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日蓮大聖人・池田大作

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全国県長会議 「行動」こそ信仰の魂

1999.5.2 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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2  新渡戸稲造博士の忠告
 「日本人は、大きいことと小さいことを混同してしまう」(松本重治『昭和史への一証言』毎日新聞社)
 こう嘆いたのは、だれか。新渡戸稲造氏である。今、五千円札の肖像になっている人物である。
 イギリス人や、アメリカ人は、何が大きいことで、何が小さいことかを見極める「センス」(センス・オブ・プロポーション)を、憎いくらい持っている、と。
 また博士は「ものごとの核心をつかめ」と言っていた。
 「重大な問題は複雑怪奇に決まっているのだ。だから核心をつかんでおけば、おのずから、どんなことでも解決の道が見いだせる」と。「それが日本人は下手なんだ」
 要するに、大所高所から、ものごとが見られない。部分的で、小さな、「重箱の隅をつつく」ような議論ばかりしていて、肝心かなめのことが、お留守になり、いつの間にか、世界の潮流と、かけ離れたところに流されてしまう。いわんや、世界をリードしていくような大きな行動ができない。
 博士は、「井の中の蛙」になることを嫌って、「日本村で有名になることは、やめろ」とも言っていた。
 小さな日本で、うまく時流に乗って、もてはやされても、世界から見て、また人道から見て、おかしな行動をしていたら、何にもならない。
 戦前の日本で最高の「国際人」は、だれか? いろいろ意見はあるだろうが、その一人が新渡戸博士であることは、だれもが賛成するだろう。
 「太平洋に架ける橋」になろうという志で、日本が世界から孤立しないために、働き抜いた。国際連盟(現在の国連の前身)のリーダーの一人であった。
 「知的協力委員会」をつくって、世界の文化人・学者の協力による平和を追求した。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の前身のような運動である。
 フランスの哲学者ベルクソン、ポーランドの化学者キュリー夫人、また、アインシュタイン博士、その他、世界の最高の名士が集まり、みな新渡戸氏の親しい友人であった。フランスの大作家ロマン・ロランとも親しかった。
3  新渡戸氏は、日本人が、世界の舞台で尊敬されないことを嘆いていた。優れたところが、いっぱいあるのに、「外国人との交際が、あまりにも下手」だ、と。
 私も、見ていて、本当にそう思う。
 その理由の一つとして、博士は「話題が少ない」ことを挙げる。「自分の専門」の狭い範囲については、よく知っていても、幅の広い「人間趣味」がない。
 「西洋に於ける専門家は、人間趣味が日本の専門家より遥に広い。ところが日本人は専門家たることを最上の誇とし、円満な人間たることを度外視する。
 故に、所謂学者連中の話を聞けば、僕はその方は専門でないから知らぬといって、専門に忠実なることを誇としている。換言すれば、何々学の専門家であって、人間でありませんと誇るのである」(『東西相触れて』、『新渡戸稲造全集』1,教文館)
 これでは、海外に行っても、人間として、付き合う余裕がない。
 ″アインシュタイン博士に会ったなら、相対性理論について意見を交換するよりも、むしろバイオリンの話をするほうが、博士と親しくなる近道である″
 まったく、その通りである。
 先日、私は、アメリカのメディアからインタビューを受けたが、そのときも「『知』『情』『意』を備えた全体人間」の必要を語った。
 ともかく、日本人は狭い所ばかりに入り込んでしまうと、新渡戸博士は言うのである。
 昭和のはじめごろ、新渡戸博士は、日本の右傾化を、本当に心配していた。また、その反動として左翼勢力が伸びることも憂慮していた。
 博士は、国内の左右両方の勢力を批判しつつ、「自由主義」を守るため、日本と世界の橋渡しに奔走した。そして、体を壊して、旅先のカナダで亡くなった。(昭和八年=一九三三年)
4  「日本の行き詰まりを打開できるのは『創価教育』」
