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日蓮大聖人・池田大作

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第9回本部幹部会 第九回本部幹部会

1997.3.5 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

前後
2  ちょうど同じころ、あのポーリング博士も、世界平和への行動に立ち上がっていた。
 ポーリング博士〈一九〇一年〜九四年〉は″現代化学の父″と呼ばれる世界的な科学者。世界でただ一人、単独で二つのノーベル賞(化学賞、平和賞)を受賞した平和運動家。池田SGI(創価学会インターナショナル)会長とは八七年、九〇年、九三年〈二回〉に会談し、対談集『「生命の世紀」への探求』〈読売新聞社刊〉を発刊〈本全集第14巻収録〉)
 この年(一九五七年)、博士はワシントン大学で、核兵器の危険性について講演した。学生の中に飛びこんで、博士は叫んだ。
 「今こそ戦う時です! あなた方の生命を、そして未来の世代の生命を守るために。ただ座して、ヒロシマの悲劇を繰り返しては断じてなりません!」
 講演が終わるやいなや、感動した多くの学生が博士のもとへ詰めかけた。そして尋ねた。「私たちにできることは何でしょうか?」聞いた学生も立派である。
 こうして「核実験の即時停止」を呼びかける請願書をつくることになった。やりましょう! 署名運動を! ポーリング博士と学生は一体になって、運動に立ち上がる。世界的に有名な歴史である。
3  ポーリング博士――青年とともに平和の行動の先頭に
 「学生の中へ」「民衆の中へ」飛びこんで、「青年と一体」となって開始された戦いであった。ここに重大な意義がある。
 使命を自覚した青年の力は無限である。青年に託す以外に道はない。これは″鉄則″である。
 青年は純粋である。使命のために立ち上がり、損得の″計算″などしない。そうした青年の中に入って、一緒に戦おう。その若い力を、よい方向に引き出していこう――これがリーダーの根本の精神である。どうすれば若い力を、よい方向に引き出せるか。そのために心を砕き、尽くすのがリーダーである。
 青年に、威張ったり、青年を″アゴで使おう″などというのは、指導者として、すでに″おしまい″である。失格である。学会の幹部も、この点、よくよく気をつけなければならない。
4  核実験停止への署名は、学生の協力によって続々と、世界中の科学者から集まった。ポーリング博士は、その署名を国連に提出。波動は大きく世界に広がった。最終的には、約一万三千人の科学者が、請願書に署名した。
 しかし当時は、厳しい冷戦のさなかである。反動もまた大きかった。アメリカ上院議会の国内治安委員会は、署名運動を理由として、突如、ポーリング博士を「喚問」したのである。その背景には、言うまでもなく、博士に圧力を加えて、平和運動を何とか封じこめようという策謀があった。
 どんなに正しいことをしていても、どんな賢人、聖人であっても、反動や反撃、迫害は避けられない。否、正しいからこそ、より多くの反動にあうのが世の常であろう。
 日蓮大聖人は「賢聖は罵詈して試みるなるべし」――賢人、聖人は、うんと悪口を言われ、迫害されることによって、本物かどうかが試される――と、おっしゃっている。
5  委員会は博士に対し、署名運動に協力した学生などの名前を明らかにせよと迫った。「言わなければ投獄する」と、暗に博士を脅してきたのである。事実、ある教授は証言を拒否して投獄されていた。しかし博士は、恫喝を毅然とはねつけた。この時の話も、私との対談のなかで、してくださった。
 忘れ得ぬ博士との語らい――背が高く、顔色がよくて、いつも頬に赤みがさしていた。本当に立派な人格の方であった。
 当局の不当な要求を前に、博士は、きっぱりと言った。
 「理想に燃え、希望にあふれる若き人々を犠牲にしてまで、わが身を守ることを、私の良心は許しません。私は、あなた方の要求に従うつもりはありません!」
