Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関西各方面協議会 一歩踏みだせ! 勝利はそこから

1998.5.27 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

前後
2  ソクラテスは、さらに語っている。
 「わたしが自分を何かにたとえてみるならば、わたしはまさに海中に独り立つ離れ岩のようなものである。そこには、いずれの方向からも打ち寄せる怒涛が、絶えず打ち当って止まない。
 しかしそのために、怒涛が岩の位置を動かすことはないし、長い年代にわたって繰り返し突き当っても、岩を消滅させることもない。君たちは、わたしに跳びかかるがよい、襲撃を加えるがよい。
 わたしは、耐え忍ぶことによって君たちに勝とう。堅固で打ち勝ちがたい相手に突き当って行くものは、何ものにせよ、結局は自分の災いを招くために、自分の力を使うことになるだけだ」(前掲書『人生の短さについて』)
 これこそ、まことの獅子の言葉である。
 この時、ソクラテスは七十歳。そして、その不二の弟子たるプラトンは二十八歳。ちょうど、今の私と青年部の諸君も同じ年代の開きがある。
 また、二十八歳といえば、昭和三十一年(一九五六年)、大阪で関西の同志と戦った時の私の年齢である。
 ソクラテスは、自分の犠牲は無駄にはならない、若きプラトンたちが正義と執念の大闘争を展開するであろう――と、人々に堂々と宣言していった。
 それから五十余年にわたり、プラトンが、師ソクラテスの言葉通りに真正の弟子の道を歩み抜き、戦い抜いたことは、あまりにも有名である。
 私には、青年部の諸君がいる。なかんずく、「わが関西青年部よ、創価のプラトンたれ!」と申し上げたい。
3  「敵には君のような勇者はいない」
 歴史に名高いハンニバル将軍。地中海世界に、その名を轟かせた都市国家・カルタゴの英雄として強大なローマと戦い続けた。
 その歴史的な決戦でのことである(紀元前二一六年のカンネーの戦い)。
 ローマの軍勢は八万数千。かたや、カルタゴ軍は五万。圧倒的なローマ軍の優勢であった。しかも、カルタゴ軍は川を背にした、いわゆる「背水の陣」であった。
 カルタゴ軍の兵士たちは、眼前の平原に群れをなすローマ軍のあまりの多さに、たじろいだ。ハンニバル将軍の横にいたギスコーという兵士も思わず、「敵軍の何という多さか!」と口にした。
 すると、ハンニバル将軍は悠然と、そのギスコーに語った。
 「君は大事なことを見逃しているぞ。あれほど沢山の人がいたって、あの中にはギスコーという人はいないのだ」(長谷川博隆『ハンニバル』清水書院)
 要するに、″わが陣営には、君という勇者がいるではないか! 敵には、君ほどの勇者はいない! だから、何も恐れることはない″というのである。
 この将軍の余裕あふれるユーモアの一言に、周囲には明るい笑いがはじけた。そして、そのさわやかな笑いは、兵士から兵士へと広がっていった。
 こうして、将軍の「勝利への強き確信」と「わが戦士たちへの深き信頼」が全軍に伝わった。そして、皆は心を軽くし、勇気を奮い起こしていったというのである。
 その後、この戦いは、兵士たちの奮闘とハンニバル将軍の名指揮によって、歴史に残る大勝利を収めた。
 皆さま方は、「法華経」の兵法を持った「広宣流布の将軍」である。最も偉大な地涌の菩薩である、わが会員・同志に、希望と勇気を贈り、誇りと自信を贈りながら、完全勝利の名指揮をお願いしたい。
4  婦人部の皆さまに最敬礼
 ロシアの女性詩人・アリゲール。第二次世界大戦で、モスクワが、ナチスに攻撃された時、民衆を鼓舞する詩を詠んだ、勇敢な詩人である。
 彼女の有名な詩に、こうある。
 おまえはふみ出したか、前進の、この一歩を?
 近しい人たち、
 同志たち、
 隣人たち、
 戦争の試練にかけられたあらゆる人よ、
 もし、おのおのが勝利へと一歩ふみだすならば、
 どんなにか勝利はこちら側に近づくことだろう
 (『世界名詩集大成』13,除村ヤエ訳、平凡社)
 この「前進の一歩」「勝利の一歩」を毎日毎日、踏み出しておられるのが、婦人部の皆さま方である。私は、最大の敬意を表したい。
5  対話で人格は鍛えられる
