Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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中部代表者会議 悪とは最後まで戦いぬけ

1997.11.24 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  偉大なる前進と勝利をたたえて
 この一年、大中部の皆さまは、本当によく戦ってくださった。広宣流布の前進の重要な要として立派に勝利された。天晴れであったと私は心から賛嘆申し上げたい。(拍手)
 中部は今、力強く、健全に、すがすがしく進んでおられる。
 「偉大なる中部」の「偉大なる前進」と「偉大なる勝利」を、この創立の月に、ともどもに祝賀し、喜び合いたい。(拍手)
2  戦いとは、楽しく愉快なものである。
 本年、中部は、見事な弘教で、いちだんと、にぎやかに、仏の陣列の威光と勢力を増してこられた。この功徳は、あまりにも大きい。
 私たちの世界には政治、経済、また科学など、さまざまな次元がある。しかし、妙法は「宇宙の究極の法則」である。
 ゆえに、その大法にのっとり、広宣流布に生き抜く人生ほど尊貴なる人生は断じてありえない。
 なかんずく、この悪世末法の真っただ中で、悪口を言われ、圧迫されながら、耐え抜いて、妙法を弘めゆく皆さま方こそ、尊極の存在なのである。
 だからこそ、御聖訓には「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ」――正法時代、像法時代の二千年間の大王と生まれるよりも、後世の成仏を願うならば、末法の今の民衆と生まれるべきである――と仰せである。
 皆さまこそ、いかなる過去の大王よりも、三世永遠の栄光と福徳と名誉に包まれゆく「人間の大王者」であり、「生命の大王者」なのである。
 一日一日、仏道修行と人生修行に、真剣にいそしんでおられる皆さまを私は、重ねて、たたえたい。
 中部の青年部の成長も、目覚ましい。
 「平和」や「人権」など多角的なテーマで、各界の識者をお招きして重ねてきた講演会も、この十五年で百回を数えると、うかがった。「社会の良識」と誠実に連帯しつつ、立派な伝統ができあがった。
3  南アフリカのマンデラ大統領は、二十七年半、じつに約一万日の獄中闘争を耐え抜き、生き抜き、戦い抜かれた。そして出獄の日、歓喜の大集会で力強く拳を突き上げて叫んだ。
 「力を! 力を! 我らに力を!」と。
 どこを頼るのでもない。自分たちが力をつけるのだ。だれを当てにするのでもない。民衆が強くなる以外にない――と。
 学会が力をつけ、強くなれば、人類の希望である広宣流布は進む。
 マンデラ大統領が、七年前、初めて訪日された折、大きな喜びとされたのも、創価の青年たちとの出会いであったのである。
4  パール・バック女史「善の人々が大きな声を」
 日本は、敗戦の破壊から立ち上がり、無我夢中で復興を遂げてきた。しかし、戦後から半世紀を過ぎた今、社会のいたるところで、肉体の内部から腐っていくような腐敗が深刻化している。
 この時に、今一度、立ち返るべき原点は何か。それは善なる民衆の活力を、生き生きと蘇らせていくことであろう。その蘇生の原動力は、学会にある。なかんずく、わが青年部にあると私は確信している。
 アメリカのパール・バック女史は、『大地』『母』などの名作でノーベル文学賞を受賞した作家である。中国に育ち、中国を愛し、中国の民衆を描いた。米中、また東西の懸け橋となった先駆者といってよい。
 彼女が、昭和二十年、すなわち終戦の年の秋、「毎日新聞」紙上に「日本の人々に」と題して寄せた言葉がある。
 その中に、「民衆が自由で独立的で自治的である国は如何なる国でも常に善なる人々と悪なる人々との間に闘争の行われる国である。もしこの闘争が存在しないならそれは暴君が支配して善き人々が力を失っていることを意味する」「善なる人々の声は悪なる人々の声よりもより数多く、より明瞭でなければならない」(現代表記に改めた)と。
