Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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九州・沖縄合同会議 「心」で決まる 故に「心」を鍛えよ

1998.3.3 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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2  流罪の地・佐渡にあって、多くの悪人の迫害から大聖人をどうお守りできたのか。じつは、そこには、地域で慕われる一人の力ある人格者の存在があった。その名は、「中興の次郎入道」である。同じ佐渡の門下でも、「阿仏房」や「最蓮房」は、ご存じの方も多いと思うが、中興入道の名は知らないという人がいるかもしれない。大聖人にお会いしたときには、すでにかなり高齢であったようで、今で言えば「多宝会」の方である。
 御書には、こう仰せである。
 「上ににくまれたる上・万民も父母のかたきのやうに・おもひたれば・道にても・又国にても・若しはころすか若しはかつえし餓死ぬるかに・ならんずらんと・あてがはれて有りしに、法華経・十羅刹の御めぐみにやありけん、或は天とがなきよしを御らんずるにや・ありけん、島にて・あだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき、彼の人は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人と・をもはれたりし人の・此の御房は・ゆへある人にやと申しけるかのゆへに・子息等もいたうもにくまず、其の已下の者ども・たいし大旨彼等の人人の下人にてありしかば内内あやまつ事もなく
 ――(私=大聖人は)権力者から憎まれているうえ、あらゆる人たちが父母の仇のように思っている。だから、佐渡への道中でも、また佐渡の国においても、殺されるか、餓死するかであろう、ということで、流罪されたのである。
 ところが、法華経・十羅刹女のご加護によるものであろうか。あるいは、天が、日蓮にまったく罪がないことを、ご覧になっていたからであろうか。島にも、日蓮を憎む者は多かったけれども、中興の次郎入道という老年の人がいた。この人は、年配者であるうえに、心は賢く、豊かな身で、佐渡の人々からも人格者として尊敬されている人であった。この人が、『日蓮というお方は、何か、いわれのある、立派な人に違いない』と言ったからであろうか。その子息なども、日蓮をひどく憎むことはなかった。
 また、それ以下の者たちも、大体は、中興一族に仕える人であったから、内々では、日蓮に害を加えることもなかった――と。
 信用が大事である。たとえ「一人」であっても、その人に「信用」があれば、いざという時に大勢の人が従い、すべての局面が劇的に変わっていく。勇気ある声の力で、障魔を押し返していくこともできる。
3  ある人は言っていた。「近年の学会に対する迫害も、狂気のごとくであった」と。
 私も、襲いかかる嵐と怒涛のなかで、広宣流布の師匠である戸田先生を厳然とお守りした。これは私の最高の誉れであり、永遠不滅の歴史である。
 皆さまもまた、「あの人がいれば、いくら風のざわめきがあったとしても、雄渾なる勇気がわいてくる」と我が同志から思われる存在であっていただきたい。そして、広布の組織で光るとともに、その福徳の光で社会を大きく包み、照らしていく「魅力ある人間王者」となっていただきたい。
 この御書は、中興入道の死後、後継の家族にあてて書かれたものである。つまり、大聖人は故人をしのんで、その真心をたたえておられるのである。遺族は、どれほどうれしかったであろうか。
 私どもも、この御心を拝して、今こそ、一人一人の会員同志を、真心の限りを尽くして激励してまいりたい。また、この信心を子孫に伝えていくことが、最高にして永遠の「財産」であることを強調しておきたい。
4  なお、大聖人は、この御書で、引き続き、「水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・又はるることはりなれば、科なき事すでに・あらわれて」――水は濁っても再び澄み、月は雲が隠しても、また晴れる。これが自然の道理であるように、日蓮に罪がないことが、すでにあらわれて――ついに鎌倉へ戻る日を迎えたと仰せである。
 仏法は、永遠に「仏」と「魔」との戦いであるがゆえに、妬みの魔性の策動に、断じて負けてはならない。正義が勝たなければ、この世は闇であるからだ。闇を払って、皓々たる正義の大光を大空に輝きわたらせなければならない。
 また、いかに、娑婆世界の暗雲による混乱があったとしても、妙法という「永遠不滅の法」に生き抜いていくならば、必ずや、″広々とした大海原に月光が輝きわたるがごとき大境涯″に到達していくことを忘れてはならない。
