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日蓮大聖人・池田大作

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第34回本部幹部会、第4回関西青年部総… 青年よ、革命の炎を受け継げ!

1999.5.27 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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2  ネルー首相は、若き日、革命闘争で投獄された。
 投獄されてこそ、本当の革命家である。革命に立ち上がれば、殺されたって、普通である。牢にも入らず、残酷な非難・中傷の集中攻撃も浴びない――そんな革命家など、ありえない。
 迫害がないのは、うまく適当に泳いでいるにすぎないからである。
 ネルー首相は、長い獄中生活を味わった。通算九回、約九年間におよぶ。
 しかし獄中から、娘のインディラさんに、手紙を送り、世界史を教えたのである。そこには「世界的な指導者になってほしい」との期待があったと思う。
 「子どもに、そんな大人の話がわかるだろうか」、そう思う人もいるかもしれない。しかし、じつは、子どもは大人である。真剣に話したことは、必ず通じていく。学会の家庭でも同じである。子どもの時から、学会の目的を、歴史を、「広宣流布」を教えることが大事なのである。
 インディラさんは、お父さんの投獄を機に、十三歳の若さで独立運動に参加した。(インディラさんは、ラジブ・ガンジー首相の母。後のインド第三代首相)
 お父さんは獄中から娘に書き送った。
 「われわれはごみを掃きすて、われわれの国から窮乏と、悲惨とをおい払わなければならない」(『父が子に語る世界歴史』1、大山聰訳、みすず書房)
 戸田先生も、「私は、関西から貧乏人と病人をなくしたいのだ」と。
 方程式は同じである。心は同じである。苦しい民衆の「現実をどうするか」である。抽象論ではない。観念論ではない。
 「われわれの眼前にある大きな仕事に協力することを拒む人たちの心の中にはった、くもの巣をはらわねばならない。それは大仕事だ。それをなしとげるには時間がかかるかもわからない。われわれはそのために、せめてひとおしでもわれわれの力をささげよう。――インクィラーブ・ズィンダ・バッド(=革命万歳)!」(同前)
 広宣流布も「大仕事」である。この聖業に協力しようとしない人たち。その心の中の″くもの巣″を払っていかねばならない。″そのために、たとえ一押しでも、自分にできるかぎりのことをやろう! 力を捧げよう!″
 それが革命精神である。広宣流布の精神である。広宣流布こそが「最高の革命」なのである。ゆえに、ここに身を投じていく人生が「最高に尊い」人生である。
3  「激流」の中で、自分を鍛えよ!
 二十一世紀は、もう目の前に来た。すべて青年部が広宣流布の先陣を切っていく時がきた。
 その大闘争の源泉こそ関西である――そう自覚して、この地から「二十一世紀への革命の波」を、うねらせ、ほとばしらせ、巻き起こしていただきたい。
 表面は穏やかな「波」であっても、底流では、ごーっと「激流」が走り、走り、広がり続けている。そういう京都であり、関西であってもらいたい。
 激流のごとく走り抜いて、人を生かし、人を救う「妙法の新撰組」であってもらいたい。(拍手)
 「強き人はよく耐える、よく耐える人を強者という」(『新渡戸稲造全集』7,教文社)
 新渡戸稲造氏の言葉である。氏は、牧口先生と大変に親しかった。世界的に有名な学識者である。
 「耐える人」が強者である。人格者である。勇気の人である。仏法でも「仏」のことを「能忍」――「能く忍ぶ」人という。
 耐えられないのは、意気地なしであり、卑怯者である。学会から離れていった人間が、そうであった。自分を飾る理屈はうまくても、いつも苦労を避けていた。難を自分が受けていく覚悟など、とうてい、なかった。
4  古代ローマの哲学者、セネカは言った。
 「恩知らずの欲望ほど大きな悪をもっている欲望はありません」(『道徳書簡集――倫理の手紙集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)
