Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1.26「SGIの日」記念協議会 リーダーは自分の「慢心」と戦え

1999.1.27 スピーチ(1998.11〜)(池田大作全集第90巻)

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2  周総理夫人は気どらず、飾らず、民衆に奉仕
 「中国人民の母」である鄧穎超とうえいちょうさん(周恩来総理夫人)の伝記が、このほど潮出版社から発刊される。(二月一日に発売)
 タイトルは『鄧穎超とうえいちょう――妻として同志として』。
 著者である西園寺一晃先生が、できたばかりの一書を私に贈呈くださり、さっそく読ませていただいた。感銘した。
 光栄なことに、冒頭、周恩来総理と私の会見(一九七四年十二月五日)の秘話や、創価大学の「周桜」の歴史にも、鋭く、温かく光を当ててくださっている。
 西園寺先生と周総理ご夫妻との交友は、大変に深い。
 四十年以上前、北京に移住したばかりの西園寺先生のご一家を、総理ご夫妻が温かく迎えてくださったという。
 当時、中学生の西園寺先生が、最初に総理の自宅にお邪魔した時、お茶を入れてくれた「オカッパ頭の女性」がいた。すっかり、お手伝いさんと思っていたら、あとから出てきた周総理から、「私の妻です」と紹介されて、驚いた。
 それくらい、鄧穎超さんは、ありのままで、飾らず、気取らず、質素で、「どこにでもいるオバサン」であった、というのである。
 ここに、鄧穎超さんの偉さがある。本物の人格のすがすがしさがある。
 特別な人間など、どこにもいない。自分が特別であると思っている傲慢な人間は、すでに心が堕ちている。
3  「幹部は謙虚に」「民衆こそ先生」
 鄧穎超さんが、人生の荘厳な総仕上げにあって、最後の力を振り絞って訴え続けたことは、いったい何であったか。
 それは、リーダーは自らの慢心と戦いなさい!――ということであった。
 鄧穎超さんは、あらゆる機会に、後継の指導者たちに厳しく教えた。
 「革命家の貢献は、無限でなければなりません」
 「必ず慎み深く、謙虚でなければなりません。驕らず、焦らず、仕事を立派にやりとげるのです」
 「特殊化(=特権化)に反対することは、幹部が率先してやらねばなりません。そのためには革命精神が必要です」
 「民衆こそ主人公であり、民衆こそ私たちの先生です。私たちは、ほんの少しであっても、民衆に対し優越感をもつようなことがあってはいけません」
 「密接に民衆と結びついて、民衆に依拠して、団結できるすべての人と団結する。これが戦う私たちの出発点です」(前掲『鄧穎超とうえいちょう――妻として同志として』)
 こう言って、女史は、幹部の「慢心」を徹底的に打ち破っていったのである。
4  信心の最大の敵は「慢心」
 人間にとって、仏法において、一番の敵――それが「慢心」である。「増上慢」である。きょうは、御書を拝し、法華経を拝して、厳しく戒めておきたい。
 日蓮大聖人は、末法の世について、「人の智浅く慢心高きゆへ」――人々の智慧は浅く、慢心は高い――と述べられている。
 また「嫉妬の思い甚し」とも言われている。
 これらの仰せのとおり、慢心や嫉妬が渦巻くのが、末法の人間社会である。そんな世の濁流に飲み込まれて、信心を失ってはならない。
 大聖人は、このことを繰り返し教えておられる。たとえば「仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」と。
 自分の現状に停滞せず、どこまでも、どこまでも向上を求める「求道心」が大切である。そして、嫉妬や増上慢の悪人と戦う「行動」が絶対に必要なのである。
 これまでにも、残念ながら、才知や役職、職業や学歴、権力や財産などにとらわれて、慢心や嫉妬を起こし、信心を失った者たちがいた。
 また、自分が退転するだけでなく、清らかな信心の世界である学会を破壊しようとする反逆者たちもいた。
