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日蓮大聖人・池田大作

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「2・11」記念代表者会議 ほめたたえる人に大功徳が

1998.2.4 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  師匠をもった人生は幸せ
 まもなく二月十一日。戸田先生のお誕生日である。私ども夫婦は、毎年この日に、赤飯を炊いてお祝いしてきた。今日は、皆さまも、ともに祝っていただきたい。
 戸田先生は、私の永遠の「人生の師匠」である。師匠をもつことが、どれほど尊く、ありがたいことか。動物は師匠をもてない。人間だけが、師匠をもつことができる。師匠をもつことこそ、人生の最重要事である。皆、このことがわからない。才知や位に目がくらんで、師弟という最も大切な人生の根幹が見えなくなってしまう。師弟の道をまっすぐに生きる人生が、永遠に向上できる「最高に幸福な人生」なのである。
2  創価高校野球部の甲子園出場を祝福したい。(拍手)「第七十回」の歴史を刻む大会である。
 じつは、牧口先生の三男の洋三さんは、早稲田実業に在学時代、野球の選手として甲子園に出場したことがある。しかし、その洋三さんも徴兵され、戦死したのである。(享年三十七歳)
 牧口先生は獄中で、ご自身の逝去の直前に、この知らせを受けた。
 最後のお手紙で、牧口先生は、クマ夫人と貞子さん(洋三さんの夫人)にあてて、「びっくりしたよ、がっかりもしたよ。それよりも、お前たち二人はどんなにかと案じたが、共に立派な覚悟で、安堵している」(『牧口常三郎全集』第十巻。現代表記に改めた)と記されている。
 日本の軍国主義は、牧口先生を投獄し、獄死させ、そして、最愛のご子息までも奪ったのである。
3  特攻に散った青年野球の叫び
 先日、感銘深い一書を拝見した。それは『消えた春――特攻に散った投手石丸進一』(河出文庫。以下、引用は同書から)。気鋭の作家・牛島秀彦氏の入魂の力作である。映画化もされたと、うかがっている。(映画名『人間の翼』)
 中学野球(高校野球の前身)の剛速球投手(佐賀商業)であった石丸進一さんは、のちに名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)のエースとして活躍した。牛島氏のいとこに当たる方という。
 しかし、石丸さんは、昭和二十年(一九四五年)の五月、数えの二十四歳という若さで、特攻隊に散ってしまった。その短くも鮮烈な生涯を描いた、ノンフィクションである。
 戦時下では、英語が「敵性語」として禁じられ、「ストライク」が「よし!」、「ファウル」が「だめ!」、「アウト」が「ひけ!」などと言いかえられた。そんな時代であった。
 それでも、石丸さんは、野球が何よりも好きだった。精悍で一本気なスポーツ青年であった。
 佐賀商業を卒業した彼は、家計を助けるために、職業野球の選手になった。そして、昭和十七年(一九四二年)春、華々しいデビューを飾るのである。その年は十七勝。翌年は、エース投手として大活躍し、チームを二位に躍進させている。
 「野球が楽しくて、面白くて、たまらない」というのが、彼の口ぐせであった。
 二十歳を超えたばかり。彼の青春は、太陽が昇るように生き生きと輝いていた。
4  しかし、戦争の暗雲が、その光を残酷にかき消していく。
 昭和十八年、彼は、学徒兵の一員として、徴兵を受ける。(職業野球のかたわら、日本大学に在籍していた)
 覚悟していたとはいえ、衝撃であった。入隊前の巨人戦が、彼の最後の試合となった。
 彼は、マウンドで、しきりに顔をぬぐう。観客には、汗をぬぐっていると見えた。しかし、それは大粒の涙であった。彼は、万感の思いをこめて、一球一球、精いっぱい、全力で投げきったのである。
 戦争が、彼の青春を奪った。国家悪が、彼の夢を断ち切った。彼は、憤然と語る。
 「戦争で死ぬことてんなんてん(死ぬことなんて)、アホらしか。俺ァこぎゃん(こんな)若さでまだ死にとうはなか。やりたかことの半分もしとらんのに、そうやすやすと死ぬっもんですか……」
