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日蓮大聖人・池田大作

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第13回本部幹部会 二十一世紀へ「人材革命の波」

1997.7.9 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  未来へ未来へ、立ち止まらない人は衰えない
 暑いなか、本当にご苦労さまです。海外の皆さんも、遠いところ、ご苦労さま。ありがとう!(拍手)
 「真珠王」として有名な御木本幸吉氏(一八五八〜一九五四年)は九十六歳まで生きたが、九十五歳の時に、こう言われたと聞いた。
 ――わしは百歳まで生きる。それまでの五年間に、二十歳から今まで七十五年間でやった仕事と同じだけの仕事をやってみせる。なぜ、それができるか。これまでの七十五年間は、何と言っても無駄が多かった。しかしこれからは、今までの経験があるから、無駄なくやれるはずだ――と。
 まったくその通りと思う。人生の真髄を知る人物の一言である。私も今、氏と同じ心境である。
 氏は最後まで立ち止まらなかった。ゆえに、最後まで衰えず、生き生きとしておられた。
 仏法では″進まざるは退転″と見る。一生涯、前進である。
2  「立ち止まらなかった」といえば、あのゲーテもそうであった。
 ある時、ゲーテは一枚の反古紙(書き損じた紙)を見つけて、読んでみた。ゲーテは友に語った。
 「私は、うむ、とひとり言をいった。ここに書かれていることはそんなに悪くない、おまえだって考えることは同じようだし、これ以上のことは言えはしまいと」(エッカーマン著『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 よく調べてみると、それは昔、自分が書いたものだった。ゲーテは続けた。
 「私はいつも前進しようと努力しているので、自分で書いたものも忘れてしまうのだが、それでいつの間にか自分のものがまったく別のものに見えてくるような場合もあるのさ」(同前)
 これは、ゲーテが八十一歳の時の実話である。(八十二歳まで生きた)
 いつも前へ進んでいる。だから過去は忘れてしまう――大変に含蓄のある言葉である。
 前へ! 前へ!――仏法も同じである。
 日蓮大聖人の仏法は「本因妙」である。「過去」ではない。「未来」に生きる。「永遠に前進」である。これが人生の真髄であり、信仰者の真髄なのである。(拍手)
 今、社会の多くの指導者が、自分の人気や、名誉、利害のことしか考えず、体を張っての前進をしなくなった。そこに日本の大きい不幸がある。これでは未来は闇である。
 また学会員に、さんざんお世話になっておきながら、自分が地位を得、財産を得たあとは、信仰にも励まず、何もしなくなる人間がいる。何と情けない姿か。仏法上、その罪は重い。
3  人生最高の楽しみは学会活動
 ところでゲーテは、七十五歳になる年に、こう言っている。
 「私は、いつも、みんなからことのほか幸運に恵まれた人間だと賞めそやされてきた。(中略)しかし、実際はそれは苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でもほんとうに愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい」(同前)
 ゲーテには才能もあった。地位もあった。財産にも健康にも美貌にも恵まれ、人々から、何と幸せな人生かと、うらやましがられていた。けれども本当に自分という一個の生命を見つめ、真摯に人生を振り返ってみた時、七十五年間で本当に楽しい日は一月もなかった――というのである。計算すると「二年半に一日もない」ということになる。
 これは厳粛な人生の実相であろう。毎日をただ面白おかしく暮らすだけならば、こういう言葉は出ない。何かやろう、この人生で何かを残そうとするからこそ、苦しむし、偉大なのである。短い言葉に、ゲーテの偉さが、にじみ出ている。
