Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国県長会議 広布の労苦は永遠の大福徳に

1999.3.10 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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1  人に語るほど自分が磨かれる
 二十一世紀への協議、まことに、ご苦労さまです。
 県長会議は、広宣流布のために意見を交わし、「勝つことを千里の外に決しゆく」最も重要な会合である。秋谷会長を中心に、心を合わせ、呼吸を合わせて、万全の協議をお願いしたい。
 中国の大文豪・魯迅は語った。
 「光明を戦い取らねばならない。よしんば自身がそれに遇うことができなくても、後に続く者に残すことができる」(石一歌『魯迅の生涯』金子二郎・大原信一訳、東方書店)
 私どもも、この心意気で進みたい。
 イギリスの著名な哲学者フランシス・ベーコン(一五六一年〜一六二六年)。
 彼は、″友と会って対話する人は、聡明になり、英知が磨かれていく″と述べている。
 すなわち、「自分の心の中にある思想」を人に語ることによって、自分自身の智慧がいっそう輝き、豊かになっていく。語れば語るほど、その思想を、よりはっきりとつかみ、自分自身のものにしていける。自在に展開していける。声に出して語れば、人は「以前の自分より賢くなることができる。それは一日の瞑想より一時間の対話の方がまさるほどである」(『ベーコン随筆集』神吉三郎訳、岩波書店)というのである。
 正義を語り抜く人は、どんどん輝いていく。徹底して叫ぶ人が勝っていく。
 さあ! ″対話の春″である。″行動の春″である。″成長の春″である。徹して動き、徹して語り抜いてまいりたい。自分を大きくするために。正義を広げゆくために――。
2  昭和三十年(一九五五年)の三月十一日、雪の中、あの「小樽問答」が行われた。
 なぜ、学会があれほどの圧倒的な勝利を収めたのか――戸田先生は言われた。
 「それは、守りに回らないで、先手先手と攻め抜いたからだ。戦いは、攻めることが肝心なのだ」と。
 問答の学会側の司会は私であった。戸田先生の指名である。第一声から、私は破折の獅子吼を放った。(名誉会長は当時、二十七歳。参謀室長であり渉外部長。日達上人は「この司会の第一声で勝負の流れが決まったようなものだ」と)
 御書には仰せである。
 「師子の声には一切の獣・声を失ふ
 「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり
 「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし
 戦いは、徹して勇敢に、正義を叫びきったほうが、勝つ。叫ぶことが、勝利の要諦である。この鉄則を、青年部は忘れないでいただきたい。
3  大哲学の明鏡をたもつ皆さまに大功徳
 日蓮大聖人は一人の弟子に言われた。
 「雪の中ふみ分けて御訪い候事御志定めて法華経十羅刹も知し食し候らん
 ――雪の中を踏み分けて(あなたは使いを身延の山中にいる私に)寄こしてくださいました。その御志は、必ずや法華経も十羅刹女も知っておられることでしょう――。
 今年の冬は、北海道や東北の北部など、近年にない大雪であった。その中を、わが同志は、吹雪にも、寒風にも負けず、健闘してこられた。大聖人は、どれほど皆さまを賛嘆しておられることか。
 すでに報じられたとおり、このほど福島の会津坂下町から、創価大学と町の合同の発掘によって、貴重な「銅鏡」(放射状区画珠文鏡)が発見された。
 仏法上も、「鏡」については重々の意義がある。こうも説かれている。
 「銅鏡等は人の形をばうかぶれども・いまだ心をばうかべず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をもかんがみ給う事くもりなし
 ――銅鏡などは、人の姿は映しても、心までは映さない。法華経(という明鏡)は、人の姿のみならず、人の心も映し出してくださる。心のみならず、過去の業因も、未来も照らし出してくださって曇りがない――と。
 三世永遠を見通し、達観しゆく「大哲学の明鏡」。それを持つ皆さまは、いかなる権力や財力の人にも勝る「生命の帝王」である。
 御書には仰せである。
 「そもそも因果のことはりは華と果との如し、千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてゆれば十町・二十町の草木・一時にやけつきぬ、竜は一たいの水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候、小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し、仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王あそかだいおうと申せし王ましましき・一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき、竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う、六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき、かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば・ただ土の餅一・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし
 ――そもそも、因果の道理は、華と果の関係のようなものです。
 千里のかなたまで広がる野の枯れ草に、蛍火のような小さな火を一つ、つけたならば、たちまち一草、二草、十・百・千・万の草に燃え広がり、十町・二十町の(広さの)草木は一時に焼けてしまいます。(中略)たとえ小善であっても、法華経に供養申し上げるならば、功徳は、このように大きいのです。
 仏の滅後百年という時、インドにアショーカ大王という王がおられた。全世界の八万四千の国の四分の一を統治しておられた。(中略)六万の阿羅漢を師として、八万四千の石塔を建て、十万億の金を仏に供養申し上げますとお誓いになられた。このような大王であられたが、その因となった(過去世の修行の)功徳は何かといえば、ただ土の餅を一つ、釈迦仏に供養申し上げたためなのです――。
 いわんや、御本仏・日蓮大聖人の仰せの通りに、来る日も来る日も、広宣流布のために行動を続けておられる尊き皆さまの功徳は、計り知れない。学会活動が第一である。学会活動には、一分のムダもない。すべての苦労が、自分自身と一家・眷属の大福運に変わる。
 御書には「法華経の座は三千大千世界の外四百万億阿僧祗の世界なり」――法華経の会座は、三千大千世界のみならず、四百万億阿僧祇の(広大無辺の)世界である――と明言されている。
 広宣流布の仏国土は、この大宇宙に、限りなく広がっている。まじめな学会員の皆さまが、生々世々に、この大宇宙を舞台に、大指導者となり、大王のごとき威光勢力をもって活躍し、乱舞しゆくことは、法華経に照らし、御書に照らして絶対に間違いない。その「永遠の大福徳」を受けきっていくための今世の闘争であり、今日のわが地域での戦いなのである。
4  ″命をかけて民衆のために″――その人が国を支えている
 結びに、勇気の言葉を贈りたい。
 スイスの思想家ヒルティの『幸福論』から。
 「まず人間は怖れを知らぬ者とならねばならない。なぜなら、正しい人生はすべて戦いであって、不断の平安ではないからである」
 「人間が大きな進歩をするための道は、いつも苦しみによって開かれなければならない」(『ヒルティ著作集』3、前田護郎・杉山好訳、白水社)
 ロシアの国民詩人プーシキン。今年は生誕二百周年である。
 「中傷というものは高名な人につきまとい苦しめるものだが、真実と直面すればいつでも無に帰する」(『プーシキン全集』5、川端香男里訳、河出書房新社)
 そして魯迅の言葉。
 「我々には、古代から、わき目もふらずに苦闘を続ける人物がいる。生命を賭けて奮闘し続ける人物がいる。民衆のために生命を捧げる人物がいる。身を捨てて法を求めた人物がいる。(中略)それが、中国の背骨である」(『魯迅全集』8、今村与志雄訳、学習研究社)
 創価学会こそ、「日本の背骨」である。「日本の柱」である。皆さまは、各方面、各県の偉大な「背骨」であり、「柱」の存在である。どうか、雄渾の指揮をお願いしたい。
 「法華経に勝る兵法なし」である。信心ほど強いものはない。
 断固として戦い、断固として勝って、また、晴れ晴れと、お会いしましょう!
 二十一世紀へ、見事に勝利しよう!
 全同志のますますのご健康とご多幸を、私は真剣に祈っております。お帰りになりましたら、皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えください。
 (創価文化会館)

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