 先月、私は、南アフリカ共和国のムベキ副大統領とお会いした(四月九日)。マンデラ大統領の後継者として、「アフリカ・ルネサンス」を進めゆく、さっそうたる指導者である。
 副大統領が、亡命中の若き日から、アフリカ民族会議(ANC)の広報部長として、活発な渉外活動を展開した経歴は、よく知られている。自ら奔走して、世界の目を南アフリカの人権闘争に注目させ、理解と支援を広げていったのである。
 また、一九八九年には、アフリカ民族会議の外交部長に就任。白人政権との秘密交渉にも、団長として臨んだ。さらに、昨年のコンゴ民主共和国(旧ザイール)の内戦に際しても、マンデラ大統領の代理として交渉にあたり、首都の流血の回避に、大きな役割を果たされた。
 私との会談は、短時間であったが、深い信頼を結び合う語らいとなった。
 副大統領は、マンデラ大統領と相通ずる素晴らしい笑みを浮かべつつ、「私は、必ずまた、会いにまいります!」と、さわやかに出発していかれた。
 戸田先生は、よく言われていた。
 「大事なのは、人間としての外交である。どんどん人と会って、友情を結んでいきなさい。すべて、勉強だ。また、それが広宣流布につながるのだ」と。
 外交戦のなかでこそ、深く強き人格が鍛えあげられる。
 「御義口伝」には「今日蓮等の類いは不軽なり」と仰せである。
 「いかなる人も軽んじない」「いかなる人も敬う」「礼儀正しく、忍耐強く、そして、大確信と大情熱をもって、対話を続けていく」こうした不軽菩薩の振る舞いは、そのまま、私たちの活動の根本姿勢である。
 どうか気持ちよく、また感じよく、清々しい人間外交を、日々、広げていっていただきたい。そこに、自分自身の「生命のルネサンス」が、虹の光彩を放っていくのである。
6  日本人を救った韓民族の恩義
 韓日友好に関して、あまり知られていない史実を、紹介しておきたい。
 日本が戦争に負けた時のことである。満州(中国東北部)にソ連軍が侵攻してきた。日本人は略奪され、連れ去られ、逃げまどった。
 それを見ていた韓民族の中には、「いい気味だ。これまで、さんざん、おれたちに同じことをしたんだから」と思う人もいた。無理もなかったかもしれない。
 しかし、そうではない方々もいた。「憎い日本人であるけれども、今、あの人たちは悲惨な状況にある。恨みがあるからといって、人が困っている時に、見捨てるのは卑劣だ」。こう考えた人々もいた。
 ある人は、日本人の避難民四百人を教会にかくまったという。そして、「この人たちは私たちの同胞です」と偽って、ソ連軍の襲撃から守り抜いた。
 さらに「日本人に復讐する」と言っていた一部の人たちからも守ってくれた。
 そのおかげで、日本人は無事、祖国の大地を踏むことができたというのである。
 恨みを越え、まさに「人間」として生き抜いた――。このような方々のおかげで、中国大陸から戻ってこられた日本人も多いという。
 韓民族は「文化の大恩人」である。それに加えて、こうした恩義を、忘れてはならない。
7  最後に、「兄弟抄」の一節を皆さまとともに拝し、スピーチを結びたい。
 「いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず、定んで女人は心よはく・をはすれば・ごぜ御前たちは心ひるがへりてや・をはすらん、がうじやう強盛はがみ切歯をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい振舞・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ」――いよいよ恐れる心根や姿があってはなりません。(中略)信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはなりません。たとえば、日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振る舞い、言い切ったように、少しも恐れる心があってはなりません――。
 私は、皆さま方に、いつも一生懸命に、お題目を送っております。
 ご家族の皆さま、地域の方々にも、どうか、くれぐれも、よろしくお伝えください。ありがとう!
 (大阪・天王寺区内)

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