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日蓮大聖人・池田大作

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第22回本部幹部会・第3回関西青年部総… 明るく軽快に、人間の中へ、社会の中に

1998.5.26 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

前後
2  ガンジーの「塩の行進」――生活に密着した運動
 このほど、皆さま方の祈りに包まれて、韓国を訪問した。
 その折、韓国SGIの本部に、インド独立の父・ガンジーの立派な像が設置され、晴れやかに除幕の式が行われた。
 これは、一九三〇年(昭和五年)、有名な「塩の行進」で、さっそうと歩くガンジーの姿をかたどった素晴らしい像である。
 当時、インドは帝国主義の支配下にあった。インドに君臨していたイギリスは、塩に″高い税金″をかけて専売していた。インドの人々が″自分たちの手で塩をつくりたい″と思っても、認めなかった。
 ガンジーは、その横暴に真っ向から挑戦した。
 偉大な人は権力と戦う。弱い立場の人に対して、いばるのが強い人なのではない。いちばん強い相手、傲慢な相手、権力者、庶民を見下す悪人たちと戦ってこそ、強者であり、勇者である。
 ガンジーは「塩づくり」のために、はるかな海岸へ向かって、七十八人の弟子たちとともに、大行進を開始した。二十四日間で、約三百八十七キロを歩き通した。まるで「関西の大行進」のようである。(拍手)
 ガンジーは、「塩」という最も身近な品を、独立へのシンボルとした。その明快な、わかりやすさに、民衆は一日ごとに、続々と行進に加わっていった。到達するころには、数千人にのぼった。
 民衆に、わかりやすく訴えた。生活に密着した運動であった。
3  学会の強さも、生活に密着しているところにある。口先だけで高尚なことを語るのとは、根本的に違う。
 口で「信心、信心」と言いながら、まったく自分の生活、人生、生き方と関係がない。それが日顕宗である。口とは正反対に、信心を利用して、ただ信徒を奴隷のごとく仕えさせたいだけの権威主義である。
 学会は、根本的に違う。学会は民衆主義であり、一貫して「信心即生活」「信心即社会」で進んできた。そこに、牧口先生、戸田先生の偉大さがあった。
 「信心は即、生活だ! 即、社会である!」と、徹底して民衆を大切にしてきたのである。
4  妙法は宇宙の″拡大の根源力″
 ところで、ガンジーが晩年、大切にして読んでいた『法華経』は、日本人とヨーロッパ人の共同で編集され、一九〇八年、ロシアで出版されたものである。
 彼が読んだものと、まったく同じ版の『法華経』を、四年前(一九九四年)、インド文化国際アカデミーの理事長であるロケシュ・チャンドラ博士が、私に贈ってくださった。世界的にも、貴重な一書である。
 かつて、ガンジーに『法華経』を贈ったのは、ほかでもない、チャンドラ博士の父君である故ラグ・ヴィラ博士だったのである。世界的な東洋学者であられた。
 チャンドラ博士は、私にこの『法華経』を贈る意義を、こう語ってくださった。
 「この『法華経』は、マハトマ・ガンジーと池田大作氏がともに体現する『天賦の特性』が奏で、永劫に呼応し合う韻律そのものなのです」
 ″ガンジーと同じリズムを奏でている″と、詩的に表現してくださった。大変、光栄なことである。
 さらに博士は、ガンジーについて、次のような貴重なエピソードも紹介してくださった。
 博士いわく、「一九三〇年代の半ばに、マハトマ・ガンジーは、彼の道場の祈りに『南無妙法蓮華経』の題目を取り入れました。ガンジーは、『南無妙法蓮華経』が、『人間に内在する宇宙大の力の究極の当体』の表現であり、『宇宙の至高の音律が奏でる生命』そのものであることを覚知していました」と。
 非常に重要な話である。正しい話と思う。
5  ガンジーは、チャンドラ博士の父君、ラグ・ヴィラ博士に、「南無妙法蓮華経」の意味をたずねた。