 さて、この新渡戸博士が「これこそ、私が長い間、待ち望んでいたものだ」と絶賛した日本人の業績がある。それが牧口先生の「創価教育学」であった。
 『創価教育学体系』の第一巻に、博士は序文を寄せている。(昭和五年=一九三〇年)
 博士と牧口先生は、民族学研究の「郷土会」を通して、以前から交流があった。
 新渡戸博士は言う。
 「あらゆる方面に於て、極端なる行き詰まりを来しているのが、我が国、現下の状勢であろう」
 「一つは、経済上の行き詰まり」「第二は、思想上、はなはだ不健全な状態」
 この行き詰まりを打開する道は何か。
 「余(=私)は只教育の一途(=一つの道)あるのみと断言して憚らない」
 政治、経済、制度の改革も必要だろうが、「大局より見て、教育以外に国を建て直す力はない」。
 それでは、どんな教育が、必要なのか。日本では、だれもが教育には力を入れているが、それでも、どうにもならないのが現状である。
 博士は、これまで「日本の教育が独創性に欠けていることに、非常なる不満と遺憾を感じ来ったものである」。
 「独創的教育の要諦は、行き詰まった時に、自分の力で、その局面を打開し、他人の力に依頼しないような堅実なる人を養成することである」
 創造的人間である。独立独歩の、個性豊かな人間である。
 それでは、具体的にどうするかというと、どんな教育学者、理論家の話を聞いても、博士が、絶対的に、うなずけるような「卓説」は、それまでなかった、と。
 そこに、牧口先生の「創価教育学」が出現した。博士は、これを読んだ。
 そして「その卓絶せる識見と、事実を基とせる該博なる(=博識の)研究に驚いた」
 「各分野にわたって、透徹せる科学的意見を網羅している」
 「従来の観念的な天上の幻影にも似たる教育目的を、科学的な地上の教育にまで現実化したるは、偉大なる教育の転向であるといえる」
 「創価教育学会」によってこそ、日本の行き詰まりは打開できるにちがいないと、博士は絶賛したのである。重大な証言である。
 しかし、新渡戸博士は、右傾化する日本の中で、孤立し、迫害されていった。同じように、牧口先生も弾圧され、日本は滅亡の坂を落ちていった。
 目先の利害や、流行に目を奪われている間に、「国際協調」という「世界の大潮流」を見失ったのである。まさに「大きなことと、小さなことを混同する」悪弊(悪いくせ)であった。これも、「知識はあっても、全体人間でない」欠陥である。
5  孫文先生――日本は「アジアの民衆の『心』をつかめ」
 先日(四月二十二日)、私は、近代中国の「国の父」と仰がれる「孫文先生」の研究所(中山大学の孫中山研究所)の「名誉所長」になった。
 孫文先生が、日本で最も信頼した指導者の一人が、犬養毅氏(政友会総裁)であった。
 犬養氏も、牧口先生の『創価教育学体系』を喜び、揮毫を寄せるとともに、書簡を贈って祝福した。「創価教育学支援会」のメンバーにもなった。
 孫文先生は、犬養氏に手紙を書いている。
 「日本は遠大な志も高尚な考えももたず、ただヨーロッパの侵略手段の後に追随することを知るだけで、ついに朝鮮を併呑する行動をとったがために、アジア全域における人心を失うにいたったことは、まことに残念なことであります。
 『その心を得る者はその民を得、その民を得る者はその国を得る』(『孟子』、「離婁上」)という古人の言葉があります。
 もし日本がロシアに戦勝した後に、この古人の言葉を教訓としていたならば、こんにちのアジア各国はみな日本に帰依していたでありましょう」(伊地智善継・山口一郎監修『孫文選集』3、社会思想社)
 孫文先生は、こう言って、日本が「国家百年の大計」を考えるなら、同じ過ちを二度と繰り返さず、中国の人民を「国力のすべてを傾けて応援し」「中国を救うことによって、日本をも救うべきであります」と訴えている。
 しかし、その犬養氏も、右傾化の中、昭和七年、「五・一五事件」で、殺された。
 多くの人が言う通り、今の日本も、いったいどこに行こうとしているのか、わからない。行き当たりばったりに、その時、その時の状況に追随したり、反発したりしているだけでは、「世紀の転換期」の激流の中に沈没してしまう。
 「国家百年の大計」が、ない。たとえば「人道奉仕で世界に貢献する」というような方針がない。
 一例として、世界に優秀な医師や技術者を、毎年、どんどん送り出すとか――。
 「歴史は繰り返す」と言うが、繰り返してはならない歴史がある。
