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日蓮大聖人・池田大作

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第3回全国男(女)子部幹部会 君らがいれば21世紀は盤石

1997.3.24 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  釈尊は教えた――死は必ず来る故に時を惜しめ
 音楽隊の皆さん、素晴らしい演奏をありがとう!
 きょうは素晴らしい満月である。″満月の幹部会″である。今や、青年部の「本門の活躍」が始まった。青年部は成長した。「二十一世紀の学会は盤石なり!」そう言って、黄金の満月は、にっこりと輝いていた。
 諸君も、帰りは、天を仰ぎ、満月と語りながら、帰路についていただきたい。そして、俳句や詩を詠み、その日の日記につづる――青年は、そのような詩心を、もっていただきたい。
2  仏典に、こんな話がある。釈尊はある時、竹林精舎にいた。
 「精舎」とは、仏道修行に励む場所のことである。今で言えば、我々の会館や研修道場のことである。きょうの、この会場は、さながら″満月精舎″であろうか。
 竹林精舎で修行している人々に、釈尊は呼びかけた。
 「この人間の寿命は短い。来世には行かねばならぬ。善をなさねばならぬ。清浄行を行わねばならぬ。生まれた者が死なないということはあり得ない。たとい永く生きたとしても、百歳か、あるいはそれよりも少し長いだけである」(『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ2』中村元訳、岩波文庫)
 人間の寿命は短い。いつかは死なねばならない。だからこそ、時間を惜しんで「善」をなせ! 修行に励め!こう言ったのである。
3  すると、そこに悪魔がやってくる。悪魔は、釈尊と反対のことを言った。
 ――仏が現れると、必ず反対者も現れる。仏法は、「仏」と「魔」の戦いだからである。提婆達多(釈尊の弟子となりながら、退転して、釈尊を最も迫害した悪僧)が現れなければ、釈尊は仏とは言えないのである。
 「仏法は勝負」である。最強の敵と戦って、勝つか、負けるか。魔との戦いを避けて仏法はない。勝ってこそ仏になる。勝たねばならない。また、必ず勝てるのが仏法なのである。
 この勝負には、世法のような、ごまかしがきかない。要領も、策もきかない。厳しい生命の因果の上の勝負だからである。
 悪魔は言った。
 「人間の寿命は長い。立派な人はそれを軽んじない。乳に飽いた赤子のようにふるまえ、死の来ることがないからである」(同前)
 ――人間の寿命は長い。立派な人は、けちけちと時間を惜しんだりしない(長い寿命を、たっぷりと楽しんで、快楽を貪り、生きていく)。乳を飲みあきた赤ん坊が、ゆっくりとベッドで寝ているように、振る舞えばよいのだ。死は来ることがないのだから――。
4  「弱い心」に支配されれば負け
 悪魔は、このように、釈尊と正反対のことを言ったのである。それを聞いて、「そうかな」と思った人もいたかもしれない。人間というのは、悪縁に紛動されやすい、愚かな存在だともいえる。
 たしかに悪魔が言うように、若い人は自分が「いつまでも若い」と思っているものだ。「死ぬこと」など、考えもしない。人生は、まだまだ長く続くと信じきっている。
5  悪魔のささやきに対して、釈尊は言った。
 「人間の寿命は短い。立派な人はそれを軽んぜよ。頭髪に火がついて燃えている人のようにふるまえ。死が来ないということはあり得ないからである」(同前)
 ――人間の寿命は短い。ゆえに、立派な人は時間を惜しんで修行せよ(身を軽んじ法を重く見、不惜身命で修行せよ)。頭髪に火がついて燃えている人のように振る舞え。あっという間に人生は終わってしまう。急いで善をなせ。今、善をなせ。死は必ずやってくるのだから――こういう意味になろう。
 これを聞いて悪魔は、「釈尊は私の正体を知っておられるのだ」と気がつき、打ち萎れ、がっかりして、その場で消えてしまった。悪魔も「道理」には、かなわなかった。魔は、「これは魔だ」と見破れば、打ち破れる。恐れたり、紛動されると、魔は増長する。
6  「悪魔」とは、仏道修行の邪魔をする「弱い心」とも言える。人間には、「弱い心」と「強い心」がある。二つは全然、違う。
 「弱い心」に支配されれば負けである。「私はまだ若い。時間は、たっぷりある。ゆっくり、のんびりやろう」と思うなら、それは「悪魔のささやき」かもしれない。