 恩知らずは、自分が十分に受けている大恩を自覚せず、もっとほしい、もっとほしいと、ただ自分の欲望を満たすことしか考えないのである。人間の本質は、ローマ時代も今も変わりがない。
 さまざまな話をしているが、一切は、諸君の勉強のためである。古今の偉人や英雄の善論は、皆、仏法に通じている。ゆえに諸君は、うんと勉強していただきたい。
 その上に「題目」があれば、学んだ「正義の軌道」を、現実に歩んでいける。
 ロケットも、軌道の「計算」はうまくいっても、打ち上げる「力」が弱いと、軌道には乗らない。題目の力は、ロケットを噴射させゆく無限の力である。
 アメリカの哲人、エマーソンは言う。
 「適切な行動に全力をかけたひとは、このうえなく豊かな知恵の報酬を与えられます」(『エマソン論文集』酒本雅之訳、岩波書店)
 皆さんのことである。学会活動に全力をかければ、自然のうちに「最高の知恵」にかなった行動となる。人間革命して「福運」を積める。全部、自分自身の「得」になる。
 ロングフェローは、アメリカを代表する民衆詩人。十九世紀に、世界中で絶大な人気を博した。ハーバード大学の教授でもあった。彼は謳う。
 「我々の運命の行く手にあるものは、快楽でもなければ、悲哀でもない。ただ、今日より明日へと進み続ける行動である」(「人生讃歌」)
 その通りである。「行動」である。快楽や悲哀に流される人生であってはならない。
 ロングフェローの詩の直筆原稿は、アメリカ創価大学に「重宝」として所蔵されている。ほかにも貴重な″人類の遺産″が、たくさんある。すべて諸君のため、後世のためである。一切が諸君の財産である。
5  このたび、台湾SGI(創価学会インタナショナル)の代表三百人が、文化交流団として来日され、沖縄研修道場で衛星中継の会合に参加される。
 台湾SGIの皆さま、ようこそ!(拍手)
 交流団の皆さんは、今回、沖縄で開催される「アジア平和芸能フェスティバル」(民主音楽協会主催)に参加される予定である。来年の「沖縄サミット」(主要国首脳会議)をお祝いする序幕ともなろうか。
 先日、私は大阪で、中国文化大学(台湾)の張理事長一行にお会いしたが、同大学の「華岡かこう舞踊団」の皆さんも、フェスティバルに参加されるとうかがっている。
 台湾SGIの同志の皆さま方は、社会、地域に、がっちりと根をはって、見事な実証を示してこられた。全国二千七百の社会団体の中から、何と昨年まで七年連続で「全国優良人民団体賞」に輝いておられる。
 七年連続は、台湾SGIのみの快挙という。本当におめでとう!(拍手)
 台湾内政部の黄部長も「民衆の力は無限です」とたたえてくださっている。
6  キューバの英雄マルティ「わが体は消えてもわが思想は消えず」
 今、活字文化が衰退するなか、一番まじめに、一番王道を歩む雑誌と期待している月刊誌『潮』。誌上で、私は現在、″キューバ共和国の国家的英雄″ホセ・マルティをめぐる対談を開始した。(=『カリブの太陽 正義の詩「キューバの使徒 ホセ・マルティ」を語る』と題して二〇〇一年八月二十四日、潮出版社から発行)
 対談の相手は、マルティ研究の第一人者であるヴィティエール博士。
 キューバのカストロ(国家評議会)議長からも、「『対談』の成功を近くで見守っています。『対談』の成功のために、私が必要であれば、何でもおっしゃってください」と、ありがたい連絡もいただいた。
 また議長は私に「ぜひ、再びキューバを訪問していただきたい。そして、ともに語り合いたい」とも伝えてくださっている。
7  五月は、マルティの殉難の月である。一八九五年五月の十九日、四十二歳で戦死した。
 五月の二十七日――きょう、キューバの海岸地域に埋葬された。だから、きょう、彼のことを語っておきたい。
 それは独立闘争――革命の最中であった。彼は、将来、国の指導者になるべき大事な人物であった。なくてはならない人間であった。ゆえに「軍の後方に残るように」強く言われた。それにもかかわらず、彼は一歩も引かず、一番の前線で戦い抜いたのである。
 三発の銃弾がマルティの体に打ち込まれた――。遺体は、敵の軍隊に、戦利品として持ち去られてしまった。彼は、その死をも蹂躙されたのである。
 しかし、彼は確信していた。
 「私の体が消えることがあっても、私の思想は消えないだろう」
 「万人のために生きる人間は、万人の心に生き続けることができるのだ」