 ″民衆よ、永遠に悪を監視せよ! 永遠に悪と闘争せよ!″
 彼女のこの呼びかけのなかに、二十世紀の悲願が凝結している。
 今、二十一世紀へ、人権闘争の不滅の歴史を創りゆく中核が、中部青年部であっていただきたい。民主主義は、善の民衆が声をあげてこそ実現するからである。
5  今回、来日したゴルバチョフ元大統領は私に、「あなたには、多くのすばらしい青年たちがいますね」と感嘆しておられた。私は、すかさず答えた。
 「私は、青年たちの公僕です。尽くしながら、青年たちが偉くなるのを待っているんです」と。
 これが、私の偽らざる心境である。
 私が、ゴルバチョフ元大統領に、「お疲れではありませんか」と尋ねると、元大統領は胸を張って大きな声で答えられた。
 「私は、働きざかりです! 若いですから大丈夫です」
 偉大な人、強い人の信念は、みな同じである。
 元大統領は「学会は、よく人が動いていますね」とも語っておられた。
 本物には、本物が分かるのである。
6  「常勝将軍」とは″必死の指導者″
 ところで、勝ち続ける「常勝将軍」は、どこが違うのか。
 日本の戦国時代を制したのは、言うまでもなく、ここ中部である。興亡の絵巻が繰り広げられた。
 一方、中国の戦国時代にも、こんなエピソードがある。(「戦国策」から)
 「戦国七雄」に数えられた大国「斉」の国。紀元前三世紀、この国は、周辺諸国との一戦に大敗し、都を制圧された。しかし、数年後、一人の勇敢な将軍(田単でんたん)の大活躍によって、都の奪回に成功した。国には平和が戻った。
 その後、ある年、将軍は、再び、新たな戦いに挑むこととなった。出発に先立ち、将軍は、国の名高い賢者(魯仲子ろちゅうし)のもとを訪れ、語り合った。
 その時、賢者は明言した。
 「将軍は、今度の戦は、勝つことはできないでしょう」と。
 将軍は、憮然として言った。
 「私は、かつて、小さな城壁と敗残の兵士のみで、幾万の大軍をうち破り、都を奪い返した。にもかかわらず、それより劣勢の敵に勝てないとは、どういうことか!」と。
 将軍は、憤然と席を立った。果たして、その将軍は、三カ月をかけても、敵国を攻め落とすことができなかった。
 将軍は、思いあぐねて、もう一度、その賢者のもとを訪れ、尋ねた。
 「あなたは、私が勝つことができないと言われた。なぜなのか? どうか、その理由を聞かせてもらいたい」と。
 賢者は静かに語る。
 「あなたが、以前、小さい城に立てこもった時は、『いざ、行こう! 戦おう!』と陣頭に立ちました。この時、将軍には決死の覚悟があり、兵士たちは、生きのびようとの未練もありませんでした。このような将軍の言葉を聞いて、兵士たちは涙を振り払い、勇気を奮い立たせて、戦おうと思わない者は、だれ一人いませんでした。これがあったからこそ、強敵をうち破ることができたのです。しかし、今、あなたは、広大な領土を持ち、ぜいたくになり、享楽にふけり、死ぬ覚悟などまるでない。だから勝てないのです」と。
 要するに、自分自身が、猛然と戦う以外にないというのである。
 油断を排せ! 甘えや傲りを、かなぐり捨てよ! 「勇気」で勝ち、「率先」で勝ち、そして「執念」で勝て! それしか道はあり得ないと結論したのである。
 話が終わると、将軍は意を決して、戦場に戻っていった。
 翌日、将軍は気力を奮い起こし、城壁を一巡して、石や矢が降ってくる危険な場所に、自ら勇んで飛び込んだ。そして、攻め太鼓を勇ましく打ち鳴らし、とうとう敵をうち破ったというのである。
 一年間にわたって、中国の大文豪・金庸博士と私は、連載の対談(=『旭日の世紀を求めて』一九九八年五月三日、潮出版社から発刊)を続けてきた。その一つの結びとして、『水滸伝』のドラマをめぐって語り合った。
 民衆のために立ち上がった英雄たちも、最後は戦いをやめた。そして、権力者にいいように利用されて、皆、次から次へ殺されてしまった。この悲劇にふれながら、金庸博士は、力強く言い切られた。