 「戦争って、いったい何じゃい!? 所詮は、人間同士の殺し合いじゃあなかか。戦争ちゅうことになっと、敵ちゅう人間ばどっさい(どっさり)殺すぎ殺すほど英雄ちゅうことになり、国家は勲章ばくるッ。そいが名誉ちゅうことか。アメリカ人ばどっさい殺して、死ぬことが悠久の大義に生きるちゅうことか。どこじゃいおおきゅう(どこか大きく)狂うとっとじゃなかろうか」
 真実の人間の叫びであろう。
 牛島氏も当時の報道について書いておられる。
 「退却の代わりに『転進』、全滅と言わず『玉砕』。みんな中身を誤魔化し、体裁のいい、美しい言葉にすりかえている」
 権力とそれに迎合する報道が、国民を、青年を、だまし続けたのである。
5  彼には、可憐な恋人がいた。その恋人が、ある時、飛行機からパラシュートで、アメリカ兵が降りてくるのを目撃する。周りでは、興奮した群衆が「鬼畜米兵を殺せ!」と叫んでいる。
 アメリカ兵は両手を縛られ、後ろで、日本兵がピストルを突きつけていた。アメリカ兵は、まだあどけなさの残る、若い兵士であった。いつ殺されるかも知れない恐怖に、顔はひきつり、青ざめていた。
 アメリカ人も、当局が言うような「鬼畜」ではなく、「血の通っている人間」ではないかと、彼女は思った。
 私にも、同じような思い出がある。
 昭和二十年五月。石丸青年が戦死したのと同じころである。
 疎開先の大田の叔母の家の近くに、パラシュートで落ちてきたアメリカ兵がいた。夜遅く、激しい「B29」の空爆があった。そのうちの一機が高射砲に撃たれ、墜落してきたのである。
 若いアメリカ兵は、棒で、さんざん殴られ、蹴られたあげく、目隠しをされ、憲兵に連行されていった。家に帰って、その様子を伝えると、母は「かわいそうに! その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」と言っていた。その時の母の声は、今でも、心深く刻まれ、忘れることができない。
6  国家悪を断じて許すな
 石丸青年の恋人は、彼が特攻隊に入った後も″だまされちゃだめよ。絶対に死なないで!″と、心の中で叫んでいた。
 しかし、その恋人は、昭和二十年(一九四五年)四月、空襲で死ぬ。そして、翌月、彼も特攻隊員として、壮絶に散っていったのである。
 飛行機に乗り込む直前の、最後のキャッチボールの場面は、あまりにも痛切である。それは「今生の思い出と、無念さと、怨みと、怒りを一球一球に篭めて投げた」ものであった。
 お父さんのもとに届いた戦死の電報には、通り一遍のお悔やみとともに、「なほ生前配属艦船部隊などは 機密・保持上おもらしなきよういたされたし」とあった。
 その電報を受け取ってから二十九日目に、日本は無条件降伏したのである。
 戦争は、どこまでも悲惨であり、残酷である。いとこの死を悼む牛島氏の血涙したたる思いが、行間から、痛いほど伝わってくる。
 牛島氏は一貫して、反戦・平和への勇気ある言論を、烈々たる気迫で続けてこられた方である。
7  私の敬愛する長兄も、ビルマで戦死した。私は十七歳のとき、一詩「散る桜」(本全集第39巻収録)を詠んだ。戦争の犠牲となった無数の青年を偲びながら。
  戦災に 残りて咲きし桜花
  空は蒼空あおぞら 落花紛々らっかふんぷん
  (中略)
  青春桜 幾百万
  なぜ 散りゆくか 散りゆくか
  南海遠しや 仇桜
  爛漫未熟に 枝痛し
  (中略)
  散る桜 残る桜よ 永遠とこしえ
  春に 嵐と 咲き薫れ
 二度と戦争を起こしてはならない。二度と青年を、狡猾(こうかつ)な権力者の犠牲にさせてはならない。これが、戸田先生のもと、平和への民衆運動に身を投じた私の決心である。
8  昨年の暮れ(十二月十五日)に逝去された、日本を代表する平和学者の関寛治ひろはる先生は、忘れ得ぬ知性と人格の方であられた。先生は、東京大学ならびに立命館大学の名誉教授であり、日本平和学会を設立した平和学の大功労者であられた。
 関先生は、奇しくも、学会本部のある新宿区信濃町の生まれで、開戦直前までの中学時代を、広島で過ごされている。ご自身は被曝を免れたが、多くの友人、知人を失った。それが「平和への探究」の原点となったとうかがっている。
 私どもの「戸田記念国際平和研究所」の顧問も務めてくださっていた。九七年秋にイギリスのタプロ・コート総合文化センターで開催された「核兵器廃絶のための国際会議」にも、ご夫妻で参加なされた。