 彼らは、わずかな「身の財」「蔵の財」に酔って、信心という最も大切な「心の財」を忘れてしまった。そのために、清らかな信心の同志を尊敬できなくなり、広宣流布ひとすじの、まじめな学会の世界にいられなくなってしまったのである。この本質を見破らなければならない。
5  法華経には、「法華経の行者への迫害者たち」の姿が説かれている。
 勧持品の「三類の強敵」や、不軽品の「上慢の四衆」などである。
 彼らは「増上慢」と呼ばれる。迫害者の行動の根っこには必ず慢心があるからである。
 具体的には、「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」(まだ仏法上の高い境涯を得ていないのに得ていると思い込み)、「我慢の心充満せん」(我尊しというおごりで心がいっぱいになる)等と説かれている。
 三類の強敵の中の「僣聖増上慢」は、尊敬されるべき人徳もないのに、徳が高い聖人のように自分を見せかける。
 そして、民衆を蔑んで、「民衆のために戦う法華経の行者」を敵視するのである。その根本は慢心である。
 退転者が、信心の破壊者となっていくのも慢心からである。
 心が卑しいのに、人格者を装う。真剣に勤行もしていないのに、信心があるふりをする。自分が実践していないのに人を煽る。力も無いのに、地位をかさにきて、いばる。自分を飾るだけで、人を尊敬できない――。
 要するに増上慢は、慢心で心がマヒし、ねじ曲がっている。自分を見つめることができない、恥しらずなのである。
6  増上慢の特徴――嫉妬、嘘、利用、破壊
 僣聖増上慢の特徴の一つを、法華経では「人間を軽賎する」と説く。「民衆蔑視」である。
 彼らが民衆を蔑視するのは、自分自身の心が醜悪だからである。自分が醜いから、人間を尊敬できない。
 だから、口先ではどうあれ、心の底では、「すべての人間が成仏できる」という法華経の教えを信じてはいない。いわんや、自他ともの幸福のために、真剣に広宣流布に戦う人の心など、とうてい理解できるわけがない。
 彼らが信ずるのは世間の名誉や利得だけである。宗教も民衆も、そのための道具にすぎない。
 法華経には「利得を貪るために、在家信者のために教えを説き、悟りを得た聖者のように、世の人々に尊敬される」と説かれている。
 慢心の、もう一つの特徴は「嘘」である。
 大聖人は御義口伝において「疵を蔵くし徳を揚ぐは上慢を釈す」――自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが増上慢である――という妙楽大師の言葉を引いておられる。
 自分の欠点を隠し、ありもしない自分の徳を宣伝するために、嘘をつき通すのである。見栄っ張りであり、偽善者である。しかも、その嘘を恥じないし、反省もしない。
7  また増上慢の人間は、自分の欠点を、法華経の行者の欠点として説く″すりかえ″の名人である。
 たとえば、僣聖増上慢は、宗教を利用して、自分自身が名聞名利を貪っている。
 そういう卑しさを省みることもなく、かえって、法華経の行者の戦いを「名聞名利のためである」と中傷する。権力者をはじめ多くの人々に向かって、この中傷を繰り返すのである。
 自分自身の欠点を直視できずに、かわりに他人を攻撃する。自分の中の悪を破壊できず、かわりに他人を破壊しようとする。これが増上慢である。
 この「破壊魔」を絶対に放置してはならない。戦って、戦い抜いて、打ち破るべきである。少しでも妥協したならば、広宣流布の土台を崩してしまう。そうなれば人類の未来に希望はない。
 悪と「徹底して」戦う。それが仏法である。それが信心である。
 「徹底して戦う」信心だけが、広宣流布の永遠の発展をもたらすのである。
8  増上慢の生命は、十界で言えば、「修羅界」に当たる。勝他の念である。″どうしても他人に勝ちたい″″相手を見くだしたい″という、ゆがんだ心である。
 修羅界について、天台は『摩訶止観』で次のように言っている。
 「つねに他人に勝つことを願い、その心を抑えきれず、人を見くだし、他人を軽んじ、自分だけが偉いとする。それはまるでトンビが高く飛び上がって、下を見おろす姿のようである。それでいて外面は、仁・義・礼・智・信という徳を掲げて、(表面的で、自己満足の)低級な善心を起こし、修羅道を行ずるのである」(御書430㌻、通解)と。
