Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第27回本部幹部会 指導者は「民衆に仕える」のが使命

1998.10.22 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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1  われらは人間主義の世界
 懇談的に、お話ししたい。皆が、ほっとして、楽になるように話をしてさし上げたい――私は、いつも、そう思っている。緊張、緊張では、皆が、かわいそうである。
 学会には型にはめるような形式は、まったく必要ない。自然でいいし、自由奔放でいいのである。それが、我らの人間主義の世界である。
 少し前に、連絡が入った。私は現在、世界から五十五の「名誉博士号」「名誉教授」の称号をいただいている。それが今回、新たに中国・西北大学の名誉教授にも決定した旨の通知があった(=授与式は二〇〇一年四月三日、創価大学・創価女子短期大学の入学式に引き続いて行われた)。是で、決定した分を含めて七十一となった。(拍手)
 皆さまの「代表」としての受章であるゆえに、謹んで、ご報告申し上げたい。皆さまが受章されたと同じ意義だからである。(拍手)
2  トインビー博士との語らいの思い出
 きょう十月二十二日は、トインビー博士の命日である。一九七五年(昭和五十年)に八十六歳で逝去された。
 博士と私の対談は、七二年と翌年、あわせて約十日間にわたって行われた。博士も本当に喜んでくださった。
 毎日、朝から夕方まで、真剣に語り合った。
 午後には「ティータイム」。秘書の方がそっとお菓子をもってこられて、博士ご夫妻とともに和やかに過ごしたことが懐かしい。
 歩きながらでも対話である。ある日、博士のアパートの玄関のところで、博士が言われた。「あなたは必ず世界から名誉博士号を受けるでしょう。私以上に、たくさん受けるかもしれません」と。今も鮮明に覚えている。
3  万般の問題を論じ合ったなかで、博士が、ひときわ声を厳しくした場面があった。それは、「ヒトラーによるホロコースト(ユダヤ民族虐殺)」が話題となったときである。
 ヒトラーが猛威を振るっていたころ、トインビー博士は、イギリスの「王立国際問題研究所」で、国際事情に関する執筆をしておられた。研究所から示された条件は、調査は科学的に、「感情をまじえない」「一党一派に偏しない」「公平無私でなければならない」ということであった。
 「ところが」――と博士は言われた。
 「ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。もし、このユダヤ人大量虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情をまじえずに書いたとしたら、それはこの虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。道義的な問題を無視して、ユダヤ人虐殺を黙認したことになってしまうからです」と。
 ゆえに博士は、怒りをもってナチスの悪を糾弾した。
 悪は悪である! そう叫ぶのが本当の人間性である。本当の慈悲である。
 博士は「これが、私にとっての中道でした」とも語っておられた。「中道」とは「人間主義」ということである。
 偉大な博士であられた。時がたてばたつほど、そのことがよくわかる。
4  悪との「戦い」なくして「文明なし」
 なぜ人類はナチスの暴虐を許してしまったのか。その「教訓」を博士はこう語る。
 「文明は決してほうっておいても大丈夫なものと思ってはならない。文明を維持するには、はてしのない監視と絶えまのない精神的努力とが必要である」(『交遊録』長谷川松治訳、社会思想社刊)
 つまり、ヒトラーのような悪に引きつけられる″素質″が、人間自身の中にある。だから、自然そのままではいけない。ほうっておいてはいけない。悪い人間がいないか、「監視」しなければいけない。そういう「努力」「戦い」がなければ文明は維持できない。文明の成長もない。――これが博士の結論であった。
 ゆえに大事なのは、「自分の意見を、堂々と言い切っていく勇気をもて!」「思ったことは、何でも遠慮なく言い合っていけ!」「悪と戦うことを、ためらってはいけない!」ということである。
 そこに健全な文明が維持されるというのが、今世紀最大の歴史学者の叫びであった。
