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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部代表協議会(「紅梅会」「常磐会」… 学会活動で「黄金の自分」を磨け

1998.1.25 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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2  今、全国で婦人部総会が、たけなわであるが、戸田先生が言われたことがある。
 「今、この時に、本当に民衆を憂えて、世界を論じている女性が、一体、どこにいるだろうか。ここにしかいない。創価学会の女性だけである」と。
 ある女性の人材グループ(華陽会)でのことであった。
 今、婦人部の皆さまも、集い合って、人生と仏法を語り、地域の繁栄を願い、日本の将来を憂い、二十一世紀を目指して、自由自在に「対話の花」を咲かせておられる。
 凡夫の目から見れば、小さな平凡な集いに見えるかもしれない。しかし、仏様の目から見れば、これほど尊い集いはないのである。それは「広宣流布をしていこう」という集いだからである。
3  戸田先生は、世界広宣流布について、こう言われていた。
 「どこにあっても、民衆の生活のなかに飛び込んでいかなければ、だめだ」
 「世界の広宣流布と言っても、やはり、その根本は一対一の対話と座談会以外にはない。現地の生活に根をおろし、社会的にも信用を得て、民衆のなかに入っていく。
 そこで個人折伏をやる。座談会を開いていくのだ。どこへ行っても、最後まで、座談会と一対一の対話が原則である」と。
 皆さまの地道な行動こそ、末法の広宣流布の「王道」であり、人生の「無上道」なのである。
 そして、この道を行くことが、子どもの、一家の「福徳の軌道」を厳然と建設することになる。
 戸田先生は「広宣流布は、われわれの子孫に対して、子孫が脱線しないように大綱を引いてやることなのだ」と言われたこともある。先生の話は総じての話であるが、個々の家庭においても、子孫が間違いない「幸福の軌道」を歩んでいける「原因」を今、つくっているのである。
 大聖人は、妙法は自分が仏になるだけでなく、「上七代」「上無量生」の先祖、そして「下七代」「下無量生」の子孫までも救うと仰せである。(御書一四三〇ページ、趣意)
4  仏敵を攻めてこそ広宣流布が
 宮本武蔵の『五輪書ごりんのしょ』には、兵法として、こう書いてある。
 「多数の人間と戦う時は、こちらが待っていてはいけない。敵が四方から攻めかかってきても、むしろ、こちらから、一方へ追い回す心で向かっていくべきである。待っていてはいけない。こちらから強く切り込み、敵の集団を追いくずし、切りくずしていくのである」(「水之巻」趣意)
5  広宣流布も、攻めて攻め抜いていかなければ、できない。
 日蓮大聖人は「如説修行抄」に仰せである。
 「権門をかつぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の敵人をせむるに(中略)かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり今に至るまで軍やむ事なし、法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなく・せめをとして法王の家人となし」――権門をかっぱと破り、あちらに押しかけこちらに押し寄せ、念仏・真言・禅・律等の八宗・十宗の謗法の敵人をせめたてた(中略)敵は多勢である。法王(仏)の使いは日蓮一人であり、「多勢に無勢」である。今にいたるまで、いくさは、やむことがない。戦いの連続である。「法華折伏・破権門理(権門の理を破す)」と説かれているゆえに、最後には、権教権門を信じている敵を一人も残らず攻め落としていくのである――と。
6  牧口先生は、たった一人の人に会うために、どこへでも行かれた。老齢の身で、しかも交通の不便な時代に、どこへでも――九州までも足を運ばれた。
 逮捕されたときも、身に危険が迫っている不穏な情勢のなか、伊豆の下田まで行かれた。そして、一人の学会員の願いに応じて、弘教に歩かれた先での逮捕であった。