 広宣流布の革命にあっても、千人、二千人の友のために働いた人は、永遠に、その人たちの心に残る。永遠に、その方々が眷属ともなり、諸天善神ともなって守ってくれる。そういう「境涯」になる。
 全世界に広宣流布すれば、全世界の人々から、学会は守られる。皆さまが守られる。これが仏法の方程式である。だからこそ私は「広宣流布のために生きなさい。そのほうが得である」と言うのである。
 その死から百年以上たった今でも、マルティは最大に賛嘆され、尊敬の的である。人類を進歩させる思想は、いやまして光っている。
 殉難の英雄――その姿は牧口先生とも響き合う。
 「マルティ」の名は、日本では、あまり知られていないかもしれない。だからこそ私は、とくに青年部の諸君に知ってもらいたい。教えておきたい。
 若い今こそ、何でも貪欲に学び、あらゆる知識を吸収し、将来、世界の第一級の学者とも堂々と語り合える自分自身をつくってもらいたい。そうでなければ、世界の指導者にはなれない。広宣流布は進まない。
8  マルティの信念は何であったか? 彼は言う。
 「みずからを磨き、自ら立ち上がる人こそが、王よりも高くそびえ立つ。その人は、(自分自身に)打ち勝てなかった、むなしい、うぬぼれた者たちを見おろしていくことができる。これが私の信念である」
 王位が何だ! 栄誉が何だ! 自分自身で立ち上がった人間のほうが、ずっと上なのだ! と。
 いわんや、妙法を弘める人は、最高に尊貴な存在である。一人、厳然と、そびえ立っていけばよい。愚か者たちが何を言おうが、何をしようが、悠然と見おろしていけばよい。富士の高嶺から見おろすように。
9  君よ「光の大軍」の先頭に立て
 マルティは、綴る。
 「友よ、勇気をもて! 勝利は我らの手中にある!」「友よ!」(戯曲『祖国と自由』)と。
 一人だけでは広宣流布はできない。「友と一緒に」「同志とともに」。これが正道である。ゆえに仏法では「眷属妙」を説き、「師弟論」を説く。
 「運命の賽は投げられた。不名誉な人生となるか、もしくは不滅の栄光を勝ち取るか。それ以外の運命はありえない!」
 戦いは始まった。諸君もすでに、使命の″人生劇場″は始まってしまった。もはや、前へ前へと進んで、「不滅の栄光」を勝ち取る以外に道はない。逃げてしまえば、永遠に「不名誉な人生」となってしまう。最後まで戦い抜くか。途中で退転するか。道は、ふたつにひとつである。
 ともに頑張ろう!
10  マルティは言う。
 「時にかなった発言とは何か。行動することである。そして、自らの義務を果たしている人に敬意を払うことである」
 行動しかない。「百の言葉」より「一つの行動」である。議論ばかりしていても、行動がなければ「机上の空論」である。何の効果もない。
 幹部かどうかではない。役職の上下ではない。「行動しているかどうか」である。
 「自らが動く」以外に仏法はないからである。広宣流布はないからである。本当の栄光もないからである。
 そして「一生懸命、学会活動している人」を尊敬することである。「いつも、ご苦労さまです!」「本当に、よく、いらっしゃいました!」と。
 広布へと戦う皆さまに敬意を払わなければ、だれであれ仏罰を受ける。敬意を払えば、自分も、相手も、両方が功徳を受ける。
 マルティは訴えた。
 「偉大な事業が成功するか失敗するかは『細かい配慮を配るか否か』にかかっている」「あまりにも大きい苦しみと重い責任を担っている私の身になって考えてみてください。大げさなことや、おべっかを使わず、純粋に『人を元気づける』ということが、どれほど難しいか、考えてみてください。まして、元気づけた人を落ち込ませないことが、いかに難しいかを考えてみてください」
 これができるのが本当の指導者である。本当の幹部である。本当の仏法者である。その人を「菩薩」という。
11  マルティは、革命の同志に訴えた。
 「最大の徳に対して、人間の野心や虚栄心は、常に阻もうとする。しかし、どんな越えがたい困難であっても、救済の精神に燃える我々を立ちふさぐことなどできない。光の大軍である我々を支配することなどできない」
 ″最大の徳″に対しては、必ず、卑しい人間が嫉妬し、妨害する。日蓮大聖人に対しても、そうであった。日興上人に対しても、そうであった。近代では、牧口先生、戸田先生に対しても、また私の時代も、迫害の構図は同じであった。
 しかし、我らは「光の大軍」である!