 世の中は不況である。あせってはならない。忍耐強く、知恵をしぼりきって、「勝利」の峰へ進んでいただきたい。
 皆さまお一人お一人の「勝利」が、広宣流布の「勝利」となり、正義の「勝利」となり、民衆の「勝利」となる。勝っていただきたい。勝たねばならない。
5  一念の微妙な差が大きな違いに
 人生は、ちょっとした違いが、大きな違いになる。
 アメリカの有名な哲学者のウィリアム・ジェームズは言ったという。
 ――生涯で耳にした数多くの言葉のなかで、いちばん、感銘した哲学的な言葉は、彼の家の修繕に来ていた一労働者の言葉であった、と。
 それは「人間てものは、つきつめてみれば、だれだって、ほんのわずかしか違うもんじゃない。けれど、そのほんのわずかばかりの違いってやつが、ひどく肝心なことなんだ」という言葉である。
 仏法でも「一念の微妙な違い」が決定的な違いになると説く。
 御書には仰せである。「仏」と「凡夫」は、どこが違うのか――。
 「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず(中略)如来は面に向つて我が性の理を見たまえり(中略)鏡は一の鏡なりと雖も向い様に依つて明昧の差別有り」――凡夫の心の鏡と、仏の心の鏡とは、ただひとつの同じ鏡なのである。しかし、凡夫は、鏡の裏に向かっているので、自分自身の仏性が見えない。(中略)仏は鏡の表に向かっているので、自分自身の仏性をご覧になる。(中略)鏡はひとつの同じ鏡であるが、向かい方によって、自身の仏界が見える「悟り」(幸福)と、仏界が見えない「迷い」(不幸)の違いが出てくる――。
 これには深い意味があるが、ともあれ信心は「後ろ向き」ではいけない。「正面から向かう」べきである。「受け身」になると何ごとも苦しい。不自由に縛られた感じになる。
 「よし、自分のためだ。頑張ろう!」「家族のため、友のために頑張ろう!」と自分から積極的になれば、「自由」を感じる。
6  人生においても、「心が裏がえし」になっていては、幸福になれない。
 夏目漱石の小説『道草』では、夫と妻の心の「すれ違い」を描いている。
 夫の健三は三十代の大学教師。妻のお住は高級官僚の娘。はた目には幸せな家庭に見えたであろうが、二人の間は、いつも、ぎくしゃくとして、心が通い合わない。
 ある時、健三がアルバイトしたお金をもって帰る。少しでも家計の足しにしようと思ったのである。しかし、彼が、その給金を渡した時、お住は格別うれしそうな顔もしなかった。
 なぜだったのか。じつは、その時、お住は「若し夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った」(『道草』新潮文庫)のである。
 それでは健三はなぜ、そうしなかったのか。彼のほうでは「若し細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた」(同前)というのである。
 以前にも触れた場面だが、微妙な人間心理の「あや」を描いている。互いに、心を裏がえしにして向かい合っているのである。しかし、「裏がえしの鏡」には、何も映らない。
 相手に期待し要求するだけで、自分を省みなければ、心の溝は深まるばかりであろう。また相手を「決めつけ」ていては、相手のよい点など見えるわけがない。家庭だけでなく、あらゆる人間関係がそうである。
7  後ろ向きの心でなく、前へ前へ「積極人生」を
 心の「向き」が大事である。
 一般に、多くの女性が、星占いとか手相とか「占い」を好むと言われる。もちろん学会の女性には、当てはまらないが。
 アメリカの暮らしが長かった、ある人いわく――。
 「(占いで)アメリカの女性が知ろうとするのは、『わたしの未来には、どんな幸福が待っていますか』という『希望』である。日本の女性が聞こうとする心は、『わたしの将来に、これから何か災難はないでしょうね』という『恐怖』である」
 少なくとも、これまで、そういう傾向があったことは事実かもしれない。
 未来への「希望」。未来への「恐怖」。心の奥底に、「積極」と「消極」の違いがあるというのである。
 消極――心の向きが「後ろ向き」では、人生が、痩せた、つまらないものになってしまう。
 仏法は「積極的人生」を教える。信心は「永遠の希望」である。いつも、大いなる夢をつくり、大いなる希望を生み出し、その峰に向かって前へ前へと成長していくのが仏法者の生き方である。
8  ″感謝″と″喜び″が福運を増す
 「心こそ大切なれ」である。
 同じ行動をするのでも、「ああ、またか、いやだな」と思ってするのか。「よし、また福運をつけさせてもらおう」と思ってするのか。タッチの差である。
 その小さな「差」が、人生を大きく変えていく。百八十度も変えていく。それを教えたのが法華経であり、一念三千の法理である。
 心は目に見えない。見えないその心の法則を完璧につかんだのが仏法である。最高の心理学であり、心の科学、心の医学である。
 感謝と喜びは福運を増す。愚痴と文句は福運を消す。
