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日蓮大聖人・池田大作

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第26回本部幹部会 われらは幸福!「無限の希望」を持つから

1998.9.22 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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1  第三の千年は「女性の時代」「庶民の時代」
 ひとつ、提案申し上げたい。きょうは、海外の五十カ国から、はるばるとSGI(創価学会インタナショナル)の友が来ておられる。
 皆さまのお名前とお国を、創価大学の本部棟(一九九九年五月に完成)の最も良き場所に、永久に残したいと思うが、どうだろうか。(賛同と喜びの大拍手)
2  アルゼンチンのエスキベル博士(人権活動家 ノーベル平和賞受賞者)が言われていた。(博士とは、一九九五年十二月、東京で会談)
 「第三の千年は、かならず女性の時代になります。絶対に時代は変わります!」と。
 また「これからは精神性をもった庶民の時代になるでしょう。そうならなければいけない」と。
 いばった男性や権力者、有名人、権威的な学者――そういう人間が社会を動かす時代は終わった、と。「女性の時代」「民衆の時代」にならなければ、世界は、地球は行き詰まってしまうというお考えであろう。その通りだと私は思う。(拍手)
 (このあと万歳三唱。表彰、創価グロリア吹奏楽団の「学会歌メドレー」に続いて、SGIメンバー約二百五十人が「二十一世紀のマーチ」を英語で合唱した)
 ありがとう! ありがとう!
 こんなに、にぎやかで、元気な世界が、ほかにあるだろうか。創価学会は、すごい団体である。それは、民衆の団体だからである。最も賢明な庶民の団体なのである。(拍手)
3  迅速に、誠実に、友のもとへ!
 先日、兵庫のドクター部長をされている方から、さわやかな報告が寄せられた。
 それは、今月十五日、関西ドクター部の皆さんが、東京での「ドクター部総会」(創価国際友好会館)に参加された後、新幹線で帰る際の出来事である。
 新幹線の車中で、一人の女の子が遊んでいて、ケガをしてしまった。出血量が多く、大変に心配な事態となってしまった。車内放送が響いてきた。
 「どなたか、お医者さまは、いらっしゃいませんか? 子どもさんがケガをしています。十号車の車掌まで、ご連絡ください」
 その時、関西ドクター部の皆さんは、互いに離れて座っていた。しかし、一、二分後には、関西ドクター部長(創価学園出身)をはじめ、八人のお医者さんたちが、皆、ぱっと現場に駆けつけた。
 そして、大阪ドクター部で外科医、兵庫ドクター部で小児科医、奈良ドクター部で整形外科医の先生方が中心となって、それぞれの専門を生かしながら、手際よく治療した。見事なチームワークであったという。
 女の子のお母さんは、はじめ、不安でたまらない様子であったが、だんだんと安心した顔に変わっていった。お母さんは、これほど多くの医者が即座に駆けつけてくれたことに、大変、驚いていたという。たしかに、めったにないことかもしれない。
 無事に治療が終わり、ドクター部の皆さんが、それぞれ座席に戻ると、再び、車内放送があった。
 「ありがとうございました。先ほどの子どもさんは、お医者さまに診ていただくことができました。このまま、京都までの旅行を続けられることになりました。ご安心ください」――こういう放送であった。(拍手)
 この報告をうかがって、私は感動した。そのスピード! 連携の良さ! さすが、関西! さすが、ドクター部! こう思った。(拍手)
 そのすがすがしい報告には、さらにこうあった。
 「″お医者さま″と言われると照れくさいですが、われわれ関西ドクター部は、文化祭や、阪神大震災直後の救護などで、多くの訓練を受けることができましたので、今回も、素早い役割分担で、社会のお役に立つことができました」と。
 訓練が大事である。訓練を受けてきた人は強い。崩れない。兵庫ドクター部長の結論も、「学会活動の薫陶以上に、偉大なものはない!」ということであろう。
