Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「5・3」記念協議会 社会で勝つための信心

1998.5.5 スピーチ(1998.3〜)(池田大作全集第89巻)

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2  日蓮大聖人は、弘安五年(一二八二年)の十月十三日、池上の地(現在の東京・大田区)で御入滅された。八年あまり住まわれた身延を発たれたのは、九月八日の昼ごろのこととされている。
 きょうは、大聖人の最晩年の旅路をたどり、御書を拝しながら、少々お話ししたい。
 大聖人は、日興上人をはじめ門下に護られ、馬に乗って出発された。この馬は栗鹿毛の美しい馬で、大聖人は、こよなく愛されたという。
 出発の日は、新暦では十月十七日である。紅葉に彩られた甲斐の山々を愛でられながらの旅であったであろう。
 史料によると、大聖人の御一行は、富士川沿いに北へ向かわれた。その日は下山で、兵衛四郎の邸に一泊され、九日には、大井庄司入道のもとに泊まられたとされている。
 翌日は、富士の北麓を東へ向かい、十日は曽根の次郎の家で一泊、十一日には黒駒へ進まれている。
 曽根から黒駒へ向かう道のそばに、現在の一宮町がある。かつて、甲斐国の国分寺が建立された地である。この一宮町に、山梨教学研修センターがある。大聖人有縁の地に教学の研修センターがあることは、まことに意義深い。
3  まず最高を学べ、そして研究せよ、苦心せよ
 教学が大事である。少しでも御書を拝していこうという姿勢をもち続けてほしい。
 とくに青年部は、大聖人の御書を深く拝すべきである。それは自身のためであり、広布のためであり、二十一世紀のリーダーとして必要不可欠だからである。
 戸田先生は、よく「最も高き思想のものに、最初から深く入れ」と指導されていた。「日蓮大聖人の哲学が宗教の最高峰であるがゆえに、これを窮めつくすことは、一切の学問の根底をつかむこととなるのである」(巻頭言「書を読むの心がまえ」、『戸田城聖全集』第一巻)とも教えられた。
 高い山の頂に登れば、遠くまで見渡せるように、大聖人の仏法を深く学べば、世間の一切の法、原理に通じることができるのである。
 大聖人は「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」――空が晴れれば大地が明らかになるように、法華経(妙法)を知る者は、世法に通じることができる――と仰せである。
 戸田先生は、この御文を拝して、こう述べられた。
 「われら御本尊を受持する者は、その不景気を嘆くだけであってはならない。偉大な生命力を発揮して、さてどうしたら良いかと考え、かつまた苦心をなして、この苦しい経済界を切り抜けるならば、これこそ地明らかなりとも、世法を識るともいうべきであろう」(巻頭言「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」、『戸田城聖全集』第一巻)と。
 現在にも、そのまま通じる指導である。
 戸田先生は厳しく言われている。
 「御本尊を受持したものは、自分の生活を、どう改善し、自分の商売を、どう発展させたら良いかが、わかるべきだとのおおせである。それを、わかろうともせず、研究もせず、苦心もしない。されば、その人の生活上の世法を識らないがために、自分の商売が悪くなっていくのを、御本尊に功徳がないように考えたり、世間に考えさせたりするのは、謗法と断ずる以外には無い」(同前)
 今も、世界的に不況である。長引く不況によって、仕事や生活が思うようにならず、悩み、闘っておられる方も多いと思う。どうか、くじけないでいただきたい。負けないでいただきたい。「このピンチを、断じて、チャンスにするのだ!」と、何としても立ち上がって、勝っていただきたいのである。
 社会も経済も、まったく混沌として、未来を見通せない状況である。今までの知識や、過去の経験だけに頼っていては、取り残されてしまう。戸田先生が指導されたように、「信心さえしていれば、なんとかなるだろう」という安易な姿勢では、苦境を乗り越えることはできない。
 必要なのは、現状を正しく分析し、打開の道を見つける「智慧」である。その「智慧」を、どんな局面でも行き詰まることなく発揮していける「生命力」と「福運」が大事なのである。その源泉が「信心」である。
 全宇宙を揺るがすような、強き強き祈りを根本に、「世法」に通じ、社会で勝ちゆく賢者であっていただきたい。幸福に、裕福になっていただきたい。
