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日蓮大聖人・池田大作

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第23回本部幹部会、第七回婦人部幹部会… われらの前進が「民主」の前進

1998.6.16 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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2  六月は牧口先生の生誕の月(一八七一年〈明治四年〉六月六日生まれ)である。
 とともに、牧口先生が、日蓮大聖人の仏法と巡りあわれた月でもある。(一九二八年〈昭和三年〉の六月)本年で七十周年。入信の時、五十七歳であられた。
 普通であれば、名校長として功なり名を遂げて、悠々自適に、晩年を送ることもできたはずである。しかし、そんな安逸はなげうって、命を懸けた「精神闘争」を開始された。じつに五十七歳からである。
 きょう、お集まりの皆さまの中にも、同年齢の方がおられると思う。多くの方は、もっと若い。早くから老けこんではならない。
 牧口先生のように生き生きと生き抜いていただきたい。若々しく生きてもらいたい。それが仏法である。生命の本当の姿である。
 「よし、皆に尽くして生き抜こう!」と立ち上がれば、若くなる。人々のために生きれば、若くなれる。必ずそうなっていくのが、南無妙法蓮華経の力である。
 反対に、ただ「自分のため」――そうなってしまえば、いっぺんに老けてしまうものだ。
 自分の人生である。″義務だから″でも、″命令だから″でもない。自分自身の決意で、生き生きと生きることである。
3  牧口初代会長も闘争――日本人の意識革命に挑戦
 牧口先生の「精神闘争」――。先生は特に、日本の封建時代の遺風である「長いものには巻かれよ」という、古いかたくなな意識を一掃せよ! と訴え続けた。
 要するに、民衆が「御上」の言いなりになる時代は終わった。今は″租税(税金)の使途(使い道)は、人民みずからが監督する″という自治が発達していく時勢である。
 つまり、これまで専制政治のもとで、奴隷扱いに甘んじてきた国民が権利(参政権など)を得て、一個の人格として尊重されるようになったのである。にもかかわらず、国民がせっかく手にした権利の行使に臆病で、意気地なしであれば、国家も社会も変えることはできないではないか!――と。
 『創価教育学体系』の、先駆的な洞察である。本当に偉大な先生である。
 戸田先生は、牧口先生を心底尊敬し、師弟の絆に命を懸けておられた。その峻厳な姿にふれて、私は感嘆した。「偉大な戸田先生が、これほどまでに尊敬しておられるのだ。牧口先生は、どれほど、すごい先生であられたことか」――と。
 その偉大さは、ますます、はっきりとわかってきた。だから私は、牧口先生を宣揚するのである。
 牧口先生は繰り返し、繰り返し、主張された。
 「民衆よ利口になれ! 民衆よ覚醒せよ! 民衆よ勇気をもて! 民衆よ結合せよ! 団結せよ!」と。
 私が「民衆よ賢くあれ!」と何度も語ってきたのは、牧口先生、戸田先生の教えそのままなのである。その淵源は日蓮大聖人の仰せである。
4  末法は「五濁悪世」である。命も時代も人間も思想も心も、すべて濁りきっている。
 また「闘諍言訟」の時代である。争いが絶えず、″自分さえよければ、他人なんか、どうでもよい″と、人を犠牲にしてしまう。そういう時代である。
 この末法における「根本の指針」は何か。
 牧口先生は、御書に引かれた涅槃経の経文を通して、喝破された。
 それは「慈無くしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」――慈悲なくして詐り親しむ人は、相手にとっての「敵」となる。相手の悪を取り除き、改めさせる人こそ、その人の「親」の存在である――との有名な一節である。