 この一点からも、創価学会の前進の姿は正しいと申し上げたい。(拍手)
5  トインビー博士は、こうも言われた。
 「人間の魂はいずれも、善と悪とが支配権を争って絶えず戦っている、精神的戦場である」(同前)
 善と悪が戦う戦場――これが人間の心である、と。
 仏法にも通ずる洞察である。
 「永遠に、仏と魔の闘争である」と仏法は説く。ゆえに勝たねばならない。魔に負けてしまっては、信心ではない。「勝つための信心」である。
6  ″悪と対決″してこそ真の宗教
 博士と私は語り合った。「新しい文明を生み出し、それを支えていく未来の宗教」は、いかなる宗教か――。
 博士は言われた。
 「人類の生存を、今、深刻に脅かしている諸悪(=『貪欲』や『戦争』や『社会的不公正』といった悪)と対決し、これらを克服する力を人類に与えるものでなければならない」(『二十一世紀への対話』本全集第3巻収録)と。
 これが博士の待望する宗教であった。
 悪と対決せよ、悪とは断じて妥協するな、悪に打ち勝て! そういう宗教が、「新しい文明」をつくるのである。
 博士は創価学会の「理念」と「行動」に注目された。「第三文明」を標榜する私どもの運動に。
 そして、私に、博士のほうから対談を希望された。「大乗仏教を本当に実践している池田さんと、ぜひお会いしたい」と。
 私は若く、また、いつも偏見による攻撃を受けていた。しかし、世界の最高峰の哲学者、歴史家は、正視眼で見てくださっていた。
 最も正しく、最も必要とされる「二十一世紀の世界宗教」は創価学会である。私どもは、その大確信で進んでまいりたい。(拍手)
7  トインビー博士は、ローマの詩人・ルクレティウスの言葉をあげておられる。
 「人間を見るのには危険に臨んでいるときの方が都合がよい。逆境にあるときの方が、どんな人物かよくわかる。そういうときにこそ真実の声が胸の底からほとばしり出、仮面ははぎとられて、正体が残るからである」(前掲『交遊録』)
8  激動のなかでこそ人間の真価がわかる
 今、二十一世紀も、もうすぐである。激動の過渡期にあって、「本物」と「にせもの」が、ふるいにかけられている。悪い人間は残してはいけない。
 日蓮大聖人も「悪い弟子をたくわえてはならない」「悪友に近づくな」と強く仰せだからである。
 また、日興上人は五老僧を義絶された。そうしなければ、「正義」が守れない。大いなる広布の道も開けないからである。
 すべてに意味がある。歴史は、目先にとらわれず、長い目で見なければ、わからない。トインビー博士も、そういう見方であった。
 人間も、嵐のなか、大変な時にこそ、「悪い人間」「卑しい人間」「信心のない人間」が、だんだんはっきりしてくる。そういう人間は、清浄な学会から出ていかざるをえなくなる。そのほうがいいのである。
 ゆえに我らは、晴れ晴れと胸を張り、仏の軍勢として前進しましょう!(拍手)
9  この秋、全国各地で、後継の頼もしき若人たちが、盛大に「大文化祭」「大音楽祭」を行っている。先日は、宮城や新潟などで「音楽祭」が、見事な大成功で飾られた。本当におめでとう! ご苦労さま!(拍手)
 またこれからも、続々と開催される予定になっている。不景気で、元気のない世の中にあって、青年が自主的に集い、「希望」の祭典を開催していく。すごい創価学会である。皆で大成功を祈りたい。(拍手)
 さらに、中部では、世界の同志が注目する第十八回の「世界青年平和文化祭」が開催される。また、ここ第二東京でも、「大文化祭」が行われる。 本当におめでとう!(拍手)
 各地の活躍の模様も、よくうかがっている。
 奈良国際友好会館が「奈良市建築文化賞」の「景観賞」を受賞したのをはじめ、スポーツや音楽など文化運動でも、うれしい話題が届いている。
 また、全国各地で、同志の皆さまの活躍が続いている。「本当におめでとう」と、重ねて拍手を送りたい。(拍手)
10  さらに、スピーチを続けさせていただきたい。法華経寿量品にも、「未曾暫廃(いまだかつて、しばらくも廃せず)」と書かれてあるから――。
 本日は、アメリカ広布の偉大な″母″である「パイオニア・グループ」の皆さまが、はるばるお越しくださった。ようこそ、いらっしゃいました!サンキュー・ソー・マッチ!(拍手)
 草創以来の懐かしい方々である。異国の地で、本当に、よく頑張ってこられた。
 また、創価の″花″である芸術部の「ヤングパワー」の皆さま、結成三十周年、おめでとう!(拍手)