 答えは「ノー!」だと。青年たちが一生懸命、やってくれた。彼らを裏切ることなど、どうしてできようか、と。博士の勇気と信念の叫びは、多くの人々の胸を打った。それまで博士に対して、批判的、侮辱的だった人間までもが、称賛の拍手を送ったのである。
 真実の叫びこそが胸を打つ。口先だけの話など、もはや、だれも見向きもしない。博士は負けなかった。迫害があればあるほど、勇気を出した。断固として戦った。
 そして、ありとあらゆる権力の謀略と戦い、青年を味方にしていった。これからの学会も、一番大事なのは青年である。婦人部と青年部に、どう力を入れていくかで、学会の将来は決まる。
 こうして博士は、権力の謀略を一つ一つ打ち返しながら、「平和の連帯」を一歩一歩、拡大していった。
 そして、この偉大な「知性」と「良心」の獅子、ポーリング博士は、ノーベル化学賞(一九五四年)に続いてノーベル平和賞(一九六二年)も受賞した。博士は、このほかにも、多くの賞に輝いている。
 先日、私の代理が、博士の業績を示す品々を拝見し、大変に感動していた。
6  「私たちには創価学会がある! 菩薩の行動こそ人間の証」
 ポーリング博士は、四年前(九三年)、アメリカのクレアモント・マッケナ大学での私の講演に、わざわざ駆けつけてくださった。その折、博士が並みいる第一級の学識者の前で、遺言のごとく語ってくださった言葉が忘れられない。博士は言われた。
 「悩める人に、真心をこめて救済の手を差し伸べる――その菩薩の行動にこそ人間としての美しき証があり、分断を超えて共感を結びゆくカギもあります。そして、悩める民衆を救済し、平和に寄与しゆくところに、宗教本来の重要な役割があるべきであります。
 しかしながら、そうした崇高なる使命とは裏腹に、宗教が常に戦争の因を築いてきたというのが、歴史の悲しい事実であります」
 「しかし!」――博士は一段と胸を張られ、声を大きくして、続けられた。
 「しかし、私たちには、創価学会があります! そして宗教の本来の使命である平和の建設に献身される池田SGI(創価学会インタナショナル)会長がおります!」と。
 ″人類の未来は、ここにある! 希望はここにある!″と、私どもの運動を、明快に宣揚してくださったのである。
 (ポーリング博士については、F・M・ホワイト著『ライナス・ポーリング』多田舜保訳補〈真珠社〉、村田晃『ライナス・ポーリングの八十三年』〈共立出版〉などを参照した)
7  戸田先生が「原水爆禁止」を第一の遺訓として青年に託されて四十年。私は「師弟不二」の心で、この遺訓のために走った。民衆による平和勢力を断じて築き、世界へ世界へと広げてきた。師匠が言ったことは、必ず私は断行する。現実にする。これが私の命がけの精神である。
 私は、ただ、かわいい学会員を守りたいから戦っている。学会員が一番、私は大切である。これこそが、私の本当の気持ちである。
 その意味において、きょうは、最も縁深い神奈川の同志とともに、晴れ晴れと「私たちは平和勢力として、原水爆禁止運動を、先頭きってやりました」と、戸田先生に報告できることが、うれしいのである。
 私の信頼する、後継の神奈川青年部。仏法を根底にして、これからは「文化」が武器である。「文化」を武器として、二十一世紀の「正義」と「平和」のスクラムを、堂々と築いていただきたい。大事な「スクラム」のために、皆が仲良く進んでいただきたい。
 ″あの人がどうの、この人がどうの″と仲間割れしてはならない。我々は創価の兄弟であり姉妹であり、家族である。平和の敵、民衆の敵と戦いゆく同志である。″神奈川の青年部よ、創価のスクラムの先頭を進みゆけ″と、お願いしたい。
8  方召麐ほうしょうりん女史の挑戦と勝利の人生
 きょうは、芸術部の総会である。先日、芸術の母であり、世界的に著名な画家、方召麐ほうしょうりん女史と、香港ホンコンで、お会いした。(二月十七日。二度目の語らい)
 語らいの席には、長男の曼生まんせい氏、四男の林生りんせい氏夫妻も同席された。
