Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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各部代表協議会 一国も個人も「心」で決まる

1998.1.11 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  「私の″宝物″はいい友人」
 きのう(十日)のテレビ番組に、わが多宝の友である神奈川の高橋ヨシさんが出演されていた。現在、百三歳。本当にいいお顔をされていて、話し方も、内容もすばらしい。
 「今のいちばんの楽しみは?」と司会者が聞くと、その答えも味がある。
 「お友だちみんなと寄って(=集まって)、話し合うことがいちばん、楽しいです。お友だちを、たくさんもっているということは宝物なんです」
 また「長生きしてよかったです。毎日毎日、お友だちたくさんと会って、お話をして、楽しいですからね。だから、お話する人をもたない人は寂しいでしょう」と。
 「お友だちが宝」――名言である。仏法では「和合僧」と言う。大勢の人が集まり、和合する。和気あいあいと、和やかに語り合い、励まし合っていく。そこに「活力」が生まれ、「福運」がついてくる。現代で言えば、学会の組織のことである。「和合僧」の「僧」とは、本来、僧侶個人のことではない。仏法を実践する人々の「集まり」のことである。
 (サンスクリット語の「サンガ(団体・和合)」の音訳である「僧伽」を略して「僧」と呼んだ)
 励まし合いながら、ともに人生を生き、ともに仏道修行をしていく。そういう人間と人間の絆のなかにこそ、仏法は躍動している。ゆえに、広宣流布の和合僧の世界で生きることは、このうえない幸せなのである。組織を離れて、本当の福徳はない。
 また番組の中で高橋さんは、「今、きれいだなと思うものは何ですか」との質問に、こう答えた。「やっぱり、何かと聞かれると、人の心がきれいなのが、いちばんいいですね」と。
 哲学者の言である。こうした立派な学会の同志が全国のあちこちにおられる。ありがたいことである。
2  最も尊いのは学会を守るため、陰で苦労している人である。華やかな表舞台の人が偉いのではない。「心」である。「心」で決まる。格好ではない。
 大聖人は「開目抄」で仰せである。
 「心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」」と。
 生命の根幹の法則である。自分が過去、何をしてきたか。それは今の「果」を見ればわかる。自分が未来、どうなるか。それは今の「因」を見ればわかる。「今」こそは、過去の結果であり、未来の原因である。「今」のこの一瞬に「三世永遠」が含まれているのである。
 ゆえに「今」、真心こめて学会を守り、戦っておられる皆さまの「未来」の大果報は絶対に間違いない。仏法は厳しい。「今」、人をごまかしても、必ず最後には「法」によって裁かれていく。
3  日本を立て直すには、まず「精神」を立て直せ
 今年の元日、上智大学の名誉教授安斎伸先生が亡くなられた。七十四歳であられた。
 親しく、お付き合いしていただいたが、見識は高く、信念は堅く、お人柄は柔らかい、立派な人格者であられた。何度もお便りをいただき、私の本の書評をしてくださったこともある。
 安斎先生が月刊誌『潮』の新年号に、こう書いておられた。先生の遺言となった言葉である。
 「平成九年は国民にとっては、まさに悪夢のような年で、政界の異常な混迷、財界、金融界、証券界の目を覆うばかりの商法違反(中略)教育界での校内暴力、いじめ、家庭での残虐な親殺し、子殺し」。これらが「国民を怒らせ、悲しませ、当惑させつづけた」と。
 めちゃくちゃな日本を、それでは、どう立て直すのか。
 安斎先生は、「経済第一主義」――つまり「金さえあればいい」という生き方が、日本を狂わせ、ひいては経済までも狂わせてしまったという。というのは、本来、商売には商売の「道」があった。日本の経済発展は「自己を捨てて道を行う」という商人道に支えられていた。その精神性が、まったく、なくなってしまった。「恥も外聞もない功利主義に堕したのである」と嘆いておられる。
 ゆえに安斎先生は、日本を立て直すには「価値観」を立て直す以外にない、「精神」を立て直す以外にないと考えておられた。そして「確固とした価値観をもつ宗教」の大切さを指摘しておられる。そして結論として、「隣人愛」と「禁欲倫理」に目覚めなければならないと結んでおられる。すなわち「人に尽くす生き方」と「卑しく貪らない高潔さ」であろう。