 増上慢の人間は、「人に勝つ」欲望に支配されている。「自分に勝つ」ための精神闘争がない。ゆえに自分の境涯の向上はない。策動すればするほど、自分自身が転落していく。
 彼らは、嘘をつき通したり、自分を飾って宣伝したり、法華経の行者を迫害するために策略を練ったりと、悪事に忙しい。大変なエネルギーを使っている。
 しかし、それらは結局、不毛である。自身の境涯の変革もなく、人を傷つけ、自らも地獄界に堕ちていく。
 彼らにたぶらかされた者も、ともに地獄界へと堕ちていく。こんな悪人に、絶対に、だまされてはならない。たぶらかされてはならない。
9  増上慢の本性は「臆病」である。彼らは慢心しているゆえに、自分を大きく感じる。
 修羅の姿は「身長みのたけ八万四千由旬・四大海の水も膝を超えない」とされる。
 しかし、修羅は、自分の実力が及びもつかない偉大な帝釈と戦った時、とても敵わないので、池の蓮の穴に逃げ込むほど小さな身となった。この「小さな身」が、修羅の正体である。
 大聖人は「おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅しゅらのおごり帝釈たいしゃくめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」――おごれる者は、強敵に会うと必ず恐れる――と仰せである。
10  増上慢の人間は、″本物″である法華経の行者が現れると、自分の本性が、あぶりだされてしまうことを怯える。聖者とか人格者とか信仰者という仮面を、はぎとられてしまう恐怖に、身ぶるいする。
 そこで、法華経の行者を逆恨みして、なきものにしようとするのである。
11  「師子王の心」を貫く人だけが「仏」に
 今の世も、こういう人間に満ちている。しかし最後は必ず正義が勝つ。
 大聖人は断言されている。
 「末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず
 法華経の行者を軽んじ、広宣流布を破壊しようとする増上慢の悪人は必ず滅びる、との高らかな御宣言である。
 この仰せが真実であることは、学会を破壊しようとした者たちの末路を見れば、だれの目にも明らかであろう。
 正義の勝利。それを勝ちとるのは、「師子王の心」である。「師子王の心」で戦う人間だけが「仏」になれる。そうでなければ、どんなに長く信心しても、「仏」にはなれない。
 大聖人は、仏になる人は「爪上の土」(小さく、すべりやすい爪の上に載る土のように少ない)と述べられている。
12  再び、西園寺先生の著作から、若き日の周総理ご夫妻のエピソードを、ご紹介したい。
 ある時、周青年は鄧穎超とうえいちょうさんに言った。革命の厳しい戦いの渦中のことだった。
 「みんなはどうして小超同志(鄧穎超さんのこと)は、あんなに明るいのだろうと不思議がっているよ」
 鄧穎超さんは、明るく応えた。
 「私は根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」
 ご夫妻は、いつも「みんなのこと」を考えていた。「みんなに希望を与えよう。勇気を与えよう」としておられた。
13  ご夫妻のモットーは「たとえ、一兵卒であろうとも、自分が今いる場所で全力を尽くす」であった。
 どうか、皆さまも、″わが地域″で、この偉大なる精神を貫いていただきたい。
 ″わが同志″の勝利のために、朗らかに、生き生きと活躍していただきたい。
 そして、三世永遠に、常楽我浄の軌道を楽しめる大境涯を、今世で築いていただきたい。
 いったん「仏」になれば生々世々、悠々と、自在に、自分の思った通りの場所で、思った通りの使命の人生を生きられるのである。このことを強く申し上げ、記念のスピーチとします。
 遠いところ、また寒いなか、本当に、ご苦労さま!
 (東京・新宿区内)

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