 ラグ・ヴィラ博士は、日蓮大聖人について書かれた日本の仏教学者の本を読み、そこから、題目の歴史的背景と、七文字の漢字の字義(字の意義)を、ガンジーに説明した。
 「『南無妙法蓮華経』は、森羅万象を形成し、発展拡大させゆく根源の存在である」と語られたとうかがっている。
6  ともあれ、この題目を毎日、唱えることが、どれほど素晴らしいことか。
 日蓮大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と仰せである。
 だれ人にとっても、南無妙法蓮華経と唱えること以外に、本当の遊楽は、幸福境涯は、ありえない。どんなに好きなことをやっても、勤行をさぼって遊びに行っても(笑い)、南無妙法蓮華経と唱える充実感には、絶対に、かなわない。(拍手)
7  また、「此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし」――(我らが唱える南無妙法蓮華経の)声をお聞きになる梵天・帝釈・日月・四天王等が、どうして、色つやを増し、輝きを盛んにされないはずがあろうか。どうして我らを守護されないはずがあろうか。そう、強く強く思われるがよい――と仰せである。
 ″題目を唱える者を、必ず諸天善神が、こぞって守る。そう確信しなさい!″との御心である。
 皆さまも、この「大確信の信心」をしていただきたい。
8  われらこそ民衆の最大の友
 ところで、ガンジーは、こう語っている。
 「おそらく今日、わたしほどインドを隈なく歩いた者はおりますまい。そして、この国の声なき民衆が、わたしのうちに彼らの友や代言者を見出したのです。わたしの方も、一人の人間としてできうるかぎり、彼らの中に入ってまいりました。わたしは彼らの目に信頼のまなざしを読みとりました」(『わたしの非暴力』森本達雄訳、みすず書房)
 ガンジーは、インドの大地を、歩いて、歩いて、歩き抜いた。我々の広宣流布の行動と同じである。「一人の人間」として、民衆の中へ入り、会い、語っていった。
9  それまで、多くの指導者に失望していたインドの人々。しかし彼らは、ガンジーの中に、真の友を見いだした。自分たちの本当の気持ちを、大きな声にして語ってくれる代弁者を見いだした。
 会って話せば、心が通じる。本当に正しい話であれば、民衆は信頼してくれる。
 ″この人だったら「一緒に平和を築ける」「一緒に幸福の世界ができる」″と。
 上から見おろすのではなく、自分が歩いて、人に会わなければいけない。これが、ガンジーの叫びであったし、私たちも、そうしてきたから、勝ったのである。
10  私どもは、朗々と題目を唱えながら、明るく軽快に、また忍耐強く、人間の中へ、社会の中へと行動してまいりたい。
 「人間の中へ」そして「社会の中へ」――この二つの実践がなければ、いくら理想を唱えても、それは架空の話である。結果は敗北となる。これは、商売でも何でも、社会のあらゆる分野の鉄則である。
 大切なのは、明るく、さわやかな振る舞いである。学会員の人間性あふれる姿が、仏法の素晴らしさを知るきっかけとなったという人が多い。
 なかでも、女子部や婦人部の方の、にこやかで聡明な振る舞いが感動を広げてきた。
 良識ある行動で、相手の心にしみいるように、真心で語りかけていくところに、確実に信頼が広がっていくのである。
11  弘教といい、機関紙推進といい、そう簡単にできるものではない。本当に難しい。なかなかできないからこそ、できたことが偉大なのである。
 かりにできなくても、挑戦していること自体が尊いのである。
 日蓮大聖人が、広宣流布に励むその人を、″世界第一の人″として、称賛しておられることは間違いない。そして、三世を知る仏であられる大聖人にほめられることこそ、最高の誉れである。
 ゆえに、さっそうと、喜び勇んで、広布に歩き、歩いていただきたい。
12  動いた分だけ、その地域は永遠の幸福の地盤に
 仏法は「三世」で見る。過去・現在・未来の三世の生命観に照らして、一切を見る。
 三世の生命という鏡に照らせば、自分が会い、仏縁を結んだ人々は皆、生々世々、自分の眷属となっていく。面倒をみた人が皆、自分を守ってくれる諸天善神と変わる。