 自分の中に、魔もあれば、仏もある。結局、自分との戦いである。仏道修行も、社会での個人の活躍も、また歴史や、政治・経済の動きも、全部、根底は、「弱い心」と「強い心」との戦いである。
 すべてが妙法のあらわれだからである。「妙」とは仏界。「法」とは九界。「妙法」で仏界即九界、九界即仏界となり、十界互具となる。森羅万象のすべてが、十界互具・百界千如・一念三千の作用であり、振る舞いである。全部が、十界の因果であり、善と悪との戦いであり、幸福と不幸、向上と堕落との闘争のドラマである。
 人生には、いろいろなことがある。喜びの日もあれば、苦悩の時もある。いやになることも起こる。だからこそ人生は面白い。さまざまなドラマがあるからこそ、人間なのである。何の変化もない、ドラマもない、決まりきった人生は、機械のようで面白みがない。ゆえに諸君は、波乱万丈の人生の劇を悠々と演じきっていける、「強い自分」をつくりあげていただきたい。
7  私が、きょう申し上げたいことの一つは「常に御書をひもといていこう」ということである。少しずつでもよい。一行でもいい。広げるだけでもいい。ともかく御書を拝していこう。御書を広げていこう――若い時に、そういう習慣をつけなくてはいけない。
 御書を開けば、そこから光があふれてくる。それは「哲学の光線」であり、「生命の太陽」である。御書は「日蓮大聖人の御声」であり、御金言・御聖訓である。
 「御書を学ぼう」「御書を開こう」との一念が大切である。内容を忘れてもいい。生命の奥底では何かが残っている。御書を大事にするあまり、手も触れずに閉じたままではいけない。
 「受持即観心」であり、御本尊を受持することが根本である。そのうえで、じつは、御書を拝する「強き信心」によってこそ、真の観心――人間革命となるのである。
 きょうから、青年部は、一行でも、二行でも、少しでも御書をひもといていくという挑戦を始めていただきたい(賛同の大拍手)。
8  どういう「死」か それで「永遠」が決まる
 大切なことは、「自分も必ず死ぬ」という自覚である。死ぬのが自然の摂理である。死ななければ、人口は無限に増え、食べ物もなくなってしまう。問題は「どのように死んでいくか」である。
 ある時、釈尊は言った。
 「久しく旅に出ていた人が、遠方から無事に帰って来たならば、親戚、親友、友人たちは、かれが帰って来たのを祝う。
 そのように、善いことをしてこの世からあの世に行った人を、善業が喜んで迎える。――愛しい親族が帰って来たのを、喜び迎えるように。それ故に、来世のために功徳を積め。功徳は実にあの世における人々のよりどころであるからである」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)
 自分が、どういう「死」を迎えるか。それによって「永遠」が決まる。この「生死」の解決にこそ、仏法の要がある。
 死に方など、どうでもいい、来世も関係ない――それなら信仰は必要ないかもしれない。しかし、真実は「生命は永遠」なのである。この「わが生命」が死後も続いていくのである。
 しかも死後は、自分で自分の生命を変えられない。仏道修行ができない。
 修行できるのは生きている間だけである。だから「今世を頑張りなさい」というのである。
9  西の空が真っ赤に染まる美しい夕焼け。そのあくる日は晴天になることが多いという。それと同じように、今世の最後に、生命が明るく燃焼していた人は、来世も明るいと考えられる。ゆえに、生きている間に、永遠の「福徳」を積むことである。
 福徳を積むには「善いこと」をしなければならない。では「善いこと」とは何か。また「悪いこと」とは何か。これが、まったくわからなくなってしまったのが末法である。何が「善」か。何が「悪」か。基準がない。
 今でも、戦争をも「善」と言う人がいる。負けても、相手だけが「悪」だという。最近の日本も、ますます価値観が狂った社会になってしまった。また世界もそうかもしれない。それを牧口先生は「高等精神病」と喝破された。
 「悪人がその悪をさとらぬところに常人と異ふ所がある」「ことに名利に関し、利害問題になると、意外の凶暴性を発揮して、恥も外聞も顧みない所に異常性が見える。(中略)高等精神病といふ方が適当か」(『牧口常三郎全集』第十巻)
 いつも「自分の利害」しか考えない。自分の栄達、名誉しか頭にない。国の将来も考えていなければ、「民衆のため」という心もない。
