Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

沖縄各部協議会 青年は「最高峰」をめざせ

1998.2.27 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

前後
2  今なお広く愛されている青春の詩人、ユン東柱ドンジュ。彼は、日本に留学していたが、「治安維持法」で逮捕され、二十七歳の若さで獄死した。一九四五年(昭和二十年)の二月であった。
 逮捕されたのは、その二年前の七月。ちょうど牧口先生、戸田先生が治安維持法で逮捕されたのと同じ月である。ともに日本の国家主義の犠牲になった――。
 彼については、これまでも語ったことがあるが、詩人は十代のころ、こんな詩を書いている。
  「生は今日も死の序曲をうたった。
   この歌がいつ終るのか
  
   世間の人は――
   骨をとろけさす生の歌に
   踊る
   人びとは日が暮れるまえに
   この歌の終りの恐怖を
   考えるいとまがなかった。」(尹一柱編『空と風と星と詩』伊吹郷訳、記録社)
 世間の人々は、死を見つめることなく、歓楽にふけって、自分自身を忘れている。しかし生命は、いつも「死の序曲」を奏でているのであり、人生は無常迅速に過ぎ去っていく。
 その通りである。遊んでいるうちに、あっというまに青春は終わる。気がつけば、すぐに中年であり、老年になっていく――。
 ゆえに、価値ある青春の一日一日を送らなければ、損である。「むなしき空白の一日」は一日たりともあってはならない。
 彼は、こう書いた。
  「死ぬ日まで空を仰ぎ
   一点の恥辱なきことを
   (中略)
   生きとし生けるものをいとおしまねば
   そしてわたしに与えられた道を
   歩みゆかねば」(同前)
 この詩のとおり、彼は死ぬ日まで、心に一点の恥ずべき曇りもなく、堂々と生き、戦い、死んでいった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」――一生空しく過して、万歳に悔いることがあってはならない――と。
 また釈尊は言った。
 「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない」
 「奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行ないのことわりを実行せよ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
3  青年が立った韓国の独立運動
 当時の韓国で、日本からの独立運動をリードしていったのも、青年であり、学生であった。その姿を見て、年配者も「若い彼らが、立ち上がっているのに、どうして私たちが立たずにおられようか!」と、青年に続いたのである。
 「韓国のジャンヌ・ダルク」と呼ばれている柳寛順ユ・クワンスンは、十五歳で日本の官憲に逮捕された。口にすることもできないような残酷な拷問――しかし彼女は屈しなかった。
 堂々と「おまえたち日本人に、我々を裁く権利はない。裁きを受けるべきは、おまえたちのほうだ!」と叫び、殺されたのである。約八十年前のことであった。(一九二〇年)
 彼ら青年は、「いかなる権力によっても、魂は絶対に死なない」ということを、全世界に示し切った。
 彼女が戦った「三・一独立運動」は、見事な非暴力の闘争であった。(一九一九年)
 デモをして、「独立万歳!」を叫ぶ。いわば「声の闘争」であった。
 彼らは申し合わせた。「日本人を侮辱してはならない。石を投げてはならない。殴ってはならない。そういうことは野蛮人のやることだ」
 これほど痛烈な日本への批判もなかった。日本人は、いつも人々を「侮辱し」「石を投げ」「殴って」いた「野蛮人」だったからである。
 極めて残念なことであるが、「歴史の事実」は事実として、きちんと語り伝えておかねばならない。恥ずべき「事実」を隠すことは、恥ずべき行為をさらに重ねることになるからである。
4  韓国の青年たちは言った。
 ――奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬほうが、よっぽどいい。死んだように生きるわけにはいかない――と。
 「三・一」決起の二十日ほど前、東京で六百人あまりの留学生が「二・八独立宣言」を発表した。
