にさらされてきた。栄えているからこそ攻撃される。学会も同じである。
 ともあれ、東北の人は、苦労に苦労を重ねてこられた。だからこそ「今再び、東北の繁栄の時代を」と、私は強く念願している。
 アインシュタイン博士は、ある時、こう述べた。
 「偏見に立ち向かう戦いがすみやかに成功できないのは当然のことなのだ。だが、われわれは、日常の生活のなかのあらゆる機会をつかまえて真実を表現していくことで、ゆっくりとではあっても成功を勝ちとっていくことはできる」(デニス・ブライアン『アインシュタイン』鈴木主税訳、三田出版会)
 「偏見を打ち破る」戦いは、大変だというのである。それに成功する秘けつは、地道に、繰り返し、繰り返し、「あらゆる機会をつかまえて」語り、語り、語り続けることだ、と。まさに学会活動である。地道に活動しておられる無名の学会員がいちばん尊いのである。
 東北の皆さまの尊いご活躍は、つぶさに、うかがっている。
 各地での大発展の姿――これは、悪を責めたことから、善が大きく広がったのである。
 大聖人は「功徳」について「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せである。いくら「善を積もう」と思っても、それだけでは、善は積めない。悪を責めることによって、自分自身の生命の罪も滅し、福徳が生じる。これが「功徳」である。「悪」と戦ってこそ「幸福」が生まれるのである。
 ともあれ東北は、各地ともに「多宝会」の方々が、本当にお元気である。光っておられる。また、青年部も、たくましく躍り出はじめた。青年部が立ち上がった。
 いちばん大変なところで戦っておられる、東北の皆さま。私は深く深く敬意を表します。「偉大な東北の前進」、万歳!(拍手)
6  世界を見てきた四人の「少年使節」
 今から三百六十六年前(一六三三年)の秋、十月。江戸時代の初めである。一人のキリスト教の信仰者が、迫害の中、殉教した。こう叫びながら――。
 「我は、この目で、(世界の都)ローマを見た中浦ジュリアンなり!」
 彼は、その五十一年前、「少年使節」として、長崎を発ち、はるばるヨーロッパまで行ってきた人物であった。同じ十三歳前後の三人の少年使節が一緒であった。
 当時、ヨーロッパを見て帰ってきた日本人など、だれ一人いない。他の日本人は、皆、日本の周辺しか知らない。小さな国内で争い合ってばかりいた。
 ちょうど、戦国の時代であった。そうしたなか、キリスト教の神父は、少年使節四人をヨーロッパに送った。″観点″が、まったく違った。
 (世に言う「天正遣欧使節」である。イエズス会の宣教師ヴァリニャーニが企画し、四人の少年らとともに、一五八二年〈天正十年〉二月、ローマへと旅立った。その一人、中浦ジュリアンは、今の長崎県にあたる肥前国・中浦の出身とされる。ジュリアンはキリスト教の洗礼名)
 使節の目的の一つは、「『もっと広大な世界がある』ことを日本人に教える」ことであった。
 若い少年たちに、自分の目で世界を見てもらいたい。知ってもらいたい。そうすれば、長い長い将来にわたって、日本人の目を開いてくれると期待したのであろう。そうする以外に、日本は変わらないと考えたのであろうか。
 (他にも、帰国後の日本における布教の推進や、ヨーロッパに日本人を認識させることで、日本の教会への援助を仰ごうという目的があったという)
 少年四人は、船の旅で、はるばるとマカオへ、インドへ、スペインへ。そして、ルネサンスの花咲く″絢爛たるイタリア″に着いた。
 (この時、出発して三年がたち、少年たちは十六歳前後になっていた)
 ミケランジェロや、レオナルド・ダ・ヴィンチの国である。当時、世界の「最先端の文化」の国であった。
 ダ・ヴィンチと言えば、創価大学に完成した本部棟の大ホールの真ん中に、まもなく「ダ・ヴィンチ像」が設置される。万能の天才として知られる、世界最高峰の知性の人物である。