 信心は、目に見えない。しかし、「光」のように、いかなる闇も、さえぎれない。
 我らは「仏の軍勢」である! 何ものも恐れるものはない。
 一回しかない今世の人生――。ゆえに、不滅の「栄光の太陽」輝く人生を。一点の悔いもない「勝利の人生」を。そして、最後に断じて勝つ「常勝の人生」を。
 そういう人生を、全員が、晴れ晴れと飾りましょう!(拍手)
12  総理夫妻と京都
 話は変わる。今から、ちょうど八十年前。ひとりの青年が、関西は神戸の港から、中国に向かっていた。一九一九年の四月の初め――「桜の花が咲くころ」だった。
 周恩来青年である。二十一歳であった。日本で勉強していたが、激動の祖国を救うため、革命に青春を捧げるために、旅立ったのである。
 周青年は、ここ京都の「円山公園」の桜を見てから出発した。
 私が周総理にお会いした時、こう言われた。
 「五十年前、桜が咲くころに、私は日本を発ちました」
 日中友好に死力を尽くした総理の胸中には、いつも、ここ「京都の桜」が咲いていたにちがいない。私は、総理に申し上げた。
 「では総理、ぜひとも桜の花の咲くころに、また日本に来てください」と。
 (当時、すでに病床にあった周総理は「願望はありますが、無理でしょう。体がいうことをききません」と。この会見の一年一カ月後に逝去された)
 亡くなった総理の代わりに、分身として来日されたのが夫人の鄧穎超とうえいちょうさんであった。私は、迎賓館(東京)でお会いした。(一九七九年四月十二日)
 もう今年で二十年になる。時の経つのは早い――。
 鄧穎超さんは、京都の嵐山にも行かれた。そこに、総理が京都で作った詩の「碑」があるからである。こんな趣旨の詩だったと思う。
 ――雨のなか、嵐山に来てみると、両岸の青き松の間に、数本の桜が光っている。水は美しく、緑はしたたる。霧雨が、もうろうと煙るなか、ひと筋の陽光が差してきた。
 同じように自分は、「人の世の真実とは何か」を求めて、霧雨の中を歩んできた。今、ひと筋の光が差してきたようだ。なんと美しいことか――。(「雨中嵐山――日本京都」)
 青年らしい「求道」と「誓い」が、自然の描写と溶け合っている。
 「帰ろう、中国へ!」「この身を民衆に捧げよう!」
 こうして、青年は神戸から出発した。(翌月、中国革命を大前進させた「五・四運動」に周青年は飛び込んでいく)
 関西は、総理が青春の本格的な大闘争に出発した地なのである。
 私も、関西で青春の大闘争を開始した。総理の訃報を聞いたのも、ここ京都であった。一九七六年一月九日(八日の逝去が九日に発表された)。私は、ただちに弔電を送り、京都の同志とともに冥福を祈った。総理夫妻と京都は、幾重にも縁が深い。
13  「強くなりなさい。頼らずに独立した人間になりなさい」
 きょうは、総理夫人を育てた「鄧穎超とうえいちょうさんの母」について少々、語りたい。女史とお母さんを顕彰させていただく意味も込めて。
 革命が成功する前、お母さんは、「革命運動の指導者・周恩来の義母」という理由で、つけ狙われ、逮捕された。三年間も牢獄に入った。何の悪いこともしていないのに――。
 獄中でお母さんは、「革命をやめるよう、娘夫妻に手紙を出せ」と迫られた。しかし、断固拒否。母は、拷問にも耐えた。そして、毅然として言った。
 「娘は娘、私は私。娘の信念を曲げることは私にもできない。それに私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(西園寺一晃『鄧穎超 妻として同志として』潮出版社。以下、同書参照)
 この強靭な生命! この不屈の信念! 立派である。
 いざという時に弱くなってしまう惰弱な人間では、大事をなせるわけがない。
 牧口先生、戸田先生が牢獄に入られた時であった。ある幹部も牢獄に入った。面会に来た夫人が、手のひらに「早く出てきて」と書いて、彼に見せた。彼は、退転してしまった。
14  鄧穎超さんに母は、「一人の人間」として強くなれと教えた。