 「わが民族は、生存する権利のために独立を主張するものである」――。
 学生たちは神田警察署に引っ張られて行ったが、この叫びが、祖国にいる青年の胸を揺さぶった。そして三月一日、独立の宣言はなされた。
 当時、まかれたアピール文は叫ぶ。
 「今、あなたたち日本人は、どうしてこのような悪意と背信を示しうるのか。どうして、そんなにまで暴力に熱中することができるのか」
 「われわれは、木石ではない。生身の人間である。黙って引き下がっていられようか! 死を恐れるな! たとえ死すとも、わが子孫たちが自由の喜びをかみしめてくれるだろう」
 彼らは、他国の人民を抑圧して支配するという日本の国家主義が絶対に許せなかった。それは抑圧される人間はもちろん、抑圧する側の人間をも、狂わせていく。「人間として」おかしくなっていく。
 独立の宣言文は訴えた。″『邪道』に入り込んでしまった日本を、そこから出してやろうではないか!″と。
 これを「アジアの人権宣言」と呼ぶ人もいる。
 ここ沖縄もまた「国家主義の暴力」と戦い抜いてきた歴史をもつ。
 「独立万歳」の運動には、一節には、三カ月だけで、千五百回を超える集会が行われ、集まった人は二百二万余人。何と、人口の約一割である。
 わが創価学会青年部も、「核兵器全廃」の署名を、三カ月で一千三百万もの人々に広げた。人口の約一割――大変な歴史である。
 クリーガー所長(核時代平和財団)は感嘆し、驚嘆し、「必ず『核のない世界』ができると勇気づけられました。署名は単なる署名ではありません。一つ一つが『希望の声』であり、一千三百万の署名は『希望の大合唱』です」と絶賛しておられた。
5  広がる「万歳」運動に、日本は、あわてふためき、完全武装の軍隊が、何も持たぬ素手の人々に襲いかかった。逮捕また逮捕。弾圧また弾圧。しかし、「独立万歳!」の叫びは獄中でも続けられ、叫びは半島の全土に、こだました。
 青年が本気で立った。民衆と遊離するのではなく、「民衆がいちばん、言いたかったこと」を青年たちが叫んでくれた。ゆえに民衆が、感動して立ち上がったのである。
 このころ、ある役人が、人力車に乗った。すると人力車夫は、この役人を叱った。
 「あなた一人だけ、どうして『万歳』を叫ばないのですか」
 民衆が戦っているのに、高い地位にあるあなたが戦わないとは何だ!――と。
 「わたし(=人力車夫)は、身は下賤な車夫ですが、それでも人間の一人です。たとえ、犬や豚を車に乗せても、あなたのような人は乗せたくありません」(朴殷植著、姜徳相訳注『朝鮮独立運動の血史』1、平凡社東洋文庫から)
 これが「民衆の心意気」であった。
6  「この青年たちを見よ!」と世界が驚嘆
 青年たちの叫びは、韓国だけでなく、中国の青年たちにも「飛び火」した。
 若き日の周恩来総理をはじめ中国の青年が立ち上がった、あの有名な「五・四運動」。現代中国への道を切り開いた画期的な運動だった。
 これも、「三・一独立運動」の青年たちの勇気に触発され、二カ月後に立ち上がったのである。「あの青年たちを見よ! 我々も、立ち上がらずにおられようか」と。
 中国の青年は、韓国の青年から学んだ。
 「彼らは明確な意識をもち、武力でなく、民衆の叫びで戦った。世界の革命史の新時代を開いた」(中国の文化人・陳独秀の言葉)
 中国の青年は、こうして立ち上がった。
 しかし、この叫びから何も学ばなかったのが、日本であった。韓国を差別し、支配し続けることによって、自分たち自身を「非人間化」していったのである。そして、軍国主義の道をまっしぐらに滅亡へと突き進んでいった。
 ともあれ、青年の叫びは、世界を揺るがす。胸から胸へ、炎は広がる。
7  国家主義が人間性を破戒
 韓・朝鮮半島が日本の文化の「大恩人」であることは、言うまでもない。仏教をはじめ、あらゆるものが恩恵を受けていると言って過言ではない。
 韓国に行って、「韓国にも味噌があるか」と尋ねた人がいたそうだが、そもそも「味噌」は韓国から来たものである。「ミソ」という言葉も韓国語なのである。
 それでは、この「大恩人」を、なぜ裏切ったのか。「大恩人」を侮辱するような「邪道」に、なぜ入ってしまったのか。
 たとえば、古くは、日本の正式な歴史書とされる『日本書紀』(八世紀)でも、恩人の国を一段下に見るような書き方をしている。それまで、「宝の国」と呼んで憧れていたのに、ことさらに韓国色を消そうとしている。