 ゲーテほどの人でさえ、人生は「苦労と仕事以外のなにものでもなかった」。それを思えば、苦労し、修行することは当たり前であり、文句など言うべきではない。
 ゲーテに比べれば、私どもは幸福である。私たちには仏法がある。この人生を本当に楽しく、生命の底から充実しきって生きていける。煩悩即菩提であるゆえに、すべての苦労と悩みが喜びに変わる。何とありがたい人生か。
4  人生、真の楽しみとは何か。これは難しい。哲学的な課題である。どんな「楽しみ」も、すぐに「悩み」にとってかわられる。楽しみの時は短く、悩みの時は長い。また世間的な楽しみは、生命の表面的な楽しみであり、「歓喜の中の大歓喜」の妙法とは比較にならない。
 結論していえば、「生きること自体が楽しい」と言いきれる自分自身をつくることではないだろうか。そのための仏道修行である。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚ほんがくの栖を離れて何事か楽みなるべき、願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引ごせのろういんなるべけれすべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 ――「寂光の都」以外は、どこも皆、苦しみの世界である。(永遠の生命を自覚した)真実の覚りの住みかを離れて、何が楽しみであろうか。否、何もない。願わくは「現世は安穏であり、来世は善いところに生まれる」力をもつ妙法を持ちなさい。それだけが、今世には真の名誉となり、来世にも真の幸福へと導いてくれるのである。どこまでも一心に、南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めていきなさい。まさにそれだけが、人間界に生まれてきた今世の思い出となるのである――。「本当の楽しみは広宣流布の活動にしかない。自行化他の行動のなかにしかない」との仰せなのである。
 人生、最高に楽しいのは学会活動である。あとになればなるほど、一生涯、永遠に輝く思い出は学会活動である。人を救い、自分も幸福になる。これほど、ありがたい世界はない。家で寝ころがってテレビを見ていても、あとはむなしい。大歓喜にはずむ「寂光の都」とはいえない。
 「寂光の都」とは「信心の都」「仏界の都」である。それこそが、幸福に輝く「永遠不滅の都」なのである。
5  大聖人は、法華経は「不老不死」の大法であると仰せである。
 「老い」にも苦しまない。「死」にも苦しまない。信心の炎があるかぎり、永遠に生命力の火は燃え続ける。生死を超えた大確信で生きていける。一生涯、希望を燃やして、生き抜いていく。その原動力のエンジンが信心である。
 長寿社会――その模範が学会なのである。そして学会は青年部も元気である。壮年部も元気。婦人部も元気。皆、元気である。その元気の源が題目である。
 これ以上の人生の軌道はない。この尊き学会を、邪悪な人間に破壊されては断じてならない。
 また、組織を大切にせず、組織につかない人間は、心の底で学会をバカにしているのである。ゆえに必ず、自分自身が何百倍何千倍も諸天善神にバカにされていくに違いない。
 学会を大切にした人は諸天に大切にされる。仏菩薩に大切にされる。
6  境涯を広げよ、そのために人間関係を広げよ
 ある人が言っていた。「組織が整うと幹部が小粒になる」と。たしかに、そうかもしれない。それを打ち破るために、私は「手づくりで」人材を育てている。
 「境涯を広げる」には、どうすればいいか。それには「人間関係を広げる」ことである。
 ゆえに、幹部一人一人は「人間と結合する」ことである。会員とつながり、人間とつながってこそ本当の幹部である。
 一人で、いばっている。一人で号令をかけている。そんな格好が幹部なのではない。
 また、組織を嫌い、だんだん閉鎖的になり、一人になり、それで自由だと思っている――こういう人は、どこか調子が狂ってくる場合が多い。
 先日もあるテレビで「たくさん友人をつくれ。その人がいちばん成長でき、社会のためになり、よき人生になる」と紹介されていた。