 今は、仏法で説く「五濁悪世」――本当に悪い世の中である。
 そのなかで、だれよりも輝いて、国を救い、民を救うのは、地涌の菩薩しかない、というのが法華経に説かれた約束である。それが、日蓮大聖人の御書の根幹をなす教えである。
 では、地涌の菩薩とは、だれか――それがじつは、広宣流布をなしている創価学会員の皆さまなのである。これほど尊い存在はない。御書に仰せの通り、神々しい方々なのである。
 絶対に軽く見てはならない。下に見てはならない。そういう増上慢の人間は、必ず仏罰を受ける。それが法華経の教えである。
4  世界的な″行動する未来学者″の女性、ヘンダーソン博士は、こう語っておられた。
 「創価学会の皆さまと一緒に、″民衆に奉仕するリーダーシップ″の道を歩めることが、とてもうれしい!」と。
 「民衆に奉仕するリーダーシップ」とは、まことに至言である。
 これまでの人間の歴史は、「民衆に奉仕させるリーダーシップ」だけが横行していた。ここに、今の日本の根本的な狂いもある。
 そうではなく、「民衆に奉仕する」行動こそ、二十一世紀の指導者の柱であらねばならない。そして、これを推し進めているのが、わが創価学会であると言い切っておきたい。(拍手)
5  信仰は限りない向上の力
 きょうの日に何があったか。終戦後、昭和二十年(一九四五年)の九月二十二日。戸田先生が出獄されてから、二カ月半たっていた。
 師匠の牧口先生は、すでにいない。学会の組織は全滅。戸田先生の事業も多額の借金。焼け野原。社会も殺伐。生きる糧も、生きる柱もない。荒れ果てた、乱れきった時代であった。
 その最大の苦境のなかで、戸田先生は、この九月二十二日、ご自身のノートに、こう厳然と記されたのである。
 「南無妙法蓮華経の信仰は、向上を意味する。無限の向上である。朝に今日一日の伸びんことを思い、勇躍して今日一日を楽しむ。しかして無限に向上して行く」
 「まだまだ、その上へその上へと向上して行く法である」
 きょう一日、自分はぐんぐん成長しよう。生き生きと生きよう。楽しんで生きよう。無限に向上していくのが信仰なんだ。南無妙法蓮華経なんだ――そういう先生の大確信であった。
 皆が絶望し、何の希望も見えない時代。その時に、戸田先生は一人、戦いを開始された。
 「お金もない。何もない。しかし、妙法がある! 皆に『無限の希望』の妙法を与えよう! 『宇宙の宝』の妙法を与えよう! これ以上の宝はないのだから! そのために、勇気を出して、自分は戦闘を開始しよう!」――そういう思いで。
 人生、何かを始めなければいけない。やるんだか、やらないんだか――すぐに舞台の裏に隠れてしまうような、そんな人生ではつまらない。
 わが「使命の舞台」に、さっそうと立ち、「さあ、やるぞ!」「何かをやってみせるぞ!」「観客に感銘を与えてみせるぞ!」――こういう人生でありたいと思うが、どうだろうか。(拍手)
6  恩師の叫び「まず″一人の人″を救うのだ」
 戸田先生は考えた。どうしていこうか。会場もない。お金もない。なんにもない……そうだ! 「膝づめの対話」でやろう! こう決められた。
 これが知恵である。慈悲である。
 一人一人、悩める人に耳を傾けながら、徹底して「この一人を幸せにしよう!」「妙法を教えてあげよう!」――そこに執念を燃やされた。「大事なのは、たくさんの人ではない。『一人』だ!」と。
 あるとき、戸田先生は、経済苦で悩む人を、ユーモアを込めながら、こう激励された。
 「今に必ず幸せになる! 心配しなくてもいいよ。必ずなるんだから。
 仏に仕えた功徳は大きい。必要なときには、どっと功徳が出てくるんだ。
 ちょうど水道の蛇口のようなものだ。ふだんは、余計なお金は使えないように、蛇口が閉まっている(笑い)。必要なときに、その蛇口を開ければいいんだ。そういう功徳あふれる自分の生命にかならずなっていくんだよ」と。
 また、ある人には、先生は、こう教えられた。
 「この仏法は、どんなことがあっても、最後は、幸せで幸せで困るような境涯になることが決まっているんだ。それが、すぐに良くなってしまったら、もう死ななければいけないことになる(笑い)。若いうちには、うんと苦労したほうがいい。
 最後に、絶対に、『幸福でたまらない境涯』『楽しくてたまらない境涯』になる。そういう人生を飾っていくのが、この妙法なんだ。学会活動の功徳なんだ」
