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日蓮大聖人・池田大作

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奈良代表者会議 仏法は勝負、戦いの炎を燃やせ!

1997.5.22 スピーチ(1997.5〜)(池田大作全集第88巻)

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1  仏縁を結ぶ会館
 すばらしい奈良国際友好会館、おめでとう!
 会館のすぐ隣には、平城宮の跡地。当時の朱雀門も復元されつつある。完成すれば、ますます多くの人々が訪れるに違いない。
 この国際友好会館の付近一帯には、奈良時代の教育機関である「大学寮」があったと推定されている。(平城京跡地の発掘調査報告による)この学舎は、唐にならって設立され、さまざまな学問が研鑚されていた。平城の都を担う人材が育成されていった。
 このすばらしい国際友好会館に、親しい友人も招いてさしあげたらどうかと、私は思う。
 会館に友を招き、見学し、楽しく懇談する。会館自体が、多くの友と仏縁を結びゆく当体である。
 私は、少年の日から、奈良の天地が大好きである。そして、奈良の人々が大好きである。十一年ぶりに、憧れの奈良を訪問することができ、本当にうれしい。
 創価学園生との記念撮影や、アメリカ創価大学の関係者との未来構想会議などが重なり、お懐かしい多くの方々にお目にかかれないが、この広宣流布の法城(国際友好会館)で、愛する奈良の全同志のご健康とご多幸を、真剣に御祈念申し上げた。
 また、奈良の初代支部長・婦人部長であった有馬さんご夫妻をはじめ、忘れ得ぬ草創の功労者に届けとの思いを込めて、会館の「世界平和講堂」に設置されている「ピアノ」を弾(ひ)かせていただいた。(「荒城の月」「熱原の三烈士」「大楠公」などを)
2  仏法は勝負である。人生も、健康も、仕事も、全部、「勝負」である。「戦い」である。
 「戦」という字は、もともと「戰」と書く。中に、「口」という字が二つある。口を使って、戦うのである。ミサイルのごとく、語りに語り、声を武器に戦うのである。指導者が、どう口を使うか。指導者に、どんな迫力があるか。どう鋭く頭を使うか。それで、すべて決まる。
 「声仏事を為す」である。言うべきことを、きちんと言い切っていかなければ、後輩が苦しむ。会員が、かわいそうである。「真実」を明快にしゃべれない幹部は臆病者である。
 リーダーは、皆が安心して前進できるよう、温かい配慮をお願いしたい。
 心豊かに、後輩を大切にし、たたえ、伸び伸びと活躍できるようにしてあげてほしい。会員を叱ったり、命令する資格などない。そんな時代ではない。
 自分自身が人格を磨き、皆に「安心」を与え、皆の「力」を引き出せる幹部に成長するべきである。
3  「友には優しく」。そして「悪には怒りの炎を」と言い残しておきたい。
 仏敵との戦いには、火を吐く「怒り」がなければならない。口先だけ、格好だけで魔に勝てるわけがない。そんな意気地なしは、学会の幹部にはいらない。必要なのは「戦おう!」という気概である。獅子王の心である。その心をもった人間が、最後には勝つ。
 「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」――過去・現在の、末法の法華経の行者を軽んじ、賎しむ王や臣下、万民は、はじめは何ごともないようであるが、最後には滅びない者はいない――と御聖訓にある。
 正義は勝つ。勝たねばならない。仏法の「勝負」を決しなければならない。
 勝利のためには、広宣流布の「地盤」を固めることである。足元の生活の場、仕事の場、地域社会を、信頼され福徳あふれる盤石な「地盤」にしなければならない。
 仏法の目から見れば、皆さまは、自ら願って奈良にやってきたのである。皆さまの地盤は、この奈良である。ここが、仏道修行の本国土である。
 大聖人は、「日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか」――日蓮が難にあう所ごとに仏土となるのである――と仰せである。
 この奈良の天地を、自分自身の永遠の仏土としていっていただきたい。戦い切った国土に、わが命は刻まれ、とどめられるのである。
