Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回沖縄最高会議 信心があれば、そこが常寂光土

1997.2.23 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  このほど、モスクワ大学から、大学の″重宝″である『トルストイ全集』九十巻をいただいた。ちょうど私の生まれた年(一九二八年=トルストイ生誕百年)から、三十年かかって刊行された。″もう二度とできない″と言われた大事業であった。
 さて、トルストイというと、「いつも深刻な難しい顔をしている」イメージがあるかもしれない。しかしじつは、よく笑う人だった。
 トルストイと文通していたマハトマ・ガンジーも、歯のない口をあけて、いつも、にこにこしていたという。一流の人物は、たいてい、いつも上機嫌なものである。
3  トルストイの息子の一人(イリヤ)が幼いころのことである。
 ある日、少年は、前からほしかった立派な「コップ」と「皿」をもらった。うれしさのあまり、人に見せたくてたまらなくなり、夢中で駆け出した。ところが、部屋と部屋の間に高い″しきい″があった。少年は、それにつまずいた。転んでコップを落とし、こなごなにしてしまった。
 少年は大声で泣いた。母親が「お前が不注意だからだ」と叱ると、彼は怒り出して、涙をこぼしながら、こう言ったのだった。「ぼくのせいじゃないよ。建築家のせいだよ! なんで、こんなところに『しきい』なんか作っておいたんだ!」
 トルストイは、これを聞くと、大声で笑った。そして、いつまでも、この言葉を忘れなかった。
 この事件以来、家族のだれかが自分の失敗を「他人のせい」にして弁解しようとすると、トルストイは、にこっと笑って、「『建築家のせい』かね?」と言うのだった。
 たとえば、別の子どもが成績の悪いのを「先生の教え方が悪かったから」と弁解した時。父(トルストイ)は、「なるほど、『建築家のせい』なんだね?」と。
 また森へ行って、うっかり馬を沼地へ乗り入れ、「こんな所に沼地があるなんて、だれにも聞かなかったからだ」と言った時。あるいは、馬から落ちて、「馬の係が鞍をよく締めておかなかったからだ」と文句を言った時。そんな時、トルストイは、いつも、にこっと笑って、こう言った。
 「そうだろう。そうだろう。『建築家のせい』なんだね?」
 そう言われると、皆、顔を赤くして、下を向いてしまうのだった。
 (トルストイの子息セルゲイ・トルストイの回想から。八住利雄編『トルストイ人生叢書 魂の書』六藝社。参照)
4  子どもが「しきい」につまずいた話であれば、だれでも笑うかもしれないが、じつは、こんな例は、大人にも実に多い。
 商売がうまくいかない――「それは、あの人が金を貸してくれなかったせいだ」。地域の広宣流布が、なかなか進まない――「あの幹部が戦わないせいだ」。夫婦げんかしては、「ああ、もっと妻が優しくしてくれれば、おれも、頑張るのに」。妻のほうでは、「主人が、もっと頑張ってくれたら、私も優しくしてあげる気になるのに」と思っている。
 また、自分の失敗を「人のせい」にするばかりか、自己正当化のために、他人を攻撃し、陥れようとする悪人も多い。これまで同志を裏切っていった人間も皆、そうであった。
 こういう「だれかのせい」にする生き方は、あっちにふらふらし、こっちにふらふらし、「人間としての勝利」は永遠にない。
5  私はここで勝つ! ここで革命してみせる
 仏法では「一念三千」と説く。自分の身に起こることは、根本的には全部、自分の一念の表れである。トルストイも、このことが言いたかったのかもしれない。
 ひとことで言えば、「言いわけをするな」という真剣勝負の生き方である。
 「真剣」で首をはねられたあとで、何を言いわけしようとも無駄である。どんな立派な言いわけをしようとも、負けは負けである。ゆえに、「自分のいる、その場で勝て。断じて勝て」――これが「本有常住」を説く仏法の生き方と言える。
