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日蓮大聖人・池田大作

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首都圏各部協議会 「真実の叫び」は心から心へ広がる

1998.1.20 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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2  「法華経」において、釈尊が最終的に説いた遺言は「もし、この経典(法華経)を受持する者を見たならば、必ずまさに立ち上がって遠くまで出迎えるべきであり、それは、まさに仏を敬うがごとくにすべきである」ということである。
 大聖人は「御義口伝」で、この教えこそ「最上第一の相伝」と仰せである。
 総じては、「大聖人の仰せのままに広宣流布に励みゆく人」を仏の如くに敬い、大切にせよ!
 これこそが法華経の根本精神であり、日蓮仏法の極意なのである。
 この通りに、学会員一人一人を最大に大事にしてきたからこそ、学会は、いかに迫害されようとも、加速度をつけて発展している。これからも永遠に、そうあらねばならない。
 要するに、「国家」にあっては「国民主体」、「大学」にあっては「学生主体」、そして「学会」にあっては「会員主体」――これこそが正しき軌道である。
 大聖人は、一つの譬喩として、囲碁の「しちよう四丁」について言及されている。すなわち、急所、急所に石を置いて、相手を追いつめていく手のことである。
 一つ一つ油断なく、的確に碁石を打つがごとく、広宣流布の指導者は聡明に「常勝の布石」を打ち続けていただきたい。
3  先日(一月六日)、東京牧口記念会館で、カナダのモントリオール大学のシマー学長ご夫妻と大いに語り合った。「健康」と「人生」と「仏法」をめぐって――。
 (=池田名誉会長は、シマー博士と月刊誌『潮』で対談の連載。平成十年二月号から九月号。『健康と人生』と題し、平成十二年四月より潮出版社より発刊)
 混迷の時代は、確固たる「精神性の光」を求めてやまない。御聖訓に、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」――力があるならば一文一句であっても人に語っていきなさい――と仰せのごとく、私たちは、人間主義の大仏法を生き生きと語り抜いてまいりたい。
 学長ご夫妻とは「女性の力の偉大さ」についても話題となった。
 学長は「男性と女性が戦争になったら、男性に勝ち目は、まったくありません。わがモントリオール大学医学部でも、苦しい勉強を最後まで貫く学生の多くが女性です。医師も女性が増えています。男性よりコミュニケーションがうまい女性医師が多くなれば、患者と医師の関係も、もっとスムーズになっていくと思います」と語ってくださった。
 また、シマー学長夫人は、「人権」を守り、「環境」を守り、そして「未来の生命」を守りゆかんとする学会の行動に対し、深い共感を寄せておられた。
4  明治の女性記者の言論闘争
 環境問題といえば、先日(一月八日)も申し上げた足尾鉱毒事件がある。明治時代、日本の「公害の原点」となった悲劇である。この事件の際、正義の言論を武器に戦い抜いた一人の女性の新聞記者がいたことは、意外に知られていない。
 その人の名は、松本英子さん(一八六六年〈慶応二年〉〜一九二八年〈昭和三年〉)。千葉の木更津市の茅野の出身である。当時の「毎日新聞」の記者であった。今の「毎日新聞」とは別の新聞である。
 若き松本英子さん(三十代半ば)は取材のため、足尾鉱毒の被害地を訪れ、想像を絶する光景に愕然とした。
 河川は汚染され、周辺の土壌は荒廃。作物は育たず、住民の生活は、窮乏を極めていた。村人は次々に、失明など、深刻に健康を害していった。
 にもかかわらず、鉱毒への村人の反対運動を、当局は、冷たくあしらった。役人たちは、抗議する村人を脅かし、弾圧した。世間も、いまだ、この問題に関心を払っていなかった。要するに、被害者たちは、社会からまったく見放されていたのである。
5  彼女は、憤然と決意する。″これらの寄る辺ない民衆のために、筆がつぶれるまで、力の許す限り、私は記事を書いて、人々の心に訴え続ける!″と。
 そして叫ぶ。″民衆の嘆きを、世の中は無視している。これは一個人、一政府の大罪であるだけでなく、社会の罪、社会の腐敗、社会の堕落の極みではないか!″と。
 ひとたび、心を定め、信念の行動を起こした女性は、想像もおよばぬほどの力を出す。彼女は、何度も被害地に足を運び、丹念に取材を重ねた。そして、被害地の惨状を告発する記事を、約六十回にわたり、新聞に連載したのである。
 さらに彼女は、婦人の仲間たちと力を合わせ、救済運動にも奔走した。降り積もる大雪の中、あの田中正造氏(一八四一年〜一九一三年。政治家。終生、足尾銅山の鉱毒問題に取り組む)に案内されて、みずから荷車を引いて、食料や衣類を、一軒一軒、村人の家に運んだこともある。また、看護婦さんを連れて行き、手当てを施してもいる。その戦いは、常に「具体的に、一歩前進」であった。
