Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国幹部研修会 一人、ただ一人立てばよい

1997.3.28 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  さて、今、中国は目ざましい発展を始めた。長い間の忍耐の果てに、旭日が昇り始めた。中国の革命は、百年の歴史をもつ。(孫文による共和国〈中華民国〉樹立が一九一二年)
 中国革命が成功したのはなぜか。重要な理由のひとつは、女性も敢然と立ったからである。「天の半分を支える」と言われる女性が立った。これが巨大な力となった。
 では、なぜ女性が立ち上がったのか? 何千年の間、「男性に従え」と教育されてきた中国の女性が、どうして続々と立ったのか?
 さまざまな角度があるが、一つの背景として、そこには、ある女性詩人のドラマがあった。のちに「革命の花」と謳われた秋瑾しゅうきん女史である。秋瑾とは、秋の「美しい玉」の意味になる。
 彼女は、三十一歳で処刑された。中国の「女性革命家第一号」と呼ぶ人もいる。いわば「中国のジャンヌ・ダルク」であろうか。
 若き彼女の壮烈な一生が、全中国の女性を揺さぶった。そして男性も、「こうしてはいられない」と、後に続いた。学会でも、女子部が頑張れば男子部もやらざるをえない。それに似ているかもしれない。
3  ″わが熱血あつきちしお波濤おおなみとなりて祖国を救わん″
 秋瑾の詩に、こうある。
  