 ちなみに、長女の陳方ちんほう安生あんせい女史は、香港の行政長官(=中国返還後、政務長官)である。方女史については、これまで何度かスピーチさせていただいた。
 女史は三十六歳の時、突然、最愛の夫を病で亡くす。残されたのは、十一歳から三歳までの八人の幼子。しかし、その悲しみの淵から立ち上がる。人生の勝利の山へ! 自分の決めた「芸術の道」の頂上へ! 女史は、一歩一歩、決然と登っていった。
 八人の子ども全員を立派に育て上げ、自らも芸術の道に、いよいよ精進。現在、お子さんは、行政長官、弁護士、医師、国連職員、会社社長など、各分野で活躍されている。
 立派である。女史は強い。いつも朗らかに生き抜いておられる。鋭く、賢い方でもある。仏法の真髄の生き方にも通じる。
9  私は、女史に申し上げた。
 「お姿が『宝石』のように光っておられる。地球の中、宇宙の中に秘められた生命の宝石が、輝き出てきたようなお姿です。波乱の歳月で磨き抜かれ、鍛え抜かれた宝のご境涯です」と。
 試練を乗り越える。逆境を勝ち抜く。
 ″これは、人生で当たり前のことです。何のドラマもない人生なんか、おもしろくないじゃないですか″″自分は芸術家です。『筆の技』『心の技』を忘れません。そして、だれが何と言おうと、自分は自分の人生を生きます。仕上げます!″
 女史の勝利の姿からは、こうした信念の叫びが響いてくる気がする。
 女史は「自分独自の絵を創り上げるのに、五十年かかりました」と言われていた。そのためには「毎日が求道」であったに違いない。「毎日が創造」であったに違いない。まさに価値創造の人生である。
 「きょうも、何かしよう! もう一歩進もう!」「生命を削る思いで、前へ進もう!」――女史は、こういう方であられる。
 今年、八十三歳。本年の年頭、「書」をしたためられた。
 「再攀高峯さいとうこうほう」(再び高きみねのぼらん)
 この気概で、日々、筆をとり、朝から晩まで挑戦しておられる。仏法でいう「本因妙」の精神に通じる。過去を振り返るのではない。常に「現在」から「未来」へ挑戦し続ける生き方である。
10  語り合った翌日、女史は、墨痕ぼっこん鮮やかな書を、私に贈ってくださった。朝六時から書かれたという。そこには、中国の大文豪・魯迅先生の詩の一節が、流麗につづられていた。
 「眉を横たえて冷ややかに千夫の指に対し 首をれて甘んじて孺子の牛となる」――千人の敵から指弾されようと、眉も動かさず、冷然と立ち向かう。幼子のためには、頭を下げ、甘んじて牛となって背中に乗せてあげる――。
 ごうごうたる非難の嵐にさらされようとも、平然と胸を張って、おのが信念の道を、断じて生き抜いていく。しかも、その厳たる強さをもちながら、青少年のため、民衆のため、人々のためには、喜んで犠牲となり、奉仕していく。
 女史ご自身が、この詩のごとく、生きてこられたような気がする。また、そういう女史だからこそ、圧迫のなか、民衆のために戦ってきた創価学会の真実が、明鏡に映すがごとく、わかるのであろう。
11  尊き、また大好きな芸術部の皆さま。皆さまも、どうか、徹して忍耐強く、勝ち抜いていただきたい。
 最後に勝てばいいのである。途中の勝ち負けではない。大事なのは人生最後の勝利である。そのための信心である。
 大聖人は仰せである。
 「諸の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成つて是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかへ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持ち奉り速に仏になるべし
 ――権力者であろうが、有名人であろうが、どんなに得意がってみても、仏法の眼から見れば、「夢の中の栄え」であり「幻の楽しみ」にすぎない。本当の幸福は、自分自身の境涯を「仏」と開く以外にない――と。
 私どもは「地涌の菩薩」である。「地涌の菩薩」であれば、三世十方の仏菩薩が、皆さまを守りに守り、称賛の喝采を送ることは間違いない。これからも悠然と、永遠の「栄光の道」を、一緒に進みましょう!
