Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第2東京代表協議会 「行動!」こそ我らの栄光

1998.1.18 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

前後
2  仏法は「行動」である。御聖訓には仰せである。
 「一切衆生・法華経を謗じて流転す可きを観じて日本国を日蓮経行して南無妙法蓮華経と弘通する事・又又かくの如くなり
 ――一切衆生が法華経を誹謗して(不幸の道を)流転するのを見抜いたゆえに、(それをとどめるために)日蓮が日本国を経行して(歩いて)南無妙法蓮華経を弘通している。これは釈尊と同様である――。
 大聖人御自身が、日本を歩きに歩いて広宣流布を進めてこられたのである。この大聖人の使いとして、今、日本中をすみずみまで歩いて仏縁を広げているのが、わが学会員である。これほど尊い姿はない。
3  言うまでもなく、大聖人の御心は日本一国にとどまらない。太陽のごとく一閻浮提(全世界)を、全人類を赫々と照らし、包んでおられる。
 思えば、大聖人が流罪された佐渡の海は、仏教伝来の大恩ある韓・朝鮮半島にも、中国にも通じている。また東南アジアにも、さらにロシアにも、はるかインドにも通じている。その佐渡で、大聖人は「仏教西還」を断言なされていたのである。
 有名な「顕仏未来記」には仰せである。
 「正像には西より東に向い末法には東より西に往く」――(仏法は)正法時代・像法時代(の二千年間)には、西から東に向かい、末法には東から西に行く――と。
 この仰せを、寸分たがわず実現し、証明してきたのは、ただSGI(創価学会インタナショナル)である。私どもである。
4  ともあれ、じっとしていては広宣流布は止まってしまう。間断なく歩まねばならない。動かねばならない。
 「御義口伝」では、「足は経なり」と、われらのこの「足」は妙法蓮華経の「経」に当たると示されている。これを実践に約して拝するならば、みずからの足を使って、法のため、広布のため、人のために行動してこそ、このわが身が妙法蓮華経の当体として光り輝く。
 「如説修行抄」には、御自身の闘争を「かしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」――あちらに押しかけこちらに押し寄せ――と述べられている。
 戦いは勢いである。ゆえに学会青年部よ、打って出よ! 私は、若き怒涛の前進に期待する。
5  青年よ、「破折の宝剣」を磨け
 法華経は「折伏の経」である。
 天台大師の『法華玄義』にいわく「法華折伏・破権門理」(法華は折伏にして、権門の理を破す)と。すなわち、法華経は、あらゆる権門の理(真実の法門である法華経を説くまでの「権の法門」)を打ち破っていく「折伏の経」であるという意義である。
 要するに、邪義に対する「破折の精神」がなくなれば、もはや法華経とはいえない。
 大聖人は、若き南条時光に対して、こう仰せである。
 「権宗の人人・無量にくるふとも・ただほうろく焙烙千につち一つなるべし、法華折伏・破権門理とはこれなり、尤もいみじく秘奥なる法門なり
 ――権宗(かりの教えをもとにした宗派)の人々が、無量に言い狂ったとしても、要するに、「千の土鍋もたった一つの槌で打ち砕ける」ようなものである(法華経によって粉砕できる)。「法華は折伏にして、権門の理を破す」とは、このことである。最も大事な秘奥)の法門である――。
 「一つの正義」は「千の邪義」をも打ち砕くのである。
6  ゆえに妙法を受持した青年は、切れ味も鋭く「破折の宝剣」を磨いていかねばならない。
 戸田先生もよく「たとえ、きょう入会したばかりの人であれ、ひとたび創価学会員として法論にのぞんだならば、断じて負けてはならない」と叱咤激励された。
 また牧口先生は、獄中の取り調べに答えて、折伏の意義についても明快に論じておられる。
 その中で牧口先生は「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」との文を引いて、″折伏とは、「大慈悲の親心」で、相手の考えの間違いを破折し、本心を覚醒させることを意味する″と言われている。
 そして牧口先生は、末法の国家悪の時代においては「摂受」のような、なまやさしい方法では駄目であるとして、「折伏」という「言論による精神闘争」を厳然と宣言なされたのである。獄中での獅子吼であった。
 「学会精神」とは、すなわち「折伏精神」の異名なのである。
7  「悪知識」を遠ざけよ
 御書には繰り返し、重要な涅槃経の文が引かれている。
 すなわち「悪い象などに殺されても、身体を破壊されるだけであり、地獄等には堕ちない。しかし、悪知識に振り回されてしまえば、身も心も、ともに破壊されてしまい、地獄等に堕ちる」(7ページ、趣意)と。
 戸田先生が、よく拝し指導してくださった御文である。
 悪象に踏まれるとは、現代的に言えば、交通事故などといってよい。十分に注意して交通事故・火災などを絶対に起こしてはならないことは当然である。しかし、信心が破られなければ、たとえ何があっても、変毒為薬(毒を変えて薬となす)できる。要するに、最も恐ろしいのは「悪知識」に紛動され、信心を食い破られることである。
 御書では、この「悪知識」の本質について「悪知識と申すは甘くかたらひいつわび言をたくみにして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり」――悪知識というものは、甘く語らい、詐って媚び、言葉たくみに愚かな人の心を奪って、善き心を破る――と喝破されている。
 したがって、戸田先生は「この『悪知識』の中には、悪人は言うまでもなく、悪書も含まれる」と鋭く言われていた。そうした「悪書」を読んだりしていると、それにつられて悪の方向へ、地獄の方向へ引っ張られてしまう。
 御聖訓には″どんな善人であっても、悪知識に親しみ近づけば、悪に染められてしまう″ことが何度も強調されている。
 たとえば「いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり」――どんなに自分は正直に身を律して、世間においても仏法においても賢人の名を得ようと思っていても、悪人に親しみ近づけば、自然と十度のうち、二度、三度と悪人の教えに従うようになり、そうやって最後は悪人になってしまう――とある。
 だからこそ「悪知識を捨てよ! 善友に近づけ!」と仰せなのである。
 ともあれ、一切の基準が御書という明鏡に示されている。日々、御書を拝して、偉大なる生命の光線を浴びていくことである。
8  大聖人は仰せである。
 「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」――一生は夢のようなもので、明日のことさえわからないものです。(ゆえに、はかない現世のことにとらわれず、信心を第一に生きなさい)たとえ、どんな乞食になろうとも、法華経に傷をつけてはなりません――と。
 結びに、この「法華経にきずをつけ給うべからず」という御金言を強く確認しあって、私のスピーチとしたい。
 (東京牧口記念会館)

1
2