Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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代表幹部研修会 名を残せ! 広布の戦に

1997.9.5 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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2  ソジャーナも、相手がだれであろうと胸を張って渡りあった。リンカーンはじめ歴代の大統領とも、ホワイトハウス(大統領府)で率直に、また大胆に対話を重ねた。言うべきことを言い切っていった。
 また女性蔑視の傲慢な聖職者を相手に、堂々と反論して打ち破った。彼女は何ものも恐れなかった。
 当時の馬車は、黒人の乗車を拒否していた。この差別とも、彼女は先頭に立って戦った。だれもが侮辱されることなく自由に馬車に乗れる――そういう平等な社会を創るために挑戦した。
 皆に笑われ、バカにされ、迫害され……その彼女の名前が今、宇宙船に乗って、火星にまで旅しているのである。全世界の人も、たたえている。
3  永遠の誉れの一生を!
 権力や人気に酔った人生は、むなしい。虚飾の名声は、時とともに色あせる。しかし、人間のため、民衆のために、難を受けながら戦った人の名前は、時とともに光を増していく。
 いわんや、不滅の妙法を弘めゆく、わが同志の名は永遠に不滅である。
 大聖人は、四条金吾の真心の供養に対して、こう仰せである。
 「頼基がまいらせ候とて法華経の御宝前に申し上げて候、定めて遠くは教主釈尊・並に多宝・十方の諸仏・近くは日月の宮殿にわたらせ給うも御照覧候ぬらん
 ――これは頼基(四条金吾)からの御供養ですと、法華経(御本尊)の御宝前に申し上げました。必ず、遠くは教主釈尊ならびに多宝如来、十方(全宇宙)の諸仏が、近くは天の宮殿におられる日天・月天も、明らかに照らし見ておられることでしょう――。
 日天、月天が、また釈尊はじめ全宇宙の仏が、きちっと私どもを見ておられる。「広宣流布の闘士」の誉れの名は、全宇宙の仏国土にまで輝いていくのである。
4  現代はともすれば、個人が大勢の中に埋没して、自分の存在を見失ってしまう時代である。しかし、学会の世界は、一人一人が「かけがえのない使命の人」である。
 私は、広宣流布の最前線で戦っておられる尊い同志のお名前を、一人でも多く宣揚し、万年にまで厳然と留めてまいりたい。これが私の願いであり、決心である。
 反対に、卑しき悪人や反逆者は、仏法の和合の世界に、もはや名を連ねることはできない。いわば、御本仏から除名された人間である。
5  さて、五十年前(一九四七年)、私が入信した八月、インドが独立した(八月十五日)。
 国父ガンジーはその時、言った。新生インドの大統領は、差別されてきた最下層のカーストの人の中から選びたい――と。
 長い長い間、いちばん差別され、苦しめられてきた人々。その中から国のトップが生まれる時、インドは本当に「新しい国」になる。そういう思いだったのかもしれない。
 ガンジーの願いが、五十年目に実現した。ナラヤナン大統領の誕生である(九七年七月)。大統領は被差別カースト(指定カースト)の家に生まれ、苦学に苦学を重ねて、ジャーナリスト、外交官、教育者となった。
 氏がネルー大学の副総長の時、私は初めて、お会いした(一九七九年二月、同大学で)。また副大統領として来日された時には、わざわざ訪ねてきてくださった(九五年十二月、聖教新聞本社で会見)。
 ナラヤナン大統領の誕生は、インドと世界の「新しい時代」の夜明けを象徴していよう。それは、いよいよ、「民衆の底力」を示しきっていく時代の始まりである。
6  不惜身命の人こそ「王者」
 日蓮大聖人は、自分は「海辺の旃陀羅が子なり」と仰せである。
 (旃陀羅は、チャンダーラの音訳。インドのカースト制の最下層に置かれた。広くは、身分の卑しい者という意味で使われた)
 赤裸々な、わが身ひとつのほか、何ものももたない庶民であることを、堂々と叫ばれた。ここに重大な意味がある。
 佐渡に流罪されて、すぐに、こう仰せである。
 「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・ちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや
 ――日蓮は、日本国の(片田舎である)東夷の国(東国)のうち、安房の国(千葉県の一部)の東条(というところ)の海辺の最下層の家の子である。むなしく朽ちてしまうであろう、この身を法華経の御ために捨てることは、「石」を「黄金」と交換することではないか――。
 自分は、もともと最低の身分の人間である。何を、この身を惜しむことがあろうか。法華経のために命を捨てれば、仏になれる。これ以上のすばらしい死に方があろうか――と仰せなのである。
 威張らない。偉ぶらない。地位や名声や財産で、自分を飾らない。それでこそ、「不惜身命の力」が、わいてくる。
 少しでも自分を飾ろうとしたら、もう信仰は堕落する。″自分は大学を出た″″自分は家柄がいい″″自分は有名人だ″″自分には地位がある″――そういう幻に、とらわれたら、保身になり、心は堕ちる。いわんや、学会のおかげで幹部となり、名士となって、自分を偉いと思うなど最低である。
7  「こんな自分が、大勢の人の面倒を見られる立場にならせていただいた。何と、ありがたいことか!」と、感涙にむせぶのが本当ではないだろうか。それが、「旃陀羅が子なり」と叫ばれた日蓮大聖人の御心にかなう道であると、私は信ずる。
 私も「貧しき海苔屋の息子」であるという自覚を、決して忘れない。庶民の生まれを誇りにしている。庶民の中から、本当の「人間の中の人間」が鍛えられ、出てくるからである。
 「永遠に民衆の側に立つ」ことが、絶対に正しい軌道であることを知っているからである。
 いかなる位よりも、信心に生き、広宣流布に生き、自分自身に生き抜いた人が、生命の「王者」となり、人生の「王者」となる。私は、この五十年で、それを証明しきったつもりである。
8  御聖訓に「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と。
 ――命には限りがある。(必ず死ぬのであるから、広宣流布のために)命を惜しんではならない。所詮、願うべきは「仏の国」である――。
 我らの合言葉は「限りなき前進」である。限りなき前進と、皆さま方の栄光とご多幸を祈り、スピーチとしたい。
 (山梨教学研修センター)

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