4  原因を知らずして病は治せぬ
 要するに、「もう一度、『人間である』という原点に立ちもどれ」ということである。
 牧口先生も「行き詰まったら原点にもどれ」と言われていた。その場しのぎではなく、病気の根っこから治さなければならない。
 日蓮大聖人は、「病の起りを知らざる人の病を治せばいよいよ病は倍増すべし」――病気の原因を知らない人間が病気を治療したら、病気はいよいよ倍増してしまう――と仰せである。
 これは、どういう時に言われた言葉か。それは佐渡の流罪から戻られて、権力の実権を握っていた平左衛門尉に対面された時のことである。
 平左衛門尉は、大聖人を迫害し抜いてきた張本人である。いばりくさっていた彼が、このときばかりは、打って変わって礼儀正しかった。蒙古襲来という亡国の危機を前に、さすがに少しは真剣になっていた。
 大聖人の予言が現実になってきたのである。すでに「自界叛逆難」(内乱・北条時輔の乱)の予言も的中していた。また、どんなに迫害しても、ますます意気軒高な大聖人のお姿に、何か感じるものがあったのかもしれない。
 そこで大聖人は、本当に一国の病気を治したいならば、私の言葉をちゃんと聞きなさい、と厳しく言われたのである。
 大聖人は、こうも言われている。
 「病の所起を知らぬ人の病人を治すれば人必ず死す、此の災の根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか」――病気の原因を知らない人間が病人を治療したら、病人は必ず死んでしまう。今の日本の災難の根源を知らない人々が祈れば、国がまさに滅びることは疑いないであろう――。
 病気の根源とは、正法すなわち「生命の法」に背いたことであり、その最も大きな罪は「法華経の行者」を迫害したことである。一般の道理からいっても、「いちばん、国のためを思って行動している人」を、なきものにしようとする国が、栄えるはずがない。
 大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」と仰せになり、端的に「仏法は体」「世間は影」「体が曲がれば、影はななめになる」と、教えておられる。
5  内村鑑三は言った。
 「経済の背後には政治がある。政治の背後には社会がある。社会の背後には道徳がある。道徳の背後には宗教がある。宗教は始め(=本)であり、経済は終わり(=末)である。宗教の結果は、最後に経済において現れる。興隆する時もそうである。敗滅する時もそうである」(明治三十七年四月「興亡の因果」、『内村鑑三所感集』所収、岩波書店、現代表記に改めた)
 道徳、宗教という「精神性」を興隆させなければ、社会も、政治も、経済も蘇らないというのである。それを、観念論ではなく、大民衆運動として、現実社会に繰り広げているのが、わが創価学会である。
6  ある識者の発言を、うかがった。
 「日本は、いま哲学者を、詩人を必要としているのです。経済学者じゃない。経済学者的な発想からは、日本の憲法が謳っているような『人類社会における名誉ある地位』に位置する日本は生まれてこないのじゃないか」と。
 日本は「人間」を見失い、結局、「自分自身」を見失ってしまった。そして欧米からもアジアからも「人間としての共感」や「精神的な支持」を得られない国になっている。これは恐ろしいことであり、単に商品市場がどうとか、そういうことだけを考えて解決できる問題ではないというのである。(『これからのフィリピンと日本』〈ルベン・アビト、亜紀書房〉所収の座談会で、鄭敬謨チョン・ギョンモ氏の発言)
7  われらの出番! 誇りに満ちて楽しく前進
 ともあれ、こういう時代だからこそ、いよいよ私たちの出番である。
 大聖人は「大悪は大善の来るべき瑞相なり」――大悪は大善の来る前兆である――と仰せである。さらに「一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」――世界が打ち乱れたならば、そのときこそ、世界の広宣流布は間違いない――と。
 そして、次のように仰せである。「すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり」。