 たくさんの人の面倒をみた人は、必ず生々世々、大指導者となっていく。自分だけでなく、その人々をも、幸福の軌道へと導くことができる。
 また、広布のために歩き、行動した地域は、すべて自分自身の金剛不滅の幸福の地盤となっていく。
 信心に無駄はない。損はない。
 人のため、法のための一切の行動が、偉大なる宝の福徳を積んでいることを確信していただきたい。これが冥益である。
 ゆえに、皆さまは、若々しく進んでいただきたい。
 若々しいということが、最高の力であり、財産であり、勝利である。
 今、再び、生命を若々しく燃え上がらせながら、関西から、全国、全世界へ″新しき波″を起こしていただきたい。民衆の常勝の大行進を、楽しく、仲良く、にぎやかに拡大していただきたい。(拍手)
 民衆ほど強いものはない。民衆の行進ほど、時代を揺るがすものはない。
 「民衆こそ皇帝なり」とは、中国の哲人の言葉である。
13  ここで、御書を拝したい。
 創価学会は、どこまでも御書根本である。ゆえに、大聖人に直結して、最も正しい「信心の血脈」が、いつも脈々と流れ、通っているのである。
 御書はすべて大事であるが、なかでも「十大部」という最も大切な御書がある。そのひとつの「下山御消息」を拝したい。
 この御書については、以前、私の監修のもと、愛媛の青年部が研鑚を進め、その成果を『下山御消息に学ぶ』として出版した。
 御聖訓に仰せである。
 「日蓮が出現して一切の人を恐れず身命を捨てて指し申さば賢なる国主ならば子細を聞き給うべきに聞きもせず用いられざるだにも不思議なるに剰へ頸に及ばむとせし事は存外の次第なり」――日蓮が出現して、一切の人を恐れることなく、身命を捨てて、(国の誤りである謗法を)指摘し、語ったところ、賢明な国主であれば、くわしい内容を聞かれるべきであるのに、聞きもせず、用いもされない。このことすら不思議であるのに、あまつさえ、日蓮の頸を切ろうとまでしたことは、もってのほかのことである――。
 日蓮大聖人こそ、最高の大聖哲であられる。
14  指導者の転倒が国を滅ぼす
 立正安国論に仰せのように、当時の民衆は、大変な苦しみにあり、不幸のどん底であった。それを、どうすれば救えるのか。この方途を求め、実行するのが為政者の仕事であろう。
 それなのに、大聖人が、正しい道を教えようとすると、まったく耳を貸さない。偉大な人の声を聞かない。民衆の声を聞かない。そればかりでなく、大聖人の頸を切ろうとした。もってのほかである、と仰せなのである。当然であろう。(拍手)
 大聖人は続けて、仰せである。
 「然れば大悪人を用いる大科・正法の大善人を耻辱する大罪・二悪・鼻を並べて此の国に出現せり、譬ば修羅を恭敬し日天を射奉るが如し故に前代未聞の大事・此の国に起るなり」――こうして、「大悪人を用いる大罪」と「正法の大善人を辱める大罪」という二つの悪が、鼻を並べて、この国に出現したのである。これらは、たとえば(卑しい)修羅を敬って、(尊い)日天を射奉るようなものである。それゆえに、前代未聞の重大事(蒙古襲来の国難)が、この国に起きたのである――。
 修羅――焼きもち焼きで、根性が曲がっていて、自分を偉く見せようとしている、そんな生命である。そういう者を敬って、一方では、生きとし生けるものを照らす「太陽」を射落とそうとする。これでは本末転倒である。
 いわんや仏を迫害した転倒の大罪が、国難となって表れるのは当然である。
15  大聖人の御言葉は、全世界に、また永遠に通用する根本原理である。
 御書を学ばなければならない。とくに青年部は、絶対に「教学」を勉強しなければならない。
 行学の二道である。その「道」をまっとうできない中途半端は不幸である。
16  大聖人は、国の安泰のため、すべての民衆の幸せのため、未来のために、何も恐れず、正義を叫ばれた。しかし、時の幕府は、その諫言(諫めの言葉)に、耳を傾けなかった。
 それどころか、大悪人にたぶらかされて、大聖人を辱め、命さえ奪おうとしたのである。
 大悪人との結託。そして、大善人への弾圧。この二つの大罪によって、一国は根本的に狂い、すべてが乱れ始めた。どの時代でも、方程式は同じである。
17  青年よ、史観を磨け!