 芸術部の方が来ると、どこでも会場がいっぱいになる(笑い)。どんな幹部もかなわない(笑い)。だれよりも皆を喜ばせて、広宣流布を前進させてくださっている。芸術部の皆さま、ありがとう!(拍手)
11  御本仏は城聖の信心をご称讃
 日蓮大聖人は、女性を誉め称えた御書を、たくさん遺された。
 真剣に信心に励む女性。けなげに信心を貫く未亡人。大聖人は、いつも「素晴らしいことです」「ありがたいことです」と、賛嘆され続けた。
 男尊女卑的な当時にあって、「男女はきらふべからず(=男女の差別があってはならない)」と同権を主張なされた。
 ある女性には、こうおっしゃっている。佐渡に流されていた大聖人のもとへ、はるばる訪れた「乙御前の母」へのお便りである。日妙聖人のこととされている。
 「これまで・ながされ候いける事は・さる事にて御心ざしの・あらわるべきにや・ありけんと・ありがたくのみをぼへ候」――日蓮が佐渡に流されたのは、わけあってのことですが、(女性の身で、佐渡まで足を運んでくださったあなたの姿にふれると、私が佐渡に流されたのは)″あなたの厚い御志があらわれるためであったのか″と、ただありがたく思うばかりです――。
 ″あなたの信心が、どれほど素晴らしいか――その素晴らしさが現れるために、私は佐渡に流されたのでしょう″″よくぞ、ここまで来てくださった! ただただ、ありがたい。決して忘れませんよ″″生々世々、永遠に幸せになることは間違いありませんよ″との御心であると思う。非常に意味の深い御文である。
12  難があるからこそ、本当の信心ができる。じつは、ありがたいことなのである。
 そして創価学会こそが、経文と御書に仰せの通り、「三障四魔」と戦ってきた。学会こそが、本物の「広宣流布の団体」である証拠である。仏敵から迫害されている人こそが本物なのである。
 ともあれ、学会も、難があるたびに、「婦人部の勇気」が光っていた。けなげというか、信心強盛というか、度胸があるというか(笑い)、御書に燦然と輝く「女性の勇気」そのままである。(拍手)どんなに男性が、いばってみせても、戦った功徳は、戦った女性のものであると申し上げておきたい。(拍手)
 二十一世紀は、世界的にも「女性の世紀」である。どうか皆さまのお力で、「創価女性の世紀」と輝かせていただきたい。(拍手)
13  「哲学の大王者」「精神の大王者」として前進
 恩師・戸田先生は、言われた。
 「仏法のうえから論じ、国法のうえから論じ、世法のうえから論じて、堂々たる行動を行うのだから、創価学会は、なにびとたりとも恐れない会である」(昭和三十一年〈一九五六年〉三月三十一日、東京・豊島公会堂での本部幹部会)と。
 ″何も恐れない会″、それが創価学会である。
 初代会長は獄死。二代、三代も、投獄。これだけの悪口罵詈、大弾圧を乗り越え、勝ち越えてきた学会である。盤石の学会である。
 わが創価学会は、何ものも恐れず、永遠に「哲学の大王者」「精神の大王者」、そして「勝利者の中の大勝利者」「栄光の大勝利者」として、威風堂々と前進しましょう!(拍手)
 「精神の宝石」である箴言を贈りたい。中国の文豪・魯迅の言葉である。
 「最後の勝利は、『永遠に進撃を続ける人』が多いか少ないかで決まる」
 私どもは「永遠に進撃を続ける」。ゆえに必ず「最後の勝利」を勝ちとれる。(拍手)
14  エイルウィン前大統領「人生は奉仕するためにある」
 チリ共和国のエイルウィン前大統領は、「哲人政治家」として世界的に知られている。
 スケールの大きな指導者であられる。私も親しくさせていただいている。
 チリを訪問した折(一九九三年)、荘重な大統領府(モネダ宮殿)で語り合った。背が高く、ものごしの柔らかな紳士であられる。
 はじめてお会いしたのは東京(九二年十一月)。その時は、短時間の出会いであったが、信念は共鳴し、「対談集」を編みたいという話になった。
 完成した『太平洋の旭日』(九七年十g圧、河出書房新社)は、少々、表現が難しいところもあるかもしれないが、前大統領も大変に力を入れてつくってくださったものである。
 対談で、前大統領は、「民主主義の信念」を強く、こう語ってくださった。
 ――政治家たるものは、「公共に奉仕する」精神を持っていなければなりません。
 民衆に「奉仕される」ために政治家がいるのではなく、民衆に「奉仕する」ためにいるのです。
 政治家に限らず、すべての人は自分に問うべきです。「自分の人生は、なんのためにあるのか?」と。
 遊ぶためか、欲望を満たすためか、それとも、人々に奉仕するために、今、ここにいるのか?