 大事なのは「人間と人間のつながり」である。「人間と人間の打ち合い」である。内外の多くの人々と結び合い、つき合っていくことである。その人は、その分だけ生命が広がる。豊かな人生になる。
7  トルストイは、臨終の間際に、かわいがっていた末の娘をそばに呼び、遺言を伝えた。
 その要点の一つは「生命は他の生命と多く結びつくほど、自我が拡大する」ということであった。これを忘れてはいけないと言い残したのである。
 私どもで言えば、対話であり、弘教であり、広宣流布である。
 トルストイといえば、かつてモスクワで資料館を訪れた。
 トルストイは権力からは弾圧された。政府も教会も彼を憎んだ。しかし、労働者も炭坑夫も、民衆は皆、彼の味方であった。資料館には、彼を支持する労働者たちから贈られた記念の品(緑色のガラスのかたまり)が飾られていた。
 私は感動した。上からの勲章ではない。下からの、民衆からの勲章である。
 私は思う。本来ならば、皆さまのような「民衆の英雄」にこそ、最も偉大な勲章がささげられるべきではないだろうか。(拍手)
8  私はインドの「タゴール平和賞」の第一号の受賞者として招待を受けている。(拍手)
 (インドの「国家重要機関」であるアジア協会から)
 タゴールは言う。
 「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」(『人間の宗教』森本達雄訳、レグルス文庫)
 孤立すると自分を見失う――組織から離れ、学会を出ていった人間が学会を攻撃するのも、自分で自分がわからなくなるのである。わびしさ、ヤキモチから狂っていく。
 広い人間関係の中にこそ「より大きな自分」を見つけられる――タゴールの考えは仏法に通じる。学会の理念に通じる。一流の人物は皆、波長が合う。
 その点、二流、三流は小さな感情があり、偏見があり、悪意があり、嫉妬があるゆえに、真実がわからない。
 会合で話すだけの幹部。組織の機構上の幹部。それだけでは本当の幹部のあり方ではない。
 そうではなく、自分自身が「人間として」どう成長するか、「人間として」どう大勢の人の面倒を見るかである。多くの人と誠実に接するがゆえに幹部なのである。
 人と接しない人は、自分に閉じこもり、わがままになり、小さな考えになり、自己中心になりがちである。要するに、組織を嫌う人は薄情なのである。そこに慈悲はない。切磋琢磨もない。
9  ゲーテは言う。
 「他人を自分に同調させようなどと望むのは、そもそも馬鹿げた話だよ」「性に合わない人たちとつきあってこそ、うまくやって行くために自制しなければならないし、それを通して、われわれの心の中にあるいろいろちがった側面が刺激されて、発展し完成するのであって、やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ」(前掲『ゲーテとの対話』)
 自分に同調させ、言うことを聞かせようなどという幹部は、愚かである。
 自分の言うことを聞かない人、自分と反対のことを考える人を避けてはいけない。そういう人と調和し、納得させていってこそ修行である。
 それでこそ、全体が前進できるし、自分が成長する。どんな人物と差し向かいで会っても、びくともしない自分になれる。
 私も、世界中の指導者と語り合ってきた。それだけの力ができてくるのである。
 たとえ平凡な人間であっても、仏法を持ち、貫ききっていけば、目を見張るような「勝利者」となれる。ゆえに、要領よく人にやらせたり、手を抜くのは、自分が損をするだけである。
 一人でも多くの人と語った人が勝利者である。人の面倒を見てあげた分だけ、勝利である。いろんな人々と、がっちりギアをかみ合わせて、広宣流布へと向かわせてあげた分だけ、自分が勝つ。
10  「正義は負けるわけにはいかない」
 四十年前(一九五七年)の七月、日本の権力の牙は、学会に襲いかかってきた。大阪事件である。
 本当は戸田先生を狙っていた。しかし、弟子の私が一人、矢面に立って防ぎ、師匠を完ぺきに、お守りした。これは永遠の私の誉れであり、歴史である。