 しかし、私が申し上げたいのは、仏法という「最高の哲学」を持ち、現実社会のありとあらゆる分野で活躍されている学会員の皆さまこそ、「最高峰の人間」だということである。「妙法のダ・ヴィンチ」であり、「妙法のミケランジェロ」なのである。また、そうなっていただきたい。
7  さて、少年たちは、行く先々で、大歓迎を受けた。実際、世界的にも大変な壮挙であった。彼らは、言わば「東洋と西洋が結ばれた」象徴だったからである。
 イタリアをはじめ、ヨーロッパでは、だれもが「素晴らしい出来事だ」と喝采を贈った。ローマでは、教皇にも″お目通り″した。言うまでもなく、キリスト教世界の頂点に立つ人物である。教皇(グレゴリウス十三世)はあたたかく、みずから大歓迎し、優しくもてなしてくれた。
 ただし、中浦少年は、この時、高熱で動けないほどの重病であった。長旅の疲れもあったろう。すると教皇は、わざわざ中浦少年に会って、激励してくれたのである。さらには、ローマ最高の医者六人を、四方八方から集めて、治療にあたらせた。
 少年は、感激で胸がいっぱいになった。しかも、この時、教皇自身、八十三歳の高齢で、余命いくばくもないことを実感していたのではないかと言われる。
 事実、教皇は、十数日後には死んでしまった。そういうなかで、生命力を振りしぼって、東洋の一少年を気づかい、毎日毎日、「病気は、どうか」と見舞いの使者を送り、慰めてくれたのだった。
 こういう慈愛の姿こそ、本当の聖職者の姿であると思うが、どうだろうか。(拍手)
 人を大事にしたから、人の心をつかんだ。青年を大事にしたから、青年の心をつかんだ。指導者のこの振る舞いがあって、「発展」はある。
8  教皇のおかげで中浦少年の病気は回復し、四人は、また長い旅をして日本に帰ってきた。
 日本を出てから八年半がたっていた。彼らは二十一歳前後の青年になっていた。
 しかし、その間に、日本は大きく変わっていた。信長が死に、秀吉の時代になっていた。そしてキリスト教への弾圧が強まっていたのである。権力者は「信教の自由」など、まったく理解していなかった。
 (キリスト教を保護した織田信長は、少年使節が日本を発った四カ月後に本能寺の変に倒れた。後を継いだ豊臣秀吉は、しばらく政策を変えなかったが、一五八七年、九州を平定するや、「宣教師追放令」を発布し、キリスト教弾圧を開始した。その三年後に一行が帰国。当初は、海外遠征のために一行を利用しようと考えた秀吉に迎えられたが、一行が家臣になることを拒んだ後、弾圧を受けることになった)
 結局、日本人は「世界を見てきた」彼らの貴重な知識や意見に、だれも真摯に耳を傾けようとはしなかった。それどころか、世界中で称賛されてきた彼らが、日本では、迫害につぐ迫害であった。
 小さな視野で、すぐに生意気になり、人を見くだし、「自分の思いもよらない偉大な世界がある」ことを想像もしない。時流には敏感だが、「権威を恐れることなく、公正に、人の意見を聞く」ことができない。今も、そういう精神構造は続いている。
9  「殉ずる心」で試練と戦う
 四人の少年のうち、一人は早く死んだ。一人は日本から追放され、マカオで死んだ。もう一人は、退転し、敵になってしまった。
 ここで言っておきたいことは、こういう退転者の悪行も、名前も、全部、歴史に厳然と残っているという事実である。また、残していかねばならない。それが後世の人々への道標になるからである。
 「何と情けない同志か!」――。ただ一人残された中浦ジュリアンは、烈風の中を、四十年も突き進んだ。キリスト教の組織を守り続けた。
 私は進む! 信じた道なのだから! 誓願は絶対に捨てない!――と。
 しかし、ついに彼も逮捕される。六十四歳前後である。
 陰惨な拷問が始まった。汚物を入れた穴に、さかさまに吊るされる。耳たぶに穴をあけて、少しずつ血を流させる――。火あぶりや打ち首と違い、すぐに殺さずに、もっと長く苦しめる。当局が考え出した残酷な拷問であった。