12  「机上の学者」でなく「実践の学者」
 戸田先生は、語っておられた。
 「太平洋戦争において、アメリカはデューイの哲学を基礎とし、日本は国家神道をよりどころとしていた。勝敗は物量だけの問題ではなく、すでに、このことによって決まっていた」と。
 戸田先生は、社会の奥底の「精神」「哲学」を常に見ておられた。
 アメリカの哲学者デューイ(一八五九年〜一九五二年)は、教育の改革者でもあった。ほぼ同時代に生きた牧口初代会長(一八七一年〜一九四四年)は、いち早く、彼の教育哲学に注目している。主な著作には、『学校と社会』『民主主義と教育』『人間性と行動』『哲学と文明』『誰でもの信仰』などがある。
 デューイの哲学は「話し合いの哲学」とも言われる。対話を重んじ、現実の価値創造を重んじた。いわば――知識以上に智慧を 観念以上に行動を 思索以上に実践を 理論以上に価値を――ということである。
 牧口先生と創価学会の哲学にも通ずる。彼は「机上の学者」ではなく、「実践の学者」であった。民衆とともに生き、民衆と語り合い、民衆と行動し、積極的に社会活動に身を投じた。
 今世紀の初め、アメリカのニューヨークで、婦人参政権を求めるデモがあった時も、皆と一緒にプラカードを掲げながら、大通りを行進した。
13  デモといえば、一九一九年に起こった「五・四運動」(中国・北京での反帝国主義運動)でのことである。学生たちがデモ行進をしていた。彼らは皆、洗面用具を持っていた。なぜか?
 「いつ、牢屋へ行ってもいいようにしてあるんだ。だから、洗面用具をポケットに入れて持っている」
 彼らの姿の中に、デューイは「中国の新しき精神」を見た。「ここに新しき中国が生まれようとしている。この青年たちの不屈の魂があるかぎり、いつか中国は世界を動かすに違いない」と。そういう青年たちの中に、若き周恩来総理夫妻がいたことも有名である。
 見かけだけならば、当時、中国は混乱し、日本は近代化されていた。しかし、デューイは、日本の近代化は表面的なもので、内発のものではない――魂の内側からのものではないと見抜いたのである。
 人道主義者であったデューイは、「精神の自由」の弾圧とは、断固戦った。
 第二次世界大戦中、彼は、八十歳を超えてなお、ナチスを猛然と批判する。
 彼が設立に尽力した、ニューヨークの研究所(新社会研究所)は、ドイツから亡命してきた多くの学者を受け入れている。
14  「内面の変革」にこそ鍵が
 ともあれ、デューイと牧口先生とは、相通ずるところが多い。このことについては、昨年、アメリカ・コロンビア大学での講演(「『地球市民』教育への一考察」)でも触れた。
 この点には、デューイ研究所のヒックマン所長も注目されていた。
 デューイ博士と牧口先生は、どちらも、「あらゆる人々が、善なるもの、価値あるものを、積極的に追求できるように、啓発的な教育を通して、励まそうとした」と。
 (「聖教新聞」のインタビューでも同所長は、デューイ哲学の核心である「成長」の考えが牧口教育学の「価値創造」と共通することなど、多くの一致点を語っている)
 また、デューイの孫にあたるアメリカの文化人類学者、アリス・デューイ女史も、「人類が破滅への傾斜を強めているなか、祖父・デューイが説き、実践したように、″人間の内面の変革を通して、社会に大きく価値を創造しゆく″創価学会の存在は、実に貴重であります」と、深い共感を寄せておられる。
 学会の運動は、時代の最先端を進んでいるのである。一流の人には、それがわかる。
 ちなみに「デューイ」とは、「牧草地」という言葉からきている。日本語でいえば、「牧野」さんという感じである。柔らかなイメージで、親しみやすい名前であった。
15  デューイといえば、アメリカSGI(創価学会インタナショナル)のニューヨーク文化会館は、彼がいつも講演に訪れた、ゆかりの建物である。デューイは、九十二歳まで生き抜いて、執筆に、講演にと最後まで旺盛な情熱で戦った。
 晩年、あるインタビューで、″不安で、問題の多い世界にあって、あなたは、どう生きてきましたか?″という質問に、博士は、こう答えている。