6  しかし、こうした女性たちの真摯な行動は、たたえられるどころか、心ない非難が浴びせられた。″実際の被害はもっと少ない。彼女らの声はおおげさだ″などと。
 その背景には、女性の社会進出への根深い偏見もあったろう。彼女は、そうした「言論の暴力」とも戦わなければならなかった。
 国家権力からも、たびたび圧迫された。当局に呼び出され、厳しい取り調べも受けた。
 しかし、彼女は、こう言っている。
 「いずれの国、いかなる時においても、世のリーダーとなって、模範を後世に残す人は、必ず、その正義に反対する敵、すなわち、幾多の迫害に遭わぬ者はありません」(永井元編『永井ゑい子詩文』大空社)
 数々の苦難をはね返し、やがて彼女の記事は、確実に人々の心を揺さぶっていった。
 鉱毒事件を傍観していた他の新聞社も、その記事に刺激され、次々に紙面で取り上げ始めた。また、触発を受けた学者や学生たちも、大勢、被害地を訪れ、救済運動に立ち上がった。
 一人の女性の叫びが、人々の目を開き、世論を呼び起こすことに大きく貢献していったのである。
 彼女は言っている。
 「池中に石を投げ見よ。いかに小き石にても、忽ち波紋を起し、波より波と伝はりて、池の中央より其片隅まで波及する。一人の志士にして真に国を憂い世を慨くか、其真実は人より人と伝はりて、世に及ぶにいたる」(同前)と。
 地味なようであっても、一人から一人へ、″口コミ″の力も、これまた大きい。
 なお、哲学者の内村鑑三は、彼女を励まして、手紙を送っている。
 ″滅亡に瀕している日本の社会では、何か他人の悪いところはないかとつけねらっており、ささいなことも、すぐに大げさに吹聴されます。お互いに、このような腐敗極まる社会で生きていくためには、十分な注意が必要です″と。
 日本人の島国根性に対する警告である。
 やがて、彼女は、この嫉妬の島国・日本から、アメリカへと旅立つ。そして、第一次世界大戦の際には、自ら主筆も務めた「在米婦人新報」で非戦の論陣を張っている。アメリカの天地で、彼女は、一生涯、平和を訴え続けたのである。
7  「希望」は実現! 婦人が立てば
 彼女の言葉に、こうある。
 「婦人の力大なり。婦人は平和の使者である。婦人が結束して立ち、この使命に率先猛進するの精神を奮い起こせば、この希望は希望に止まらず、必ずや実行の日を見るであろう」(府馬清『松本英子の生涯』昭和図書出版)
 彼女の逝去から、七十年――。彼女の故郷・千葉には、学会婦人の平和のスクラムが、一面の菜の花のごとく広がっている。民衆のための、民衆による言論闘争の″対話の花″が咲き薫っている。
 彼女が見たら、どんなすばらしい記事にして、表現することだろうかと私は思う。
 じつは、千葉にご健在の彼女のご親族も、わが学会の同志なのである。
 ともあれ、創価の婦人の叫びに勝る力はない。各地で行われている婦人部総会の朗らかな大成功を、私は心からお祈りしたい。
8  友情ほど美しいものはない。中国の『詩経』には、こうあったと記憶する。
 「豈に衣無しと曰わんや、子と袍をともにせん」(「着るものがない」なんて、俺たちは言うまい。二人で一緒に綿入れの上着を着ようじゃないか)
 すなわち、一つの上着を一緒に着て戦っていこうという、深い友情を謳ったものである。
 また、唐の詩人である孟郊もうこうの詩には、こうある。
 「何をか以て知音に報ぜん、永く堅と貞とを存せん」(何をもって親友に報いようか。いつまでも堅く変わらぬ貞節な友情を持ち続けて報いよう)
 絶対に裏切らない。絶対に離れない。それが真実の友情であり、同志である。
 そして、『孟子』には――。
 「至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり」(大誠実によって感動させられないものは天下にない)
 どうか、「ただ誠実の二字」で、友情のドラマを広げていっていただきたい。
9  「青年部の時代」 大胆に進め!
 結びに、御聖訓を拝したい。私どもの人生の″魂″とも言うべき御言葉である。
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」――今世の生命には限りがある。(いつか必ず死ぬ身である。ゆえに)惜しんではならない。願うべき究極のものは「仏の国」である――と。
 命を惜しんではならない。広宣流布のために、命を惜しまず戦いなさい、と大聖人が仰せなのである。
 ゆえに、勇んで友を激励し、勇んで人材を育成し、勇んで弘教を拡大し、勇んで組織を強化していただきたい。
 なかんずく「青年部の時代」である。舞台は一変した。
 青年部よ、大胆に、思う存分、進みゆけ! と申し上げ、私のスピーチとしたい。
 (東京・八王子市内)

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