 すなわち――詐親(いつわりの親しみ、なれあい)を捨てて、正義を強く、また強く、言い切っていきたまえ! 真実を、妥協せず、徹底して叫び切っていくべきだ!――これを強調されたのである。
5  ″善人面した傍観者″になるな
 牧口先生は、また正義の英雄を、断じて見殺しにしてはならない! と叫ばれた。
 ″大善人は、古今を通じて、必ず強大なる迫害を受ける。これに対して、他の小善人どもは、内心には同情を寄せるものの、「自分たちには何の実力もない」と言って、傍観し、その英雄を見殺しにしてしまう″
 小善人とは、小さい善人。大きな悪いこともしないかわりに、大きな善もしない人間のことである。
 ″小善人に見殺しにされるゆえに、多くの場合、孤立無援の大善人は負けてしまう。しかし、その四面楚歌の苦境にあっても、耐え抜いて、奮闘して、ついに勝利を得る勇者がいる。その人こそ、まことの英雄である″
 これが、牧口先生の透徹した史観であった。
 牧口先生は、正義の英雄を、ただ尊敬し、崇拝しているだけでは卑怯であると、厳しく戒めておられた。″傷つかないよう、自分だけ、いい子でいよう″という傍観者が、いちばん卑怯である。
 これまでも、学会を利用して、人の尊敬を集めながら、大事な時に戦わず、傍観と保身に終始した人間がいる。卑怯である。
 卑怯な人間は、功徳を消す。地獄界の原因を積む。仏法は厳しい。最高の善に背けば、最高の悪となるからである。
6  牧口先生は、鋭く問いかける。
 ――正義の英雄が、迫害されながら、奮闘努力して、民衆のため、万人のために戦っていた時に、それを傍観して見殺しにした、ふがいない小善人どもを軽蔑せよ! 叱り飛ばせ!
 そして汝自身は、現在、また未来の人生において、その臆病な小善人の側に立って傍観するのか、それとも、正義の善人とともに、勇敢に戦っていくのか。それを心して定めよ!――と。
 正義の英雄とともに、どこまでも勇敢に戦っていく。これが創価学会である。ここに、創価学会の本当の「師子の道」がある。「師子」とは「師匠と弟子」ということである。
 この道を、敢然と進むかいなか、覚悟を決めよ! これが牧口先生の問いかけであり、結論であった。
7  昭和十四年(一九三九年)、牧口先生は、九州の福岡へ弘教に向かわれた。
 このときに、入信した福岡の婦人に対し、牧口先生は、きっぱりと断言なされた。
 「私の足跡の後に、必ず青年が続々と続いてきます」と。
 そして、先生は、この言葉を証文として書き残しておきます、と言われた。(証文は後に特高刑事に押収されてしまった)
 牧口先生のこの確信こそ、「創価の精神」である。
 創価の大英雄たる、牧口先生の不滅の精神闘争の一歩から、七十周年を迎える今日――私たちも、「勝利は『執念』と『闘争力』と『希望』と『忍耐』、そして『団結』で決まる」という心意気で戦いましょう!(拍手)
 だれかではない。自分である。自分が戦えばいいのである。それによって、自分自身が永遠の英雄になる。精神闘争の勝利者になる。「だれかが、やるだろう」とか、人に頼っては、その心が、自分の敗北である。
 ゆえに、きょうは、若き英雄の力の結集で、偉大なる創価の勝利を飾りゆく出陣にいたしましょう!(賛同の大拍手)
8  報道被害にストップを
 このたび、潮出版社から、河野義行氏の『妻よ!』が出版された。
 (河野氏は、松本サリン事件の被害者であり、第一通報者でありながら、反対に犯人扱いされた)
 氏は、こう記しておられる。
 「一九七六年一〇月に澄子と結婚し、平々凡々と暮らしてきたが、九四年六月二七日深夜、毒ガス兵器サリンが、突然、わが家を襲った。あれから、もう四年が過ぎようとしている。家族全員が被害を受け、妻・澄子はいまだに意識を回復しない。愛犬二匹は、私たち家族のいのちを守り、死んでいった。