 今も同じである。私は、悪者にされようが、侮辱されようが、耐えて耐えて、一人、学会を守り抜いている。
 戸田先生は言われた。「大作は私をかばって罪を一身に背負っていった。本当に人のよい男だ。でも大作がいれば、学会は安心だ」と。
 あの七月十七日、戸田先生は大阪・中之島の公会堂に立たれた。先生は叫んだ。
 「戦わなければ正義は敗れる。学会は正義であればこそ負けるわけにはいかない。断じて勝たねばならない。だから戦うのだ。獅子は吼えてこそ獅子である」
 永久に戦いである。この世界は「第六天の魔王の所領」と大聖人は仰せである。
11  大阪事件の時、先生は私に言われた。「お前がもしも牢獄で死んだら、その上に自分は重なって死んでいく」と。
 先生は私を自分の命よりも大事にしてくださった。二十八歳の年の開きがあった。
 よく先生は言われた。「大作、二人でやろうな」と。いつも二人で戦った。
 強い先生であった。厳しい先生であった。その訓練の一切を私は受けきった。
 今、私も青年部が大事である。かわいい。尊敬しているし、期待している。
 壮年は青年を下に見てはいけない。感情で叱ってはならない。そうではなく「育てる」のである。青年部に一切の後を継いでもらう以外にないのだから。
12  牧口先生は「学会は広宣流布をする」と初宣言
 初代会長・牧口先生以来、創価学会の目的は「広宣流布」である。
 では、牧口先生が「広宣流布」という言葉を公式の場で初めて使ったのは、いつか。いつ、「創価学会は広宣流布を目指す団体である」ことを宣言なされたのか。
 それは決して、学会が順風の時ではなかった。それどころか、弾圧のさなかであった。
 日本は狂気の国家主義によって、戦争を始めた。国民の自由はなくなり、学会にも弾圧の魔の手が強まってきた。暗雲が立ちこめ、闇はさらに深くなっていった。まさに、その時に、牧口先生は「広宣流布」を叫ばれたのである。何と偉大な先生であろうか。
 今また、日本は国家主義の道を歩もうとしている。私は、その傾斜を深く憂慮している。
13  今から五十五年前――昭和十七年(一九四二年)五月。創価教育学会の第四回総会が開かれた。
 太平洋戦争の開戦から、半年余りたっていた。
 初めのうち、日本は連戦連勝だった。しかし、続くわけがない。すぐに行き詰まった。転落が始まった。それなのに、国民には「ウソ八百」の情報しか流されなかった。だから、本当のことがわからず、「すごい日本だ」「神国日本だ」と、国中が戦勝気分に酔っていた。
 しかし、すでにその時、牧口先生は「日本は滅亡する。絶対に滅びる」と鋭く見抜いておられた。法眼というか、仏眼というか、透徹した信心と人格の明鏡があった。
 総会で、先生は訴えた。「我々は国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」(『牧口常三郎全集』第十巻。以下、引用は同書から)
 わからずやの悪人ばかりのなかに入って大善を教えるのは、″敵の目前に上陸する″のと同じであるというのである。
 敵前上陸――迫害があるのは当然であった。この五月、機関誌『価値創造』も廃刊させられていた。
 牧口先生は、毅然と語った。「同じ正宗信者でも自分だけがよいという独善主義の従来の信仰者は個人主義(=利己主義)の信仰であります」
 従来の信仰者、すなわち宗門・法華講は、利己主義である。本当の信仰者ではないと、真っ向から叱ったのである。
 自分が拝んでいるだけでは、単なる「拝み屋」である。宗門も、法華講も、折伏精神を忘れ果てていた。「広宣流布」を完全に忘れていた。
 牧口先生は、こういう人間と妥協しなかった。戦った。だから、激しく憎まれた。
 憎まれるのが当然であったろう。しかし憎まれても、きらわれても、それは「正しい道」であった。「信念の道」であった。そして先生は叫ばれた。
 「(我々は)家庭を救い社会を救い、そうして広宣流布に到るまでの御奉公の一端もできると信ずるのであります」
 これが、「広宣流布」の初めての公式発言であった。
 「広宣流布に到るまで」わが身を捧げきっていくのだとの宣言である。
 牧口先生は、講演をこう結ばれる。
