Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国青年部幹部会 青年よ叫べ! 民衆の先頭で

1998.5.8 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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2  青年部の全国幹部会、おめでとう!(拍手)
 地涌会館(創価文化会館)では、芸術部の三十五期生(首都圏)が研修会に集まっておられる。ご苦労さま!
 きょう集った方の中には、来る途中、「本当は行きたくないな」「きょうは心が重い」「家にいたい」「遊びに行こうか」などと思った方もおられるかもしれない。しかし、こうして会合に「来た」こと自体が尊く、人生にとっての「勝利」であると申し上げたい。
 広宣流布の会合に集うことは「仏道修行」である。功徳は大きい。出席すれば、心も、すっきりと、さわやかになる。そういう「充実」の瞬間を持てる人は、深い人生を生きている。
 自分の好きなようにすごせば、その時は楽しいかもしれない。しかし、それだけでは、本当の歓喜はない。人生の「偉大な芸術家」「偉大な名優」「偉大な人間」には、なれない。
 祈り、学会活動の中で自身を磨き、人々を啓発していく――そこには、文学も音楽も、劇もある。一切の価値が含まれていく。これが、深き深き仏法の世界なのである。
3  語れ! 語れ! 「民衆の声」こそ最強
 イギリスの作家ホール・ケインの『永遠の都』に、こういう一節がある。
 「民衆こそ真の主権者であり、その民衆を抑圧する階層こそ唯一の反逆者なのであります」(新庄哲夫訳、潮文庫。以下は同書から)
 民衆こそ社会の″主人″である。政治家でもなければ、有名人でもない。ゆえに、民衆を抑圧する者は、主人への″反逆者″なのである。
 さらに「人間としてのわれわれにあたえられた義務とは、不正と圧制に直面して民衆の主権を強く主張するということであります」と。
 不正、圧制、悪政――その悪や傲慢を真っ向から批判するのは、人間の「義務」なのである。黙っていてはならない。
 また「人間としてのわれわれの義務とは、民衆の進む道に横たわるあらゆる障害を取り除くことであります」と。
 「民衆」の進む道を切り開いていく――それが本当の人間である。創価学会の姿である。創価学会こそ「民衆の先頭」を進んでいる。(拍手)
 民衆を迫害する者こそ、民主社会の「反逆者」なのである。この一点を見失ったら大変である。
 戸田先生は、この一書を私に読ませた。その意味が私には深くわかる。内容もすべて、脳裏に刻みついている。躍動している。
4  『永遠の都』には、こうもある。
 「この世にあっては、世論こそ最高に強力な武器である。いかなる悪も、その面前で生きながらえることはできません」
 世論とは民衆の声である。民衆の声こそ最高の武器であり、だれもかなわない――と。
 ゆえに諸君は、大いに語ることである。書くことである。権力の武器に対して、堂々と言論の武器戦っていくべきである。
 それが折伏精神である。声を上げないのは保身である。臆病である。
 私は、青春時代、不当な迫害が少しでもあれば、どこであろうと一人乗り込んで、叫んできた。戦ってきた。そして今、私は諸君を信じて、一人戦っている。諸君があとに続いてくれると確信している。(拍手)
5  青年部の手による千三百万の核廃絶署名が、このほどスイスの国連欧州本部、また「核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会」に提出され、多大な反響を呼んでいる。
 (四月二十七日に提出。ドイツ、スイス、スペインの四紙で報道された)
 「平和の声」を大きく結集した諸君の歴史的な行動を、私は改めてたたえたい。(拍手)
6  言論の獅子ユゴーの亡命闘争一九年
 先日、私は、フランスの由緒ある文化団体である「ヴァル・ド・ビエーブル写真クラブ」より、外国人で初めての「名誉写真芸術会員」の栄誉を賜った。この秋には、同クラブの創立五十周年を記念する写真展が、パリで盛大に開催される。その写真展への出品の依頼も受けている。
 フランスのビエーブルといえば、文豪ユゴーが、しばしば訪れた、ゆかりの地である。
 (名誉会長は、この地に「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」を設立した)
 ユゴーは、小説も書いた。写真も撮った。さらに、絵も描き残した。
 絵の一つに、彼が「わが生涯」(私の運命)と題した作品がある。
 「わが生涯」――彼は、何を描いたのか?