 その背景は、いろいろ考えられるが、心理的には「劣等感の裏返し」であったという見方がある。あまりにも大きな恩恵を受けてきた。内心では、それを認めざるを得ない。しかし、そう認めることはプライドが許さない――。
 ちょうど、そのころ国家の体制を整えつつあった日本では、支配層の間で国家意識が高まっていた。このナショナリズム(国家主義)が、恩人の国を否定させた。
 個人においても、悪人は、あまりにも大きな恩恵を受けた相手を、うとましく思い、かえって憎むようになるものである。恩人を否定することによって、「自分は、もとから自分の力だけでやってきたのだ」という虚勢を張る。やがて、「大恩」があった事実そのものまで忘れてしまう。
 その後も、日本の国家意識が高まった時――豊臣秀吉の時代や明治期――に、隣国への愚かな差別意識が、為政者によって広められてきた。こういう、からくりを見破らなければならない。
8  本年一月、光栄なことに韓国の鎮川チンチョン郡から私は「名誉郡民」称号と郡議会の「顕彰証書」を頂戴した。
 同郡のあるあたりは、昔から「清風明月(風清く、月さやかなり)」と呼ばれ、優雅で落ち着いた気風があるという。
 しかし、この地方も、日本の国家主義者の残酷な支配によって、廃虚とさせられた。その実態を、自分の目で確かめたジャーナリストがいる。カナダのフレデリック・マッケンジー記者である。今世紀の初め、彼は、この地方を訪ね、その美しさ、豊かさに感動して、「さすがは『韓国のイタリア』だ」と、たたえた。
 だれもがみんな栄えていた。草取り、刈り入れ、むしろ織り、雀追い。みんなが、せっせと働き、そして幸福そうであった。みじめな貧乏の影は、微塵もなかった。しかし、やがて進攻してきた日本軍に、村という村、家という家は強奪され、焼き打ちにあった。
 日本の侵略に対しては、すでに韓国の義兵(ゲリラ兵)が立ち上がっていた。韓国の正規軍は解散させられていたのである。義兵が動き始めると、日本軍は何と、一般民衆に対してまで報復した。
 彼らは家を焼き、暴行し、殺害し、日本軍の通ったあとは破壊し尽くされたと記者は証言している。(一九〇七年の実見。翌年、『朝鮮の悲劇』を出版、邦訳・平凡社東洋文庫)
9  日本よ「平和の使者」となれ
 マッケンジー記者は激怒して、こう書いた。それは、日本の将来の滅亡を予言するものであった。
 「日本の将来、東洋の将来、そしてある程度までは世界の将来も、(日本の)もっとも近い将来において政権を握るのが軍国主義者か、あるいは平和的発展を志す政党かという問いにたいする答えにかかっている。もし前者ならば、いよいよ苛烈に朝鮮を統治し、満州へ確実に侵入し、中国にたいする内政干渉をおこない、ついには大紛争を起こして、そのゆきつくところはなんぴとも予測しえない。後者であれば、日本は数世紀間アジアのいかなる強国にもまさって、栄光と安全の遺産を末ながく継承することになるであろう。……日本は剣を手にして属領に君臨するような、東洋の支配者になるのではなく――そんなことでは決して永続するものではない――、むしろ東洋にとって平和の使者となり、教師となるべきものを自らのなかにもっている。日本は、この崇高な目標を選びうるであろうか?」(『義兵闘争から三一独立運動へ』韓晢日義訳、太平出版社)
 残念ながら日本は「崇高な目標」を選ばず、国家主義者が勝利して国内にも世界にも大惨禍をもたらしてしまった。
10  美術家で民芸運動を始めた日本の柳宗悦氏は、韓国の「三・一独立闘争」(一九一九年)と、その弾圧の様子を聞き、痛憤をこめて、日本の国家主義を批判した。
 「日本は多額の金と、軍隊と、政治家とをその国に送ったであろうが、いつ心の愛を贈った場合があろうか」と。(『朝鮮を想う』筑摩書房)と。
 要するに、日本にあるのは、「金力」と「腕力(軍隊)」と「権力(政治)」だけではないか。どこに「人間」がいるのか、どこに「心」があるのか、という絶叫であった。こう叫んだゆえに、彼はいつも官憲に付け回された――。
 日本の国家主義は、日本人の「心」と「人間性」をも破壊したのである。だからこそ、「人間性」を復興させる大宗教運動が絶対に必要なのである。それが、今また強まりつつある国家主義と戦う根本の道となる。
11  戸田先生「望みが大きすぎるくらいで丁度いい」
 戸田先生は青年を、こう激励された。
 「大事業は、二十代、三十代でやる決意が大切だ。四十代に入ってから『さあ、やろう』と言っても、決してできるものではない」と。