 「お互は、この大事な使命を帯びていれば、自分本位でなく、利用するのでなく、いかなる時にも、この選ばれた大善人である事を自覚して精進せんことを誓わねばならぬと信じます」
14  事実、牧口先生は、「広宣流布」へと前進した。迫害のなか、二百四十回を超える座談会を開催(昭和十六年五月から十八年六月まで)。あのお年で、二百四十回である(昭和十八年当時、七十二歳)。
 また、地方にも単身、出かけられた。自ら約五百人の人々を信仰に導いたといわれている(昭和五年から逮捕される十八年七月まで)。
 宗門が「広宣流布」を完全に忘れていた時代である。まことに不思議なる偉大な先生である。調べれば調べるほど、学べば学ぶほど、その思いを深くする。
15  いちばん大変な時に大変な所から始めよ
 いちばん「大変な時」に、「大変なところ」から始める。ここに偉大な歴史が開かれる。本当の歴史が始まる。この学会精神を深くかみしめていくべきである。
 戸田先生も、戦後のいちばん大変な時に「今こそ広宣流布の時だ」と立ち上がった。
 僣越であるが、私も、私の長い歴史において、いつもそうしてきたつもりである。
 三十七、八歳のころ、「共産主義世界と友好を結ぼう」と決意し、準備を始めた(昭和四十年、四十一年〈一九六五年、六六年〉)。「共産主義国は敵」と多くの日本人が考えていた時代である。
 日中国交正常化提言が四十歳(昭和四十三年)。初訪中、初訪ソが四十六歳(昭和四十九年)。当時は、冷戦のさなか。中ソの仲もいちばん、悪かった。しかし、「状況が悪い今こそ、平和の道を開くんだ」――私はこう決意した。
 周囲は、全員が反対した。宗門からも、じつに、つまらない非難を受けた。「共産圏に行っても、宗教なんか必要ない国じゃないか。なぜ行くのか」(爆笑)と。このように低次元の宗門であり、日本である。
 ともあれ、私はあえて、いちばん、大変なところから始めた。そして、世界に「友好」と「信頼」の道を厳然と開いた。学会は今、全世界と友情を結んでいる。(拍手)
16  状況が厳しければ、その時にこそ、勇気を奮い起こすべきである。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」――悪王が正法を破ろうとして、邪法の僧らが悪王に味方し、智者を滅ぼそうとする時、師子王のごとき心をもつものが、必ず仏になることができる――。
 臆病者は、仏になれない。「師子王の心」をもたなければ、仏になれない。厳しければ厳しいほど勇み立つ。ここに、学会精神の真髄がある。いちばん大変な所に、みずから足を運んでこそ、「道」は開かれる。
17  宗門は利己主義、大聖人に背く
 牧口先生が「広宣流布」を叫んだころ、宗門は何をしていたか。「広宣流布」を破壊しようとしていた。昔も今も変わらない。
 当時、宗門は御書の発刊を禁止し、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」の御文をはじめ、大切な十四個所の御聖訓を削り取った。
 だれが、こんな非道を許せようか。私どもは許さない。大聖人も許されるわけがない。しかも宗門は、いまだに大聖人にも信徒にも謝罪さえしていない。
 さらに宗門は、大石寺に「神札」をまつり、牧口先生にも「神札を受けよ」と迫った。何という大謗法か。しかも牧口先生が「絶対に受けません」と断ると、陰で学会の弾圧に味方したのである。
 じつは、身延を中心にした「日蓮宗との合同」を宗門が免れたのも、牧口先生が有力者を紹介したおかげであった。
 その恩も忘れて、牧口先生、戸田先生を「登山停止」にしたのである。(今、大石寺には身延僧が次々と参詣し、大聖人の精神は完全に失われている)
 背中から刺すような裏切り――これが宗門である。「これが坊主根性だよ。恐ろしいぞ」と戸田先生は、よくおっしゃっていた。利用するだけ利用して、あとは切る――これが宗門の極悪の体質である。
 牧口先生も宗門の利用主義を見抜かれていた。今もその本性は変わっていない。絶対に、永遠に宗門を信用してはならない。
18  一方、牧口先生の弟子たちは、どうだったか。皆、牧口先生の勢いに驚き、おびえた。皆、獅子ではなく、猫や鼠だったのである。