 私の答えは、明快です。私たちは″仕えてもらうため″にいるのではなく、″仕えるため″に、いるのです!――。
 こう言われたのである。これが学会精神でもある。
 指導者は、民衆に仕えてこそ指導者である。「人にやらせよう。自分は楽をしよう」と思ったら指導者失格である。とんでもないことだ。
 「民衆への奉仕」こそ、学会の永遠の哲学であると申し上げたい。(拍手)
15  人格の鍛えがないと権力は腐敗
 前大統領は、こうも言われた。
 「権力は人々を『善』に近づけるためにあります。『悪』に近づけるためではありません」(前掲『太平洋の旭日』以下、引用は同書から)
 権力は、善いことをするための「手段」にすぎない。「道具」にすぎない。それなのに、権力それ自体を「目的」にするから、理想が捨てられてしまうのだ、と論じておられる。
 権力は、なぜ腐敗するのか? エイルウィン氏は言う。
 ――権力は、特権を与えます。「閣下」とか「先生」と呼ばれて、特別扱いを受ける。日常生活でも、いちばんいい位置を占め、特別なサービスや恩恵を受けて、多くの人が、もてはやしてくれる。一方、自分に不利な事実や情報は、隠されたり、歪曲して自分に伝えられる。それで、自尊心をくすぐられたり、虚栄心をあおられたりするのです――と。
 権力者は、おせじを使われて、耳ざわりのよいことしか聞かされない。だから厳しく言う人がいないと、自分で自分がわからなくなってしまう。自分は偉いと錯覚してしまう。
 「もし政治家が人間としての謙虚さや人格的な強さをもっていないときには、このような環境におかれることにより、本来の大きな理想をなおざりにしたり、忘れてしまったり、また確固たる信念を揺るがしかねないのです」と。
 だから指導者には、「人間として」自分を高める″何か″が必要なのである。世界では、信仰をもった政治家が歴史に残る活躍をしている理由も、そこにある。
 氏は嘆く。「不幸にも、権力というものは、必然的に、おごりや堕落、権威主義をもたらすものなのです」(同前)と。氏は「権力の魔性」を見抜いておられる。
16  では、どうすればよいのか? こういう結論になった。
 「あなたが適切におっしゃっているように、民衆自身が強く、賢明にならねばなりません」そして「個々が、一人一人がかかわっている事柄へ大いなる関心をもち、参加することです」と。
 民衆よ、賢くなれ! 権力を監視せよ! 悪を告発せよ! 遠慮してはならない! ということである。
 前大統領ご自身が、この信念で軍事政権と戦い、民主主義を勝ち取ってこられた。
 国民が政治家を監視し、注文をつけ、意見を言い、意見を反映させていくのが民主主義である。国民に何も言わせないというのは独裁政治である。
 我らは、この「民主主義の正道」を堂々と歩んでいきましょう!(拍手)
17  周総理夫妻「私たちは人民の雑用係」
 周恩来総理は、言った。
 「人間には、『どの階級の出身か』といったことよりも、もっと重要なことがある。最も大切なのは『民衆の側に立っているのか、それとも民衆を抑圧する側に立っているのか』。この一点である」(西園寺公一氏の『回想録』から)
 まことに明快である。
18  日本においても、家柄がどう、どこの地方出身だ、どこの学校を出た――そんなことを気にする人がいる。どんな出身であろうと、人間の価値に、まったく関係ない。
 学校に行けなかった人でも、偉くなった人は、たくさんいる。大事なのは「人間として」どうかである。「何をしたのか」である。
 むしろ、名もなく、学歴もない庶民の中にこそ、きれいな心の人が、いっぱいいる。体が悪い人、学校に行けなかった人に、人間として美しい人が多いものである。反対に、″いい学校″を出た″頭のいい″人が、悪いことをしている場合が多々あるのではないだろうか。
 周総理も、夫人の鄧穎超とうえいちょうさんも、徹底して民衆の側に立った。苦しんでいる人に寄りそって、生き抜かれた。だから偉大なのである。
 ″我は人民の雑用係なり″――これが、お二人の信念であった。政治家は、指導者は、そうあらねばならない、と。今は、まったく正反対の指導者が多くなってしまった。
19  ある時、鄧穎超さんは、冤罪に問われて大変な苦難に立たされていた一人の女性を、こう励ました。(『鄧穎超革命活動七十年大事記』中国婦女出版社。一九九〇年二月発刊から)
 冤罪――ぬれぎぬの罪。これほど腹立たしく、つらいものはない。
 「試練に耐え、信念を堅持していきなさい。闘争を経て、さらに強くなっていくのです。これからは、何かあったら、自分の思っていることを、どしどし言い切っていきなさい。そういう精神を貫いていくことが尊いのです。闘争を乗り越えてこそ、心も、体も鍛えられる。また、悪いことも良いほうに変えていける。だから私は、苦難を受けているあなたに″おめでとう!″と言います」