 今こそ、日本は「アジアと世界の人心を得る」ための「遠大な志」を立てねばならない。そして「海外の人々に信頼される全体人間」を養成しなければならない。
 その先頭に立っているのが、新渡戸博士や犬養氏が期待し、孫文先生の思想と一致した「創価学会」の行動なのである。(拍手)
6  文豪アイトマートフ氏「創価思想で民族同士が団結」
 唐の詩人・王勃おうぼつの有名な一節に、こうある。
 「海内かいだい知己を存せば、天涯も比隣の若し」
 ――この広い世界に、真に自分をわかってくれる友人がいるならば、たとえその人と天の果てほど遠くに隔たっていても、隣り合わせに暮らしているようなものだ――。
 私には、そういう本物の友人が、たくさんいる。
 その一人である世界的な作家・アイトマートフ氏は昨年、沖縄を訪問され、こう語ってくださった。(十一月十八日、沖縄国際平和会館での聖教文化講演会)
 なお、沖縄の同志が目ざましい弘教を推進しておられることも、よくうかがっている。
 さて、アイトマートフ氏いわく、
 「これまでの時代で、一つの民族だけを結びつけ、団結させる思想というのはありました。
 しかし、友情をもって、民族同士に心を開いていく、そして心のつながりを築いていくというような団結は、これまでにない、まったく新しい団結の心です。
 そういった団結が実現するためには、究極の、非常に崇高な思想がなければなりません。
 その崇高な思想は、時代が生んだ偉大な人物が広めていかねばなりません。
 そして、池田大作氏と長年にわたっておつき合いをさせていただくなかで、この人こそ、その偉大な思想を広める偉大な人物である、と私は確信いたします」
 私自身のことというよりも、創価学会への信頼として、ありのままに紹介させていただく。
 さらにアイトマートフ氏は論じてくださった。
 「創価学会は二十世紀に生まれ、あらゆる試練、苦難を乗り越えて、前進を遂げ、発展してきました。そのおかげで私たちは、新しい世界観を見つけることができました。学会員の皆さんは、本当に誇りをもっていただきたいと思います」
 現代を代表する文豪は、このように、「二十一世紀の世界宗教」である創価学会の人間主義に、絶大なる期待を寄せてくださっているのである。
7  新世紀へ、創価の正義は大勝利
 経文には、「是の悪比丘は利養の為の故に是の経を広宣流布すること能わず」――この悪比丘(悪い坊主)は、私利私欲に執着するために、法華経を広宣流布することはできない――と明確に説かれている。
 さらにまた、なぜ社会が衰亡しゆくのか。
 日蓮大聖人の御聖訓には、その御在世の日本について、「此の国に悪比丘等有つて天子・王子・将軍等に向つて讒訴を企て聖人を失う世なり」――この国に、悪僧等があって、天子、王子、将軍ら(の権力者)に向かって、ありもしないことを訴えようとし、聖人をなきものにする世の中である――と示されている。
 「聖人」とは、敷延して拝すれば、「最大の正義の存在」ともいえよう。
 しかし、このように仏法破壊の魔軍が競い、大難が起こって国土が乱れた時こそ、一閻浮提へ妙法が広宣流布していくことは間違いない。大聖人は、そう教えておられる。
 さらに、御金言には「大法流布の時来るならば・彼の悪法やぶれて此の真実の法立つ事疑なかるべし」――大法流布の時が来るならば、かの悪法はやぶれて、この真実の法が立つことは疑いない――と。
 今、新しき世紀を前に、宗祖・大聖人に敵対する日顕宗の「悪法」は惨敗し、大聖人に直結する創価学会の「真実の法」が大勝利している。
 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」――。
 世界の創価学会は、この大誓願のままに進んでいる。二十一世紀の地球と人類のために、「正義」と「哲学」と「幸福」の壮大なる連帯を、いよいよ拡大してまいりたい。
8  戸田先生は、『三国志』を通して、「広宣流布の諸葛孔明たれ!」と教えられた。
 お題目を真剣に唱え抜きながら、「以信代慧」の智慧で、聡明に、また大胆に、すべてを「妙法広布の味方」に変えていっていただきたい。
 私とともに、「不老不死」の生命力で、ますます生き生きと、若々しく、明年、西暦二〇〇〇年の「五月三日」へスタートしましょう!
 各県にもどられましたら、津々浦々の偉大なる地涌の同志に、どうかくれぐれも、よろしくお伝えください。お元気で!
 (東京牧口記念会館)

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