Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川・海外代表者協議会 創価の同志こそ最高の幸福者

1997.9.15 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  日蓮大聖人の大闘争の天地で正義を叫べ!
 神奈川の音楽祭(世界青年平和音楽祭)の大成功、本当におめでとう!
 見事な、平和と文化の深き意義をもった音楽祭であった。来賓の方々も、大変に感動しておられた。
  音楽祭
    平和と文化の
      ひびき
    天までも
 と詠み、関係者の皆さまに心から御礼申し上げたい。(拍手)
2  きょう私が申し上げたいことは、ひとつ。それは「神奈川よ、叫べ」「神奈川よ、立ち上がれ」ということに尽きる。
 神奈川は、日蓮大聖人が広宣流布の大闘争をされた天地である。私が会長を勇退した後、その足で、直ちに神奈川を訪れたのも、その意義を噛みしめたかったのである。その心を知っていただきたい。
 この地で、大聖人御一人をねらって、三障四魔、三類の強敵が押し寄せた。大聖人御一人を倒せば、広宣流布はできないことを敵は皆、知っていたからである。ある意味で、味方よりも敵のほうが、大聖人の偉大さをよく知り、恐れていたのである。
 大難と一人、大聖人が「獅子王」として戦われた天地は、ここ神奈川である。ゆえに私は神奈川を特別に大切に思い、神奈川の同志を信頼してきた。神奈川にこそ、真の大聖人門下としての大闘争を期待したのである。
 今、大聖人の仰せ通りに「広宣流布」を世界に広げているのは、だれか。創価学会である。私である。ゆえに御書に仰せの通りの三障四魔、三類の強敵を一身に受けているのである。
 ならば、今、神奈川がなすべきことは、明らかなはずである。
3  大聖人は、次の経文(涅槃経)を、繰り返し、繰り返し引いて、強調なされた。
 「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり
 ――もし仏法者が、法を破る者を見ておきながら、そのまま放置して、相手の非を厳しく責めず、追い払わず、はっきり罪を挙げて処断しないのであれば、まさに知るべきである。この仏法者は仏法の中の怨敵である――。
 悪を見て、放っておいてはならない! 傍観する者は仏敵となる! 断じて戦え!――と。
 たとえば、悪意のデマがある。「それはウソだ!」と叫べば、悪は破れる。黙っていれば、その臆病に悪はつけこむ。
 正義を叫ばずして、「広宣流布」ができるはずがない。何ものも恐れず、真実を叫びきっていくのが学会精神である。それが草創期の学会の強さであった。だから、ここまで広宣流布ができた。今こそ、その精神が必要なのである。
4  臆病は大悪――仏敵を喜ばせ、広布を妨げる
 大聖人は、こうも仰せである。
 「慈無くしていつわり親しむは是れ彼が怨なり」(中略)「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり
 ――(相手の謗法を知りながら、それを諫める)慈悲心をもたずに、詐り親しむ者は、相手にとっての敵である。(中略)相手のために、その悪い点を取り除き、改めさせる人は彼の親のようなものである――。
 この御文を胸に刻んでいただきたい。臆病は「大悪」である。仏敵を喜ばせ、広宣流布を妨げるからである。臆病では、本当の功徳も出ない。(御本尊の)仏力・法力も示されなくなってしまう。
 大聖人が大難を受けられたのは、すべて私ども民衆のためであられた。
 ゆえに大聖人は「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし」――もし、恩を知り、心ある人ならば、(大聖人が受ける)二つ打たれる杖の一つは、自分がかわって打たれるべきではないか――と述べられている。
 いかなる難があろうと、私は断じて負けない。戸田先生の一番弟子の私である。牧口先生の直系の私である。純真な学会員を守るために、私は耐え、私は戦う。
 しかし、私一人が戦っても、門下があまりにもふがいないのでは、広宣流布の未来は、どうなるか。立つべき時に立たない人間は、御書に照らして、「仏敵」となってしまう。
 それを憂うるゆえに、私は今、「神奈川よ、叫べ」「神奈川よ、立ち上がれ」と言っておきたいのである。
 そして神奈川から、東京へ、全国へ、世界へと波を起こしていただきたい。
 仏法者ならば、厳として巌のごとき心でなければならない。弱さは悪である。鋼のごとき心でなければならない。獅子でなければならない。
5  人は希望あるかぎり若い
 きょうは「敬老の日」である。わが同志が、一人残らず黄金の「第三の人生」を生きゆくことを願って話をしたい。
 人は「希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる」(サムエル・ウルマンの詩「青春」松永安左ェ衛門訳)という。
 これは、マッカーサーが愛した詩の一節である。
 希望ある限り――私どもには、一生涯、いな永遠に燃やし続ける「広宣流布」という希望がある。そして、広宣流布に進み続ける人生は、自然のうちに、大いなる生命力に満ちてくる。だれもが生き生きと生きられる「長寿社会」の真髄は、日蓮仏法にある。創価学会にある。
 本年前半の広宣流布の戦いも、全国の多宝会、宝寿会、錦宝会の方々が大いに活躍された。
6  有名な法則がある。「人間の能力は、いつ衰え始めるか?」五十歳か。それとも六十歳か――。
 いや、何歳でもない。定年をどう決めても、「定年マイナス三歳」の年齢で衰え始める――という説がある。
 これは「パーキンソンの法則」の一つである。(パーキンソン〈一九〇九年〜九三年〉はイギリスの歴史学者、経営研究者。官僚機構の非合理などを分析し、法則として示した)
