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日蓮大聖人・池田大作

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中国・南開大学「名誉教授」、周恩来研究… 「民衆奉仕」の周総理に学べ

1998.11.25 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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2  日本の理不尽きわまる「対華二十一カ条要求」(第一次大戦の一九一五年〈大正四年〉、日本が中国に二十一ヶ条から成る権益の拡大を要求したこと)に対し、時あたかも、この一九一九年、中国の勇敢なる学生たちは、激怒して立ち上がった。
 その抗議の波が、澎湃と大地を揺るがしていました。これぞ、「中国革命」の淵源として永遠不滅の「五・四運動」であります。
 新しい時代への先陣を切るのは、常に学生である。創価学会も、そうでなければならない。そして、日本での留学から決然と舞いもどって、この大闘争の先頭に立ったのが、わが南開大学の第一期生である周恩来青年その人なのであります。(拍手)
 周青年は、この時、二十一歳。きょう集った学生部の諸君と、まさに同年代であります。総理は、青春時代から、激戦また激戦。そのなかで、″二十世紀の諸葛孔明″たる自分自身を鍛え上げていかれた。
 諸君の中からも、「二十一世紀の諸葛孔明」と仰がれるような、力ある大指導者が陸続と育ちゆくことを、私は信じ、待っております。そのための、一日一日の勉学であり、学会活動の薫陶であると思ってもらいたい。
3  心から尊敬申し上げる世界的な大数学者のこう学長、またご一行の先生方。
 周総理生誕百周年の本年、総理の母校である貴大学より、私は、あまりにも意義深い「名誉教授」の称号、ならびに「周恩来研究センターの名誉所長」の栄誉を謹んで拝受いたしました。厚く御礼申し上げます。(拍手)
 (会合の席上、中国・南開大学ならびに同大学周恩来研究センターから、池田SGI〈創価学会インターナショナル〉会長に対する顕彰が行われた。侯学長一行が出席し、南開大学の「名誉教授」、周恩来研究センターの「名誉所長」の称号が贈られた)
 貴大学の力強い校歌には、「鍛えあげなむ/名実ともの正義の振る舞い!/渤海の水際/白河のほとりに/巍々たる我らが南開精神!」と雄々しく謳われております。
 この「南開精神」とは、逆境を恐れず、試練を断固として乗り越えていく魂であり、周総理に連なる進取・開拓のスピリットであります。
4  日本軍の爆撃にも耐え、教育を持続
 私たちが断じて忘れてならないのは、日本軍が、貴国で最初に蹂躙した学舎が、貴大学であったという厳然たる歴史であります。一九三七年の七月、日本軍は、こともあろうに貴大学を標的に、雨のごとく爆撃を繰り返しました。
 教育・文化の殿堂を、暴力で破壊することほど、卑劣な蛮行は絶対にない。
 水郷の田園のごとき、また花園のごとき麗しき貴大学のキャンパスが、見る間に、火と煙の海に変わり果ててしまった。図書館も、そして営々として収集されてきた大切な宝の蔵書の数々も、次々に焼かれました。
 じつに、校舎の三分の二が壊滅してしまったのであります。
 しかも、日本軍は、以後八年間にもわたって、貴大学のキャンパスを占領し続けました。
 貴大学が蒙った損害は、当時、中国の高等教育機関が受けた被害総額の、なんと十分の一をも占めるとうかがいました。
 しかし、貴大学は、それほどの攻撃にさらされながら、学問研究と人材育成の旗を、いっときたりとも、降ろすことはなかった。
 南へ、西へ、貴大学は、千二百キロ離れた長沙の地に、そしてさらに、そこから千キロ離れた昆明の地にと、学びの場を移動しながら、″教育の聖業″を厳として守り通されたのであります。
 また、多くの貴大学の学生が、自ら勇んで、抗日闘争へ身を投じていきました。
5  創立者の張先生は、烈々と呼びかけました。
