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日蓮大聖人・池田大作

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SGI最高協議会 民衆を愛し、民衆に愛された牧口先生

1997.4.17 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  牧口先生の新資料が語る″人材育成の熱誠″
 世界五十六カ国・地域から、春季研修に集いこられた、尊き、そして気高き「地涌の菩薩」の皆さま方を、私は最大に歓迎申し上げたい。
 遠路はるばる、ようこそ、いらっしゃいました。本当に、ご苦労さま。
 この春、創価大学から社会に巣立っていった一人の卒業生が、先日、うれしい報告を届けてくれた。関西創価中学、東京・創価高校出身者である。
 それは「卒業論文の作成中、牧口先生の文章を新たに七本、見つけることができました!」という知らせであった。これまでの牧口先生の「全集」にも収められていない、まことに貴重な資料である。
 若い力は素晴らしい。彼の指導教官である斎藤正二先生は、牧口研究の第一人者である。『牧口常三郎全集』(第三文明社)の編さんにも心血を注いでくださっている。斎藤先生も、教え子のこの発見を温かく見守り、喜んでくださっていることであろう。
2  牧口先生は、本当に偉大な方である。たとえて言うならば、牧口先生は″無限の水脈に通ずる「井戸」″である。
 そして、弟子の戸田先生は、その「井戸」から水を汲み出していく「ポンプ」といってよい。
 ゆえに第三代の私は、その水を活かして、大地を潤し、花を咲かせていくのが使命であり、責務であると思ってきた。
3  今回、発見された牧口先生の文章のなかに、一九二三年(大正十二年)五月三日発刊の教育雑誌『教育界』に寄せられた一文がある。題名は「前田君の思ひ出で」。
 前田君とは、牧口先生が大正尋常小学校の初代校長の時代、そのもとで教員であった前田偉男よしお氏のことである。
 前田氏は、教員として活躍するなかで、難関の高等文官試験に合格。教育界の有望な新人として雑誌に取り上げられた。その際、牧口先生が一文を寄稿されたのである。慈愛と期待の込められた名文である。
 (前田氏はのちに多摩少年院の院長や文部事務官等を歴任。青少年の指導、社会教育などに尽力された。)
 当時、牧口先生は仏法を信仰されていない。しかし、自分のもとで働く青年を大切にする姿勢は一貫しておられた。
 若手教員が勤めながら大学の夜間に通って、さらに勉強できるように心を配るなど、一人一人の能力を尊重し、大切に伸ばしていかれた。そのなかから、判事や検事、弁護士などに転身していった教師もいる。前田氏も、そうした一人であった。
 「後輩を自分以上に偉くしていく」――これが牧口先生の信念であった。
4  さて、この新発見の寄稿文からは、牧口先生が、どれほど真剣に若き人材を探し、集めておられたかが、うかがえる。
 たとえば、大正小学校の新設にあたって、「四方八方から種々の手蔓を以て集って来た教員候補者の履歴書の数が、二十六名(定員)に対して百五十通に達した」。けれども牧口先生は、それで十分とせず、さらに「積極的に当方から進んで全国に優秀なる人物を招聘する積りで」関係者に働きかけて手を打ったというのである。
 なお、牧口先生が採用する基準とされたのは、「真面目であること」を大前提として、「大きな希望をもっている人」「何か一つ特技をもっている人」という点であった。
 牧口先生は「人材」に一切の焦点を当てておられた。『創価教育学体系』にも「社会各方面の行詰りの根源が悉く人材の欠乏に帰し」(『牧口常三郎全集』第六巻)と記されている。
 うれしいことに、二十一世紀を眼前にSGI(創価学会インタナショナル)は、中国の友人からも「『桃李門に満つ(モモやスモモの木が立派に立ち並ぶように、優秀な人材が門下にたくさんいること)』ですね!」と祝福されている。
 ″人材の春″爛漫である。牧口先生は、さぞかし、お喜びであろう。
5  ″青年を元気にする指導者″たれ
 ところで、今回の新発見の一文を見ると、牧口先生が青年の力を実に伸び伸びと発揮させておられることが、よくわかる。牧口先生は″青年を元気にする″指導者であった。
 各国のリーダーである皆さま方もまた、そうであっていただきたい。
 牧口先生いわく″いくら博学の秀才であっても、意地悪な先輩たちに囲まれて、隠忍自重(じっと我慢して、おとなしくしていること)してばかりいると、いつしか覇気もなくなり、意気も消沈する。おとなしくなって、臆病にもなる″と。