 事実、その通りになっている。この五十一年間、数かぎりない体験を私は見てきた。最後は「幸せで困るような境涯」に必ずなる。だから、苦労しているうちは死なないから大丈夫(笑い)。
 何不自由なくなってきたら、そろそろ危ない(爆笑)。悩んでいるうちは安心だ(爆笑)。
 苦労があるから、それを乗り越えて喜びがある。信心で苦労を乗り越えるから、福運は盤石に固まっていく。人間もできていく。
 苦労もなく、努力もなく、祈れば何でも即座に、ぱっ、ぱっと叶う。それでは、いいように見えて、毎日、砂糖ばかりなめているようなものである(笑い)。
 それでは人間ができない。本当に深い信仰もわからない。だから苦労したほうがいいのである。特に青年は。作家の吉川英治氏が、ある裕福な青年に語った。
 「君は不幸だ。早くから、おいしいものを食べすぎ、美しいものを見すぎているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとして感じる感受性が薄れていくということは、青年として気の毒なことだ」(『吉川英治とわたし』〈復刻版吉川英治全集月報〉講談社)
 学会のおかげで偉くなりながら、学会を裏切り、同志を裏切り、転落していった人間も、皆、広布の苦労を避けて、ぜいたくな暮らしを追い求めていた。その末路は悲惨である。
 戸田先生が「学会を裏切って、まともな死に方をするわけがない。断じて仏罰を受ける!」と厳しく言われていた通りである。
 反対に、「広布のための苦労」は、後になればなるほど輝き、自身の「財宝」となる。自身と一家一族の「永遠の幸福」につながっていくのである。
7  「行動なき仏法」はない
 日蓮大聖人は仰せである。
 「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり
 ″妙法を唱える以上の幸福はない″との御断言である。これを心から確信していただきたい。
 その妙法とは――御義口伝には、こう仰せである。
 「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり
 我が身それ自体が「妙法」であり、一つの宇宙であると仏法は説く。眼は太陽と月。髪は星。では「小便は?」(爆笑)。そういう汚いことを聞く人がいたら、それは「温泉」(爆笑)。では「大便は?」(爆笑)。そういう下品なことを聞く人には「それは溶岩」(爆笑)と答えればいい。
 ともあれ、「妙」は仏界、「法」は九界。生命と宇宙の全体が「妙法」である。
 そこで「足は経なり」と。すなわち行動である。「行動」なくして仏法はない。
 きょう、こうして皆さまが集われたのも行動。折伏も行動である。
 行動なき人間の言葉は、どんなに立派そうでも、聞く価値がない。それは観念の言葉である。厳しくいえば、法盗人なのである。「行動の人」こそがいちばん尊いのである。
8  先の大戦で日本は敗戦した。今、「第二の敗戦」と言われる。経済も不況。景気の厳しさは深刻である。その他の面も行き詰まっている。
 ある人が言っていた。「今、勢いよく、景気よく進んでいるのは創価学会だけですね」と。(拍手)
 妙法の「妙」には「開く義」がある。また「具足・円満の義」「蘇生の義」などの意義がある。生命の「最高の力」を引き出すのが妙法なのである。
 戸田先生の時代と同じような、厳しい「第二の敗戦」の今日。皆に「自信」を与える! 「勇気」を与える! 「希望」を与える! それには妙法しかない。創価学会しかない。(拍手)
9  私に世界から贈られた「名誉博士」「名誉教授」等の栄誉は五十五となった。決定したものを含めると六十を優に超える。(=二〇〇一年八月現在、一〇八に)
 皆さまの「代表」としての栄誉である。世界が皆さまを称賛しているのである。この事実を誇りにしていただきたい。(拍手)この福徳は皆さまにも、皆さまの子孫にも流れ通っていくにちがいない。(拍手)
 各地での同志の皆さまの活躍、大勝利の知らせが、続々と届いている。全国の皆さま、おめでとう! ご苦労さま!(拍手)
10  勇者は恐れず、智者は惑わず
 「精神の充実」のために、もう少し、語っておきたい。
 「屹然として中流の□柱しちゅうの若し、たのむ所有りて恐れず」