10  大善に生きよ、それが「福徳」に
 牧口先生は言われた。善にも「小善」「中善」「大善」があると。小さな善。中くらいの善。それらは、これほど大回転している社会にあっては、はじき飛ばされ、消え去ってしまう。
 また、いくら人にお金をあげても、その人にとって、それが「善いこと」だとは限らない。かえって堕落させてしまうかもしれない。ゆえに、根本の「大善」を積むことである。牧口先生は「幾十年・幾百年の後までもゆるぎのない善は大善である」「世界人類に共通する善行は大善といえる」(同前)と言われている。
 最高の「大善」とは何か。それを教えるのが仏である。日蓮大聖人は「題目をあげることだ。妙法を教えてあげることだ。これ以上の大善はない」と教えてくださった。牧口先生も、妙法を唱え、妙法を弘める以外にない、それが「最大善」であると結論された。
 「大善」によって、自分の生命を変え、人々の生命を根本から変えていけば、そのうえに、中善も小善も生かされてくる。
 ゆえに、もはや「善悪の基準なき日本」を救うのは学会しかない。諸君の力しかない。
11  長い間、学会活動から離れてしまった人が語っていたという。「もっと一生懸命に、お題目をあげておけばよかった。もっと活動をしておけばよかった。本当に無念です。時間がもうないんです」と。
 死ぬ間際になって、こう言ったという話が忘れられない。
 諸君は若い。いくらでも題目をあげられる。いくらでも今世で福運を積める。すごいことである。すごい諸君である。
 私は十九歳から、戸田先生のもと、広宣流布ひとすじに生きてきた。生々世々、福徳輝く大境涯が続く確信がある。
 諸君も、積んだ善業は、今世で厳然と現れる。自分の一念通りの、自在の大境涯となれる。しかも、その生命が死後も続いていくのである。
 ある幹部いわく、この世で福運を積んだ人は、「エネルギー満タンのロケット」みたいなものである。自由に、この人生を、また死後も、大宇宙を悠々と遊戯できる。この宇宙には、地球と同じような星が何十億以上もあるといわれる。
 福徳あふれる生命は、願うところ、使命あるところ、どこへでも生まれる。自由自在なのである。
12  「太陽」に迎え、そして成長せよ
 今、日本で彗星(ヘール・ボップ彗星)が見える。
 彗星はなぜ輝くか。その一つは、太陽に近づくにつれ、氷や雪などが、とかされてガス等を放ち、それが美しい尾となって輝くからだという。
 太陽に向かうほど、輝きを増しゆく彗星。私どもにとって、太陽とは「御本尊」であり、「信心」である。そして「学会の会合」である。
 草木も、太陽の光を浴びて生長する。だから、会合にでない人は、温かい光が受けられず、日陰の草みたいに、だんだん枯れていってしまう。
 大聖人は「題目を一遍でも二遍でも真剣にあげなさい。そうすれば成仏は間違いない」と励ましておられる。そう聞くと、「よし、今は遊んで、死ぬ一年前から信心しよう」――そう思う人もいるかもしれない。
 しかし、これは、この激励が相手を奮い立たせる場合の御言葉である。「一遍の題目」の功力を強調しておられるのである。それほどの題目を、日々唱えていくことが、どれほどすごいことか――そうとって、「よし、もっと頑張ろう!」と決意していくことである。自分の信心が「もっと強くなる」方向にとっていくのが、御書の正しい拝し方である。
13  仏法は勝負である。「世法は評判、国法は賞罰、仏法は勝負」と戸田先生は言われた。
 世法の評判など、風の向きで、すぐ変わる。国法は人間が裁き、時代とともに変わる。しかし仏法の因果律は絶対である。仏法の勝負に、ごまかしはきかない。あっという間に人生は終わる。
 ゆえに一生の終わりに、「私は勝った! 私はやりきった!」と言える諸君であっていただきたい。若い今、思う存分に学会活動できる。それは何と幸せなことだろうか。
14  一念を決めれば、その方向へと
 ここで、ぱっと話題を変えたい。いよいよ春四月。希望に満ちた、出発の季節の到来である。
 春といえば、ゴルバチョフ氏の一言が忘れられない。
 「『春』は私のシンボルですから」
 クレムリンでお会いした時、私が「大統領の訪日を、最大に待ち望んでいます」と言うと、にっこりと笑って、「できれば、春に日本を訪れたい。『春』は私のシンボルですから」と言われた。(一九九〇年七月、モスクワでの初会談で。ゴルバチョフ氏の生まれは一九三一年三月。共産党書記長就任も八五年三月。初代ソ連大統領就任も九〇年三月。ソ連の元首として初の来日も、会見のやりとりの通り、九一年四月――「春」に実現した)
