Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二十回本部幹部会、第九回埼玉県総会、… 民衆よ、「黄金の翼」を 「勇気の翼」を

1998.3.8 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  「新しい力」が燃える
 「伝統の二月」、寒いなかを、大勝利の連続であった。本当にご苦労さまです!(拍手)
 日本全国、嵐のごとく、「広宣流布」が前進した。ゆえに三障四魔、三類の強敵が競い起こるのは当然であり、経文の通りである。まだまだ少ないほうかもしれない。いよいよ、わが学会の「新しい力」は大きく燃え始めた。(拍手)
 世代交代も着実に進んでいる。学会の底力は永遠である。未来は厳然としている。(拍手)
 音楽隊の皆さん、すばらしい演奏を、ありがとう!(拍手)
 もう何十年も昔になるが、ある青年が言っていた。
 「青年部は教学も、勤行も苦手かもしれない。しかし、あの音楽隊はすばらしい。音楽隊の演奏を聴くと、本当に意気軒高になります。『創価学会ってすばらしい!』『広宣流布をやろう!』。そういう気持ちがわいてきます」と。
 あらゆる闘争において、音楽は前進の力である。広布の戦の先頭を切って、全軍をリードする。その偉大な役割を音楽隊の皆さまは果たしてこられた。
 青年は言っていた。
 「音楽隊は人間の心を現実に揺さぶっている。勇気づけている。どこの教団にも、創価学会のような、あの勇壮な音楽はない。偉大なことだ。私は断じて創価学会を支持します!」と。
 改めてすばらしい活躍に感謝申し上げたい。(拍手)
2  「仏法中国へ還る」が現実に
 この二月、私はフィリピン、香港、沖縄を訪問させていただいた。どの地でも、同志は元気であった。すごい勢いであった。
 日蓮大聖人の仏法は「太陽の仏法」である。太陽ほど偉大なものはない。アジアの天地に「太陽の仏法」が赫々と輝いていた。
3  アジアとは、そもそも、どういう意義か。それは「太陽が昇る天地」という意味である。「東の方向」とか「日の出」「夜明け」「黎明」という意味がこめられている。
 「日の出」を意味する古代アッシリア語の「アッスー」、あるいは古代アッカド語の「アス」から「アジア」になったと言われる。
 その名前の通り、今、アジアの大空に、平和の大仏法が厳然と昇り始めた。
 「諫暁八幡抄」に、のたまわく。
 「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり
 ――月は西から東に向かうものであるが、それは月氏の仏法が東のほうへ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国に還るという瑞相である――。
 はじめ(三日月のころは)西の空に見えていた月は、毎晩、少しずつ東の方の空で見えるようになり、満月の時は真東に出る。このように、月が、だんだん東の空に移ってくるのは、月氏(インド)の仏法が東へ流布してくることを表す。
 一方、太陽は東から出る。これは、日本の仏法(日蓮大聖人の仏法)がインドへと、西へ還って行くことを表している。そういう意味である。有名な御書である。
 この仰せの通り、インドの釈尊の仏法は五百年かかって中国に渡り、さらに五百年かかって日本にまで流布した。
 しかし日蓮大聖人の予言は、七百年の間、まったく実現の気配もなかった。東洋に流布するどころか、日本人でさえ、ほとんどだれも知らなかった。このままであったならば、日蓮大聖人は「うそつき」になってしまう。
 うそつきの仏さまなど、おられるわけがない。仏では、なくなってしまう。大変なことである。だれかが絶対に、この予言を実現しなければ、大聖人が御本仏であられることは永久にわからない。これは仏法上の重大問題である。