 何を言っているのか、さっぱりわからない人もいるかもしれない(笑い)。勉強しなければならない。昔の指導者は、こうした言葉を暗記していたものだ。
 これは、一人立つ勇者の姿を語った言葉である。
 意味は、「黄河の流れの中にそびえ立つ砥柱山しちゅうざんのように毅然と立ち、(大任を与えられても)信念をもって困難を恐れず立ち向かう」ということ。中国・南宋の朱熹しゅき(朱子)の言葉である。
11  「智者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼れず」――知恵ある人は惑わない。真心の人格の人は(私心がないので)晴れやかである。勇気の人は恐れない。
 「論語」の言葉である。そういう人になるための人間革命である。
12  善人に近づけば幸福の軌道に
 「善人と居るは、芝蘭しらんの室に入るが如し」――善人とともにいることは、香り高い草花のある部屋に入るようなものだ。(「孔子家語」)
 「蘭室の友」という言葉もあるが、香りというものは、しらずしらずのうちに人に移っていく。
 素晴らしい人格の人とともにいれば、自然のうちに徳の芳香が体に染みこんでいく。「薫陶」されていく。ゆえに、「善人」と付き合うことが大切である。
 絶対に、悪い人間と付き合ってはならない。信心利用の人間をはじめ、悪を見破っていかねばならない。
13  御書に「悪知識を捨てて善友に親近せよ」と仰せの通りである。
 善友への信義をうたった詩に、次のようなものがある。
 「何をか以て知音に報ぜん、永く堅と貞とを存せん」――何をもって友に報いようか。いつまでも堅固で貞節な心を持ち続けることで報いよう。(唐の孟郊の詩)
 友を裏切り、恩を忘れる人間は、人道から外れた畜生のようなものである。
14  そして、大聖人は仰せである。
 「生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり」――生きている間に難を受けることは、仏法上、しばしばあることであり、聖人・賢人の徳を飾る栄光の花である――。
 難があってこそ正義の人である。
 反対に、見栄を張り、自分だけ、いい子になって、傷つかないように要領を使う――それは悪人である。
 我々は、「難こそ誉れ」「難こそ栄光の花」と進んでまいりたい。(拍手)
15  「広宣流布に戦う人」を仏のごとく大切に
 日蓮大聖人の御義口伝には、「釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり」――釈尊が八年間にわたって説いた法華経を、八文字に留めて、それを末法の衆生に譲り与えられた――と。
 ″法華経の真髄″である、その「八文字」とは何か。
 それは、法華経の最後(普賢品第二十八)に説かれた「当起遠迎。当如敬仏」(開結六七一㌻)の文である。即ち「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」――法華経をたもつ者を見たならば、仏を敬うように、かならず遠くからでも立ち上がって出迎え、敬っていきなさい、という教えである。
 これが法華経の結論であることを、大聖人は「最上第一の相伝」と述べられている。以前にも申し上げたことがある。総じては、「大聖人の仰せのままに広宣流布する人を、仏のごとく大切にせよ」ということである。
 それなのに、社会的に偉くなると、いい気になって、広宣流布している人を見下す人間がいる。お金に信心を破られて、裏切る悪人もいる。すべて、日蓮大聖人の仰せへの師敵対である。許してはならない。
16  小さな会合を大切に
 戸田先生も、この「法華経の根本精神」を常に大切にしておられた。
 ある時は、こう言われた。
 「学会の会合は、たとえ一人でも、二人でも、その人を大切にし、その人のために仏法を説き、感激をもって、真剣に語り合っていくのだ」と。
 牧口先生も同じであられた。
 反対に、小さな座談会や会合を軽視する人間は、慢心があるのである。
17  戸田先生は、座談会を大事にされ、事前に綿密に打ち合わせをされた。
 「司会者は?」「内容は?」「私がこう話すから、あなたはこのように話してあげなさい」等々。
 来た人が、本当に満足できるよう、皆で考え、準備していくことである。この「地道」が「勝利の道」である。いかなる時代になろうと、「基本」をおろそかにしてはならない。