 この点について、大聖人は、さらに、つぶさに史実を挙げながら、論じておられる。
 「是又先例なきにあらず夏の桀王は竜蓬りゅうほうが頭を刎ね殷の紂王は比干が胸をさき」――これはまた先例のないことではない。夏王朝(中国古代)の桀王は、竜蓬(桀王の悪逆を諫めた忠臣)の頭を刎ね、殷王朝の紂王は、比干(紂王の非道をただした正義の人)の胸を裂いた――。
 ちなみに、私の友人である、シンガポールの南洋理工大学のリム・チョンヤー博士は、この正義の烈士・比干の末裔に当たる。
18  「二世王は李斯を殺し優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如し檀弥羅王だんみらおうは師子尊者の頸をきる武王は慧遠法師と諍論し憲宗王は白居易を遠流し徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印をさす、此等は皆諫暁を用いざるのみならず還つて怨を成せし人人現世には国を亡し身を失ひ後生には悪道に堕つ是れ又人をあなづり讒言を納れて理を尽さざりし故なり」――二世王(中国の秦の始皇帝の子)は、李斯(功労のあった大臣)を殺した。また(インドの)優陀延王は、賓頭盧びんずる尊者(釈尊の優秀な高弟)を軽蔑し、檀弥羅王は、師子尊者(仏法伝持の人)の頸を切った。武帝(中国・北周)は、慧遠法師(武帝の仏教弾圧に反対した)と論争し、憲宗皇帝(唐)は、白居易(白楽天=詩歌で人民の苦しみを訴えた詩人)を左遷し、徽宗皇帝(宋)は、(仏法者の)法道三蔵の顔に火印(焼き印などによる罪人の印)をつけて、処罰した。これらは皆、諫める言葉を用いないばかりか、かえって(その人を)怨んだ者である。彼らは、現世では国を滅ぼし、身を失い、死後には悪道(地獄等)に堕ちた。これはまた、人を軽蔑し、讒言(善人を陥れる言葉)を聞き入れて、道理に背いたからである――。
19  正義の人に逆恨みをして攻撃する。これが、世の常である。
 大聖人の言わんとされているのは「いちばん正しい人の頸を切る。このような例が、たくさんあるではないか。いつの世も、そうだったではないか。だから、よく見極めなければならない。何が善で、何が悪か、わからなければならない。私が島流しにあうと、それだけで悪いことをしたように錯覚する人間がいる。そうではない。正しいからこそ迫害されているのである」――そういうことではないだろうか。
 歴史上、いかに多くの正義の人々が、権力の魔性によって、冤罪に陥れられてきたか。は、自分の体験でよくわかる。
 そしてまた、正義に敵対し、道理に背いた権力者の最期が、いかに悲惨なものであるか!
 諸君は、二十一世紀の指導者である。ゆえに「歴史」を知らなくてはならない。「本質」を知らなくてはならない。鋭き「史観」をもたねばならない。上っ面だけを見ていてはいけない。
 作家の吉川英治氏は書いた。
 「波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」(『宮本武蔵』の結語)と。
20  善人だから悪人に攻撃される――この歴史の教訓は、そのまま現代にも当てはまる。未来もまた同じであろう。
 先日、お会いした韓国・慶煕キョンヒ大学のチョー学園長も、鋭く指摘しておられた。
 「民主主義といっても、国民のレベルが低い国では『最悪の制度』となってしまう」と。
 民主主義は形式ではない。中身が大事である。国民が愚かであれば、民主主義の社会は、くだらない衆愚の社会となり、人権無視の最低の社会になってしまう。
 要するに、民衆が主権者であり、主人公であることを自覚して、賢く、強く、立ち上がっていく以外に、本当の民主主義はできない。民衆が向上し、連帯し、揺るぎない正義の勢力を確立して、権力を厳しく監視していく。これ以外に、民主主義の勝利はないのである。
 そのために戦っているのが、創価学会である。
 「権力を監視する」民衆の努力と行動がなければ、人類史の宿命的な流転は、いつまでたっても変わらない。
 その宿命転換の方途を教えられたのが大聖人であられた。
 賢明なる民衆よ、立ち上がれ――牧口先生、戸田先生も、また心ある識者も、すべて、この一点に「焦点」を当てている。
21  大民衆運動の新しき波を
 私は若き日に、ここ関西の天地で、「大民衆運動の新しき大波」を起こした。
 ちょうど、諸君と同じくらいの年代であった。一生懸命、関西の同志と戦った思い出は、今も忘れることはできない。
 若いということは素晴らしい。しかし若い時は、なかなか、それがわからないものだ。
 人生、あっという間に、年をとってしまう。だから青春時代は、思いきり行動すべきである。
 充実した戦いの思い出を、人生の経験の思い出を、たくさん、つくったほうが幸せである。何の歴史も刻むことなく、ただ年をとって、人生を終わる――それでは、あまりにもはかない。
 それに対し、諸君は、学会活動に励んでいる。御書を学び、仏法を語り、同志の激励に奔走している。これほど充実した青春はない。すごい青春なのである。無上の青春である。
22  民衆勝利の夜明けを告げた、昭和三十一年(一九五六年)の大阪の戦い。当時の新聞は「″まさか″が実現」と書いた。
 私は戦った。関西中を、駆けめぐった。ゆえに、関西の、どの地も、私には思い出の天地である。友人もたくさんいる。
 諸君も、「歴史」をつくっていただきたい!