4  有名な御言葉であるが、「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」とある。「法」が、ひとりでに広まることは絶対にありえない。不惜身命(身命を惜しまない)の「人」が出なければ、「法」は広まらない。当然の道理である。その人こそが、「最高に尊い妙法」とともに「最高に尊い人」なのである。
 今、日本はもとより、韓国にも、インドにも、そして「香港の中国返還」によって中国の大地にも、太陽の仏法は厳然と広まった。
 なかんずく香港の繁栄のために、私は力を注いできた。多くのメンバーが社会の柱となって活躍している。台湾も六年連続、「優良社会団体」として表彰されている。また韓国でも、数多くの表彰をいただいている。他のアジア諸国でも、また世界のあらゆる場所で、「太陽の仏法」は、その国の民衆の幸福を照らしているのである。
 この事実を、一体、だれが想像したか。だれが、そんなことが可能と考えていたか。
 だれ一人、予想もしなかった。この大偉業を創価学会が成し遂げたのである。御本仏の御言葉を「現実」にしたのは創価学会であり、皆さま方である。(拍手)
 師匠である大聖人の大願を「実現」した「真実の弟子」は創価学会しかない。この誉れは未来永劫、三世永遠に輝きわたり、大功徳を受けていくことは絶対に間違いない。(拍手)
5  平和の大哲学でアジアに貢献
 アジアは、日本の軍国主義、国家主義によって「地獄」の苦しみを与えられてきた。アジアをバカにし、蹂躙した。本当に悪い、傲慢で愚かな日本であった。だから本来、日本の宗教が信頼されるわけがない。しかし今、創価学会への信頼は抜群である。絶対の信頼である。
 今回も、フィリピンでは、ラモス大統領とお会いした。
 私への平和賞(第一回「リサール国際平和賞」)の授賞式にも、わざわざ来てくださった。大統領官邸(マラカニアン宮殿)にもうかがい、有意義な語らいを行った。官邸を訪れたのは、これで三度目となる。
 ラモス大統領のほか、アジアの他の国々の首脳とも私は対話を重ねてきた。タイでは創価大学主催の「環太平洋シンポジウム」が行われた(三月四〜六日)。ガラヤニ王女のご臨席も賜った。
 アジアのどの地にも、私どもへの「信頼」は、盤石に根を張っている。それは、なぜか。
 その根本は、牧口先生、戸田先生以来、今なお創価学会こそが日本の国家主義、ファシズムと戦っているからである。その事実をアジアは鋭く知っているからである。世界が知っているのである。この事実を「誇り」としていただきたい。(拍手)
6  ちなみに「仏法が東から西へ還る」というのは、決して大聖人が勝手に言っておられたのではない。中国の仏法者も、それしかないと知っていた。ここが大事である。
 「顕仏未来記」には、中国の「宋」の時代の天台僧である遵式じゅんしき(天台の約四百年後の人)の言葉を引いておられる。
 「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し
 (また同抄では妙楽大師の言葉も引かれ、この遵式の言とともに、インド・中国には真の仏法は失われた文証とされている)
 こういう文証を引かれながら、大聖人は「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と仰せになったのである。
 太陽の仏法が必ず、日本から昇って世界を照らしていく、と。
 「末法万年を照らす大仏法」が必ず出現する――これは、天台大師をはじめ、中国でも、真の仏法者の認識であった。そして、大聖人の未来記の通りに実現したのが創価学会である。
 その学会に連なる皆さま方の福運は絶大であり、永遠である。最後は必ず大功徳に包まれていく。
 「人法ともに尊し」と大聖人が断言してくださっている。ゆえに、広布に生きる皆さまこそが最高に尊い人である。これ以上の位はないのである。これに比べれば、世間の位や名声、財産は幻である。