 牧口先生は、日本社会のこうした悪弊を知悉しておられた。それゆえに先生は、「だれかれに気兼ねする必要もなく遠慮のない議論ができる」自由闊達な世界を、自然のうちに作り上げていかれたのである。これこそ「創価の世界」である。
 牧口先生は″青年たちが、生一本(心がまっすぐであること)で正々堂々と、道理の前には、いささかも容赦なく議論しあうことは痛快である″とされていた。
 ただし、議論が分かれて収拾がつかなくなると、牧口先生は、それぞれの意見をよく聞いたうえで、明快に結論を出された。その結論には、皆がスッキリと納得するのが常であった。それはなぜか?
 牧口先生が、どんな時にも「児童のために! 子どもたちのために!」という根本の一点に徹しておられたからである。ここにも牧口先生の卓越したリーダーシップがあった。
 各国の組織にあっても、「会員のために」「広宣流布のために」という根幹の目的を見つめて、「異体同心」で進んでいただきたい。その団結あるかぎり、絶対に行き詰まりはないのである。
 また青年部は、一生懸命に戦ってこられた大先輩を、最敬礼する思いで尊敬し、学んでいかねばならないと申し添えておきたい。
6  「民衆運動」こそ歴史の要請
 さて、一九一九年(大正八年)、牧口先生を中心とした理想的な学校運営に対して、突然、権力によって牧口先生を排斥(追放)する圧力が加えられた。校長をやめさせようとしてきたのである。
 それは、地元の有力者が、「わが子を特別扱いするよう」牧口先生に強要して、断られた。その逆恨みが発端であった。
 さらに、その背景には、当時の東京の市政を牛耳る大物政治家の策謀があったといわれている。のちに大きな社会問題となった「東京市政の腐敗問題」とも深く関わっていたのである。
 (牧口先生を迫害したその政治家は、この疑獄事件で激しい追及を受け、市の要職を去らざるを得なかった)
 しかし、この時、前田青年を中心に教員たちは、「敬愛する牧口先生を、なんとしても守ろう!」と、一丸となって猛然と抗議行動を展開したのである。
 今回、新発見の一文では、牧口先生ご自身が、その様子を淡々と記しておられる。
 「固より私には相談すると却って累を及ぼし、又た阻止されることは明かであるといふので、何の相談もなく、悍然かんぜんと私の留任運動を起し、仲間の一名(=地元のボスと結託して、牧口先生を追い出そうとした教員)だけには絶交状を送り、他の二十五名の連判状を造って、結束をなし(中略)所謂有力者を手古摺てこずらせた」(一九二三年五月三日、「教育界」第22巻第5号)
 「結束の堅たかった事、二十五名が一度に辞表を出して、何人の力も如何にすることも出来なくなった」(同前)
 牧口先生を、やめさせるのであれば、自分たちも全員やめるという意思表示であり、だれも青年たちの怒りをおさえることはできなかったのである。こうした青年たちの「正義」と「熱誠」は、反対者たちをも感服させるものであったという。
 また、この折、牧口先生を慕う父母たちも反対運動を行い、「牧口校長をやめさせるな!」と三日間にわたって、子どもたちを同盟休校させている。
 牧口先生が、どれほど青年たちから尊敬され、庶民から支持されていたかを如実に示す歴史である。
7  注目すべきことは、今回発見された一文の中で、牧口先生が「民衆運動」という表現を明確に使われていることである。
 つまり、牧口先生いわく、権力の圧迫に立ち向かった青年たちの行動は、その精神において「世界大戦(=第一次)後に世界の至る所に捲き起った所謂民衆運動――従来の支配階級の横暴、それに盲従して居なければならなかった為政者の圧制政治に反抗した――の一鱗片りんぺん(=小さな表れ)」(同前)であった、と。
 牧口先生はいちはやく、世界史の大きな潮流のなかで、「民衆運動」を展望しておられたのである。
 なお、この時、牧口先生の留任を望む人々の声は結局、聞き入れられず、先生は大正小学校から西町尋常小学校へと転任となった。
 しかし、まさにその西町小学校時代に、若き日の戸田先生と運命的な出会いが結ばれていくのである。一九二〇年(大正九年)の春のことであった。
8  それから七十七年――。牧口先生、戸田先生の直系たる創価の若き正義の連帯は、かくも壮大に世界に広がった。
 仏法の人間主義を高らかに掲げ、二十一世紀の「平和」と「文化」と「教育」の大民衆運動を、さらに断固として進めてまいりたい。
 最も尊い、最も誉れある世界の民衆リーダーが一堂に会するSGIの研修会である。明るく、なごやかな、そして楽しく有意義な研修となることを心から祈って、私のスピーチとしたい。

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