 豪放磊落な先生であったが、小さな会合にも、こういう心の砕きようであった。
 会合中も、絶えず「これでみんな満足するか」と、アンテナを張り巡らされていた。
 「形式などに、とらわれる必要はない。初めて来た人も『本当に楽しい!』『よく、わかった!』と言える雰囲気をつくってもらいたい。そうでないと、かわいそうだ」と、よく言われた。
 少人数の会合こそが、本当の勝負である。
 今、日本の各地で「支部総会」「地区総会」が賑やかに、明るく開催されている。なかには、しかたなく参加している方もおられるかもしれない(笑い)。連れてきた人も偉い(爆笑)。
 十界互具であるから、人間界にも、じつにさまざまな人がいる。その中で、もまれていってこそ大指導者になれるのである。相撲でも横綱になるには、いろんな力士と対戦しなければならない。それと同じである。
 「いちばん地道な活動が、いちばん大事な戦」と決めて戦うことである。そこに、本当の勝利が生まれる。「地道」に徹し、「地道」を粘り強く繰り返しているところが強い。この方程式を忘れないでいただきたい。
18  再び御書を拝したい。
 「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし
 ――日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのようになると(佐渡流罪という大難にあうと)、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような、よこしまな者どもが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不便としか言いようがない――。
19  同志の労苦を裏切る悪人は必ず裁かれる
 このようにも仰せである。
 「出世の恩のみならず世間の恩を蒙りし人も諸人の眼を恐れて口をふさがんためにや心に思はねども・そしるよしをなす」――(日蓮から)仏法上の恩だけではなく、世間的な恩を受けた者でさえも、人々の目を恐れ、その口をふさいで、とやかく言われまいとしてであろうか、自分の心では(日蓮が悪いとは)思っていないけれども、外見では日蓮を謗るそぶりをしている――。
 大聖人は、心の奥の奥まで見ておられる。
 また「御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」――権力による処罰を受けた時、千人のうち九百九十九人は退転してしまった――とも仰せである。
 しかし、皆さま方は何があっても退転されなかった。皆さまは勝ちました! 学会は勝ちました! 大聖人も、きっと賛嘆してくださっているにちがいない。(拍手)
20  大聖人は、すぐ変わる「人の心」の恐ろしさを、その弱さを知り尽くしておられた。そして、門下を、こう強く励まされた。
 「世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」――世間のさまざまな難が来ても、相手になさってはなりません。賢人、聖人であっても、このこと(難を受けること)は逃れられないのです――。
 中傷・非難されるのは、何か悪いことをしているからなのか。いや、そうではない。賢人であっても、聖人であっても、必ず悪く言われる。むしろ、偉大だから迫害されるのである。いちいち、気にしないで、とりあわず、ほうっておきなさい――そういう御心であろうか。
21  大聖人は「極悪の罪人が生み広げた国が、この日本である」とも仰せである。(「佐渡御書」御書九五九ページ、趣意)
 「どす黒い嫉妬ばかりなのも、うなずける」と言う人がいた。
 その大変な日本を救おうと、一人立たれたのが日蓮大聖人であられる。
 弟子ならば、青年ならば、戦わねばならない。断じて勝たねばならない。勝たなくては青年ではない。
 「嫉妬の国」の転倒を正すのが、諸君の使命である。私は青年の勝利を信じている。
 きょうは遠いところ、本当にご苦労さま。
 海外の皆さまも、ありがとう! サンキュー・ソー・マッチ!
 (東京牧口記念会館)

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