 私たち家族は、『殺人者とその家族』のレッテルをマスコミに貼られ、冤罪の歯車に巻き込まれていった。どんなに抵抗し無実を叫んでも、巨大な力の前には無力であった。事件当時、多くの市民は私や家族に対して社会的な制裁を加えた」
 本当に、ひどい国である。日本は人権の面では、まさに″未開の野蛮国″である。
 「事件の当初から、どんな事態に陥っても、私自身あまり動じなかったのは、これも自分の人生なんだと、まずありのままに受け止めたからだ」
 「だから、泣き叫んだこともなかったし、愚痴をこぼしたこともなかった」
 「私は、一度も大変だと思ったことはないし、ましてや自分が不幸だなどと思ったことがない。幸福というものは、自分の考え方、心のもち方一つで感じられるものだと思っているからだ。それを感じるのは自分の感度の問題だと思う。
 どんな状況でも、それを不幸だと感じれば不幸なのだし、逆にどんな状況に置かれてもそのなかで幸福を感じていけば、どこにでも幸福はある。
 これまでも、自分のやりたいことをマイペースでやってきて、その延長のなかで、今回の事件があった。それはそれで、私の人生の一幕なのだと思っている。自分で自分の人生を歩いているわけだから、それはやはり幸せなことなのだ。どんなことも前向きにとらえていく。そのなかで希望は必ず湧いてくる」
9  そして氏は、松本サリン事件、地下鉄サリン事件という二つの事件を通し、日本が学ばなければならないことについて論じておられる。
 「報道被害に遭ったときに、個人がマスコミに対抗する制度として、欧米にはすでにある報道評議会やプレスオンブズマン制度(報道に対する苦情受け付け。報道倫理制度の一つ)を、早急に導入することの必要性だ。
 マスコミという大きな存在の前では、本当に個人の力は小さい。そのことを、私はイヤというほど経験した。いくら正義や潔白を訴えても、個人の声は届いていかないのだ。その声を正しく拾って、客観的にマスコミ報道の行き過ぎや誤報、プライバシーの侵害による名誉毀損などの事実を告発していくことができるこれらの制度の必要性は、今後ますます高まってくるだろうと思う」
 (氏は、また、このテロ事件のような″通り魔的犯罪″に巻き込まれた人を経済的に救済する「犯罪被害者救済法」の制定を訴えている)
 「人権」は、民主主義の根幹である。重要な問題提起として紹介させていただいた。
10  何でも語りあえる雰囲気が大事
 弘安元年(一二七八年)の七月三日のことである。日蓮大聖人は一人の婦人の門下の質問に答えて、丁重な御返事を出されている。
 指導者は、質問があれば、ていねいに答えなければいけない。いいかげんに、あしらったり、偉ぶって、役職の上から見おろすような不誠実は、悪である。魔の心である。
 質問したのは妙法尼。病気の夫を看病しながら、真剣に仏法を求め、行じていた婦人であった。今で言えば、学会の婦人部である。
 大聖人は、まず、婦人に対して、「仏法について質問してきた」こと自体を、最大に賛嘆しておられる。どこまでも聞いてあげる。言い分は何でも受けとめる。これが御本仏の大きな慈愛であり、大きな心であられた。
 学会もまた、何でも語り合える雰囲気を大切にしていきたい。そうでないと伸びないし、発展は続かない。上から下への命令だけでは、官僚主義である。組織は硬直し、人間まで硬直させてしまう。そんなことは絶対にあってはならない。
 学会は人間の世界である。魂の世界である。心の世界である。慈悲の世界である。あくまでも人と人の団結と触発の世界である。だから強い。これを大切にすれば、学会は永遠に発展できる。
 何でも語り合える雰囲気――これを学会は根本にすることを宣言しておきたい。(拍手)
11  最高に尊貴なる人、それは妙法の同志
 大聖人は、法華経の「六難九易」(六つの難しいことと九つの易しいこと)の法門を引かれて、こう仰せである。
 「三千大千世界をまりの如くにけあぐ蹴上る人よりも無量の余の経典を受け持ちて人に説ききかせ聴聞の道俗に六神通をえせしめんよりも、末法のけふ今日このごろ此頃法華経の一句一偈のいはれをも尋ね問う人はありがたし