 あまりの苦しさに、何と「日本布教の責任者」の神父まで退転してしまった。
 (日本イエズス会の最高位にあったフェレイラ。後に「沢野忠庵」と改名。退転したばかりか、幕府によるキリシタン弾圧の手先となり、「転びバテレン」と呼ばれた)
 しかし、中浦ジュリアンは耐え抜いた。彼の心の中には、若き日に焼きついた、あの教皇の「慈愛」と「最後まで信仰に身を捧げた姿」が生き続けていたのであろうか。
 「一少年の私に、あれほどの真心を示してくださった」
 彼はその恩を忘れなかった。思い出すだけで、いつも感動が蘇った。五十代の彼の手紙にも、そう書いてある。
 中浦ジュリアンは、少年の日の誓いを絶対に裏切らなかった。「半世紀」を戦い抜いて、壮絶な殉教を遂げた。
 この「戦い抜く心」「殉ずる心」があったから、キリスト教は大発展したのである。
10  「法難こそ名誉」が学会精神
 創価学会には、殉教の牧口先生が、そして戸田先生がおられた。その心を継いだ私がいた。自分のことは言いたくないが、青年のため、後世のために、あえて言い残しておきたい。
 私がどれほどまでに、広布のために苦悩し、ただ一人、祈り、苦しみ、耐え、皆を守りながら、戸田先生、牧口先生の本当の遺志を証明しようとしてきたか。その苦衷は、だれ人もわからないかもしれない。しかし御本尊がすべて御照覧である。
 他人がどうあろうと関係ない。自分が師匠とともに生き抜いていけばよい。それが「師弟不二」である。それが創価学会である。
 青年部は、この「師弟の心」を断じて継いでいただきたい!
 学会に対する、戦時中の軍部の弾圧――。逮捕された幹部は、牧口先生、戸田先生をはじめ二十一人。このうち、退転しなかったのは、牧口先生と戸田先生だけであった。
 戸田先生は、論文「創価学会の歴史と確信」に、こう書かれた。
 「名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである」「二十一名のうち十九名まで退転したのである」
 「名誉ある法難」――法難こそ最高の栄誉である。それなのに、大幹部が法難を怖がったり、″功徳を受ける″ことだけを考えていた。うわっつらだけ、形式だけの「仮装信心」であった。
11  戸田先生は言われた。
 「愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」(「青年訓」)
 牧口先生が投獄されるや、それまで「牧口先生、牧口先生」と言っていた人間が、手のひらを返したように、「牧口の野郎」「牧口のせいだ」「牧口に、だまされた」と、さんざんに罵倒した。牧口先生のお宅まで行って、悪口する者もいた。
 戸田先生は、牢から出てきて、激怒された。烈火の怒りであった。
 「何たることだ。この犬畜生野郎!」「このインチキ弟子!」「二年や三年、牢に入ったくらいで、耐えられない人間なんか、学会にはいらない」「世間の風評ばかり気にして、ふらふら、びくつくような人間は必要ない!」と。
 「死身弘法(身を死して法を弘む)」――大法流布のために、難に殉じていくのが、仏法の真髄である。
 難がなければ、正法ではない。その難を、私が一身に受けている。だから、「ともに戦う」人も、功徳に包まれていく。
 難を受けるどころか、自分だけ″いい子″になって、うまく泳いでいる――それは「真実の信仰」ではない。広宣流布に立った以上、はじめから、命は捨てている。
 「学会は獅子の団体だ。獅子の集まりだ。臆病者はいらぬ!」――これが牧口先生、戸田先生の″永遠の叫び″なのである。
12  傲慢な「井の中の蛙」の日本を世界が軽蔑
 迫害の中、中浦ジュリアンは、きっと、心で叫んだにちがいない。
 「日本人よ! この目で『世界』を見てきた私を、あなた方は迫害し、葬り去ろうとしている。しかし日本人よ! 『井の中の蛙』の日本人よ! 日本でいくら、いばってみても、世界はあなたたちを相手にしないだろう!