 「いかなることがあろうとも、悪とは戦い抜かなければなりません。悪とは決して妥協してはならないのです」と。
 日蓮仏法は、「勇猛精進」である。わが中部もまた、広宣流布の陣頭に立ち、仏敵との闘争の最前線に躍り出て、戦い続けてこられた。
 いよいよ、乱世になっていく時代にあって、大中部は、断固として勝ち抜き、二十一世紀の揺るぎない「世界の堅塁」を、さらに盤石に完成させていただきたい。(拍手)
7  真心の信心に「所願満足」の人生
 昨日(二十三日)は、教学の中級試験が、全国で行われた。受験者の皆さま、また役員の方々、さらに面倒を見てこられた先輩の方々、本当にご苦労さまでした。
 ともあれ、一日一ページでもよい、御書を日々拝し、そして日々、行じていきたい。
 御聖訓には、庶民の真心の信心にかなうものは、この世に何一つとしてないと説かれている。
 大聖人は、門下の女性(王日女)の真心を最大に賛嘆されて、こう言われている。
 「此の二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を忉利とうり天にくみあげたらんにも・すぐるべし
 ――あなたの真心の二百文、三百文というお金の御供養は、日本国を治める人(権力者)が国を供養し、七つのすばらしい宝で飾られた塔を、忉利天とうりてん(欲界の六つの天の二番目。地上から八万由旬の高さ)に届くほど高く組み上げて供養したよりも、すぐれています――と。
 これが御本仏の御心である。
 その御精神をことごとく踏みにじり、庶民の真心を足蹴にしてきたのが、日顕宗である。その罪は、あまりにも重い。
 さらに、この女性に対し、大聖人は、こう励ましておられる。
 「法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む・一字は日月の如し四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲変じて苗となる・苗変じて草となる・草変じて米となる・米変じて人となる・人変じて仏となる・女人変じて妙の一字となる・妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし
 ――法華経の一字は、大地のようなものです。万物を生み出します。法華経の一字は、大海のようなものです。あらゆる川の流れを納めます。また法華経の一字は、太陽や月のようなものです。全世界を照らします。この法華経の一字が変じて仏となるのです。稲は変じて苗となり、苗は変じて草となります。草は変じて米となり、米は変じて(食べられて)人(の血肉)となります。人は(妙法によって)変じて仏となるのです。女性は変じて妙法の妙の一字(の当体)となります。妙の一字は変じて蓮華の台の上の釈迦仏となることでしょう――と。
 「妙法のために」「広宣流布のために」という強き深き一念の心があれば、一切を幸福の方向へ、希望の方向へと変化させられる。
 信心を貫ききっていけば、最後には「所願満足」となることを晴れ晴れと確信していただきたい。
 「満足」するために人生はある。「満足」するために信心がある。戦いがある。
 「満足」の人生かどうかは、「心」で決まる。文句や臆病は、自分の「満足の人生」を自分で壊しているのである。広宣流布に戦いきっていくことが、「永遠の満足」を得られる直道なのである。
8  終わりに、大切な、多宝会の皆さま方は、ますますお元気で、生きて生きて、生き抜いてください。
 皆さまが、健康で長生きして、楽しく生きがいのある総仕上げの姿を人々に示していかれることが、そのまま人々を救うことになる。そして、それがまた、一家・一族の大きな大きな福徳となっていくからである。
 愛する中部の全同志の限りなきご多幸を、祈りに祈って、私のスピーチといたします。
 (中部文化会館)

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