 ――三千大千世界(宇宙)を、まりのように蹴り上げる人よりも(中略)末法の今日このごろ、法華経の一句一偈の意義でも尋ねて質問する人は、まれであり貴重です――。
 この宇宙をサッカーのボールのごとく蹴り上げる奇跡よりも、妙法を真面目に求めていくことは、もっと難しいのである。
 いわんや、皆さまのように、妙法を広宣流布していくことが、どれほど尊貴なことか。皆さまを、御本仏日蓮大聖人が賛嘆しておられるのである。地位や名声に慢心して、「自分は偉い」と思っている人間など、足もとにも及ばない尊貴な方々である。
12  御手紙では、こうも仰せである。
 「此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候、南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候、然れども同じ一句の中にも肝心にて候
 ――この法華経には、私たちの身を法身如来、私たちの心を報身如来、私たちの振る舞いを応身如来と説かれています。ゆえに、この経の一句一偈を持ち信じる人は、皆、この(三身如来の)功徳を(わが身に)具えるのです。南無妙法蓮華経というのは、一句一偈です。しかし同じ一句の中でも肝心(の一句)です――。
 妙法を信受する人は「仏」となると断言しておられる。
 皆さまは、自分も多くの悩みを抱えながら、それでも広宣流布のため、法のため、人のために、いつわり多き泥沼のごとき社会に飛び込んで奔走しておられる。何と尊き方々であろうか。見返りを求めることもなく、悪口を言われながら、「もう一歩、もう一歩」と広宣流布を進めておられる。御書に照らして、皆さま方こそ菩薩であり、仏であられる。
 ゆえに皆さまを、我々をいじめれば、法罰・仏罰を受けるのは間違いない。今の日本が、まさにそうなっていると指摘する人もいる。
13  広宣流布に進みゆく時、わが心には仏の生き生きとした生命力がわき、智慧がわく。
 「今、いちばん価値的な行動は何か」「会員の方に喜んでいただくには、どうしたらいいか」。それがわかるリーダーでなければならない。
 会合の終了時間ひとつとっても、臨機応変に気を配っていただきたいのである。会員の皆さまあっての幹部である。皆さまに、ひざまずくような思いで、敬って迎え、「お忙しいところ、ようこそ、いらっしゃいました!」と、誠実に、気持ちよく接していくべきである。
 接した人々から「本当に、いい人だ」「本当に、ありがたいな」と感謝され、慕われてこそ、幹部としての勝利である。絶対に、いばらず、悪に対しては毅然として戦い、友に対しては限りなく誠実なリーダーにならねばならない。
14  勝ってこそ広宣流布
 ともあれ今日まで、日本中そして世界にまで広宣流布を進め、妙法流布を成し遂げてきたのは皆さま方である。
 大聖人後の七百年、また仏法三千年の歴史で、だれ人もできなかった世界広宣流布を現実にしたのは、わが創価学会である。(拍手)
 この大偉業をしたのは、有名人でもなければ、学者や博士でもない。いわんや坊主がやったのでもない。すべて無名の庶民がやったのである。なかんずく毎日毎日、けなげに戦ってこられた婦人部の信心の力である。(拍手)
 大功徳がないわけがない。だれが何と言おうと、この生命の勲章と功徳は金剛不壊であり、不滅である。永遠に崩れない。皆さまこそ仏法の大功労者なのである。どこに行っても大手を振って歩いていただきたい。(拍手)
 学会だけが仏意仏勅の陣列である。「学会に勝るものなし」との確信で進みましょう!(拍手)
 わが同志の異体同心の団結で、永遠不敗・永遠不滅の歴史をつくってまいりましょう!(拍手)
 勝てば楽しいからである。人生は勝たねばならない。負ければ悲しい。負ければ不幸である。広宣流布も、勝ってこそ広宣流布なのである。
15  学会活動で「悩み」をも「幸福」へ