 そのためには、仕事や生活に対しても、絶えず研究と努力を重ねることである。その強き一念と行動が妙法に合致したとき、必ず無限の「智慧」と「力」が湧いてくる。戸田先生は「信仰は、生活であって、観念の遊戯ではない」と、いつも、やかましく言われていた。
4  学会の教学は、どこまでも「実践の教学」である。「御本尊根本」「御書根本」の実践である。
 とくに青年部は、率先して信心の「体験」を、つかんでいただきたい。
 体験は「力」である。深い信心の「体験」をもつ人は、何があっても動じない。その確信によって、どんな困難も、労苦も、福徳と喜びに変えていけるのである。
5  甲斐の門下を全力で励まして
 さて、身延を発たれた大聖人の御一行は、黒駒から、鎌倉街道とも御坂路とも呼ばれた古くからの道を南へ進み、御坂峠を越えて、十二日は河口に泊まられた。
 なお、御坂峠は、昭和十三年(一九三八年)秋、太宰治が峠の茶屋に滞在して「富士には、月見草がよく似合う」(「富嶽百景」岩波文庫)と書いたことで有名である。
 十三日には、くれじ(呉地、暮地)、十四日には竹之下(竹下)に一泊されている。
 ここまでの旅は、富士を常に右に見ながら、富士山の周囲を半周されたのである。
 富士山の南側を通る駿河路ではなく、坂の多い甲斐路をとられた理由は、前にもお話ししたことがあるが、富士の南の麓は、大聖人を敵視する北条一門が多かったことが挙げられている。熱原法難の余波も残っていたのではないだろうか。
 また、甲斐の門下を全力で励まされ、信心の魂魄を留められるための旅であったとも拝される。
 翌日は、足柄峠を越え、相模国へ出て、東海道を東へ進まれている。さらに関本(関下)、平塚、瀬谷(瀬野)をへて、身延を出られてから十一日目の九月十八日の昼ごろ、池上宗仲の邸がある武蔵国池上に、到着されている。
 日亨上人の記述には、こうある。
 「約五十里くらいの道程を中間に一日と休まずに十一日かかられて、それも大聖人は馬上にて毎日四、五里とはいいながら、御病体にてはたいへんであったと思う」(『富士日興上人詳伝』)
6  日目上人の若き日の勝利
 大聖人が、池上の地に入られたころ、一つのエピソードが生まれた。
 鎌倉幕府の有力者だった二階堂伊勢入道の子で、比叡山の学僧・伊勢法印が、数十人の仲間や家来を引き連れて、「大聖人と法論をしたい」と挑戦してきたのである。だれが法論の相手に選ばれるのかと、門下一同が固唾をのんだ。
 大聖人は「それは、はなはだ、たやすいこと。卿公きょうのきみに相手をさせよ」と仰せになった。卿公とは日目上人のことである。その時、弱冠二十三歳(数え年)。
 大聖人は、御自身の代理として、青年を抜擢され、法論に当たらせたのである。
 日目上人は、十番の問答で、伊勢法印の言い分を一つ一つ問いつめては、鋭く打ち破り、屈服させていった。完膚なきまでに敗れた伊勢法印は、最初の勢いはどこへやら、こそこそと退散していったという。これが「池上問答」である。
 その報告を聞かれた大聖人は、「そうであろうと日蓮は見知っていたからこそ、卿公を出したのである」と仰せになり、見事に期待に応えた日目上人の活躍をお喜びになった。(「三師御伝土代」などによる)
 青年が一人立って、悪と戦い、悪を打ち破ってこそ、正義の永遠の栄えがある。広宣流布の継承がある。これは、いつの時代も、変わらない方程式である。
7  日目上人は、文応元年(一二六〇年)に、新田五郎重綱の五男として、伊豆国・仁田郡・畠郷(現在の静岡県・田方郡・函南町)で誕生された。十三歳の時から、真言宗の大寺だった伊豆の走湯山へ登って、修学されている。
 文永十一年(一二七四年)に日興上人が走湯山を訪れ、山内随一といわれた学匠の式部僧都と問答をして勝利された姿を見て、自ら願って弟子となられた。
 建治二年(一二七六年)十一月、日興上人を慕って身延へ登られ、「宮内卿の公」と名づけられたのは、十七歳の時である。後に蓮蔵房日目と呼ばれた。
 身延では、大師匠である大聖人に、七年の間、常随給仕され、労苦をいとわず、身をもってお仕えされている。その給仕ぶりは、「いちじるしく行体堅固で、大聖人へ薪水の労をとられるときは、毎日幾度か身延の谷河に下りて水を汲んでは、頭にその桶をいただきて運ばれたので、自然に頭顱とうろ(頭の頂)がくぼんだ」とされている。(『富士日興上人詳伝』)
 その合間に寸暇を惜しんで勉学に励み、日興上人から大聖人の仏法の真髄を学ぶとともに、あらゆる邪義を打ち破るための鋭い論理を磨き、弘教の力をつけていかれた。
 大聖人は、多くの弟子の中でも群を抜く日目上人の勉学ぶりや、その人柄と才能を、だれよりもご存じであった。
 弟子の心、弟子の本質を知り抜いているのが師匠である。師匠の心を知って、それに応えるのが弟子である。