 「あなたは周恩来夫人ではないのよ。あなたは鄧穎超という独立した女性、夫は周恩来。人は周夫人と言ってきっと大事にしてくれるわ。なかにはお世辞を言ったり、チヤホヤする人もいると思うわ。でもあなたは一生懸命学んで、努力して、周夫人としてではなく、鄧穎超として尊敬される人になりなさい」と。
 ご主人が有名だからと言って、夫人がいい気になってはならない、と厳重に戒めておられるのである。よくよく学んでいくべき言葉である。
 夫がどんな立場にあろうと、妻とは別の人格である。大事なのは、妻が「一人の人間としてどうか」「何をやったか」である。これが仏法の見方でもある。
 母は、いつも娘に語った。
 「強い女性になりなさい。他人を頼ってはだめ、自分で考え、自分の運命は自分で決めるのよ」
 ――戸田先生も、よく言われた。「女性は強くなりなさい。また潔癖でなければならない。男性に紛動されるならば、永遠に不幸である」と。
 さらに、母は語った。
 「独立した人間、独立した女性になるのよ」「勉強しなさい。知識を増やしなさい。一生、勉強し続けるのよ」「泣いてはだめ。泣いて何が変わるの。女は泣き虫だと言われないように、歯をくいしばってでも頑張るのよ」
 強くなりなさい! そのために、勉強しなさい! 知識を増やしなさい! 生涯、学び続けなさい! 学会の女子部であれば、教学を身につけなさい! そういうことになろう。
15  お母さんの名前は、楊振徳ようしんとくさん。苦労し抜いた人である。幼いころ、祖父が亡くなり、一家は没落。父母も死に、わずか十四歳で、ひとりで社会に放り出されてしまった。
 彼女は、小さいころから身につけた漢方医学の知識を使って、町医者として働いた。しかし、幼い女性の医者など、だれも信用しなかった。食べていくことすら難しい。生活はどん底だった。
 やがて彼女は、三人の子持ちの男性の後妻になった。二十五歳の時である。
 男性は、地方の名士だったが、仕事のことで訴えられて流刑になり、流刑先で死んでしまった。幼い鄧穎超さんを抱えて、母は無一文になってしまった。そのため、鄧穎超さんは、七歳のころから織物工場で働いたという。毎日十時間も働いて、わずかな賃金をもらい、すべて母に渡した。そして夜は、母に勉強を教わった。母子は、肩を寄せ合って生きていった。
16  いつも笑顔で、皆に確信を与える
 鄧穎超さんの素晴らしい「強さ」は、どこから来たのか?
 それは全部、お母さんから、もらったものである。
 鄧穎超さんの周囲の人は、いつも不思議に思った。それは、彼女が「苦しくなればなるほど明るくなる」ことである。革命の環境が、あまりにも暗く、前途に希望が見えない時も、彼女はいつも笑顔を絶やさなかった。
 彼女は言った。
 「私は、根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」
 学会の幹部にも、ちょっと結果が悪いと、すぐに、あせって不機嫌になり、皆を追いつめるような、怖い顔になる幹部がいる。責任は自分にあるくせに!(笑い)
 そんな時こそ、笑顔で「いいんだよ、いいんだよ、末法は万年あるんだから、いいんだよ」(爆笑)とでも言ってあげれば、皆、元気になって、また頑張れる。
 幹部は、人には優しく、自分が頑張ればいいのである。自分が、何があろうと「結果」を断じて出せばいいのである。自分が苦労して、最後に断じて勝てばいいのである。それが「常勝」の魂である。
 鄧穎超さんは、いつも皆を元気づけた。
 「みんな頑張りましょう。私たちには革命という信念があり、理想があるのよ。絶対負けない。恐れたら負けよ」
 私たちにも、広宣流布という「理想」がある。今、ほかのだれが、こんな崇高な「理想」に燃えて生きているか――。
 彼女は「私たちは正しいの、正しいものは負けないわ。もし私たちが倒れても、必ず次の人たちが私たちの屍を乗り越えて進むわ、だから、一人でも多くの同志、兵士を救いましょう」と。