 弘教においても、「人を救いたい」「妙法の素晴らしさを教えたい」という「心」のままの行動に、偉大なる福徳があふれてくるのである。
 「心こそ大切」。これこそ至言中の至言である。
9  人間は弱いもので、ふつうは、すぐに「愚痴」「負け惜しみ」「焼きもち」「落胆」となってしまう。
 しかし、信心している人は、そこが違(ちが)う。「愚痴」が出なくなる。「文句」を言わなくなる。すっきりと、自分自身に生きる「強さ」ができる。その人の心は「感謝」で満たされる。
 西洋史上最高の哲学者、プラトンの口ぐせは何であったか。それは「ありがたい、じつに、ありがたい」であったという。
 どうしてかと言うと「第一は人間に生まれたこと」が、ありがたい。動物や虫には生まれなかった。第二に、「アテネの市民に生まれた」ことが、ありがたい。私どもで言えば、仏勅の創価学会の会員となれたことが、これに当たろう。第三に、「ソクラテスの弟子になったこと」が、ありがたい。私も偉大な師匠をもった幸せを、いつもかみしめている。
 プラトンは、いつも、これらを挙げて朗らかだったという。「これ以上、何がいるのか。これだけで所願満足ではないか」こういう心境だったのではないだろうか。
10  よく、都会の人は田舎に憧れ、田舎の人は都会に憧れる。独身の人は結婚に憧れ、結婚した人は独身に憧れる(笑い)。人間の心理には、そういう面がある。
 しかし、幸福は「遠いところ」にあるのではない。「今、ここ」の現実との戦いによって、幸福は勝ち取っていくべきである。
 自分の地域についても、「よきところ、よきところ」とたたえ、感謝する心が、「自信」と「勢い」をつくっていく。広宣流布の「喜び」を広げていく。
 小さな「一念の違い」が、百八十度、違う結果をもたらしていく。環境ではない。心である。
 「人生の十分の九は、快活な精神と勤勉で決まる」という言葉もある。
11  人を感情で叱るな、人を育てるのは慈愛
 「感情で、人を叱ってはいけない」ということを、改めて言っておきたい。
 ゲーテの故郷として有名な、ドイツのフランクフルトでの話である。
 警察犬を訓練する専門家がいた。彼は、気分がすぐれなかったり、気がかりなことがあると、その日は犬の訓練をしないというのである。なぜか。
 「そういう時は、何かのはずみで、訓練中の犬に本気で腹を立ててしまうからです」という。
 もちろん、訓練である以上、叱ったり、時には厳しくしつけることがあるのは、当然である。しかし、そういう場合、こちらに「心の余裕」がなければならない。
 相手が立派になるために、あえて厳しくせざるをえない――そういう心であれば、必ず犬にも通じている。ところが、一度でも、感情で怒ってしまったら、もう駄目である。訓練が、すべてご破算になってしまう。犬が、こちらを軽蔑して、訓練を受けつけなくなるというのである。
 もちろん、すべての場合が同じとは限らないかもしれない。また、これは犬の話であって、人間に、そのまま当てはめるわけにはいかないであろう。
12  しかし、人間であれば、なおさら、こちらの心の波長を敏感に感じ取っているのではないだろうか。
 子育てにおいても、「親の見栄で、子どもを『優等生』にしようとしている」のか、「子ども自身の幸福のために、厳しく言っているのか」。子どもは鋭敏に、親の「奥底の一念」を嗅ぎ分ける。
 いわんや、組織において、後輩を感情で叱ってはならない。そんな資格は、だれにもない。
 言うべきことがあれば、その人のことを、しっかり祈ってから、「慈愛をもって」言ってあげることである。
 「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」――彼が為に悪を除くものは彼の親――である。その人のために″悪を除き″″善を与える″慈悲こそ指導の心であり、弘教の心である。
 「仏」の別名を「能忍」という。「能く忍ぶ」である。「忍耐」が自分自身の仏道修行である。
13  生き生きと生きよ
 大聖人は、「大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ」――大海の潮が満ちていくごとく、月が満月となっていくごとく、福は来り、命は長くなり、死後は霊鷲山へ行けると確信していきなさい――と仰せである。
 人生、生きるならば、「生き生きと」生きたい。生き生きと、いつも「大いなる希望」に燃えて、前へ前へ進み続けるのが、最高に幸せな人生である。そのための仏法である。
 大切な九州と沖縄の全同志、そして全国・世界の全同志がご健康で無事故であられるよう、そして、ますます裕福で、ご多幸であられるよう、私は、さらに真剣に祈ってまいります。
 どうか、一緒に、仲良く、楽しく、難攻不落の「安穏の大琉球王国」を築き、難攻不落の「創価の火の国・九州」を築きましょう! と申し上げ、私のスピーチといたします。
 (沖縄研修道場)

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