 我らは「永遠不滅の妙法」とともに「永遠不滅の人生」と輝いていく。これが仏法である。仏法者の燦然たる栄光である。(拍手)
7  民衆の魂に点火したヴェルディのオペラ
 結成三十六周年の「芸術部の日」、おめでとう!(拍手)
 あらゆる分野で生き生きと活躍される芸術部を、全世界の同志とともに心から祝福したい。(拍手)
 憧れの芸術の都・イタリアのミラノ。ミラノが誇る「世界の宝」は何か。それはオペラのスカラ座である。
 私も一九六五年に初訪問した。何度かスカラ座を訪れた思い出は、今も鮮やかである。一九八一年の秋、私は、スカラ座の舞台を日本で初めて招聘した。
 世界的にも特筆される豪華絢爛たる「引っ越し大公演」であった。総勢約五百人が来日したのである。その最初の舞台で披露されたのが、「オペラ史上最大の巨匠」ヴェルディの歌劇である。(「シモン・ボッカネグラ」を上演)
 ヴェルディは一八一三年に生まれ、一九〇一年に没している。代表作に「椿姫」「ドン・カルロス」「アイーダ」などがある。彼については以前、イタリアでもスピーチした。(一九九二年七月、本全集81巻収録)
8  ヴェルディが生きた十九世紀の前半。愛する祖国イタリアは、外国に支配され、人々は圧政に苦しんでいた。その時、民衆の「独立の魂」に炎を点火したのが、ヴェルディの有名なオペラ「ナブッコ」であった。迫害される民衆が独裁者や聖職者の横暴と戦い、自由を勝ち取っていく物語である。
 このオペラが、ミラノのスカラ座で初公演されたのは、一八四二年の三月九日。以来、自由を求めるイタリアの民衆の声は、燎原の火のごとく、心から心へと広がっていった。
 「広宣流布」の姿も同じである。常に「一人」が立ち上がり、そこから始まる。
 「わが胸の思いよ! 黄金の翼に乗って、飛んでいけ!」
 この力強い合唱の一節に、皆が奮い立った。誇りに燃えて、皆が高らかに歌い始めた。
 学会歌も民衆の歌である。広宣流布は歌とともに、音楽とともに進む。
 一次元から言えば、勤行・唱題もじつは「詩」であり「歌」である。生命の賛歌である。
 ゆえに、信心してない人が聞いても、「ああ、さわやかな声だな」と慕われるような勤行・唱題であっていただきたい。そうなれば、広宣流布はさらに広がっていく。
9  虚栄でなく「民衆のため」の芸術
 当時、ヴェルディは二十八歳。青年部の年齢である。まさに若き「芸術の魂」が、民衆の心に「希望の翼」をつけ、大きく飛翔させていったのである。
 その後も、彼は次から次へ、民衆を鼓舞する作品をつくり続けた。ただ「民衆のため」に。これが彼の偉さである。
 「名誉のための芸術」「格好だけの芸術」――そんなものは皆、虚栄である。
 「民衆のため」であるかいなか。すべての焦点は、この一点にある。この一点をバカにしているところに、現代日本の文化の薄っぺらさがある。
 民衆を鼓舞――当然、当局も黙っていなかった。悪意の中傷も浴びせかけられた。しかし、彼は同僚に向かって叫ぶ。
 「勇気と忍耐で武装して下さい。とりわけ忍耐で!」(ジュゼッペ・タロッツィ『評伝ヴェルディ』、小畑恒夫訳、草思社)
 「勝利のために忍耐を!」。この信念で彼は悠然と戦い抜いた。
 何ごとであれ、勝利の根本は「忍耐」の二字しかない。耐え抜けない人間は勝てない。「忍耐の人」は、最後に必ず勝つ。
10  彼には、民衆という絶対の支持者がいた。
 個人も、団体も、「民衆が味方」である限り強い。学会も「民衆の集まり」だからこそ強いのである。だれにも壊すことはできない。また、だからこそ民衆を、会員を徹底的に大切にするべきなのである。
 深夜、彼が黙々と作曲に取り組んでいると、街の人々は窓の下から歓声をあげて、彼を励ましたという。また公演が終わると「ヴェルディ万歳!」「ヴェルディ万歳!」――と。
 彼は民衆と一体であった。それは彼が民衆を愛したからであった。ゆえに、民衆は彼を愛した。