 ――すでに大謗法が国にある。ゆえに、大正法は必ず広まるであろう。わが門下の者よ、おのおの、何を嘆いておられるのか。(反対である。喜び勇んでいくべきである)迦葉尊者でなくとも舞をも舞いなさい! 舎利弗でなくても、立って踊りなさい! 上行菩薩が大地から出現された時には、踊って出現されたのである。普賢菩薩が釈尊のもとへ、やって来た時も、大地を六種に動かして(勢いよく、大地をも歓喜に震わせながら)やって来たのである――。
 私どもは、社会を救う「誇り」に満ち満ちて、大歓喜の地響きをたてながら、楽しく前進してまいりたい。
8  「年齢」は、「心」で決まる。全国、全世界で、わが多宝の友も、いよいよ若々しく、活躍されている。
 日本一、世界一の長寿県である沖縄のわが同志も、新たに「四分県」に発展し、ますます意気軒高である。建設が進む沖縄の墓地公園(=一九九九年三月十日に開園)の一帯では、早くも、桜が五分咲きとうかがった。日本で、まっさきに桜が咲く地域である。
9  「行動」の人生に″充実″と″生きがい″
 この沖縄に、十八世紀、琉球王国の黄金時代を築いた蔡温さいおんという哲人指導者がいた。彼が、こんなエピソードを書き残している。(崎浜秀明編『蔡温全集』本邦書籍から。原文は漢文)
 一人のおじいさんが、なんとも楽しそうに、田を耕していた。そこへ、馬に乗った高位高官の人間が通りかかった。彼は、おじいさんに問いかけた。
 「年をとって田を耕すのは、楽しいか。それとも苦しいか」
 すると、おじいさんは、反対に問い返してきた。
 「あなたこそ、馬に乗っていて、楽しいですか。それとも苦しいですか」
 思いがけない反応に、権力者は、笑って言った。
 「田を耕すほうが苦しいことは、だれでも知っているではないか」
 おじいさんは、さとすように答えた。
 「それは一面にすぎません。自ら耕し、その実りを得る楽しみほど大きいものはないのです。それに対して、権威ある立場を与えられながら、その立場に自分がつり合わなければ、これほど大きな恥は、ありません。ならば苦しいのは、私でしょうか、あなたでしょうか。楽しいのは、私でしょうか、あなたでしょうか。(ですから、あなたのほうこそ、苦しいのではないでしょうか)」――。
10  含蓄のある話である。
 「立場」にこだわり、「立場」を誇り、「行動」もなく、「責任」もない人生――それはわびしい。なかんずく、民衆を裏切り、利用した権力者が、どれほど、みじめな末路へと転落していくことか。
 それに比べて、大地に根を張った「使命」の人生は楽しい。日々、人間らしく、開拓の汗を流し、価値を生み出していく庶民の人生が、どれほど「充実」と「生きがい」に漲っていることか。
11  釈尊は、仏法者とは「民衆の心の田を耕す人」であると言った。
 皆さまは、久遠から願った使命の大地で、粘り強く、友の心を耕し、「幸福の大樹と育て」と慈しんでおられる。今、戦っている、その国土が、自分自身の永遠の福徳の「地盤」となるのである。
 大聖人は、在家の門下に「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る」――その国の仏法流布は、あなたに、おまかせいたします。仏種(成仏の種子)は、(妙法の話をするという)縁によって生じていくのです――と仰せである。
 ゆえに朗らかに、仏縁を結び、仏縁を広げてまいりたい。
 「友情の開拓」が、すなわち「広宣流布の開拓」である。時代が乱世であればあるほど、「わが地域」「わが組織」を、いよいよ揺るぎなく建設していただきたい。
 学会が盤石であれば、「立正安国」という、平和の緑野は、世界へ、世紀へ限りなく広がっていく。
12  健康は「智慧」で守れ
 これから寒さが厳しくなる。とくに高齢の方は、くれぐれも健康に気をつけていただきたい。
 健康とは「智慧」である。自分自身を賢明に、上手に操縦していかねばならない。
 たとえば、「今から寒いところへ行くんだ」と″意識″すれば、体も自然に寒さに備えて準備する。それが″無意識″で、ふわっと外へ出たりすると、危ない場合がある。また、雪の場合など、「すべらないように気をつけて」と、一言、声をかけ合っていけば、事故を防げる場合がある。
 ともあれ、一日でも長く生きれば、一日、たくさん題目を唱えられる。その分、永遠の福徳が積まれていく。お金や財産がいくらあっても、死んだら持ってはいけない。題目は生命の″永遠の貯金″である。永遠にして不滅の福徳なのである。
 この一年、どうかお元気で! 皆さまの「幸福」と「健康」と「長寿」を祈ります。ありがとう!
 (東京・新宿区内)

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