 「一腔このむね熱血あつきちしお 灑去とびちらば 猶能く碧涛みどりのおおなみと化す」
  (竹内実・吉田富夫『志のうた 中華愛誦詩選』中公新書)
 ――この胸の熱き血潮ちしおを大切にしよう。(なぜなら、それが)飛び散ったならば、みどり色の大波となるからだ――。碧は海の色。青みどり。義人が流した正義の血は碧玉へきぎょくになると伝えられていた。
 自分は死んでもよい! その熱き血潮は、革命の波また波となって、私を殺した卑劣な権力者を押し流してしまうだろう! まさに彼女の言う通り、処刑の四年半後(一九一二年二月)に、孫文らによって清王朝は崩壊した。
4  彼女が生まれたのは、清王朝の末期。(一八七七年=日本の明治十年。生年には別説もある)
 中国は、西洋の列強に侵略され、国土をとられ、やがて日本にも戦争(日清戦争)でやられた。祖国が滅亡の一途をたどっているのに、政治(王朝)は何もできないで、自分たちの利権のことしか考えない。反政府運動を弾圧するだけである。
 社会を正そうにも、周囲の男性は、強い者の顔をうかがう者ばかりであった。
 「男どもは何をやっているのか! だらしない! もう男なんかにまかせておけない!」
 彼女は、裕福な家庭に生まれ、教育も受け、美貌にも恵まれていた。楽に生きようと思えば簡単であった。しかし、彼女は違った。「祖国がいじめられている今、じっとしてはいられない」と立った。
 彼女は、当時のしきたりで、親が決めた相手と結婚させられていた。子どもも一男一女、生まれた。
 しかし夫は、目先の出世のことと遊ぶことしか考えない。「それならそれでよい。私ひとりで戦う」強い女性である。
5  彼女は資金を工面し、一九〇四年(明治三十七年)単身、日本へ留学する。
 当時、日本は孫文をはじめ中国の革命家の拠点になっていた。彼女は日本で、のちの文豪・魯迅とも会った。廖承志りょうしょうしさん(中日友好協会初代会長)のお母さん何香凝かこうぎょう女史にも会った。
6  翌年、事件が起こった。あまりにも多くの″革命学生″が日本に集まるので、日本政府が「留学生の取り締まりを強化する」と発表したのである。
 これは清国政府の意向でもあった。秋瑾は怒った。さっそく抗議集会。
 「それなら、さっさと皆で中国に帰りましょう!」
 彼女は演壇で、いきなり短刀をとり出した。そして驚く男たちの前で、テーブルに、つき立てた。
 「もしも国へ帰ってから革命を裏切り、友を売って自分の栄達を求めようとする者があれば、私が、この刀をくらわしますよ!」
 裏切る人間は絶対に許さない。すごい気迫であった。魂を震わせる叫びであった。
7  見よ! この鮮烈な青春を
 帰国して彼女は、学校の教師をしたり、雑誌を出したりして、「男女平等の思想」や「革命の思想」を広げた。そして「革命軍が各地で一斉に蜂起する」という極秘計画をすすめた。
 しかし、裏切り者の密告によって逮捕されてしまう。無念であった。
 彼女は訊問には、ひとことも答えない。「聞いてもむだだ!」絶対に他の同志のことなど言うはずがないことは、役人にもわかっていた。役人は、ただちに「処刑」を決めた。「斬首刑」である。
 夏衍かえん氏の戯曲「秋瑾伝」(一九三六年)で、秋瑾は言う。まさに、彼女の叫びそのものであろう。
 「私の首は、むなしく切断されるのではない。私の血は、むだに流されはしない。全中国の同志は、かならずや私の遺志をうけつぐのだ。中国女性の自由平等、中国民衆の解放独立は、かならず実現されずにはすまされないのだ」(武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺しゅうさつす』筑摩書房)
 そして、処刑を決めた役人たちに向かって言い放った。
 「やがて、お前たちの名前は、死せる猫、死せる犬の如く忘れ去られてしまうはずだったのだ。だがお前たちが、この秋瑾、この中国女性の生みだした女革命党員を殺すおかげで、お前たちの臭い臭い名も、私と一しょに長く長く歴史にのこることができるのだ!」(同前)
 処刑は逮捕の翌朝であった。(一九〇七年七月十五日)
 彼女の処刑は、当局が想像もしないほど大きな反響を広げた。全民衆の怒りに、火をつけてしまった。もう、だれも抑えられなかった。
 ちゃんとした供述もなければ、裁判もない。蜂起を計画したといっても未遂であり、彼女は一人として傷つけていない。それを、いきなり斬首刑。しかも教養ある、これからの女性ではないか。彼女を処刑した関係者は、どこに行っても憎まれ、流転のあげく没落したり、自殺したり、殺されたりした。
 中国の歴史家は、これを「公憤(民衆の怒り)」と呼んでいる。
 「こんな国には、もう、あいそがつきた!」――秋瑾のあとに人々は続き、四年半後に清王朝は滅びた。
8  私どもの革命は「人間革命」であり、彼女とは違う。しかし、その決心は彼女に劣ってはならないと私は思う。
 戸田先生は言われた。
 「いかなる事件にであうとも、いかなる事態に即しようとも、ただ一人立つということが大事なのです。
 青年部は、男女二万(当時)の数があると思うが、この人々が、二万が立たねばならぬということではなく、一人、ただ一人立てばよい。ただ一人立つ確信をもって立つところに、いっさいの仕事ができあがるのです」(一九五四年の第二回女子青年部総会。「女子部に与う」、『戸田城聖全集』第四巻)
 「一人、ただ一人立てばよい」――今、私も、戸田先生と、まったく同じ気持ちである。
9  周総理「忘るるなかれ、先駆者の遺風を」
 じつは、周恩来総理は彼女と同郷である。総理は、彼女より二十一歳年下にあたり、ともに上海シャンハイの南の浙江チョーチャン省・紹興シャオシンの出身である。
 「紹興酒しょうこうしゅ」で有名なこの町は、魯迅の故郷でもある。総理と魯迅は、遠い縁戚に当たるという。
 総理は書いている。
 「忘るるなかれ 鑑湖女侠かんこじょきょうの遺風を」(鑑湖女侠とは秋瑾の号〈別名〉。鑑湖は紹興の湖)
 秋瑾の残した革命精神を忘れてはならない。願わくは、さらにそれをも越えて、我らは進もう、と。
 秋瑾は炎であった。自分の命を燃やして、民衆の命に火をつけた――。
10  一九三七年のあるとき、周総理は言った。日本軍と戦っているころである。(この年、日中は全面戦争に突入。国民党と中国共産党による抗日民族統一戦線が成立した)
 「私たちは悲しみの涙など流したりしません。私たちが流すのは怒りの涙です。流す涙は同じでも、そこには大きなちがいがあります。私たちは人民のために闘いますが、センチメンタリズムなどは私たちには何の役にも立ちません。
 私たちの革命の経験は、数多くの同志たちの生命をもってあがなったものです。血で書かれた私たちの政策は二滴三滴の感傷の涙などで洗い流せるものではありません」(『周恩来語録』秋元書房)
 私たちは確固として、「この道」を行く! 「この道」には、死んでいった同志の命がこもっている。何で、同志を裏切ることができようか! 革命の勝利を信じて、先に逝った同志の信頼を、どうして裏切ることができようか! 感傷の涙など流すひまはない。怒りの涙を流しながら、断じて「この道」を行くのだ! 周総理の痛切なる叫びである。
 百年――三世代、四世代にわたる連綿たる中国革命は、同志と同志、先輩と後輩の血涙したたる「魂のリレー」によって、成し遂げられたのである。
 (秋瑾女史については、陳舜臣『中国の歴史 近・現代篇第三巻 黎明に燃ゆ』〈平凡社〉、村山孚『人物中国史5 女性編 美姫と妖婦』〈毎日新聞社〉、飯塚朗『中国四千年の女たち』〈時事通信社〉を参照した)
11  真の個人主義――「自立した人間」は他者に奉仕する
 明年(一九九八年)は周総理の生誕百周年。この佳節を記念し「中国歌舞団」の来日公演が、民音の招聘により行われることになっている。最後に周総理の言葉を、もう一つ紹介したい。
 「我々はもちろん個人主義に反対ではありません。新しい思想や価値を表現することは奨励したい。だが、利己主義、欲得ずく、『先ず私が』という方向へ進んではなりません」
 「人が他人のため己れを忘れて働き、国民に奉仕することを自らの理想に掲げるとき、それが最良の個人主義だと思います」(ハン・スーイン『長兄―周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社)
 個人主義と利己主義は、まったく違う。「民衆に奉仕する」という断固たる「信念」にこそ、本当の個人主義があり、自立した人間の生き方がある。
 牧口先生も、言われている。
 「自分だけが幸せであれば、他はどうでもよいという利己主義の幸福ではいけない。その中心に自分がいるにせよ、我々の生活は社会と共存でなくては、しばらくでも真の安定を得られないということを意識して、そのうえに求める幸福でなければならない」と。
 この牧口先生、そしてまた戸田先生の精神のままに、私どもは私どもの強き信念で、社会と世界に奉仕してまいりたい。そのために、二百年先を目指して、「日本の柱」であり、「人類の希望」である創価学会を守り、強め、栄えさせてまいりたい。

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