 目を覚ませ! 私をいじめて喜んでいても、そんな島国根性は、いつか我が身を苦しめるだけであろう!」
 彼は、さかさ吊りにされたまま耐え抜いて、四日目に、立派に殉教した。弱い人間ならば、一時間で退転したかもしれない。
 もしも日本人が、この時、″世界の最先端を知っている″彼の見識に、謙虚に耳を傾け、そこから何かを学んでいたならば、日本の歴史は変わっていたかもしれないと言われている。
 この後、日本は長い間、「鎖国」に入ってしまう。
 少年使節の後、「東北」の地からは、伊達政宗が、ヨーロッパに支倉常長一行を送った。しかし、支倉も、日本に帰った後、その知識を生かすどころか、結果的に閉じこめられて死んでいった。
 これが日本である。日本の島国根性は、いつも目先の利害で世界に背を向ける。その結果、いつも民衆が悲劇に陥る。今も同じである。
 これを打ち壊さねばならない。「革命」しなければならない。
 今、世界の人々は、また歴史は、信念に殉じた中浦ジュリアンたちを称賛し、迫害した傲りの権力者を軽蔑し、断罪しているのである。歴史の審判は厳しい。
 (以上、中浦ジュリアンについては、松田毅一『天正遣欧使節』講談社、デ・サンデ『天正遣欧使節記』泉井久之助訳者代表、雄松堂書店、その他を参照した)
 いよいよ二十一世紀の開幕である。皆さま方の力で、二十世紀は全部、勝ちました。二十一世紀も勝ちましょう!(拍手)
 「悪知識を捨てて善友に親近せよ」とは、日蓮大聖人の御遺言である。
 創価学会は善友の集いである。信心を破壊する「悪知識」は、捨てなければならない。追放しなければならない。
 「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し」と。
 広宣流布へ、御書の仰せの通りに行動する人は、皆、仏になれる。三世永遠に、何もかも「所願満足」の偉大なる大指導者になる。そう御約束である。頑張りましょう!(拍手)
13  皆さまが喜んでくだされば、私もうれしい。皆さまが悲しめば、私も悲しい。元気で生き抜いていただきたい。
 御本尊を持つ人は、決して行き詰まらない。妙法は、永遠の宇宙の法則だからである。それを持っているのだから、何があっても困らない! 絶対に負けない! この確信が信仰である。
 それなのに、すぐに悲観し、弱気になるのは、信仰ではない。そういう「弱い心」だから、苦しんでしまう。永遠の大法則であるゆえに、勝つに決まっている! 幸福になるに決まっている! 楽しい人生になるに決まっている! そう″決めて″胸を張って進んでいただきたい。
 妙法に「帰命」すれば、自分自身が大宇宙の仏の生命の中に入る。我が身が即、妙法の当体と輝き始める。この秘術を日蓮大聖人は教えてくださっているのである。
 ゆえに大事なのは「法」を中心に生きることである。「自分」を中心に生きれば、成仏とは反対の方向になる。
 どうか朗らかな人生を! 朗らかな出来事がなければ、自分でつくればよい。希望がなければ、自分で希望をつくればよい。
 心は自由自在だからである。いわんや、妙法という「自在の大法」を持っている皆さまである。
 皆さま方に一生懸命、お題目を送ります。それが私の役目と思っている。
 東北と海外の同志に、「遠いところ、ご苦労さま」と重ねて申し上げたい。
 長時間ありがとう!
 (東京牧口記念会館)

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