 「定年が六十歳」なら「五十七歳」、「定年が六十五歳」なら「六十二歳」のあたりから、気力も、体力も、脳の力も、ブレーキをかけたように落ちていく。そういう傾向性を指摘しているのであろう。
 それはたとえば、車で走っていて、前方に断崖を意識すれば、速度を落とすようなものかもしれない。しかし、信心に定年はない。
 人間の「一念」とは、本当に微妙である。
 「年をとると記憶力が落ちるというが、そうとは限らない。それがある程度、本当だとしても、『衰える』と人が言い、自分もそう思うから、なおさら覚えられなくなるのだ。本当は、何歳からでも勉強できるように、人間の脳はできている」という人もいる。
 記憶力のことはともかく、人間が自分で「もうだめだ」と思ったら、その瞬間から、本当にだめになっていくことは間違いない。
 ますます若々しい、わが学会の″多宝会″の皆さまこそ、生涯青春の見事な証明者であられる。
7  大聖人は庶民の英雄を抱きかかえて
 建治元年(一二七五年)の夏、一人の″多宝会″の勇者が、はるか佐渡の地から、日蓮大聖人のおられる甲斐の国(山梨)へ、はるかな道のりを、一歩また一歩、汗を流しながら歩んでいた。佐渡の門下の国府こう入道である。
 大聖人は、この偉大な庶民の英雄を、抱きかかえるように迎えられた。そして、夫を送り出し、留守を守っていた夫人の国府尼への励ましの御手紙を、入道に託された。大聖人は、どこまでも公平であられた。
 どんなに遠く離れていても、どんなに陰の立場であっても、けなげに戦っている門下の労苦を、露も残さず、塵も余さず、お見通しであられた。
 今なお大聖人は、全国・全世界の同志の健闘を、最大に賛嘆しておられると確信する。
8  国府尼への御手紙で、大聖人は仰せである。
 「欽明きんめいより七百余年が間・世間につけ仏法によりても日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ
 ――欽明天皇の時代に仏法が伝来してから七百余年の間、世間のことにつけても、仏法のことに寄せても、日蓮ほど広く人に憎まれたものはいないでしょう――。
 「これは・ひとえに我が身には失なし日本国を・たすけんと・をもひしゆへなり
 これは、決して私に過失があったからではありません。ひとえに、日本国を助けようと思った結果なのです――。
 日本のために尽くした大聖人は本来、世間的な意味からも″国の宝″のはずである。それなのに、たたえるどころか、迫害し、悪口を流し、策謀をめぐらして、大聖人をなきものにしようとしたのが日本という国なのである。
 それから、さらに七百年。今、御書に仰せの通りの難を受けているのは、創価学会しかない。その学会と苦楽をともに生きゆく人生は、無上道の誉れに包まれる。必ず、これ以上はないという福徳の人生となる。
 大聖人は、こう語りかけておられる。
 「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人を・をそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをも・はばからず身にも・かわらんと・せし人人なり
 ――ところが尼御前と(夫の)入道殿は、私が佐渡の国にいた時は、人目を忍んで夜中に食べ物を届けてくださり、ある時は国の役人の責めをもはばからず、日蓮の身にも代わろうとした方々です――。
 庶民は強い。凶暴な国家悪を、ものともせずに、大聖人をお守りしたのも庶民であった。
 わが学会は、この庶民の「強さ」と「強さ」の連帯によって、二十一世紀への激流を、断固として勝ち進んでゆく。
9  結びに大聖人は、遠く離れて会えない尼御前に、こう仰せである。
 「日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え、いつ何時となく日月にかげうかぶる身なり、又後生には霊山浄土に・まいりあひ・まひらせん
 ――日蓮を恋しく思われるならば、出づる太陽、夕べに出づる月を常に拝されるがよい。私は、いつでも日月に姿を浮かべる身です。また、今世を終えたあとは、ともに霊山浄土にまいり、お会いしましょう――。
 私たちは生々世々、三世にわたって一緒だよ、一緒に進むのだよ――こう温かく励ましをされたのである。夫妻は年をとっていたが、子どもがいなかった。その心を知ったうえでの御言葉だったのではないだろうか。
10  何があっても、朗らかに、負けない人生を
 ともあれ、「第三の人生」を、どう総仕上げしていくか。「高齢社会」の最大の焦点である。
 調査によると、日本の総人口の一割が七十歳を超えたという。六十五歳以上は一五・六%である。(九七年九月十四日発表の総務庁の調査)
 戸田先生はよく「人生、最後の四、五年が勝負である」と言われていた。
 それまでがどんなによくても、最後が惨めであれば、人生は負けである。最後の四、五年が本当に幸福であれば、その人は勝利である。
 何があっても、たとえ病気になっても、「負けない」ことである。心が断じて負けなければ、その人は勝利者である。
 そして「朗らかに」生きることだ。強い心の楽観主義で、よいほうによいほうに、明るいほうに明るいほうに自分の一念を向け、周囲もその方向に向けていくことである。何が起きても、楽しんでいくことである。
 人がうらやむ、どんな有名人にも、人知れぬ悩みがあるものだ。外見と裏はらに、地獄のような苦しみを心に抱えている人も多い。創価学会の和合の世界に生き抜く以上の幸福はなく、充実はないことを確信していただきたい。(拍手)
 戸田先生の「原水爆禁止宣言」から四十周年。神奈川の地に、私は深い意義を感じている。
 きょうお会いできなかった同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。海外の皆さまも、遠いところ、本当にご苦労さま。
 (神奈川文化会館)

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