 「敵は、わが南開の建物を爆撃した。されど、我々は、この苦難を因として、南開精神を、ますます奮い立たせていこう!」と。
 傲れる権力は、建物を壊すことはできるかもしれない。しかし、いかなる暴力や策略をもってしても、高貴なる人間の精神だけは、絶対に壊せない。
 三代にわたって、日本の国家主義の魔性と戦い抜いてきた、われらの「創価精神」もまた、この「南開精神」と一致すると、私は申し上げておきたいのであります。(拍手)
 その峻厳なる精神闘争の後継の勇者こそ、わが学生部であっていただきたい。
6  「学生よ、人民の恩を忘れるな」
 さて、一九五九年の五月、貴大学の創立四十周年に、周総理は鄧穎超とうえいちょう夫人とともに母校を訪問されました。
 周総理は、愛する母校の後輩たちに率直に、こう語りかけました。
 「大学生の一部に、学生の本分を見失って、食べ物や着る物など、享楽にふける風潮が、はびこっています。しかし、人民が皆さんを大学に入れたのです。それなのに、こうした学生は、知識があれば、それを利用して、人民と駆け引きができると思いこんでいる。皆さんは、人民の子なのです。皆さんは、片時も、人民を忘れてはなりません」と。
 要するに、何のために学び、何のために大学を出るのか。
 「自分のため」なのか。それとも「人民のため」「民衆のため」なのか。
 この根本の一点を、総理は、なかんずく自らの直系の南開大学生には、確固と受け継いでほしかったのでありましょう。そして、これが、周総理の最後の母校訪問となりました。この歴史的な年に入学されたのが、ここにおられる侯学長であられます。(拍手)
 学長は、周総理の精神を厳然と継承され、「国際開放大学」とまでたたえられる世界との交流の道を開いてこられました。
 学長が陣頭指揮を執って、青年教育者の育成に心血を注いでおられるお姿にも、私は、周総理と相通ずる心を見る思いがいたします。そして、貴大学は、明年(一九九九年)、「源遠流長(源遠ければ、流れ長し)」の創立八十周年を迎えられます。
 きょうは、この会場に日本の百五十大学の学生の代表が結集しております。ここに、真心からの祝賀と友誼の拍手を学長ご一行ならびに一万七千の南開大学生に捧げようではありませんか。(拍手)
7  周総理の人間主義「すべての人から苦しみをなくせ!」
 学長は、「大切なことは、周総理の生き方から、いかにして二十一世紀の新しい人間になるかを学ぶことである」と強調されております。
 私も、まったく同感であります。だからこそ、周総理の民衆奉仕の哲学と行動を、私は何度もスピーチさせていただきました。
 振り返れば、十九歳の周青年は、社会の変革の方途を探求しながら、「人の心も、また、変わらなければならない」と、人間それ自身の改革を深く志向しておりました。その青春の思索の中で、じつは周青年は、「仏法のヒューマニズム」からも示唆を得ていたとされております。
 たとえば、日本留学中の日記(『十九歳の東京日記』小学館)の中で、周青年は、大乗仏教の一つの誓願に触れております。それは「世界で、ただ一人でも仏になっていない者がいる限り、自分も仏にはならない!」――すなわち、人を救うために菩薩の行動を続けるという、永遠の闘争の誓いであります。
 全員が幸福にならなければ、自分も幸福にならない。素晴らしい信念です。「菩薩」とは行動者です。
 当時、軍国主義への傾斜を強めゆく希望なき日本の世相を目の当たりにして、周青年の失望は大きかった。周青年の胸には、「人間社会の余計なこととは、かかわらないほうがいい」という考えが、時としてよぎることもあったという。しかし、それではいけない、と。煩悶しながら、道を求め、周青年は「人類との関係を断ってはならない。自分と縁あるものを、一つ一つ大切にし、決して断絶してはならない」との決意を固めていくのであります。
 諸君も、ひとりよがりの自己満足ではいけない。一人で勝手に生きるのでは何の意義もない人生である。
8  ともあれ、生ある限り、全身全霊、民衆のために戦い続ける――これこそが、周総理と鄧穎超夫人の一生を貫いた大哲学であったと私は信じるものであります。(拍手)