 「私の人生哲学は本質的には単純な言葉だが辛抱強く頑張る」(鶴見和子『デューイ・こらいどすこおぷ』未来社)である、と。
 「辛抱強く頑張る」――一歩ずつでもいい、粘り強く、前へ進み続けることである。
 年をとったからといって、遠慮したり、退いては敗北である。
 会社には「定年」があるかもしれないが、人生には「定年」はない。いわんや信心に「定年」や「引退」はない。
 仏法の世界は「三世永遠」であり、その功徳は「不老不死」と説かれる。法華経の薬王品に「若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」(開結六〇六㌻)とある。
 ″もうこれでいい″というのは信心ではない。永遠に「本因妙」の信心で生き抜くのが、日蓮大聖人の仏法である。
 私も戦う。これからも日本中、世界中を回る決心である。「これから」が、私の本当の戦いである。
16  「新しい中国」に命を捧げた無数の英雄
 第一次世界大戦後、日本と中国の両方を訪れたデューイが、日本を批判し、中国を支援したことは、まぎれもない卓見であった。
 これについては香港でも論じた。(九七年二月、中国・吉林大学の名誉教授就任式での謝辞)
 私は、もう二十年以上前、北京の人民大会堂で中国の首脳に語った。「中国は、これから必ず、偉大なる発展をされるでしょう。日本など問題ではなくなるでしょう」と。当時は、日本と中国の経済の差は極めて大きかった。
 しかし、今や中国の発展はすごい。毎年の経済成長率は一〇%前後。アメリカとの貿易でも黒字国になり、このままの勢いだと、今年中に中国の「対米黒字」は、日本の「対米黒字」を追い抜くだろうと言われている。
 世界経済の″地図″は劇的に塗り替えられていく時代に入った。
 忘れてならないことは、こういう「新しい中国」をつくるために、祖国のために命を捧げた無数の英雄がいたことである。
 侵略され、踏みつけられ、侮辱され続けた祖国。その祖国を自力更生して、「絶対にバカにされない強国にしてみせる!」と立ち上がった人々がいた。私どもは、その心情が痛いほど、よくわかる。
 たとえば、中日友好協会の初代会長・廖承志りょうしょうし氏であり、氏の父君である。父君は廖仲愷ちゅうがい氏(一八七七年〜一九二五年)。近代中国の父・孫文の盟友である。第四次訪中の際、廖仲愷氏らが眠る立派な墓所「廖りょう」を訪れたことが懐かしい。
17  廖仲愷氏――大切なのは精神だ
 命をかけずして、偉大なものはできない。父(廖仲愷氏)は、獄中で死を決意し、子どもたちにこう書いた。
  女(=娘・廖夢醒)よ悲しむ勿れ 児(=息子・承志)よく勿れ
  阿爹あた(=父)は去りて帰るを言わず
  阿爹の喜ぶを欲すれば
  阿女よ阿児よ身体を惜しめ
  阿爹の楽しむを欲すれば
  阿女よ阿児よ苦学に勤めよ
  阿爹の苦楽は前と同じ
  ただかり(=残り)の従前の一躯殻いちくかく
  躯殻は本これ臭皮嚢しゅうひのう(=肉体)
  百歳かならず当に溝壑こうがくつべし
  人生最も重きはこれ精神
  精神は日に新たに
  徳は日に新たなり
  尚お一言の須く記し取るべき有り
  りゅうせよ汝 哀れみ思いて母親につかうることを
   (『中国歴代家訓選』永井義男編訳、徳間書店)
 ほぼ、次のような意味になろうか。
18   娘よ、悲しむな。息子よ、嘆くな。お父さんが去って帰ってこないことを。
  お父さんを喜ばせたいなら、娘よ、息子よ、体を大事にしてほしい。
  お父さんの気持ちを楽にしたいと思うなら、娘よ、息子よ、勉学に励んでほしい。
  お父さんのほうは、前と変わりはない。体も相変わらずだ。(これから処刑されるだろうが)
  肉体なんて、もともと汚物を容れた袋にすぎない。百年のうちには必ず野山や道に捨てられるものだ。
  人生にとって一番大切なのは、精神だ。精神は日に日に新たになっていく。徳も日に日に新たになる。
  最後に、もう一つ、書いておくことがある。心して、お母さんを大切にして、お母さんに仕えてほしいのだ。
 わが子に遺すもの――それは、わが「精神」。
 革命家の父親は、息子に「志を承ぐ」という意味で、「承志」と名づけたと言われている。