 さんが、こういう「強い強い女性」だったからこそ、周青年が選んだのである。「この女性ならば、一生涯、革命のために、すべてを捧げて生き抜けるだろう」と。
 革命に生きる以上、自分は殺されるかもしれない。牢獄に入るかもしれない。のんびりした生活など、一生、できないだろう。それでも、この女性ならば大丈夫だ――と。
17  「命あるかぎり私は戦う!」
 こんな鄧穎超さんにも、「もうだめか」と思ったことがあった。肺結核になって、敵が迫って来るなか、喀血したのである。
 私も若き日、結核であり、喀血もした。彼女の苦しみはよくわかる。
 こんな体で、山河を越える「長征」に参加はできない。しかし出発しなければ敵につかまってしまう。つかまれば、殺されるか、拷問である。
 鄧穎超さんは、死ぬ覚悟をした。その時、娘を奮い立たせたのは母の言葉であった。
 「鄧穎超あきらめてはダメ、あなたらしくないわよ。最後まで生きなさい、革命はあなたを必要としているのよ、恩来もあなたを必要としているわ。苦しいのは誰も同じこと、命あるかぎり戦いなさい」
 こうして鄧穎超さんは、ふらつく足で立ち上がった。時に担架に乗せられながら、「長征」を最後まで歩み通したのである。
 皆さまも、何があっても、生きて生きて生き抜いていただきたい。使命があるからである。広宣流布に必要な人だからである。「地涌の菩薩」なのだから、必要のない人は一人もいない。
18  お母さんは、日本との戦争中、一九四〇年十一月十八日に亡くなった。牧口先生の逝去の、ちょうど四年前であった。
 鄧穎超さんは、亡くなった母の顔を見ながら、心に誓った。「母さんありがとう。私は母さんの娘であることを心より誇りに思うわ。私はもっともっと強くなる。そして民衆のために尽くすわ。どんな苦しいことがあっても私は負けない、母さんのように。私、決して母さんに顔向けできないようなことはしないから、どうか安心して安らかに眠って」
 信念に生きた母娘の最後の別れ。素晴らしい光景が目に浮かぶ。
 この誓いどおり、鄧穎超さんは、生き抜いたのである。
19  彼女の革命の活動は素晴らしく成功した。
 なぜか。そこには特徴があった。
 第一に、「迅速」であった。必要と思うと、ただちに連絡をとり、どこにでも出かけて行った。学会の婦人部のようである。
 第二に、「必ず対面」した。手紙や伝言、今なら電話などだけでは、真意は伝わらないし、相手の本音もわからない。自分が行くか、来てもらうか、できうる限り、面と向かって話し合った。「気持ちを通じ合わせることが大事なのだ」と。
 第三に、いつも相手を立てた。自分は必要最小限しか表舞台に立たず、誠心誠意、「裏方」に徹した。こうやって、皆の信用を得た。
 「そうなの!」「すごいね!」「素晴らしいわね」「さすがね」「それなら、こうしてみたら!」
 幹部は、皆を立て、皆をたたえることである。いばったり、感情的になる幹部は最低である。
20  子どもに厳然と「学会の心」を教えよ
 鄧穎超さんは、晩年は、革命の後継者づくりに全力をあげた。
 青年を育てよ!――この一点にしか、未来はない。今の私の心境も、まったく同じである。
 彼女は考えた。「幹部は若い人たちのよき相談相手であり、理解者でなければならない」「決して命令したり、押しつけたりしないことである」と。
 そして、幹部が自分の子どもを立派な後継者に育てるよう、厳しく言った。
 「幹部は自らが規律を守る模範となるだけでなく、子弟に対する教育を強化すべきです。職権を利用し、自分の子弟に有利になるよう画策するなど、とんでもないことです。こうすることは結局子弟に害を与えます。厳格に子弟に対処することは結局子弟のためになるのです」
 まったく、その通りである。
 学会にも、両親が幹部や有名人の家であって、子どもが信心していない家庭がある。もちろん、子どもは長い目で見てあげなければならないし、押しつけになってはならないであろう。