 今回、(名誉郡民称号と顕彰証書で)表彰してくださった鎮川郡が生んだ韓国の大英雄がいる。名将・金□信キム・ユシンである。彼は、聖徳太子とほぼ同時代人である。(千四百年前の人)
 彼は十七歳のとき、石窟にひとり籠もって、思索し、こう決意した。「戦乱に明け暮れている祖国を統一して『平和』を実現しよう!」と。そして七十九歳の死まで、一生をかけて、この悲願を達成(新羅、百済、高句麗の三国を統一)したのである。
 戸田先生は、こうも言われた。
 「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから望みが小さいようでは、何もできないで終わる」
 「広宣流布」こそ、最高の望みである。この大理想に、まっしぐらに進むのが青年である。まっしぐらに進んだ分だけ、自分も大きくなる。大きな人生となる。
 また青年部の諸君は、全員が自分の分野で「最高峰」を目指していただきたい。諸君一人一人が「最高峰」と輝いてこそ、「広宣流布」となる。
12  国家主義――それは「権力の魔性」の産物である。
 今なお、怒りをもって語られる豊臣秀吉の韓・朝鮮半島侵略。韓国(李氏朝鮮)のある学者も、秀吉の軍に捕らえられ、一家ともども日本に連行された。
 死体が山のように積まれた港から、船に乗せられた。彼の幼い子ども二人は、海岸に打ち捨てられ、やがて溺れ死んだ。親族の子は船の上から、日本人が投げ捨ててしまった。
 四国の伊予(愛媛)の長浜に着き、連行されているとき、飢えと疲れから、六歳の娘は歩けなくなった。妻と妻の母が、かわるがわる、おぶって行ったが、川を渡るとき、水中に倒れたまま、力つきて起きられなくなってしまった。
 そのとき、岸の上にいた一人の日本人が、このありさまを見て、駆け寄って来た。
 「ああ! 何とひどいことを! 太閤(秀吉)は、この人たちを連れて来て、一体、何をさせようというのか。お天道さまが見ていないわけがない!」
 日本人の庶民は、涙をこぼしながら、そう言って救い出し、一家を食事とお茶で、もてなしてくれた。
 この学者は書いている。「日本人の中にも、このような心ばえの人がいる。日本人が、死をいやがらず、人を殺すのを喜ぶのも、国の命令が彼らを駆り立てて、そうさせているだけなのだ」と。
 つまり、″権力の命令と、権力による洗脳によって、日本の民衆は韓国を見くだすように教えられ、韓国を残酷に侵略しているのだ。本来、民衆には善意があるのだ″という心であろうか。
 これが、一族のほとんどを皆殺しにされた人間の目から見た「日本の国の本質」であった。
 (姜沆カンハン『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』朴鐘鳴注、平凡社東洋文庫から。彼は伊予の大洲、京都の伏見などに二年以上も抑留され、秀吉の死後、やっと帰国できた)
13  阪神大震災から三年たつが、関東大震災のときは、「一般市民が朝鮮の人々を虐殺する」という悲劇が起こっている。一説には、警察などに煽られたともいう。
 柳宗悦は、こう書いた。
 「他人を卑下する事に何の誇りがあろう。愛する友を持つ事は吾々の名誉だ。だが奴隷視する者を持つ事は吾々の恥辱だ」
 その通りである。人を尊敬できる人こそが立派なのである。
 「吾々は人間らしく活きようではないか。自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若しも此人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだろう。そうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか」(一九二二年、「朝鮮とその芸術」、『朝鮮を思う』所収、筑摩書房)
 この警告の通りになってしまった。「人道」を踏みつけて、長く栄えるわけがない。
 要するに、日本の民衆は「日本の権力者」という本当の敵から目をそらされて、本来は味方である「隣の国の民衆」を敵視するように仕向けられてきたと言える。
 だからこそ、民衆と民衆の交流こそが、国家主義を打ち砕く根本の力となる。なかんずく、利害にとらわれない「教育交流」「文化交流」「青年交流」が必要なのである。
 韓国は「宝の国」。日韓に「宝の橋」を築かねばならない。
 結びに、「『永久不滅』の沖縄をつくろう!」と申し上げ、記念のスピーチとしたい。
 (那覇市内)

1
2