 一九五五年、人類史上、初めて、アジア・アフリカ大陸の会議が開かれました。この歴史的な「バンドン会議」を大成功に導いたのも、金剛の信念に裏打ちされた周総理の人間外交のリーダーシップであります。
 席上、総理は、高らかに呼びかけられました。「すべての人間から苦しみをなくすということを、共通の了解にしようではありませんか! そうすれば、我々は、互いに理解し、尊重しあうことができるでしょう」と。
 そして、見事に、第三世界の連帯を築いていかれたのであります。有名な歴史であります。
9  忘れ得ぬ周総理との会見
 私は今、周総理とお会いした、二十四年前(一九七四年)のあの十二月五日の忘れ得ぬ夜を思い起こします。
 周総理は、強く私の手を握り、千年先まで見通すような鋭い、それでいて柔和な、何とも言えない眼差しで、私の目をじっと、ご覧になっておりました。
 総理は言われました。「池田先生は二度目の訪中ですね。六月にいらっしゃった時には、病気がひどい時分で、お会いできませんでした。今回は、どうしても、お会いしたいと思いました。お会いできてうれしいです」と。
 この時の会見記録は、克明に残っております。後世のために、その一端を紹介させていただきたい。
 周総理は、すべての経緯をご存じの様子で、こう語られました。
 「これまで中国にこられた人たちが、池田先生への尊敬を込めて、私に言っておりました。″私たちの訪中は、池田先生から『中国と友好を結ぶように』という指導があったからです。中日国交への努力は、池田先生の指導の賜です″と、私は聞いております。
 創価学会は、中日友好に尽力されました。これは、私たちの共通の願望です。ともに努力していきましょう! 中日平和友好条約の早期締結を希望します!」と。
 政治家でもない私に、そう言われたのである。さらに、総理は、地球全体を展望するかのような表情で、「二十世紀の最後の二十五年間が、世界にとって最も大事な時期です。全世界は、平等に、お互いに立場を尊重しあいながら、仲良くしていくべきです。励まし合っていくべきです」と、三十歳年下の私に、後事を託すがごとく語ってくださったのであります。
10  中国は日本に文化を教えてくれた「師匠」の国であり、「父」「兄」の国であります。その大恩を忘れて、侵略し、略奪し、苦しめきった歴史は、どんなに懺悔してもしきれない。
 日本の権力の魔性は、心が小さく、ねじれ、いばり、人をいじめる。諸君は絶対に、そういう人間になってはならない。
 生涯、心から中国の方々を尊敬し、大切にし、尽くしていく。そういう人間であっていただきたい。(拍手)
11  日中の青年が連帯を! 総理の「平和の悲願」を継いで
 両国の「平和友好条約二十周年」の佳節を祝して、本日、先ほど江沢民主席が、中国の国家元首として史上初めて日本を公式訪問されました。
 民衆を代表し、そして青年を代表し、私たちは心から歓迎申し上げるものであります。(拍手)
 江主席は、昨年、ハーバード大学での名講演で、語られました。
 「太陽の光が七色の色彩を持つように、世界もまた、さまざまな色を放っている。すべての国家、民族は、皆、自らの歴史、文化、伝統を持ち、それぞれに長所をもっている。ゆえに、相互に尊重し、相互に学び合い、相互に補い合い、ともに進歩していかねばならない」と。
 重大な指摘であります。
 私は、三十年前、あの学生部総会での「日中提言」で、中国と日本の青年の連帯が軸となって、アジアの民衆の幸福に尽力すべきことを訴えました。
 両国の教育・文化の交流を一段と強く推進し、これからの世界の安定と繁栄に貢献していくことが、私どもの願いであり、決心なのであります。
 結びに、周総理から、しかと託された「南開精神」を、私は、いよいよたぎらせながら、二十世紀の重要な総仕上げを、諸君とともに晴れ晴れと飾りたい。
 そして平和の七色の虹かかる「二十一世紀の新たな人類史」へ、学長ご一行ならびに両国の若き知性のリーダーとともに出発しゆくことを、ここに約し合って、私の感謝のスピーチを終わります。
 謝謝(シェシェ)!
 (創価国際友好会館)

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