 何と強き信念か。
 「自分の思っていることを、どしどし言う」――沈黙してはいけない。悪を見て、黙って見ているのは、悪を助けることになる。大いに声をあげていくべきである。
20  また鄧穎超さんは、亡くなる三年前、後継の青年たちに、こう訴えた。
 「これまで為したことに対して、傲慢になったり、いい気になったりしてはいけない!」
 重大な発言である。
 「困難を前にして、臆病になったり、委縮してはいけない! 理想と志と気力のある、『強靭で不屈の人材』へと自分自身を鍛えていきなさい!」
 後継の青年部諸君も、よくよく、この言葉をかみしめていただきたい。
21  権力を持つと、自分が「何でもできる」ような気になってくる。そのうち、「何をしてもいい」ような気になってくる。これが「権力の魔性」である。
 しかし、いかなる権力も「死」の前には、まったく無力である。ゆえに、生死の問題を解決した仏法には、結局、かなわないのである。
 四百年前のスペイン王・フェリペ三世は、臨終を前にして言った。
 「ああ、王になんか、なるんじゃなかった! むしろ『神様と、ふたりだけで』暮らせばよかった!」
 ――信仰ひとすじに生きればよかった、という後悔である。
 「そうすれば、どんなに安心して死ねただろう。どんなに自信にあふれて、神様のもとへ行けただろう! ああ、今、これほど苦しんで死んでいくのに、王としての栄光など、いったい何の役に立つのか!」(ジョナソン・グリーン編『最後の言葉 聖者から死刑囚まで』刈田元司・植靖夫訳、社会思想社。趣意)
 厳粛な「死」を前にした、悲痛な叫びである。人間の本当の叫びである。″「権力の蜜」に酔っている間に、ちゃんと信仰しておけばよかった!″と。しかし、後悔しても、もう遅かった。
22  日蓮大聖人は仰せである。
 「生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり」――人間の一生は、あっという間に終わる。思えば、この世は(三世の旅路のうち)一晩だけ泊まる『仮の宿』である。それを忘れて、どれほどの名声と利益を得ようというのか。また、得たとしても、はかない『夢の中の栄え』であり、どうということもない楽しみである――。
 ゆえに「三世永遠」のために、わが生命を磨くことが、「いちばんの幸福」であり、「最高の財産」なのである。
23  「正義の人」の死は安らかである。
 フランスの有名な騎士バヤール(十五〜十六世紀のフランスの軍人。豪胆ぶりから「恐れを知らぬ騎士」と称された)は、戦いで重傷を負ったが、敵の元帥が彼を哀れんでいるのを見て、言った。
 「元帥閣下! 私は死んでいきます。しかし、私には嘆くことなど、一つもありません。なぜなら、私は『有徳の騎士』として死んでいくのですから。それにひきかえ、あなたは、あなたの王を裏切り、祖国を裏切り、誓いを裏切った。私こそ、あなたに同情いたします。哀れなのは、閣下のほうです!」(ロベール・サバチエ『死の辞典』読売新聞社。趣意)
 裏切りの人間に、ろくな死に方はできない、ということであろう。″哀れな人間は、あなたです!″と。「正義の人」の心は、安らかである。
 そして「正義の中の正義」は広宣流布である。
 「広宣流布を裏切った」人間は、「大聖人を裏切った」のであり、御書に照らして、仏罰は厳然である。それと反対に、皆さまは、世界第一に「富める者」であられる。永遠に晴れやかな「生と死」を楽しんでいける方々である。
 どうか、これからも異体同心の団結で、悠々と、朗らかに、晴れがましく、「創価の騎士」として前進しましょう! 戦っていきましょう!(拍手)
24  あたたかく美しい言葉で語れ
 最後に、韓国の名言を贈らせていただきたい。
 「功を積みし塔は崩れず」(十七世紀の随筆集『旬五志じゅんごし』にある言葉)
 つまり「精魂を込めて築いた塔――事業は、永遠に崩れない」という意味である。
 創価学会も同じである。一つ一つに、精魂をこめてある。ゆえに崩れない。
 もう一つ。
 「往く言葉が美しくして、来る言葉が美しい」
 「こちらから語りかける言葉が美しいと、相手から返ってくる言葉も美しい」ということである。
 どうか、「後輩に対して、友に対して、温かく『美しい言葉』で語ってください」とお願いし、きょうの私の話を終わります。(拍手)
 長時間、ありがとう! 寒くなってきましたので、風邪など、ひかれませんように!
 (東京牧口記念会館)

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