15  四月は動きの多い月である。新しい職場、新しい組織、新しい立場につく人も多いと思う。
 松下幸之助さんが、そうした青年に次のような話をされている。氏とは、私も何度も何度も語り合った。対談集(『人生問答』。本全集第8巻収録)も出版した。
 氏は言う。――初めての出勤の日、家に帰って家族に何と報告するか。
 たとえば「あまりたいしたところじゃない」「期待外れだ」と嘆くか。それとも、「期待していた以上にいいところだ」「入れてよかった!」と喜ぶか。
 この一点で、将来に天地の違いが生まれる。もちろん後者であるべきだ、と。
 といってもそれは、単なる現状肯定ではない。そもそも、初めからすべて思い通りの現実などあるはずがない。しかし、「いい職場だ!」「働きがいがありそうだ!」「一生懸命がんばるよ!」と、はつらつと言うことによって、それが自然に自分の決意となり、「実際に良くしていこう」という前向きな方向に心が定まっていく。
 また、そう言いきっていけば、家族や周りの人も、ほっとする。安心を与える。皆が気持ちいい。そのように、お世話になってきた人たちへの配慮ができる人、誠実さと熱意をもった人は、どこにあっても間違いなく「その場所を背負って立つ人」「いなくてはならない人」になる。
 これが、企業で長年、人物を見てきた松下さんの結論なのである。(『若さに贈る』講談社。要旨)
 かりに、内心では「期待はずれだ」との気持ちがあっても、あえて「すごいところだ」「私の会社は黄金の場所だ」と自分に言い聞かせていく、人にも語っていく――そうすることによって、自分の一念が変わる。一念が変われば、一切が、その方向に動き始める。「よし!」と決めた瞬間、全神経が、ぱーっと、その方向に向く。「だめだ」と思えば、その瞬間に、全神経が委縮し、本当に「だめ」な方向に向かっていく。この「微妙なる一念の劇」を知っていただきたい。
 心の置き方ひとつ、心の向きひとつで、自分も環境も大きく変わる。その実相を完璧に説ききっているのが、仏法の「一念三千」の法理である。強き一念の力によって、自分自身を、周囲を、そして国土をも回転させられる。その「武器」を、「秘術」を、もっているのが諸君なのである。これほどの宝はない。
16  変革には当然、苦労が伴うであろう。しかし、青年時代に、苦労は当たり前である。苦労しないで、オリンピック選手にはなれない。野球の名選手にもなれない。同じように、苦労しなければ価値は創れない。
 また、苦労していない人が上にいれば、下の人がかわいそうである。松下さんも、しみじみと言われていた。「池田先生、やっぱり、若い時の苦労は、買ってでもせにゃ、あきまへんなぁ」と。
 戸田先生も、牧口先生も同じ結論であった。一流の人物は皆、そうであろう。
 青年時代に、勇んで苦労することである。すすんで訓練を受け切ることである。全部、自分のためである。
 日蓮大聖人は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」――(状況が)よいのは不思議であり、悪いのは当たり前と思いなさい――と仰せである。この御聖訓を胸に刻んでいけば、恐れるものは何もない。断じて行き詰まることはない。
 「一念」で決まる。どういう「哲学」「信念」をもつかで決まる。「環境」や「境遇」で決まるのではない。この御聖訓通りの決心で進むところに、ありとあらゆる苦労の歴史が、全部、黄金の「使命の道」に変わるのである。
17  職場も地域も学会の組織も、自分自身の大切な地盤であり、修行の場である。三世間で言えば、「国土世間」の「国土」にあたる。
 この地盤の上に、自分の使命を開花させ、人材を育てゆくのである。その場を「わが本国土」として、人間の連帯を広げ、永遠に輝く広宣流布の歴史をつくっていくのである。
 行ったところ、行ったところで、がっちりと根を張って、心血を注ぎ、揺るぎない地盤をつくる人は強い。その人は自分自身の永遠の「福徳の地盤」をつくっているのである。
 ともあれ、春四月、素晴らしい青年部の活躍をお願いしたい。
18  人生は戦場、ならば君よ勇士たれ
 百十五年前の今日。すなわち一八八二年三月二十四日に、アメリカの偉大な詩人が亡くなった。
 その名は、″民衆詩人″と謳われた、ロングフェロー(一八〇七年〜八二年)。
 代表作「人生讃歌」は、あまりにも有名である。その一節には、こうある。
  この世の広い戦場で、
  人生の野営地で、
  黙って追い立てられていく家畜であるな!