 この「不惜の精神」に創価学会の原点がある。日蓮仏法における「信心の真髄」がある。
 歴代会長が、この精神に徹してきたからこそ、これほどまでに福徳にあふれた創価学会の世界ができたのである。今、その世界で活躍でき、幸福になっていけることが、どれほどありがたいことか――。
 大聖人は、こう言われている。
 「若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして観念思惟しゆいを専らにして邪正権実をもえらばずいつわつて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべし
 ――もし仏法を行ずる人がいて、謗法の悪人を対治し、罰することなく、(ただ座して)観念・思惟にふけり、邪法と正法、権教と実教を峻別せず謗法の悪人を戒めないで、(悪人への)いつわりの慈悲の姿を見せるならば、この人は、もろもろの悪人と一緒に悪道に堕ちるのである――。
 「万事をさしおいて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり
 ――万事をさしおいて、謗法を責めなさい。これが折伏の修行である――。
 「万事をさしおいて」と仰せである。こういう御本仏の御金言どおりに実行したゆえに、創価学会は御本仏の御心にかなって大発展したのである。仏敵は、攻めて攻めて攻め抜いていかなければならない。
7  障害があるからこそ、生命は磨かれる
 苦労があるからこそ、生命が磨かれる。
 御書に「猪の金山を摺り」という御言葉がある。
 あるところに「金の山」があった。そこに猪がいて、「金の山」が輝いているのが気に入らない。「何だ、あんなやつ」と思い、金の光を消そうとして、体をこすりつける。猪だから、毛は硬く、勢いもすさまじい。
 ところが、結果は、どうなったか。猪がこすればこするほど、そのおかげで、金山は、ますます燦然と光を増していったのである。
 これは、竜樹の『大智度論』や、天台大師の『摩訶止観』にある話である。
 大聖人は、これを御書に引かれて、「法華経の行者は、障害に遭えば遭うほど、もっと輝いてくる」と教えてくださっている。
 障害とは、三障四魔のことである。三障四魔と戦わなければ成仏はない。
 難を受け、難を乗り越えなければ、仏になれない。試験を受け、試験を乗り越えなければ、大学を卒業できないのと同じである。
 大聖人は、「此の世界は第六天の魔王の所領なり」――この世は第六天の魔王が支配する世界――であると仰せである。ゆえに「善人」が迫害される。「悪人」がのさばる。こういう転倒の世界を、根本的次元から変えていくのが広宣流布である。
8  障害があればあるほど、自分が輝いてくる――これは人間関係についても、大切な教えではないだろうか。
 組織は、さまざまな人の集合である。自分にとって、やりいい相手だけとは限らない。うんざりするような場合もあるにちがいない。しかし「だからこそ」、そのなかで、自分という「黄金の山」が光ってくるのである。
 周りが、いい人ばかりだと成長はない。やりにくい人の中でこそ、自分が「黄金」に磨かれていくのである。
 考えてみれば、自分のことさえ、自分の思うようにはならない。まして、他人が自分の思うようにならないのは当然である。それを、いちいち腹を立てていても、何が良くなるわけでもない。相手がそれで変わるわけでもない。
 「しょうがない人だなぁ」と思って、慈悲をもって包容してあげるしかない。
9  ともあれ、順調ばかりの人生だと、人生を簡単に考えてしまう。これまでの反逆者は、みんなそうであった。彼らは組織での苦労もしていなかった。
 大聖人は仰せである。
 「摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」文、又云く「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし」と。
 すなわち、天台大師は、『摩訶止観』の中で大海があんなに大きいのは、さまざまな川が流れこんで、それを海が受けいれているからであるとも言っている。