 好機は到来した。今こそ、″理想の奈良″を、皆さまの力でつくってほしい。二〇〇一年のきょう、五月二十二日を目標に、悠々と、楽しく前進し、「千軍万波の広布の城」を築いていただきたい。(拍手)
4  周総理の洞察「創価学会を重視せよ」
 いにしえより、奈良の天地は、中国との交流が深い。
 この四月、奈良日日新聞社から、『日中国交回復の秘話』と題する本が発刊された。(同社の創刊百周年、日中国交回復二十五周年を記念して発刊)
 私が一民間人として果たしてきた日中国交への足跡に光を当ててくださっており、周恩来総理が常々、創価学会を重んじておられたことが紹介されている。
 たとえば、孫平化そんへいか氏(のちに中日友好協会会長)が、国交回復前に来日した後、その報告を聞いた周総理は、二つのことを指示されたという。
 一つは、「中国の将来のために、日本の高速道路建設をよく研究するように」と。なお道路といえば、第二阪奈有料道路が開通し、奈良と大阪は本当に近くなった。
 そして、周総理のもう一つの指示が、「創価学会を重視し、友人をつくること」であった。
 周総理いわく、「創価学会は民衆のなかから立ち上がった団体」である。
 「創価学会という団体を君たちは重視しなければならない。……中日友好を進めるには、無視するわけにいかない。なんとか創価学会との間にパイプをつくらなければならない。友人をつくらなければならない」と。重要な歴史の証言として紹介させていただく。
5  当時、周総理は「民間が先行して、『民』を以て『官(=政府)』を促す」方法で、中日友好の道を開こうとされていた。
 学会本部の近く(現在、常光会館のある場所)に住んでおられた、日中友好の功労者・高碕達之助氏(経済企画庁長官、通産大臣等を歴任)は、昭和三十五年(一九六〇年)に訪中し、周総理と会談された。そこで、創価学会が話題になった折、高碕氏は、こう語ったという。
 「小さな勢力かもしれないが、民衆に受け入れられている団体がある。それが創価学会です」
 生き生きとした庶民が学会本部へ集まってくる。その喜々とした姿を間近に見た印象を、総理に伝えられたのではないだろうか。(王效賢おうこうけん女史〈中日友好協会副会長〉の証言から)
 高碕氏は、私にも総理の伝言を伝えてくださった。創価学会が、民衆に深く根差した「民衆の組織」として、日中友好に尽くそうとしていることを、周総理は信じ、期待してくださったのであろう。
6  私が総理にお会いしたのは、一九七四年の十二月五日。二度目の訪中の最後の夜であった。思えば当時の周総理は、「四人組」の策謀との苛烈な戦いの渦中にあった。「四人組」は、周総理をなきものにせんと狙っていたのである。
 入院中の総理のところへ押しかけ、「国の仕事のことで相談がある。待つわけにはいかない」と、長時間、居座ったりした。「四人組」からの電話に、総理が輸血を中断して出ねばならないこともあったという。肉体的にも、精神的にも、どれほどの圧迫と危険にさらされておられたことか。
 周総理は、当時の八億の中国人民の命運を担い、アジアの永遠の平和を切り開くために、ただただ精神の力で立っておられた。信念と気迫で生き抜いておられた。崇高な「東洋の丈夫」の姿は、私の心に焼きついて、離れない。
7  総理の逝去の報が世界を駆けたのは、会見の一年ほど後であった。私は、京都にいた。悲しみのなか、来るべきものが来たとの思いで、ここ関西の地で冥福を祈ったのである。初めての出会いが、最後の出会いになった。
 周総理、七十六歳。私、四十六歳。総理は「あなたが若いからこそ、大事に、つきあいたいのです」と言ってくださった。親子ほども年齢の違う若輩の私に、苦闘のさなか、病気をおして会ってくださった。あの出会いの情景は、今も強く、熱く、私の胸を打ち続けている。
8  学会は民衆の中から立ち上がった団体
 友好といっても、表面的な友好もあれば、「心と心の握手」もある。友情を「民衆の大地」に根づかせなければならない。根を張らなければ、やがて枯れてしまう。
 創価学会は、民衆の中から、民衆の願いによって、自発的に生まれ、広がった団体である。初めての訪中(一九七四年五、六月)に出発する際、私は空港で、見送りの方々に申し上げた。
 「貧乏人と病人といわれた人たちとともに、私は、ここまでやってきました。――権力にもよらず、財力にもよらず」と。創価学会は、どこまでも「民衆の団体」として、周総理が命をかけて築いた友好の橋を、世々万代まで守り、広げてまいりたい。