 また、自分を磨き、鍛え、常に向上している人には、必ずキラリと光るものがある。いざというときに、その真価が発揮されるものである。これは、信心の世界に限ることではない。
8  「末代まで名を残す広布の闘士に」
 戸田先生は、青年部に言われた。
 「あなた方も、いつ、いかなる大任を受けても、ゆうゆうと引き受けてもらいたい。しっかり信心に励み、教学を身につけてください」(昭和二十八年〈一九五三年〉一月六日・青年部就任式)
 また「諸君は教学に、信心に、自己の鍛錬に、いっそう励んでいただきたい。そしてよき広宣流布の闘士として、末代にまで、自己の名を歴史に残していただきたい」と。(昭和三十年〈一九五五年〉五月二十九日・男子青年部一万人総登山)
 青年をこよなく愛し、期待し、徹底して青年を育てられた先生であった。
 私も、戸田先生と同じ心である。「青年よ立て!」「青年よ育て!」「青年よ力をつけよ!」と、常に願っている。青年部・未来部の育成のために、あらゆる手を打っている。
 私は、戸田先生に任されたことは、すべてやりきってきた。一度たりとも、先生のご期待を裏切ったことはない。それが私の誇りである。それが弟子の道だからである。
9  青年部は、悪と戦う力と理論を身につけるべきである。
 「破邪顕正」である。邪義を破ってこそ、正義は宣揚される。悪と戦えない教学では、広布の役に立たない。
 牧口先生は「悪人の敵となりうる勇者でなければ、善人の友とはなりえぬ」と教えられた。
 青年部は、悪と戦う、実力ある「師子」になっていただきたい。
 大聖人滅後に起こった諸宗の邪義を、ことごとく打ち破り、大聖人の正義を宣揚された「破邪顕正」の大学匠が、日寛上人であられた。
 『六巻抄』を著された後に、「この六巻の師子王の書があれば、国中の諸宗諸門の輩が一度に本山に押し寄せてきても、少しも恐れることはない」(富要五巻。現代表記に改めた)と話されたという。
 六巻抄は、邪義を打ち破る「師子王の書」なのである。
10  「師弟」に生きてこそ「真金の人」
 仏法は始めから終わりまで、「師弟の道」に尽きる。
 日目上人は、大聖人の御入滅後、五十年の間、師の日興上人を助け、五老僧の邪義を破って正法を守り、全国へ弘教の歩みを進められた。四十二度にわたって幕府や朝廷を諫暁され、広布へ戦い抜かれたのである。
 日興上人は「日目、十五の歳に日興に会い、法華を信じてより以来、七十三歳の老体に至るまで、一度も違背したことがない」(趣意)と、日目上人への譲り状(「日興跡条条事」富要五巻)の中で称賛されている。
 日目上人は、大聖人・日興上人の教えに、生涯、一度たりとも違背しないという、弟子の道を貫かれたのである。
 違背しないとは、ただ背かないというだけではない。師の教えのままに、不惜の実践を貫くことである。
11  大聖人の滅後、すぐに師に違背したのが五老僧である。そこには、日興上人に対する醜い嫉妬があった。
 大聖人は、四条金吾を妬む江間家の同僚たちの胸の内を、「外のすがた姿しづまりたる様にあれども内の胸は・ふる計りにや有らん」――外の姿は静まっているようであるけれども、胸の内は(妬みの火で)燃えるばかりであろう――と、見抜いておられた。
 胸の中に嫉妬の炎が燃え上がると、正常な心が焼け尽きて、狂気が生まれる。嫉妬した相手を陰険に攻撃し、破壊と荒廃を招く。
 日顕も、嫉妬の炎を燃え上がらせて、まっとうな判断力を失い、学会を切り、広宣流布を断絶させようとした。その結果、宗門自体が破壊の坂道を転げ始めてしまったのである。
12  「魔」は「破壊」とも訳す。「善法を破壊する」という意味である。今の、正法と宗門を破壊し尽くす日顕の姿は、まさしく、その通りである。
 日顕宗は、日蓮大聖人の御遺命に違背した。身命を捨てて広宣流布せよと遺誡された日興上人に反逆した。もはや、大聖人・日興上人とは完全に無縁の存在となってしまった。広布を妨げるだけの″天魔宗″なのである。
13  「師に違背すれば血脈は流れない」
 日亨上人は、「仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり」(「有師化儀抄註解」富要一巻)と指南されている。師匠の心に違背すれば、正しい血脈は断絶して、清らかな妙法の法水は流れないと。
 また、日亨上人は、「仏法の大師匠である高祖日蓮大聖人・開山日興上人以来の信心を少しも踏み違えない時は、我ら末徒も妙法蓮華経の色心となるが、仏意に違う時は、法水の通路がふさがって、即身成仏の血脈を受けるべき資格が消滅する」(同前、趣意)とも述べられている。
 大聖人・日興上人に違背した日顕に、信心の血脈が断絶していることは言うまでもない。