  断乎戦う勇士であれ!
   (『アメリカ名詩選』亀井俊介・川本皓嗣編、岩波文庫。以下、引用は同じ)
19  飼いならされて自由をなくした「家畜」になるな、動物になるな! 負けるな、立ち上がれ!――と。
  大いなる人々の生涯は教えてくれる、
  われらも生涯を気高くなして、
  この世を去る時、時間の砂浜に
  足跡を残していけることを
20  偉大な先人は教えてくれる。気高く生きられるのだ、偉大な人生の足跡を残していけるのだ、と。広宣流布に生きる人は「気高い」。目先のことばかり考えているのは卑しい。諸君の人生は気高く、尊い。
  その足跡を、あわよくば他の人が、
  人生の厳粛な大海原に船進め
  寄るべなく難破した同胞が、
  目にとめて、勇気を奮い起こすこともあろう
21  人生の航海に難破した人たちが、諸君の人生を見て、「よーし!」と勇気を奮い起こす――そのような人になれ。後に続く人たちに勇気を与えるような偉大な足跡を残しゆけ!
  されば、われら、奮起して励もう、
  いかなる運命にも勇気をもって。
  絶えず成し遂げ、絶えず追い求め、
  刻苦してあとは待つことを学ぼう。
 二十一世紀の勝利へ、諸君は「人生讃歌」「人間讃歌」を高らかに奏でていっていただきたい。
22  さらに高く! さあ、仕事を続けよう!
 ロングフェローの詩の貴重な直筆原稿が、アメリカ創価大学の重宝として所蔵されている。詩の題名は「エクセルシア」。ラテン語で「さらに高く」という意味である。
 先日、頂戴した「ヨーロッパ科学芸術アカデミー」の「名誉評議員」の証書も、ラテン語で記されていた。(池田SGI会長は、一九九七年三月、人類の知性の殿堂である同アカデミーの「名誉評議員」に日本人として初めて就任。創価学会を「現代世界における仏教の代表」〈アカデミーのウンガー会長〉と評価しての決定であった。証書には、ラテン語で、「著名で博識なる哲学者」「尊敬すべき日本の宗教指導者の池田大作氏」と記されている)
 西洋ではラテン語の伝統を大事にしている。
 私がトインビー博士と対談してから、本年で二十五周年を迎える。十日間の厳粛な対話であった。懐かしい歴史である。対談集(『二十一世紀への対話』。本全集第三巻収録)は十九の国の言葉に翻訳されている。(=二〇〇〇年十二月現在、二十四言語で出版)トインビー博士にモットーをうかがうと、博士は答えられた。「ラボレムス」と。ラテン語で「さあ、仕事を続けよう」という意味である。
23  「さあ始めよう!」大聖人の仏法も「現当二世」の仏法である。「現在」と「未来」のためである。「過去」にとらわれてはならない。「本因妙」の仏法は、永遠に「本因」に立つ。常に「これから」なのである。御聖訓に「月月・日日につより給へ」と。月々、日々に、「信心が強くなっていく」のが、本当の信仰者である。
 ゆえに、毎日の勤行が大切であり、毎月の幹部会が大切なのである。弱まってはいけない。「月月・日日に」強くなっていくのである。その積み重ねであり、その最高峰が「仏」なのである。
 ゆえに私は、敬愛する青年部に、この言葉を贈りたい。
 「エクセルシア」(さらに高く!)そして「ラボレムス」(さあ、仕事を続けよう!)
 この言葉を贈り、明日から御書の一ページでも、一行でも拝読することをお勧めして、本日の記念のスピーチを終わりたい。遠くから来た皆さま、本当に、ご苦労さま。またお会いしましょう!
 諸君に、一生懸命、お題目を送ります。ありがとう!

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