 それは、一艘の船が、逆巻く怒濤の上を走る情景を、雄渾に描いたのである。
 吹きすさぶ大風。襲いかかる大波。その中を、嵐に立ち向かい、波の上を走る一艘の船。″この船こそ、私だ!″――そういう思いであったろう。じつに男らしい気概である。
 この絵を描いたとき、ユゴーは、独裁者ナポレオン三世と真っ向から対決し、亡命中であった。
 彼の亡命闘争は、一八五一年から一八七〇年まで、じつに十九年にわたった。
 権力の波浪は、彼に猛然と襲いかかった。二人の息子も投獄。ユゴーの首には賞金がかけられ、何度も暗殺されかけた。これが本当の闘争である。
 それに比べれば、悪口や、中傷など、些細なことである。帰る家があり、食べる物があり、自分の気分次第で、たまに″さぼる″こともできる――真の革命闘争とは、そんな悠長なものではない。
 広宣流布の「本当の闘争」をしなければ、仏にはなれない。
 ユゴーの息子たちも、「父は、亡命して戦っている。我々も黙しているわけにはいかぬ。父とともに戦うのだ!」という決意だったのではないだろうか。
 ユゴーは、愛するパリから、事実上、追放された。″最も祖国を愛する人間″が、祖国を追われる。″最も民衆を愛する人間″が、民衆と引き離される。
 迫害の構図は、今も、昔も変わらない。私には、ユゴーの気持ちが、よくわかる。英雄の気持ちが、よくわかる。
7  迫害に耐えるだけではない。迫害を受けながら、どう戦い続けるか。どうすれば、勝てるか。それが大事である。ユゴーも、このことを考えた。
 戸田先生は、よく青年部に語られていた。
 「投獄されようが、追放されようが、そこで戦っていける人間が一人いれば、広宣流布は進む。その本物の一人を育てるのだ」
 この言葉のままに、私は、たった一人で、すべてを担って戦ってきた。
 「本物の一人」を、どう育てるか。ここに一切の焦点がある。ゆえに今、私は、あらゆる機会を捉えて、「本物の一人」を育てるために語りに語っている。その「一人」を相手に語りかけているのである。
 ″必ずあとに続く人間がいる。「本物の一人」が、いればよい。それで、すべては開けるのだ!″――こういう気持ちである。
 ユゴーは獅子であった。ユゴーは、不自由な亡命生活の中でも、決して戦いの手をゆるめなかった。休まず、糾弾のペンを執り続けた。とにかく、何かを書き続けた。
 私も同じである。皆のため、後世のために、毎日、何かを書いている。目も疲れ、肩も疲れる。それでも、書き続けている。
8  悪を攻めてこそ「善」、沈黙は「悪への同調」
 亡命生活の中で、ユゴーは、ナポレオン三世を徹底的に攻撃する小冊子を出版する。
 タイトルは、「小人ナポレオン」。伯父である「大ナポレオン」(ナポレオン一世)の栄光を隠れミノにした、この権力者を、″ちっぽけな卑しい人間″との非難を込めて、「小人ナポレオン」と呼んだのである。
 「獅子の皮の上で安逸を夢見ている、汚泥にまみれた豚」(本間武彦訳、『ユーゴー全集』10所収、ユーゴー全集刊行会)と呼び、軽蔑しきって見おろした。
 「獅子の皮の上」――つまり獅子であったナポレオンの名声を利用して偉い立場になりながら、国民のことなど考えず、安逸と保身ばかりを考えている。その醜い姿を厳しく糾弾したのである。激しい言葉である。罵倒である。
 青年部の諸君は、このユゴーのごとき、雄々しき気概をもっていただきたい。叫んでいただきたい。
 苦しんでいる人、弱き人は、真心で包容し、守っていく。しかし、傲慢な人間に対しては、徹底して戦うのである。
 権力者は、一見、偉いように見えるが、本当は偉くはない。民衆が、いちばん、偉いのである。権力者が安逸を貪っていられるのは、民衆が沈黙しているからである。
 叫ばなくてはならない。民衆を苦しめる悪に対しては、痛烈な言論で責め抜いていくのである。それが善である。
 悪に対して叫ばないのは「悪」である。悪への沈黙は「同調」であり、悪を支持しているのと同じである。
9  ユゴーはさらに、痛烈な弾劾の詩集を発表する。その名も『懲罰詩集』。不正をこらしめるために、罰し、制裁する詩集である。
 ユゴーは、高らかに謳った。
 「試練を受ける人々のあいだに、私は自分のテントを張ろう」(「結語」、『ユゴー詩集』〈辻昶・稲垣直樹訳〉所収、潮出版社)
 亡命者をはじめ、試練を受けている人、苦しんでいる人が、世界に、たくさんいる。その人たちの真ん中に、自分は入ろう! そこにテントを張り、戦っていこう! 悠然たる姿である。
 苦難を前に、怖がりもせず、安穏な生活へと逃げたりもしない。″いちばん、試練を受けている人が最も偉いのだ。いちばん、いじめられている人間の中に入って、一緒に生きよう!″と。