 戸田先生は言われた。
 「妙法に帰した(帰命した)以上、私たちは『人間界の仏界』に至ったのである。人間ではあるが、仏の道に入った以上、菩薩の行をしなくてはならない」(一九四二年〈昭和十七年〉十一月、創価教育学会の第五回総会で)と。
 「仏」と言っても、現実の行動は「菩薩」となる。
 そして「学会活動」こそ、現代における菩薩行である。
 「悩みとの戦い」こそが人生
 学会活動に邁進している人は、いかなる試練もすべて、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と転じていくことができる。
 どんなに「いやだな」と思うことがあっても、すべて希望と福運の方向へ、永遠なる幸福の方向へと、回転させていくことができる。
 何と素晴らしいことか。
 人生――それは「悩みの連続」である。「悩みとの戦い」が人生の実相である。
 これは、どんなに福運をつけ、どんなに功徳を受けた後でも、永久に変わらない。
 もしも、何の悩みも、何の葛藤もなくなったら――それは良いように思えるかもしれないが、じつは、むなしい生活である。生きているとは言えない。
 悩みがあるから、人生である。悩みがあるから、前進もある。悩みがあるから、成長もある。
 悩みをすべて、より大きな幸福へのエネルギーにしていくことである。それができるのが学会活動し抜いた人生の素晴らしさなのである。
16  「祈りとして叶わざるなし」
 有名な日寛上人の仰せには、次のようにある。
 「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(「観心本尊抄文段」文段集四四三㌻)
 こう断言なされている。この大確信を忘れてはならない。
 では、時として、祈りが叶わないように見えるのは、なぜなのか。
 それは、より祈りが深くなるように、また、より強い人間、より深い人生になれるように、そして、より深き福運をがっちりとつけるようにとの御仏智なのである。
 何でも、ちょっと祈って、すぐに叶ったのでは、人間は堕落してしまう。これでは立派な人生が築けるわけがない。会社に働きに行っても、その日に給料がもらえるわけではない。木を植えても、すぐに大きくなるものではない。
 本当に深き祈りも、死にもの狂いの努力もなくして、簡単に祈りが叶ってしまえば、人間を堕落させるだけである。それでは偉大な人間をつくる仏法ではなく、人間を破壊する仏法になってしまう。
 また、「叶う、叶わない」には、さまざまな要因がある。
 ゆえに、大切なことは、祈りは「叶うまで続ける」ことである。祈り続けることによって、自分を厳しく見つめることもできるし、地道な努力の軌道へと、生活を向上させることもできる。
 かりに具体的な結果がすぐには出ない場合でも、祈り続けた人は、何かのときに、祈り以上の結果が証明され、そしてまた、大きく守られていくのである。
 たとえば仕事のことを祈ったとしても、それだけでなく、より広く、大きく、人生万般にわたって、幸福の方向へと軌道修正されていく。あとから振り返って、「これで良かったんだ」という所願満足の自分に、必ずなっていくのである。
 要するに、その人が本当に幸福になり、立派になるための祈りであれば、必ず叶う。すぐには結果が現れない場合でも、長い目で見れば、絶対に叶っていくのである。
17  ともあれ、正しい、偉大なる人生という目的に向かって、健康で、常に希望に燃えて、進んでまいりましょう!(拍手)
 忍耐強く、朗らかに、友と仲良く、本当の同志愛で、この人生を堂々と、悔いなく飾ってまいりましょう!(拍手)
 それでは七月の本部幹部会で、また「朗らかに」お会いしましょう!
 大切な皆さま方のご健康とご活躍を祈っております。どうか、お元気で!
 (創価国際友好会館)

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