 私たちもまた会員の皆さまを愛すればこそ、会員の皆さまに愛される。組織の位で慕われるのではない。仏法のリーダーは、これを忘れてはならない。退転者や反逆していった人間は、この点を錯覚していた。
 「民衆のために」――そのために戦ってこそ「不滅の歴史」は残される。
11  ヴェルディは、芸術を志す青年へのアドバイスとして、こう手紙につづっている。
 「誉められても驕ってはいけません。非難されても驚いてはいけません」
 「芸術家は未来を見通し、混沌の中に新しい世界を見出すべきなのです。はるか先にであれ微光が見えるなら、まわりの闇に驚いてはなりません。進みなさい。躓いたり転んだりすることもあるでしょうが、起きあがって、かまわず前進しなさい」(同前)
 その通りである。″光″に向かって、歯を食いしばって進むのが本当の人生である。本当の芸術家である。人生、調子がいいばかりでは増上慢になってしまう。そんな底の浅い人間に、立派な芸術ができるわけがない。
12  芸術部の皆さまは、粘り強く、そして朗らかに生き抜いていただきたい。
 たとえ今、有名でなくとも、皆さまは「広宣流布の芸術部」である。広布の舞台を乱舞しておられる。その姿を一千万の友が見つめている。一千万の民衆が喝采を贈っている「最高の芸術家」であることを忘れないでいただきたい。(拍手)
 皆さま方が、強く強く生き抜いていくことが、「広宣流布」なのである。
 芸術部の友よ! 一千万の同志の希望あふれる「黄金の翼」であれ!(拍手)
13  周総理は芸術家を「魂の技師」として尊敬
 今月、中国の周恩来総理の生誕百周年を迎えた。(一八九八年三月五日生まれ)
 祝賀の意義を込めて、現在、「中国中央民族歌舞団」の公演が全国各地を巡回している。(名誉会長の提案で民音が招聘)
 芸術を愛してやまなかった周総理が、ひときわ大切に育まれた歌舞団である。
 総理は、芸術家や文化人を「魂の技師」とたたえて、大切にしておられた。
 芸術と文化を理解できる指導者でなければ一流とはいえない。
 芸術は平和である。芸術は人の心をとらえる。芸術は人を潤し、社会を潤していく。
 芸術家が、どれほど人の心を大きく動かしているか――この「現実」を直視しなければならない。民衆勝利の前進にとって、どれほど偉大な力であることか。
 学会においても、一人の芸術部員の輝きが、学会への見方を、ぱっと変える場合がある。
 中国の「歌舞団」も、世界に中国の平和の心を宣揚してこられた。
 先月、中国の北京テレビでは周総理生誕百周年の記念番組が放映された。(全十二回のドキュメンタリー「百年恩来」。名誉会長へのインタビューも何回も登場する)
 また『百人が語る周恩来』という本も中国で出版された。(名誉会長の証言も収められている)
 百周年を寿ぐように、創価大学の「周桜」「周夫婦桜」は、この春も爛漫と咲き香ることであろう。
14  鄧穎超とうえいちょう女史の「生涯革命」の人生
 先日、周総理の夫人である鄧穎超とうえいちょうさんの伝記(『鄧穎超伝』)を、夫妻の秘書を三十年以上にわたって務められた趙煒ちょうい女史から、私ども夫婦にいただいた。女史は今も、大事なお立場で活躍しておられる。(全国政治協商会議の副秘書長等を歴任)
 伝記には、私との出会いについても、何度か触れられている。
 鄧穎超さんの生涯は、周総理とともに、戦いの連続であり、革命の連続であった。あの「長征」に際しても、彼女は肺結核を病み、痰の中に血が混じるような体で、最後まで同志とともに耐え抜き、勝ち越えた。
 あまりにも激しい闘争の一生は、夫妻に、子どもをもつことも許さなかった。夫人は一度、流産を経験しておられる。
 晩年、鄧穎超さんは、ある日本人から「子どもがいなくて寂しくありませんか?」と、ぶしつけな質問を受ける。しかし、彼女はきっぱりと答えた。「私には、寂しいと感じるような暇はありません」(『鄧穎超伝』。以下、女史の発言は同書から)
 周総理は、常々、言っておられた。
 「中国の子どもたちは、皆、私の子どもです」