14  御書に「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」――日蓮の弟子の中に異体異心の者がいれば、たとえば、城を守る者が(敵に通じて)城を破るようなものである――と仰せである。
 現在にたとえれば、広布の城を守るべき法主が、味方を裏切って、敵である魔軍に内通し、城を落とそうと攻撃している現実である。これほどの大聖人への反逆はない。大御本尊が、御本仏・日蓮大聖人が、どれほど御怒りになっておられることか。
 大聖人は続けて、こう仰せである。
 「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順ずいじゅんし又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ、金は大火にも焼けず大水にも漂わず朽ちず・鉄は水火共に堪えず・賢人は金の如く愚人は鉄の如し・貴辺あに真金に非ずや」――日蓮は日本国の一切衆生に法華経(妙法)を信じさせて、仏に成る血脈を継がせようとしているのに、かえって日蓮を種々の難にあわせ、あげくのはてには、この佐渡の島にまで流罪した。
 ところが、そうしたなかで、あなたは日蓮に随順し、また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられ、心を痛めております。
 金は大火にも焼けないし、大水にも流されず、朽ちることもない。鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。あなたは、法華経の金を持つゆえに、まさしく真金の人である――。
15  私どもは、この大聖人の「一閻浮提広宣流布」の御遺命を実現すべく立ち上がった。世界中の人々に幸福への道を歩ませたいと、あらゆる難に耐えながら、広布のための不惜の実践に励んできた。そして、世界広布が未曾有の進展をしたゆえに、それを断絶させようと、未曾有の「悪魔・魔民」が出現したのである。
 「仏弟子」「高僧」の中でも、最も高い立場の日顕の身に「悪鬼」「天魔」が入ったのである。
 大聖人は「大悪魔は貴き僧となり」と明確に仰せである。
 「御本尊根本」「御書根本」に、そして「広宣流布一筋」に進む私どもは、魔を魔と見破ったがゆえに、その前進に、いささかの遅滞もなかった。
 日顕の極悪を呵責しながら、大聖人の仰せのままに前進される皆さまは、まさに「真金の人」である。その功徳・福運は、いよいよ輝きゆくことは間違いない。
 「仏法は勝負」である。皆さまが朗らかに功徳に満ちあふれ、広布が進めば進むほど、正邪の姿が明確になっていくのである。
16  信心は「いよいよ」の心で
 信心は「いよいよ」の心が大切である。
 大聖人が佐渡御流罪中、鎌倉からの危険な道のりを、幼子を連れて大聖人のもとに参じた有名な女性門下・日妙聖人――。大聖人は、彼女を、こう励まされている。
 「古への御心ざし申す計りなし・其よりも今一重強盛に御志あるべし、其の時は弥弥いよいよ十羅刹女の御まほりも・つよかるべしと・おぼすべし」――昔のお志については、言い尽くすことはできません。(けれども)それよりも今いっそう強盛な、お志の信心をなさることです。その時は、いよいよ十羅刹女(諸天善神)の御守りも強いであろうと確信をおもちなさい――。
 過去にどれほど強盛な信心をしてきたとしても、現在の一念が惰性になったり、信心が弱くなれば、過去に積んだ福運も次第に消えていってしまう。諸天の加護も弱くなる。
 大聖人は、御書の各所で、「『いよいよ』の信心を」「いっそう強盛な信心を」と常に励まされている。
 「今まで」ではない。「今」がどうかである。「今」こそ発心し、具体的な勝利の目標へ、来年の五月三日へ、勇気凛々と前進をしていただきたい。その人を、諸天は必ず守っていく。
17  人生の勝負は最終章で決まる。「最後に勝つ」のが、真の勝利者である。この一生を勝利で飾れば、「永遠の勝利」への軌道に入っていく。だから大聖人は、信心は一生涯、貫きなさいと教えられているのである。
 いちばん、大事なのは学会員である。「会員のために」幹部はいる。その逆では絶対にない。
 私は、何があっても、会員の皆さまのために戦う。皆さまの「永遠」の幸福のために戦う。妙法の「不老不死」の生命力で、戦い続ける。
 どうか、お体を大切に!
 健康で、長生きして、いい人生を生きましょう! 素晴らしい人生を生きましょう!
 (東京・新宿区内)

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