Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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九州最高協議会 地域蘇生のドラマに九州の誉れ

1999.5.14 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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2  本年は、「昭和十四年(一九三九年)に牧口先生が福岡の八女を初訪問されてから六十年」の佳節を刻む。その折、牧口先生は、一粒種の学会員に、御書の一節を教えてくださった。
 その御聖訓は、「唐土に天台山と云う山に竜門と申して百丈の滝あり、此の滝の麓に春の初より登らんとして多くの魚集れり、千万に一も登ることを得れば竜となる、魚・竜と成らんと願うこと民の昇殿を望むが如く貧なるものの財を求むるが如し、仏に成ることも亦此くの如し
 ――中国に、天台山という山に「竜門」といって百丈(一丈は約三メートル)の滝がある。この滝のふもとに、春の初めから、滝を登ろうとして多くの魚が集まる。千万分の一という難しさだが、もしも登りきれば魚は竜となる。(中略)仏になることも、これと同じである――という一節である。
 牧口先生は、この御金言を拝して、「どんな難があっても、信心をやり抜くのですよ」と、慈父のごとく温かく励まされたのである。
 牧口先生は、「私が折伏するから、あなた方は横で見ていなさい」と言われて、長崎の雲仙まで、弘教に赴かれた。
 そうやって、牧口先生は、我が九州に魂魄をとどめてくださったのである。
 今日の九州広布の大前進を、牧口先生が、どれほど喜んでおられるか。
 「日本一の九州」万歳! 「世界広布の先駆の九州」万歳! と、私は申し上げたい。(拍手)
3  苦悩の民衆に手を差し伸べ励ましゆく人こそ英雄
 現在、「特別ナポレオン展」が、東京富士美術館で開催されている。これから二〇〇一年の春まで、全国を巡回する予定である。
 「東京展」に引き続き、全国に先駆けて真っ先に開かれる舞台が、ここ福岡である。
 なお、九州においては、「熊本展」(二〇〇〇年十一月)、「鹿児島展」(同年十二月)も予定されている。
 展示では、ロシア遠征(一八一二年)に出発するナポレオン軍を描いた版画(ニーメン川の渡河)も出品されている。
 強大なナポレオン軍を堂々と跳ね返した、ロシアの民衆の底力――これを若き心に深く刻んだ詩人がいた。ロシアの国民詩人プーシキンである。当時、十三歳であった。
 プーシキンは、この五月で、ちょうど生誕二百年を迎える(一七九九年五月二十六日生まれ)。プーシキンは、愛する祖国を侵略したナポレオンに対して、当然、厳しい見方をしていた。
 しかし、そのプーシキンが、「英雄」と題して、ナポレオンを謳っている。あの激戦「ボロジノの戦い」が行われたボロジノ村で、したためた詩である。
 詩は、「詩人」と「友人」の対話で織りなされている。「友人」は、「詩人」に問いかける。
 ナポレオンの生涯で最も印象に残るのは、いつの、どの場面か?
 アルプスの峰を越え、目的地のイタリアを見おろしている姿か? あるいは、軍旗を手に突撃する姿か? 戦いへと突進し、勝利また勝利を重ねゆく姿か? それとも、ピラミッドを前に、感嘆の叫びをあげる姿か?
 「詩人」は、言う。「ノー」と。
 いや違う わたしが見ているのは 幸運にめぐまれた
 かれでもなく 戦闘にあるかれでもない(『プーシキン詩集』木村すな子訳、青磁社)
4  それでは、いったいどういうナポレオンの姿が、「詩人」の心を捉えて離さないのか?
 「詩人」は答える。それは、「エジプト遠征」で、ペストに罹った兵士たちを病院に見舞い、一人一人、声をかけて激励した、あの「英雄」の雄姿である――(二百年前の一七九九年)と。
 プーシキンの詩には、こう謳われている。
  わたしが見ているのは 長くつづく病床の列
  どのベッドにも生ける屍が横たわり
  悪疫の女王
  しょうけつをきわめたペストの烙印が押されている……かれは
  戦死ならざる死に取り巻かれ
  顔をしかめて 病床の間を歩き回り
  素っ気なくペスト患者の手を握り
  そして 瀕死の病人の頭脳に
  生きる勇気を呼びかける……(同前)
 真の「英雄」の生き方とは、順風満帆の姿や、勝ち誇る姿にあるのではない。苦しんでいる人に手を差しのべ、徹して励ましゆく姿にこそ「英雄」の光は輝くのだ。
 ――そう、プーシキンは喝破しているのである。
 実際に、ナポレオンが兵士を見舞ったかどうか、否定的な意見も多いが、詩人は、自分の胸中の英雄をたたえているのである。
5  今、福岡をはじめ、わが九州創価学会が見事な「常勝の城」となったのも、皆さま方が「励まし」に徹してこられたからである。
 苦しんでいる人、悩んでいる人のために、皆さまは、我が身を顧みず、祈り、動き、仏法を語り抜いてこられた。これこそ、いかなる英雄よりもはるかに尊い、偉大な「菩薩」の振る舞いである。そこには、見栄も、偽善もない。
 大変な思いをしている人を見て、黙ってはいられない! 皆を救わずにおくものか! という、人間主義の、熱いほとばしりがある。
 小説『新・人間革命』(第六巻「加速」)にもつづった、福岡の″ドカン″地域の蘇生のドラマは、我が九州の誉れの歴史である。
 同じ庶民として、徹して庶民の側に立ち、一人一人の中から、生き抜く勇気を引き出していった。ゆえに、学会は強い。ゆえに、わが九州の城は揺るがない。