 学会精神も、全く同じである。
10  乱世にこそ「民衆の連帯」は輝く
 ユゴーは、″時代が混乱すればするほど、民衆の連帯が力を発揮する″と信じた。
 「社会的危機に際して、最後に吾人(=私)に残されたる言葉(中略)それは友情という言葉である」(「追放」神津道一訳、前掲全集9所収)と。
 最も確かなもの。それは友情である。同志の絆である。そして我々には、これほど多くの同志の絆がある。
 今の日本もまた社会的危機にある。大変な時代に入った。
 先日、発表された総理府の「社会意識に関する世論調査」では、日本の将来が「悪い方向に向かっている」と答えた人が、過去最高の七二・二%にものぼった。「四人に三人」の割合である。反対に、「良い方向に向かっている」と答えた人は、過去最低の一二・六%。
 多くの識者も憂えている。「希望なき時代の闇は、いよいよ深い」と。
 だからこそ、わが青年部の麗しい連帯が、ますます光ってくるのである。「二十一世紀の時代は、諸君の双肩にかかっている」と、私は強く申し上げたい。(拍手)
 もはや、希望は創価学会の青年部にしかない。諸君に頼む以外にない。どうか、「世界一の模範の友情のスクラム」を、大いに、思う存分、広げてください!(拍手)
 これこそが、いちばん、尊く、いちばん、美しく、いちばん、強いのである。
11  一方、権力の末路は、常に、はかない。ユゴーを弾圧した強大な独裁権力も、度重なる経済不況などから次第に行き詰まっていった。そして、ユゴーが亡命を始めて十九年後の一八七〇年、ナポレオン三世が没落。あっけなく、独裁にピリオド(終止符)が打たれたのである。
 (ナポレオン三世は、同年九月二日、プロイセン(現在のドイツ)との戦いに敗れ、降伏。セダンの地で捕虜となった。パリでは四日、帝政を廃し共和制とする宣言がなされた)
 権力にしがみつき、哀れな末路をたどった多くの人を私も見てきた。そうした人の最期が、どれほどむなしいものか――。
 毀誉褒貶の世界は無常である。唯一、永遠なのは、信仰の世界である。
12  凱旋のユゴー――″完全なる勝利までさらに勝とう!″
 フランスが共和制を宣言した翌日、ユゴーは、堂々とパリに戻る。夜遅かったにもかかわらず、無数の民衆が、彼を乗せた列車を待って、駅に、通りに集まった。
 そして、ユゴーを凱旋将軍のごとく、大歓呼で迎えた。
 「ユゴー、万歳!」「ヴィクトル・ユゴー、万歳!」
 追放されていた「正義の人」の、栄光の瞬間であった。一時は″勝った″かに見え、栄華を極めていた権力者と、あまりにも対照的であった。正義のために戦い抜いた者こそが、勝つ。
 亡命先から帰ったユゴーが身にまとっていた衣服は、決して華やかなものではなかったであろう。しかし、人間としての栄光が彼を包んでいた。
 民衆の勝ちどきは、一段と激しく響きわたった。それに応えて、ユゴーはパリ市内を回り、四度、人々に向かって演説した。
 そこで彼が呼びかけたことは何か。
 それは、民衆を脅かす敵との「更なる闘争」であった。
 ″私は凱旋した。しかし、油断してはいけない。敵を中途半端に許してはいけない。共和制の完全な勝利の日まで、戦い抜こう!″――そういう叫びであった。
 あいまいな結末で満足してしまう日本人は、この執念を見習うべきであろう。悪と戦うならば、根だやしにするまで戦うべきである。
 戸田先生の和歌を思い出す。「一度は死する命ぞ恐れずに 仏の敵を一人あますな」と。
 敵を一人も残してはいけない――このお心は、「追撃の手をゆるめるな!」との、先生の最後の言葉に通じる。これこそが″本当の戦い″なのである。
13  ユゴーは、″完全なる勝利″のために、異体同心の団結を訴えた。
 「私は結合、ただこの一事を諸君に要求します!(中略)諸君は、難攻不落でありましょう」(前掲「追放」)
 団結また団結である。
 パリの市街を回り終えた彼は、最後に、民衆に深い感謝を捧げた。
 「諸君は一時間にして追放の十九年を私は償われた」(同前)と。
 有名な″勝利宣言″である。
 十九年――私も会長を勇退して十九年がたった。勇退の後も、私をなきものにしようという策謀も、迫害も、やむことがなかった。
 しかし、十九年後の今年の「5・3」を、全国一千万の同志の勝ちどきで、そして、青年部の勝ちどきで、私は晴れ晴れと飾ることができた。(拍手)
14  大闘争こそ「青春の宝」を磨く
 ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』。これも、亡命闘争のなかで完成した小説である。