 しかし、親が子どもに「学会の心」「広宣流布への信心」を教えておかなければ、令法久住はない。
 一家の福徳の動脈は切れていってしまう。自分の死後、真剣に追善してくれる人もない(笑い)。結局、子どもも、親も、損をしてしまう。
 いわんや、学会のお世話になりながら、子どもに「報恩」の心も教えず、世間的な虚栄に流されていくならば、人間の道を外れてしまう。末路が良いはずがない。
21  鄧穎超さんが、すべての役職を後輩に譲った時の言葉は、こうであった。
 「人は退いても、心は退かず」
 「職務からの引退はあろうとも、革命からの引退はなし」
 私も、まったく同じ決心である。一人、屋根となって、学会を守っている。守り抜いていく。絶対に退かない。退けば、広宣流布はできなくなってしまう。
 「命あるかぎり戦う!」
 この叫びが、鄧穎超さんであった。青春の誓い、母への誓い、同志への誓い、周総理への誓いのままに、八十八歳まで戦い抜かれた。
 今の青年部が八十八歳まで生き抜いたとしたら、あと五十年、六十年、七十年を戦うことができる。
 それを思えば、学会の前途は、二十一世紀は、洋々たるものである。
 周総理夫妻とゆかりの深い関西の青年部の諸君! 私ともっとも深き縁の関西青年部の諸君! 先輩を乗り越えて進め!
 全員が会長、副会長になった自覚で、またそれ以上の決心で、二十一世紀を、よろしく頼みます!(拍手)
22  「試練に耐えた」人だけが信頼できる
 諸君の勉強のために、最後に語っておきたい。
 アインシュタインは言った。
 「人間の価値は、その人が受けとることのできるものよりも、その人が与えるところのものによって、見定めねばなりません」(『晩年に想う』中村誠太郎・南部陽一郎・市井三郎訳、講談社)
 何を自分は人に与えているのか、である。
 また、古代ローマの哲学者セネカは書いた。
 「打ち負かされない力のほうが、攻撃を受けない力よりも信頼に値することを――試練を受けていない力は信用出来ないが、あらゆる攻撃を退ける強靭さこそ、最も信頼に値する」(『道徳論集』茂手木元蔵訳、東海大学出版会)
 諸君は今、日蓮大聖人に信頼されるか否かの「試練」に挑んでいる――とも言える。
 ノルウェーの劇作家イプセン。
 「私は、独りで立つ者がいちばん強いと思っています」(『イプセンの手紙』原千代海訳、未来社)
 「一人立つ」である。それが真の勇者である。
 同じくノルウェーの詩人・エーヴェルランは謳った。
  「自由への道は一つある
   叛逆者の死体を踏み越えてゆく道だ!」(『世界名詩集大成』15、林穣二訳、平凡社)
 イギリスの詩人ドライデン。
  「戦いの決着は戦う者の戦意できまり、
   勇者のみが勝利を収めることになる」(『世界名詩集大成』9,加納秀夫訳、平凡社)
 心で決まる。エマソンも言った。
 「心が燃えずに、かつて偉大なことの成就されたためしはない」(『エマソン論文集』酒本雅之訳、岩波書店)
 「心」が大情熱に燃えているのが「信心」である。
 草創の学会は、関西は、「心」が赤々と燃えていた。だから勝った。
 きょう、二つの大学から、名誉博士の決定通知書が届いた。(拍手)
 現在、世界から実際にお受けした「名誉博士」は、六十三となった。決定したものを含めると、八十六となる。(=二〇〇一年十二月二十二日現在、世界の都市等からの名誉市民の称号は二百一。決定を含めれば二百十一となった)(拍手)
 私は「代表」である。全部、皆さまへの顕彰であると受けとめていただきたい。
 世界がたたえる創価のこの運動を支えた福徳は、皆さまのものであると、確信をもって申し上げたい。(拍手)
 常勝関西のますますの健闘を祈るとともに、全世界の創価の同志の「強靭なる健康」と「偉大なる活躍」を、心の底からお願いし、私のスピーチを終わります。
 長時間、ありがとう!
 (京都平和講堂)

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