9  いわゆる″偉い人″、社会的に活躍する人は数多くいる。しかし、私生活も含めた一個の人間として偉大な人格の人は少ない。
 周総理は、夫人の鄧穎超とうえいちょう女史とともに、中国人民のために全生命、全生活を捧げられた。まさに″模範夫婦″そのものであった。
 ある時、女史が、私ども夫婦に、しみじみ語られたことがある。
 「私は若い日、恩来同志と二人で約束したことがあるのです。それは人民に奉仕するということです。このことは、死んでも変わりません」と。「永遠に民衆のために」――この魂がある限り、人類は、希望の明日へ進んでいけると私は信ずる。
10  恩師・戸田先生も、周総理を尊敬しておられた。
 ある時、戸田先生は言われた。「周恩来先生や、ネルー首相といった東洋の哲人と、ぜひ語り合いたいものだ」と。その先生の願いを私は実現した。
 明年は、周総理の生誕百周年。その二年後、二〇〇〇年は、戸田先生の生誕百周年である。年齢的にも、周総理と戸田先生は近かった。
 また戸田先生は、戦後まもなく、国家や民族の枠を超えた「地球民族主義」を提唱された。そして「中国の民衆も、日本の民衆も、皆、ともに手をつないで幸福にならねばならない」と叫び、「東洋の平和」「世界の平和」の建設を、私ども青年に託されたのである。
 当時、世界は、冷戦の激化のさなかにあった。多くの人々は、先生の理念を「誇大妄想だ」と笑った。しかし今では、それが現実となりつつある。
 (たとえば「トランスナショナル〈民族主義・国家主義からの脱却〉の時代」「ボーダーレス〈境界線なき〉の時代」などの思潮)
 東洋の民衆の幸福が、戸田先生の悲願であった。日中友好、周総理との交流を待望しておられた。その心を私は受け継いで、走り続けているのである。
11  境涯を開け、御書を拝して
 さて、戸田先生は、行き詰まりに直面した青年部のリーダーに、語気鋭く、こう指導なされたことがある。
 「疲れ切った時にこそ、御書を拝読していけ! たとえ一行でも、二行でもよい。御書を拝して、自らの境涯を、もう一歩、開くのだ」と。
 私も、若き日より、奈良の地涌の友と、いつも御書を一緒に拝しながら戦ってきた。
 たとえば、「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず」――おのおの日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆する心を起こしてはならない――。
 また、「種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」――さまざまな大難が起ころうとも、智者に日蓮の立てる義が破られないかぎり、(迫害者の言に)したがうことはない。そのほかの(教義を破られる以外の)大難は、風の前の塵である――と。
 どちらも、奈良の同志とともに心肝に染めてきた御聖訓である。私は、この御書の通り、何ものも恐れぬ「勇気の信心」で、奈良が進んでほしいのである。
12  妙法の功徳は「煩悩即菩提」である。妙法流布に戦っていけば、「悩み」は全部「幸福」に変わる。「疲れ」は「元気」に変わる。「貧乏」は「裕福」に変わる。これが「妙法」である。「不可思議の法」である。
 しかも、妙法の功徳は永遠である。「永遠の希望」であり、「永遠の光」であり、「永遠の力」である。
 この一生で仏の境涯を固めれば、生々世々、永遠にわたって、自由自在の境涯に生まれる。頭もよく、姿もよく、お金もあり、人にも尊敬され、人をも自在に救っていける「最高峰の人生」となるのである。ゆえに今世を頑張りなさいというのである。
13  きのうは、大地から湧き出るような鮮やかな虹を、皆さまと仰いだ。そして、今夜は満月である。大聖人は、「日蓮は満月のごとし」と仰せである。大聖人の仰せのままに生きゆく学会員の皆さまこそが、世のいかなる権勢の人よりも、尊く、気高い方々である。
 皆さまの人生にこそ、限りなき希望の虹が光り、所願満足の満月が皓々と輝きわたっていくに違いない。
 どうか、お会いできなかった同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えしていただきたい。また、お会いしましょう。奈良、頑張れ!
 (奈良国際友好会館)

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