 「広宣流布」「国家諫暁」――こう牧口先生は叫ぶ。
 それに対して弟子たちは、「今の時期に無茶だ」「時期尚早だ」「皆、憲兵隊に連れて行かれてしまう」と、おびえた。ふだんは「牧口先生とともに」と叫んでいた幹部が、「塩を振りかけられたナメクジ」よりも、だらしなくなった。
 幹部だからといって信用はできない。最前線の学会員のほうが信用できる場合が、いっぱいある。
19  「師弟不二」で広宣流布を厳然と
 こういうなか、戸田先生だけが「ぼくは牧口先生の弟子だ」「あくまで、ぼくは牧口先生にお供するよ」と、淡々としておられた。厳かな師弟の姿である。
 そして戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と師匠に感謝を捧げたのである。
 牢獄につながれて、文句を言うどころか、戸田先生は感謝されている。一緒に難を受けさせていただいた、何とありがたいことか、と。これが「師弟」である。
 そして戸田先生は生きて出獄し、師匠が掲げた「広宣流布」の旗を、再び厳然と掲げて、一人立った。師弟は一体不二であったゆえに、恩師の死を乗り越えて、「広宣流布」のうねりは広がっていったのである。この「師弟不二の道」を、永遠に忘れてはならない。
20  山梨と八王子の新出発、おめでとう!(拍手)
 山梨は、東京をはじめ全関東に波動を与える力をもっている。八王子も山梨に近い。
 ある意味で山梨と八王子は一体となって、触発し合い、刺激し合って、友情のスクラムも固く、広宣流布の新たな波動を起こしていただきたい。
 戦国の時代、山梨には、強力な″武田軍団″があった。一方、ここ八王子には、関東屈指の名城である「滝山城」がそびえ立っていた。
 現在は、城こそ残っていないが、昨年、城跡から四百年前の石畳の通路が、ほぼ完全な形で発掘され、大きな話題となった。滝山城は、信玄率いる武田軍の猛攻にも屈しなかった「難攻不落の城」であった。
 時は永禄十二年(一五六九年)――講談みたいだが(爆笑)。圧倒的な勢力を誇る武田軍の攻撃に対して、迎え撃つ滝山城は、総大将の北条氏照が先頭に立って、全軍を指揮した。その雄姿に皆が奮い立ち、八王子の城を守り抜いたのである。
 大将が陣頭指揮を執らなければ、戦は勝てない。自分が動かず、臣下にだけやらせていたのでは、皆、やる気をなくしてしまう。
 ゆえに私も今日まで、どんなに疲れていようと、一歩も引かなかった。陣頭指揮でやってきた。ただただ戸田先生の命を受け継いだ私であるゆえに、広宣流布のため、学会のために、戦い、戦い、戦い抜いてきた。この歴史は、だれにもまねができないであろう。
 広宣流布の法戦にあっても、リーダーが前進すれば、皆が前進する。リーダーが伸びれば、皆が伸びる。リーダーが口先だけでは勝てない。
 「自分が人間革命していこう!」「自分を鍛えていこう!」――こう決意して、まず自分が行動していくところに、常勝の原動力が生まれる。これ以外に常勝の方程式はない。
21  一方、武田信玄は、「人は石垣 人は城」と、うたわれるごとく、「人材」を登用し、「人材」の力を生かしていくことによって勝ち抜いた。
 人である。建物ではない。組織も社会も、盛衰は人材で決まる。人材が出ないのは指導者の責任である――これが信玄の信念であった。
 御聖訓に云く「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」――法は、ひとりでに弘まるのではない。人が法を弘めるのであり、だからこそ弘める人も弘まる法も、ともに尊い――と。
 広宣流布は、すべて「人材」で決まる。新しき人材を見つけ、新しき人材を育て、新しき人材を結集していく。その人が人材である。
 この「人材革命」の波を、二十一世紀へ、もう一度、創価学会はつくりあげていきたい。
 こう申し上げ、本日の私のスピーチを終わります。長時間、ありがとう! 遠いところ、暑いところ、ご苦労さまでした。
 (東京牧口記念会館)

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