 わが九州、わが福岡は、全員がまことの「英雄」なりと、私は心から賛嘆申し上げたい。(拍手)
6  白百合のように気高く、今世の人生を飾れ
 「ナポレオンが剣で始めしことを、我はペンで成し遂げん」。この言葉を「ナポレオンの石膏像」の台座に刻んで、それを書斎に置き、生涯、ペンをふるい続けた作家がいる。フランスの文豪・バルザックである。バルザックも、この五月が、ちょうど生誕二百年の節目である。(一七九九年五月二十日生まれ)
 バルザックは、ほぼ二十年間で、九十数編に及ぶ、膨大な小説を書き上げた。
 その小説群を「人間喜劇」と総称して、約二千人もの人物を創造し、作品を超えて彼らを縦横に登場させた。社会のあらゆる面を描く、壮大な世界を作り上げたのである。代表的な作品には、『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『農民』『従妹ベット』などがある。
 バルザックは、世間とは「騙す人間と騙される人間の集まり」であると言った。
 そして、彼の心は、″そのどちらにもなるな! 泥沼のような世間を見おろして、お互いに高次元の人生を生きようではないか!″ということだったのであろう。
 作中の青年に、こう語らせている。
 「偉くなり、金持になろうとするのは、嘘をついたり、ぺこぺこしたり、はいつくばったかと思うと威張ったり、おべっかを使ったり、本心を包み隠したりすることを覚悟するのと同じことなのではないか」(『ゴリオ爺さん』高山鉄男訳、岩波文庫)
 上にへつらい、下に威張る、嘘だらけの哀れな人生――。傲慢な権力者や坊主たちも、まったく同じである。青年の言葉は続く。
 「おれはいやだ。おれは気高く清く働こう。おれは日夜を分かたず勉強をして、刻苦勉励によって財産を作りあげよう。それは作るのにひどく手間のかかる財産となるだろう。しかし、毎晩おれは、よこしまな考えなどなにひとつなく、頭を枕の上に休めることができるだろう。自分の人生をかえりみて、それを百合の花のように清らかだと思えることほど美しいことがあるだろうか」(同前)
 これこそ、学会員の皆さま方の崇高な人生である。
7  日々の学会活動は、地道であり、粘り強さがなければできない。
 弘教や機関紙の啓蒙が思うように進まない場合もあるに違いない。ときには、なかなか功徳が目に見えて現れないという場合もあるかもしれない。
 しかし、だからこそ、本当の人間革命ができる。堅実な「不動の自分自身」ができる。むしろ、さまざまな苦労を乗り越え、勝ち越えて、少しずつ良くなっていくほうが、自分自身の確かな財産となり、本物の力となっていくのである。
 また、何があろうと、広宣流布へ戦った功徳は絶対であり、冥益は年とともに輝いていくことは間違いない。妙法に生き抜く皆さま方は、大切な今世の人生を、一点の悔いもなく、白百合のごとく清らかに、気高く飾っていけるのである。
8  「剣の時代」から「精神の時代」
 バルザックは「自らの心のなかに幸福の源泉をもつ――その人の生活は、なんと美しいことか!」と記している。
 皆さま方は、我が生命の中に、御本尊という最高の宝をもっている。信心という最高の宝をもっている。ゆえに、何も恐れることはない。
 また、バルザックいわく、「天才とは、やろうと思ったことは断じて実行に移す人間のことである」と。
 どうか、目指すべき「二十一世紀の広布の山」へ、これからも一歩一歩、共々に、断固として登りきっていただきたい。
9  さて、バルザックの葬儀に際して、友人として感動的な追悼の辞を読み上げた文豪がいた。(葬儀は一八五〇年八月二十一日)
 かのヴィクトル・ユゴーである。ユゴーは、バルザックをたたえて、こう述べた。
 「文明の進歩には法則があって、剣をかざした支配者のあとには、必ず精神による支配者が到来する」(『私の見聞録』稲垣直樹編訳、潮出版社)――と。
 「精神の力」の表れたものこそ「平和」「文化」「教育」である。「生命の世紀」二十一世紀は「創価の世紀」なり!――この気概で、勇気凛々と、強く明るく進んでまいりましょう!
10  御聖訓に仰せである。
 「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く・一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得・広宣流布大願をも成就す可きなり
 ――法華経の行者は、信心において、退転することなく、身において、詐りがなく、一切、法華経(御本尊)にその身を任せて、仏の金言の通りに修行するならば、たしかに、来世はいうまでもなく、今世においても「無事安穏」「長寿」で、最高に勝れた大果報を得て、広宣流布の大願をも成就できるであろう――と。
 要するに、「勇気ある信心を貫く」こと、「悪と断じて戦っていく」こと、そして、徹して「御本尊根本」「御書根本」でいくこと――これが、広宣流布の大回転を可能ならしめる要諦である。
 創価学会は、この王道を進んだからこそ、隆々と繁栄し発展している。
 宗門は、この道を外れたから、無惨に滅びたのである。
 私は、これからも、大切な九州の同志の皆さまの「ご健康」と「ご長寿」と「大福運の人生」を、真剣に祈り続けてまいります。
 皆さまに、希望あれ! 栄光あれ! 勝利あれ! と申し上げ、お祝いのスピーチとさせていただきたい。
 (福岡市・九州講堂)

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