 私ども夫婦に対しても、鄧穎超さんは、わが息子・わが娘のごとく、大切に大切にしてくださった。
15  鄧穎超さんが七十五歳を超えたころの話である。久しぶりに会った友人が、驚いて言った。
 「十数年お会いしませんでしたが、まったくお変わりありませんね。きょうは、お顔も、つやつやしていらっしゃいますよ」
 すると女史は、笑いながら言った。
 「歳はとりました。それが自然の法則ですから。でも、私の心は老いません。もっと人民に奉仕したいのです。私個人のためではなく、皆のために多くの仕事をしたいと願っているのです。だから私は元気なのです」
 またある時は、こうも語っておられる。
 「人の思想は老いることはできません。職場を退いても、革命が終わったわけではありません。我々は、生涯、生ききり、生涯、学び、生涯、革命しなければなりません」
 わが創価の婦人部の心意気と同じではないだろうか。
 「生涯、革命」――私どもで言えば、「生涯、広宣流布」である。信心に定年はない。「信心」は老いることがない。
 「戦う人」は若い。「心こそ大切」である。
 私どもは「生涯、広宣流布」でいきましょう!(拍手)
16  今回、私はフィリピンで、「世界一美しい」といわれるマニラ湾の夕日を見た。
 鄧穎超さんは謳った。
 「夕陽せきよう好きこと限りし。美景びけい黄昏に在り」(夕日は限りなく美しい。美しい景色とは、黄昏にこそある)と。
 人生も、そうであらねばならない。
 そのために、鄧穎超さんが、とくに女性に対して繰り返し訴えたことは、「強く生きよ!」ということであった。学会の指導と、まったく同じである。
 ある時は、一人の女性をこう励ましている。
 「私は、女性が泣くのがいちばん、きらいです。泣いてどうなるの? 泣くことで自分の運命が変えられますか? 女性は自立しなければなりません。向上し、強くなり、戦わなければなりません。泣き虫はバカにされるだけです。
 私は、恩来同志が亡くなって、この上なく悲しく、三回だけ泣きました。しかし、泣いても彼は生き返りません。私は、悲しみを強くはねのけて、さらに強く生きていかねばなりません」
 また、婦人リーダーの座談会では、こう語っておられる。
 「自分を大切に、自分を重んじて、一層の努力をしてください。前進するなかには、困難があります。うなだれてはいけません。困難にぶつかって、泣いてはいけません。私は幼いときから、女性のそういう生き方に反対してきました」
 「強さ」こそが、幸福の素である。
 人生は、断じて引いてはならない。負けてはならない。「負けない」ことが「勝利」である。
 最後まで「負けない」人は勝ったのである。
 学会の前進も、どんな障魔にも引かなかった。前へ前へと進んだ。だから勝ってきた。
 ″何があろうと、一歩も引かない″――これが学会精神である。その人こそが、無限の勝利を得ることができる。
17  冷戦に終止符を! 若き日の誓いのままに走った
 埼玉総会、そして素晴らしき「埼玉国際女性会館」の完成、おめでとう!(拍手)
 私は、埼玉を大事にしたい。とくに、学会ひとすじに生き抜いてこられた婦人部の皆さまは、「心の王女」であり、「心の女王」であられる。必ずや、日蓮大聖人がたたえてくださっている。
 女性会館を訪れた友は、皆、会館を仰いで、「戦ってきてよかった!」と喜んでおられたという。
 私のもとにも、そうした喜びの声が、たくさん寄せられている。
 この宝城を拠点に、「永遠の大福運」を、さらに限りなく開いていっていただきたい。広げていっていただきたい。
 埼玉には、私も青春時代から、何度も何度も足を運んだ。思い出の天地である。ある時は、御書講義に、またある時は指導会に。
 昭和二十八年(一九五三年)の私の「若き日の日記」(本全集第36巻収録)をひもとくと、こう記してある。当時、二十五歳であった。
 「二月十日(火) 快晴 心身共に、疲労。――