 若いのだ。できないはずがない。動けるときに動かない人は、年をとって後悔する。戦ったほうが、自分自身が得である。
 諸君は、戦い抜くべきである! 生き抜くべきである! 永遠不滅の歴史をつづるべきである! 未来はすべて諸君に託すのだから――。(拍手)
23  私が、御書に仰せの通り、難を受けたのも、関西の地である。
 昭和三十二年(一九五七年)の″大阪事件″――三類の強敵の策動の矢面に、私は立った。狙われていた師匠・戸田先生をお守りし、学会を守り抜いた。
 出獄の日(七月十七日)、「若き日の日記」に、私は記した。この時、二十九歳。
 「この日、十七日――午後の十二時十分――出所す。
 大阪の同志数百名が、迎えに来てくれる。嬉し。
 学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(本全集第37巻収録)と。
 来てくださったのは、諸君の先輩方である。関西、ありがとう!(拍手)
 この日の夕刻、あの中之島の公会堂に、二万の同志が集まってくださった。雨にもかかわらず、会場の外にも多くの同志がおられた。
 こちらは、何も悪いことをしていないのである。すべて、権力の策謀であった。
 出獄して、公会堂で、私は叫んだ。
 「最後は、信心ある者が必ず勝つ!」と。
 これは、私の信念からの言葉である。
 この不滅の歴史を、私は今、二十一世紀を担いゆく、大切な、そしてまた敬愛する「大関西の青年部」と「全国の我が青年部」に、すべて託したい。偉大なる正義の「二十一世紀の道」を、切り開き、進んでいただきたい!(拍手)
24  「信仰」は「権力」より強い
 アメリカ・ルネサンスの哲人、ソローは言った。
 「今こそ好機逸すべからず! 君は現在に生き、あらゆる波に乗って船出し、各瞬間に永遠を見出さねばならない」(アメリカ古典文庫『H・D・ソロー』木村晴子・島田太郎・斎藤光訳、研究社)
 ″「いつか」ではない。「今」だ。「今」がチャンスだ! 現在を全力で生ききるのだ! そうすれば、「今」が「永遠」になるのだ!″との叫びである。
 イギリスの大詩人・ミルトンの詩には、次のようにある。
 「常に善をもって悪に打ち勝ち、――一見弱そうに思えるものをもってこの世の強大なものを破り」(『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫)と。
 この言葉には、深い意味がある。
 「常に善をもって悪に打ち勝ち」――悪に打ち勝たねばならない。何もしないのでは善にならない。悪と戦って、初めて善となる。
 「一見弱そうに思えるもの」――信仰である。信心である。
 権力を持った者は、「信心している人間など弱いものだ」と見る。″弱いから信心しているのだ。見ろ。権力もない。財力もない。何かにすがって拝んでいるばかりではないか″と軽んじている。
 「この世の強大なもの」――権力である。権力を持った傲慢な人間のことである。
 しかし、それは本当に強いのではない。「永遠」の目から見れば。「生命」の目から見れば。
 一見、弱そうに見える信心こそ、じつはこの世で最高に強い力なのである。
 強そうな格好をしている人間は多い。しかし、本当の強さとは格好ではない。むしろ、力のない人間ほど、強そうな格好を見せるものである。
 学会もまた、世間からバカにされながら、″一見弱そうに″思われながら、信心だけで、ここまでやってきた。権力によらず、財力によらず、虚勢によらず、無名の庶民の団結で進んできた。だから強い。だから勝った。
 「信心」という最高の人間性で、「この世の強大なもの」を破る。これが、いちばん正しい方程式である。仏法の真髄であり、大聖人の教えである。学会が永遠に歩みゆく正道である。
 最後に、全創価学会の偉大なる友に、同志に、「偉大なる力」を与えゆく大関西となっていただきたいと願って、私のスピーチを終わりたい。
 ありがとう!
 (関西戸田記念講堂)

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