 かねてより、学会の平和行動に信頼を寄せてくださり、ある講演では、こう言ってくださった。
 「宗教の中には、もちろん、古い権力と結びついている保守的な宗教もあるわけですが、(=SGI創価学会インタナショナル池田会長は、)そういう権力から完全に独立している。このように、既存の権力から自由であり、かつ自然科学や社会科学などの研究成果をも、十分そのなかに受け入れることのできるリーダーのみが、平和を創出していく新しい運動を推進することができます」(一九八一年、九州平和記念館の開館記念講演)
 そして平和学者の立場から、こう期待を寄せてくださった。
 「新しく要請される平和運動とは、どういうものか。それは、宗教的リーダーが、現存の制度を超えて、未来を見通し、地球上の多くの人々を精神的に奮い立たせる運動といってよいでしょう」(同前)と。関先生の心に、お応えする意味からも、「人間精神を奮い立たせる平和運動」を、私どもはさらに進めてまいりたい。
9  「信用」こそ青年の財産
 戸田先生はよく青年に「外交というものを自分の一生の地盤にすることだ。立派な人間としての大外交をしていきなさい」と言われた。
 閉ざされた青年であってはならない。内外を問わずどんどん人と会い、人と対話せよ! 人の心をつかみ、味方をつくれ! すべてが自分自身の訓練となり、財産となる――これが戸田先生の励ましであった。
 とくに先生は、青年に「偉大な人物に会って勉強していきなさい」と教えられた。
 戸田先生は、常に王者の風格の方であった。一流の次元の風格を湛えた先生であられた。
 先生いわく「青年は望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは自分の考えの何分の一かだ。初めから望みが小さいようでは何もできないで終わる」と。
 また、先生は言われた。
 「人の信用を得る根本は、約束を守ることである。何を犠牲にしても絶対に約束を守ることによって、信用が得られるのである。これは青年の絶対の社交術である。できないことは、はっきり『できない』と断る。引き受けたら絶対にやる。これが信用を得る根本であり、金はかからないのだ」と。
 青年部の諸君は、青年らしく、人間らしく、学会っ子らしく、大胆に、度胸よく、そして誠実に、偉大な人間外交の大道を歩んでいただきたい。
10  ほめたたえる心に大功徳
 人をたたえられないのは、心が狭い。日本人には、これができない人が多い。人の足を引っ張って、喜んでいる。自分も人も、何の得もない。たたえ合ったほうが、よほど利口である。
 幕末の横浜に、こんな話がある。
 ある事業家が、アメリカ人の建築士と知り合いになり、一緒に利益をあげようと決めた。ところが、アメリカ人は「自分には金がない」という。
 事業家は「じつは、僕だってない。しかし、そんなことは心配いらない。きょうから、君は、まず僕をほめよ。僕も君をほめるから、両人が互いにほめあって、偉い人になれば、金の融通くらい、いくらでもできる」と言った。
 以来、ふたりは、ことあるごとに、人に向かって、互いをほめたたえた。当然、評判は上がる。ついにイギリス公使のパークスを説得して、その建築を引き受け、大きな利益を上げたという。
11  これは世間の次元であるが、仏法においても、大聖人は、こう仰せである。
 「剣はとげばいよいよ利くなる・法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる」――剣は、とげば、いよいよ鋭くなる。法華経は、ほめれば、いよいよ功徳が増えていく――と。
 また「ほめられぬれば我が身の損ずるをも・かへりみず、そしられぬる時は又我が身のやぶるるをも・しらず、ふるまふ事は凡夫のことはざなり」――凡夫というものは、ほめられたら、自分が損になることさえ忘れて(一生懸命、働き)、悪く言われた時は、また自分を害することも知らずに愚かな振る舞いをするものである――と仰せである。
 弘教も、頑張っている人を、ほめたたえれば、たたえるほど、自分も功徳を受ける。組織にも功徳が充満してくる。勢いがついて、さらに弘教が進む。人材も出てくる。
 経文も、仏と法とを、ほめたたえる言葉にあふれている。いわば「たたえる詩」であり、「合唱」である。釈尊も大聖人も「ほめたたえる人」であられた。