 川を押し返してしまったら、大海は大海でなくなってしまう。自分がいやな相手と会わないのであれば、大海のような自分はできない。
 また「薪」を増やせば増やすほど、「火」は大きくなるではないかとも言っている。
 不幸の「薪」があって、幸福の「炎」がある。苦労があるから、喜びもある。煩悩即菩提である。悩みがあるから、成長がある。ゆえに、″幸せばかりの幸せ″はない。
 大聖人は、御自身を迫害した平左衛門尉たちこそが、「第一の善知識」であり、「第一の味方」であるとまで仰せである(御書九一七ページ、趣意)。自分をいちばん困らせる人間こそが、自分を仏にしてくれるのである。
10  紅梅のごとく、厳寒にも「変わらぬ心」で
 戸田先生が、女性に、こう言われたことがある。
 「将来、外国に行って、『何か、ひとこと』と言われたとき、みんな、何を話すか。そんなとき、政治を論じたり、むずかしいことを話したり、ばりばり仏法の話をしたりしてはならない。
 それよりも、日本の歴史や文化を知らせてあげなさい。日本の国には、こんな美しい話がありますと、『むかし、むかし、あるところに、かぐや姫という、お姫さまがおりました……』、こういうふうに話ができるのが立派な女性です。
 そして相手が、日本に興味をもち、日本に行ってみたいという気持ちが起きてきて、理解してきたら、それから『私の国には、こんなすばらしい、正しい宗教があります』というように話してあげなさい」と。
 そういう意味で、日本の古典の話も、たまにはよいのではないかと思う。
11  「梅」の花は、厳寒のさなか、いち早く咲く。凛として咲く。変わらぬ心で咲く。
 「冬は必ず春となる」の象徴が「梅」の花である。必ず、間違いなく、春を告げてくれる。いちばん強く、いちばん美しく、いちばん信頼できる。
 古来、「梅」の花は「人を裏切らない」誠実な心を表した。紀貫之が「人はいさこころも知らずふるさとは 花ぞむかしのかににほひける」(「古今和歌集」、『日本古典文学大系』8,岩波書店)――人間のほうは、さあ、心が変わったのか変わらないのかも、わかりません。しかし、なじんだ里の梅の花だけは、昔のままの香りを放って美しく咲いております――と歌ったのも、この心である。
 また菅原道真は、讒言によって九州に流罪されるとき、自分の庭の梅の木に向かって、こう詠んだ。
 「こちふかばにほひおこせよ、むめのはな、あるじなしとてはるをわするな」(「大鏡」同大系2)
 ――春の東風が吹いたなら、香りを届けて寄こしなさい、梅の花よ。主の私がいないからといって、春を忘れてはいけないよ――。
 「春を忘るな」――咲くべき自分の使命を忘れるなということである。この歌に応えたのか、梅の花は、主人である道真が迫害にあっている九州にまで、京都から飛んで来たという。有名な「飛び梅」の故事である。
 このように「梅」の花は、「変わらない心」「主を忘れない心」を表す。ことあれば、何をおいても、まっ先に駆けつける。それが「紅梅」の心である。
 「梅」は、中国でも「王」と呼ばれた。花の女王であろう。私もいつも、そばに「紅梅」の絵を掲げている。
12  南米解放の父シモン・ボリバルは言った。
 「忘恩は人間がなしうる最大の犯罪である」(ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シモン・ボリーバル』水野一監訳、春秋社)と。
 学会を裏切り、同志を裏切った人間の末路は厳しい。一時、どんなに華やかに見えても、最後は苦悩のどん底になっている。御書に照らし、生々世々、苦しみ続けるであろう。
 反対に、「誓いを貫いた人生」は晴れ晴れとしている。どんなに今、貧しい姿のように見えようとも、広宣流布に戦いきった人生は、必ずや、年とともに立派に輝いていく。永遠の福運が満ちてくる。信頼する紅梅会、常盤会の皆さんは、「広宣流布へ生ききった」模範の存在であっていただきたい。仏勅の不思議なる教団・創価学会で、最高の人生の歴史をつづっていただきたい。
13  「使命」を果たせば「境涯」が上がる
 学会の役職の仏法上の意義はどこにあるのか。釈尊の仏法では、「六即」とか「五十二位」とか、菩薩の位を細かく論じた。
 日蓮仏法では、受持即観心であり、直達正観であるから、段階はない。(どちらも、″御本尊の受持によって、直ちに仏界を得られる″こと)