 その名の通り、父の精神を継承し、廖承志氏は周総理と一体の活躍をした。私と周総理との会見にも同席してくださった。
 初めて北京を訪れた時、まっ先に迎えてくださったのも氏であった。何度も何度も語り合った。永遠に忘れ得ぬ方である。(廖仲愷氏は、この家訓を遺した一九二二年は助かったが、三年後、暗殺された)
19  贈る遺産は「秋を春に変える」精神
 新中国の土台となった革命家の一人に藍蔕裕らんていゆう氏(一九一六〜四九年)がいる。
 獄中で処刑される直前に息子に、遺言の手紙を書く。そこには、「父として、何を子どもに遺すか」が記されている。
  今夜
  我はなんじと永別せんとす
  街に狼犬満ち
  地に荊棘けいきょく遍し
  なんじに給するは什■なんの遺産か
  我が孩子がいし
  今後
  なんじの秋天を変じて春天と為すの精神を用いて
  祖国の荒沙を
  耕種こうしゅして美麗の園林と成し為さんことを願う
   (前掲『中国歴代家訓選』)
20  わかりやすく紹介すると――。
  息子よ。今夜、お父さんは君と永遠の別れをする。
  街には、凶暴な狼があふれ、地には茨がはびこる。(革命を弾圧する連中が数多くいるという意味)
  息子よ、君に与えるのは、何の遺産か。
  わが息子よ、これからは、君の『秋』をも『春』に変える精神をもって、祖国の『荒野』を耕し、『うるしい緑の園』に変えてほしいのだ。
21  お父さんが贈る遺産は何か。それは、物質でも財産でも、位や名誉でもない。「精神」こそを贈る――と。冷たき「秋」をも「春」に変える熱き魂を、君に贈りたいのだ、と。
 こういう人々が立ち上がって、諸外国に荒らされた中国の「荒野」を、「緑の園」へと変えてきたのである。長い間、虐げられてきた国が今、堂々と大発展を始めた。私は、その姿が、本当にうれしい。
22  「精神の力」がどうであるか。そこに、すべてがかかっている。表面の動きや数字だけを見ていたのでは、絶対に、わからない。
 だれにも頼らない。何ものにも屈しない。わが道を行く。生きて生きて生き抜いていく。「新しき中国」の陰には、こうした「新しき人間」がいた。この「精神」があるかぎり、これからも中国は発展するに違いない。
 日本は、どうか。必要なのは「新しい人間」である。人間の次元からの「変革」である。それを現実に進めているのは創価学会しかない。「無限の精神の富」をもつ創価学会――世界の良識が、私どもに期待しているのである。
23  人生の成功とは何か。真の「成功者」とは、だれなのか。有名人や、高い地位の人であっても、年とともに、みじめに老いていく人生もある。心のむなしさに苦しんだまま、孤独に死んでいく、わびしい一生もある。
 「成功とは何か」。イギリスの思想家、ウォルター・ペーター(一八三九年〜九四年)は言っている。
 「いつも炎のように燃えていること。宝石のような、この激しい炎をもって、いつも感動にうちふるえて生きていること。これこそが人生における成功である」(評論「ルネサンス」から)
 いつも生き生きと燃え続けている人。その人こそが、「人生の成功者」なのである。私どもでいえば「信心」の炎であり、「広宣流布」への情熱である。
 つまり成功とは、自分の生活の「質」を変えることであり、「量」を増やすことではない。
 財産、地位、名声、知識――それらは、どんなに増やしても、所詮は自分を幸福にしてはくれない。また、死後までもっていけるものでもない。
 自分の人生の「質」を高める――そうしてこそ、はじめて人間は幸福に近づくのである。
24  仏法は「生も歓喜」「死も歓喜」の軌道
 本日は、全国の儀典部の代表も参加されている。日ごろからの尊いご活躍に、心から感謝申し上げたい。
 日蓮大聖人は、長く病床にある夫をもつ婦人の門下を温かく励まされている。「ご主人は、成仏の軌道に入ったのだから何も心配ありませんよ」と。御本仏の大慈大悲である。
 「励まし」が大切である。励ましは「慈悲」の表れである。
 大聖人は仰せである。
 「ただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん
 ――もしも今、霊山にまいられたならば、太陽が昇って、十方の世界を見晴らすように、うれしく、『早く死んでよかった』と、お喜びになられることでしょう――。
 見わたせば、世界はすべて輝きわたっている。ああ、何と素晴らしい、何とうれしいことか――そうなるのだよと仰せである。
 まさに「生も歓喜」「死も歓喜」である。(一九九三年九月、ハーバード大学での講演「二十一世紀文明と大乗仏教」で仏法の「歓喜の生死」観を論及。本全集第二巻収録)
 「中有の道にいかなる事もいできたり候はば・日蓮がでし弟子なりとなのらせ給へ」――中有ちゅうう(臨終から次の誕生までの間)の道にあって、どんなことが起きようとも、『私は日蓮の弟子である』と名乗りなさい――。
 「法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん・日蓮が弟子となのらせ給はば・いかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし
 ――(日蓮は)法華経を信ずることにおいては、世界第一の聖人です。その名は十方の浄土にも聞こえています。必ず天も地も知っているでしょう。(ゆえに)あなたが『日蓮の弟子である』と名乗られるならば、どのような悪鬼であろうとも、よもや知らないとは言わないであろうと、確信しておかれるがよい――。
 十方、すなわち全宇宙には、地球のような星も何十億、何百億以上、あるに違いない。その全宇宙を貫く根本の法が妙法である。ゆえに、たとえ亡くなって、どこに行こうとも、また次に生まれる途中においても、日蓮大聖人の弟子ならば守られないはずがない。安心して、永遠に遊戯していけるのである。
 儀典部の皆さまは、故人が「成仏の軌道」を安心して歩みゆくために、真剣に祈り、唱題してくださっている。心から感謝申し上げたい。どうか、儀典部の方々ご自身が、健康で長生きしていただきたい。
25  迫害者は必ず後悔する
 最後に有名な「如説修行抄」の一節を拝したい。
 「哀なるかな今・日本国の万民・日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上・今日は身の上なれば日蓮並びに弟子・檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし
 ――哀れなことだ。今、日本国の民衆は、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっているのを見て、喜んで笑っているが、『きのうは人の上、きょうはわが身の上』であるので、日蓮と弟子檀那等が受けている、この苦しみも、霜や露が朝日に当たって消えてしまうように、わずかの間の辛抱である――。
 「只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値わん時我等何計いかばかり無慚と思はんずらん、汝等何計いかばかりうらやましく思はんずらん
 ――私たちが、ほどなく仏果を得て寂光の本土に住み、『自受法楽』すなわち『みずから法楽を受ける』境涯を楽しむ時に、あなた方(今まで笑ってきた人々)は阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのである。その時、私たちは、その姿を見て、どんなにかわいそうに思うことであろう。また、あなた方は私たちを見て、どんなにうらやましく思うことであろう――。
 ″迫害者は必ず後悔する。「しまった」と思う″と、仰せなのである。
 「一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ
 ――一生は、束の間に過ぎてしまう。だから、いかに三類の強敵が重なろうとも、ゆめゆめ退する心があってはならない。恐れる心があってはならない――。
 この御本仏の教えを確認して、記念のスピーチを結びたい。長時間ありがとう。
 サンキュー・ソー・マッチ。全国の皆さまの健闘に心から感謝します!

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