12  心で思っているだけではなく、口に出して、ほめなければいけない。
 ある国の話。ある時、農家の主婦が、食卓の上に料理を並べずに、牛が食べる干し草を、いっぱいに並べた。
 食卓についた男たちは怒り出した。「俺たちは牛じゃないぞ!」
 すると、おかみさんは、平然と言い返した。
 「おや、牛じゃなかったのかい。私は二十年間、お前さんたちのために料理をつくってきた。しかし、一度だって、お前さんたちが、牛と違って、何か言ったためしがあるのかい!」
 牛は、干し草を黙々と食べる。それと同じで、「おいしい」とも「ありがとう」とも言わずに、黙って料理を食べてばかりいる男は、牛と一緒に、干し草でも食べろというのである。
 要するに、感謝も称賛も、「黙っていては、わからない」。
 文殊菩薩は、ほかの人が見放した「手におえない衆生」を、ほめてほめて、ほめぬいて立派に教化したという。
 私たちは、人をたたえ、人を奮い立たせる「名人」になりたい。それができる広布の「名優」になりたいものである。
13  創価学会は社会の安全地帯
 ともかく何が起こるかわからない、狂った社会である。どこにも安全なところがない。だからこそ、「社会の安全地帯」としての創価学会が大切なのである。
 大聖人は流罪の地の佐渡から門下に仰せである。
 「各各互に読聞けまいらせさせ給え、かかる濁世には互につねに・いゐあわせてひまもなく後世ねがわせ給い候へ」――おのおの互いに、この手紙を読み、聞かせてあげてください。このような濁った世の中では、互いに、常に語り合って、たえまなく、後生(永遠の幸福)を願っておいきなさい――。
 今、この御指導の通りに、学びあい、励ましあって、乱世を乗り切っているのは創価学会である。一人も残らず幸福に――と渾身の力で祈り、努力している。
 その指揮をとっておられる幹部の皆さまの使命が、どれほど尊いか、計り知れない。
14  「妙法を語る人」は大指導者に
 法華経の随喜功徳品には、「妙法を一言でも説く功徳は莫大である」と説かれている。
 内容を、わかりやすく述べれば――。
 「妙法を説く場所(今で言えば座談会や会合である)に行って、他の人が来た時に、『ようこそ、ようこそ』と座らせて、話を聞かせたり、自分の座をつめて座らせてあげたとする。この人は、その功徳で、『帝釈天の椅子』あるいは『梵天の椅子』あるいは『転輪聖王の椅子』に座ることができる」(開結五三五ページ、趣意)と。
 皆さまが生々世々、大指導者になれるという文証である。また職場においても「長」となり、地域や他の組織においても、リーダーとして活躍し、多くの人々に尊敬される立場になるという文証である。
 皆さまは、永遠に大指導者となる福徳と力を、今、つけているのである。仏法に無駄はない。今の修行が永遠にわたる財産を積んでいるのである。やらなければ損である。
15  また、こうも説かれている。
 「だれかに対して、『法華経という教えがあるんだ。一緒に行って、話を聞こうよ』と誘ったとする。そこで、相手が、たとえ一瞬でも、妙法の話を聞けば、『話を聞こう』と勧めた人は、その功徳で、素晴らしく頭のよい菩薩となって生まれる。賢く、知恵があり、健康で、いい顔になり、気品があり、裕福で、生まれるたびに仏と会い(御本尊のもとに生まれるということである)、妙法を聞き、教えを信じて、幸福に生きられる。一人の人に法を聞かせるだけで、(相手が信心しようとしまいと)このようにすばらしい功徳がある。いわんや、教えを一心に聞き、説き、勤行し、多くの人に教え、『如説修行』する人の功徳は、限りがない」(開結五三六ページ、趣意)
 法華経には、このように説かれているのである。
 広宣流布のために戦った人は「大王」なのである。いかなる有名人よりも、権力者よりも尊い。
 その人を大事にして、たたえれば、自分も守られる。広宣流布に励む人を、ほめたたえていけば、そこに福運がつき、勢いがついてくる。
 男性は女性の、また先輩は後輩の意見に、よく耳を傾けることも大切であろう。
 私も、生命の「大王」であられる皆さまに心からの敬意を表し、スピーチを結びたい。
 (東京・新宿区内)

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