 それを前提にして、やはり「境涯の成長」の段階がある。「境涯」を上げるためには、具体的には、自分の「役職」をやり切っていくことである。
 少し難しいが、「境智行位」という法門がある。
 簡単にいうと、「境」とは獲得すべき真理である。広げて言えば、客観的な基準とか、客観的な目標に当たる。学会の役職で言えば、その役職に伴う「果たすべき使命」が「境」に当たるであろう。
 支部の副婦人部長であれば、その果たすべき「使命」と「責任」がある。それが「境」である。
 その使命を果たすために、自分の「智慧(智)」を尽くし、「行動(行)」を尽くしていく。そこに、結果として、仏法上の「位」が決まっていく。すなわち生命の「位」が定まっていくのである。これが「境智行位」である。
 ゆえに、役職が高くても、その使命を果たしていなければ、何にもならない。実際の「仏法上の位」は低い。だから役職だけではわからない。役職が低くても、広宣流布へ、偉大なる貢献をしている人が、大勢いらっしゃる。ゆえに、役職で人を見るのは、大きな誤りである。
 しかし反対に、役職を軽視することは、広宣流布の組織を軽視することに通ずる。
 自分は自分として立派に、役職の「責任(境)」を果たしていこう、自分自身の立派な歴史を残していこう――と「智」と「行」を尽くしていくところに、生命の「位」が上がっていく。
 ここに、「役職」の重大な意義がある。その意味で、役職は「人間向上への飛躍台」なのである。
14  大聖人は厳しく仰せである。
 「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし」――いかなる大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念観法の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、それだけで成仏はないのである――と。
 敵と戦う「広宣流布への行動」なくして、仏法はなく、成仏もないのである。広宣流布のために「どうしようか」と悩み、苦しみ、戦った人が最後には勝つ。これが五十年間、あらゆる人生の軌跡を見てきた私の結論である。
15  世間の「位」は幻、仏法の「位」は永遠
 有名人が偉いのか。断じて、そんなことはない。
 地位や学歴のある人が偉いのか。絶対に、そうではない。
 地道に、一生懸命、広宣流布に励んでいる無名の庶民がいちばん、偉いのである。
 「広宣流布」は日蓮仏法の根幹である。根本目標である。広宣流布への不惜身命なくして、大聖人の仏法はない。学会活動こそが、日蓮大聖人の仰せの通りの行動なのである。
 これまでも今も、有名になったり偉くなったりすると、信心の「心」が堕ち、「身」が堕ちて、不惜身命がなくなっていってしまう。そういう人間が、あまりにも多い。
 戦時中の弾圧の時も、そうであった。戦後の戸田先生の事業の挫折の時も、そうであった。
 それまで、「牧口先生、牧口先生」「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間が、手のひらを返して、「牧口の野郎」「戸田の野郎」と、ののしった。人間の心は、怖い。
 その中で、ただ一人、戸田先生だけが大闘争をし、大勝利して、牧口先生の仇を討った。
 私だけが一身をなげうって戸田先生を守り、学会を守り支えて大発展させた。戸田先生は本当に喜んでおられた。先生は幸せであった。
 ある時、戸田先生は、「いわゆる″偉い人間″なんか信用できない。いざというときに、臆病で、逃げる。卑怯な、インチキの人間が多いものだ。いちばん信用できるのは、民衆だ。けなげな婦人部をはじめ、無名の庶民なんだよ」と強く強く語っておられた。
 本当の信仰に「世間の位」は関係ない。それは幻にすぎない。
 信仰者は「無冠の帝王」である。そして、正法を弘める人は、生々世々、生命の「王者」となり、「女王」となっていく。
 その証明は、必ずや今世で現れるにちがいないと申し上げ、祝福のスピーチとしたい。
 (東京・新宿区内)

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