 昔の日本語訳では『ああ無情』――私も若き日から、何回も読んだ。読むための静かな場所がないと、墓場へ行ってまで読んだものである。
 その一節に、こうある。
 「青年の貧乏はけっしてみじめなものではない。どんな若者でも、健康で、力強く、歩きぶりも元気がよく、目がかがやき、熱い血潮がからだをめぐり、髪は黒く、頬は若々しく、くちびるはバラ色で、歯は白く、はく息も清らかであれば、どんなに貧しかろうとも、年老いた皇帝からいつでもうらやましく思われるだろう」(辻昶訳、講談社)
 若さほど偉大なものはない。青年であることは、それだけで、いかなる権力者にも勝る無限の財宝をもっていることなのである。いわんや諸君には「妙法」という″永遠の財宝″がある。唯一無上の法とともに生きる人は菩薩であり仏である。
 この大切な「青春」という宝を、最高に生かさなければ、あまりにも、むなしい。燦然と輝かせていくべきである。そのための信心である。そのための仏道修行であり、学会活動である。修行がなければ、せっかくの宝をもった自分自身が腐ってしまう。錆びてしまう。心が死んでしまう。
 諸君は「創価の青春の帝王」である。どうか、その誇りをもって、自分自身のために、「勇気ある前進」「勇気ある闘争」で、わが身を飾っていただきたい。(拍手)
15  御書の一節を拝したい。
 策謀の渦巻くなか、毅然と信仰を貫いてきた「池上兄弟」に、大聖人は仰せである。
 「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしも・ひるむ事なかれ
 ――これからも、何があっても、信心をゆるめてはならない。今まで以上に、いよいよ声を強く大きくして、仏の敵を責め抜いていきなさい。たとえ命をねらわれようとも、少しも恐れてはならない――との御指南である。
 日蓮仏法の真髄は破折である。戦いである。勝負である。勝つことである。
 だから、戸田先生は叫ばれた。仏の敵を一人も残すな! と。
 これが「仏法勝負」の究極の信念である。
16  人間として偉大な指導者に育て
 アメリカの大詩人エドガー・ゲストは謳った。
 「幸福な安らぎの時は、戦いの後にのみ訪れる/生命の喜びに何か役だったことを知る時に訪れるのだ。そして抑圧に苦しみ、抑圧を克服した者こそが/自由であることの幸福と安穏を、かみしめられるのだ」
 本当の安穏とは、戦いを突き抜けてこそある、と。
 ドイツの哲学者ニーチェは言う。
 「君たちが高く抜き出ようと欲するならば、自分の脚を使え! 人に持ち上げられるな、他人の背や頭のうえに乗るな!」(『若き人々への言葉』原田義人訳、角川書店)
 ニーチェは、私が十代のころから勉強した哲学者の一人である。「超人」の思想などで有名だが、最近は、あまり読まれなくなったようだ。
 真に″高く抜き出る″とは、地位とか名誉とか目先の目標に達することではない。人間として勝つことである。他人を踏み台にするのではなく、自分自身の力で、そびえ立てということである。
 自分が苦労し、自分が戦い、自分で大いなる建設をする――それでこそ、消えることのない、不滅の「幸福の栄冠」となる。諸君は、まさにその通りの青春を送っている。
 シェークスピアの作品には、こうある。
 「敵が強大になればなるほど、勝利の栄誉も大きくなる」(「ヘンリー六世」、『シェイクスピア全集』7〈小田島雄志訳〉所収、白水社)
 敵が大きければ大きいほど、栄誉もまた大である。大勢の敵に勝ってこそ、より大いなる栄誉となる。
17  ともあれ二十一世紀は、諸君の時代である。ありとあらゆる分野を諸君が担い、すべてのリーダーが諸君の中から生まれてこなければならない。
 二十一世紀の大舞台は、すべて諸君のためにある。私は明確なる「次代の光明」を諸君に見ている。大切な大切な皆さんである。
 御本尊が、大聖人が、皆さんを大事にしてくださっている。仏菩薩が大事にしておられる。現実に正法を弘めているのは、世界に弘めきっていくのは、皆さん以外におられないからである。
 私にとっても、皆さんがいちばん、大事である。一生懸命、お題目を送っている。
 どうか偉大なる、また洗練された「新世紀の指導者」に成長していただきたい。
 それでは、地域に帰られたならば、同志の皆さまに、くれぐれもよろしく、お伝えください!
 皆さん、ありがとう! また、元気でお会いしましょう!
 (創価国際友好会館)

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