 埼玉、川越地区に講義。――『佐渡御書』。受講者、約五十名。次第に、人材、人物が、輩出して来た様子」と。
 私の願い通り、埼玉は今、揺るぎなき「人材の大城」となってきた。(拍手)
 この日の日記には、続いて、こう書きとどめている。ありのままに紹介申し上げたい。
 「共産主義国対自由主義国、世界の二大陣営の激突に苦悩する。
 吾々の前進が、その第一段階の橋渡しか。
 而れども、今の力なき存在では、如何ともならず。
 時を待て。時を待て。同志よ。民衆よ。人類よ。――」
 当時は学会も、まだ小さく、「貧乏人と病人の集まり」と侮蔑されていた時代であった。しかし、そんな時代であっても、戸田先生の弟子として、青年部の目標と決意は壮大であった。
 ″冷戦の悲劇の流転に、何としても終止符を打たねばならない。そのために、何よりもまず、わが学会が前進することだ。強くなることだ。勝利しゆくことだ。
 まず足もとの地区を、足もとの組織を、一歩一歩、確実に、粘り強く固め、「創価の力」をつけていこう! 時をつくり、「平和」と「友情」の懸け橋を世界中に結んでいこう!″
 これが、二十五歳の私の決意であった。
18  そして私は、若き日の決意のままに走り抜いてきた。
 中国と日本に友好の橋を渡した。ロシアと日本の民衆交流の道を開いた。
 また、中国とソ連の和解のためにも、一民間人として、両国の首脳と率直に話し合ってきた。
 さらに、米ソの首脳会談を一貫して提唱し続けてきたことも、ご存じの通りである。(拍手)
 私は、青年時代の「着眼点」と「目標」に向かって、一歩また一歩、厳然と進んできたつもりである。
 「平和学の父」ガルトゥング博士は、「池田会長と創価学会が、『冷戦の崩壊』に大きな影響を与えたのです」と、たたえてくださった。(拍手)
 世界の知性は、私どもの行動を、年ごとに深く理解し、また熱く期待しているのである。
19  時代は変わる、「対話」の力で!
 フィリピンのラモス大統領は、″平和のための三つの方法″として、次のように述べておられる。
 「第一に『協議』と『対話』。第二にも『協議』と『対話』。第三にも『協議』と『対話』」
 ″ほかの方法などない″との信念であろう。
 個人と個人の友情も同じである。
 また、先日、香港で再会した方召麐ほうしょうりん画伯も、八十四歳の高齢であるが、かくしゃくとして語っておられた。
 「民族と民族が意思を通わせるには、どうしたらいいか。私は『対話』と『芸術の交流』によってこそ、麗しい友情を築くことができると信じています」と。
 「対話」しかない。「対話」でしか社会は変わらない。
 あの地でも、この地でも、愉快に、朗らかに「対話の花」を咲かせてまいりましょう!(拍手)
20  御聖訓には、こう仰せである。
 「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」――この娑婆世界は、耳で仏法を聞いて、成仏する国土である。
 「是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり」――この法門を耳にする、すべての衆生は、功徳を得ていくのである。
 「耳」で聞いて成仏するのである。「目」で読むのも大切だが、それ以上に「耳」で聞くことが大切である。聞かせることが大切である。
 仏意仏勅を受けた皆さまが、広宣流布の「声」を聞かせた分だけ、「仏縁」が結ばれていく。
 どうか、「福徳爛漫の人生」を送っていただきたい。
 毎日が「希望の大道」である。毎日が「希望の二十一世紀」へ向かって、希望の「幸福の道」を歩んでいるのである。
 皆さま方の、ますますのご健康とご活躍を、心からお祈り申し上げ、私のスピーチとします。
 また、お会いしましょう! 本当に、ご苦労さま! ありがとう!
 (創価国際友好会館)

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