 極言すれば、牢獄に入れられようとも、その場で厳然と戦い、信念を貫いて死んでいく人生である。何があろうとも、その場で革命していく。勝利していく。それが「法華経」の行者である。
 日蓮大聖人は、佐渡への流罪を機に、「御本尊」を建立された。戸田先生は、獄中で悟りを開かれた。最悪・最低の場所を、最高の場所へと革命されたのである。その場で、「自己自身に生きて」勝利されたのである。
 ″祈りとして叶わざるなき″「事の一念三千」の御本尊である。絶対の力ある題目である。題目をあげ抜いて、状況が変わらないはずがない。壁が破れないはずがない。広布と人生の戦に勝てないはずがない。強き信心あるかぎり、常に、自分の今いるその場所を寂光土としていけるのである。本年も、社会は不況が続くと見られている。広宣流布の旅も、「二十一世紀の山」に登りきる重大な坂にかかる。心して「一切を勝利せよ」「信心で勝利せよ」と申し上げておきたい。
6  仏の使いを迫害する社会は滅ぶ
 大迫害のなか、佐渡での日蓮大聖人は、どういう御心境であられたか。その一端を学ぶ意味で、「経王御前御書」を拝したい。
 経王御前とは、四条金吾の娘であり、大聖人が名づけ親であられたと考えられている。「経王」とは「一切経の王」である「法華経」のことである。
 信頼する門下の四条金吾に、大聖人は、こう仰せになられた。
 「今の代は濁世と申して乱れて候世なり、其の上・眼前に世の中乱れて見え候へば皆人今生には弓箭の難に値いて修羅道におち後生には悪道疑なし
 ――今の時代は、濁世といって(人の命などが濁り)乱れた世である。その上、世の中が乱れているのは眼前の事実であるので、人は皆、今世には弓と矢の難(戦乱の苦しみ)にあって、(争い合う)修羅道に堕ち、後生には(地獄・餓鬼・畜生界という)悪道に堕ちることは疑いない――。
 「而るに法華経を信ずる人人こそ仏には成るべしと見え候へ
 ――しかし、法華経を信ずる人々こそ仏に成ると経文には説かれている――。
 「御覧ある様にかかる事出来すべしと見へて候
 ――ご覧のように、このようなこと(自界叛逆難=内乱、他国侵逼難=他国からの侵略など)が起こるのは、経文に説かれた通りである――。
 「故に昼夜に人に申し聞かせ候いしを用いらるる事こそなくとも科に行はるる事は謂れ無き事なれども、古も今も人の損ぜんとては善言を用いぬ習なれば終には用いられず世の中亡びんとするなり
 ――だから、昼に夜に、人々に言い聞かせていたのに、(その警告を)用いられないだけならばともかく、罰せられるとは、理不尽なことである。しかし、昔も今も、人が滅びていく時は、善言を用いないものであるから、(私の言葉も)結局、用いられないで、世の中は滅びようとしているのである――。
 「是れひとえに法華経・釈迦仏の御使を責むる故に梵天・帝釈・日月・四天等の責を蒙つて候なり
 ――これは、ひとえに、法華経ならびに釈迦仏の御使いを迫害するゆえに、梵天・帝釈・日天・月天・四天等の諸天善神の責めを(日本が)受けているのである――。
7  正法を「毀らん人には弥よ申し聞かすべし」
 「又世は亡び候とも日本国は南無妙法蓮華経とは人ごとに唱へ候はんずるにて候ぞ、如何に申さじと思うとも毀らん人にはいよいよ申し聞かすべし、命生て御坐ば御覧有るべし
 ――また、たとえ今の世が滅びても、必ず日本国は、人々が口々に南無妙法蓮華経と唱えるようになっていくのである。どんなに(題目を)唱えまいと思っていようとも、(そのように妙法を)そしる人には、いよいよ言い聞かせなさい。もし、生きておられるならば、(これからの世の成り行きを)ご覧なさい――。
 「又如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し
 ――また、いかに(南無妙法蓮華経と)唱えても、日蓮に敵対した人々は、必ず、まず無間地獄に堕ちて、無量劫を経て(その罪をつぐない)、しかる後に、日蓮の弟子となって、成仏するのである――。
 御書は、あらゆることの本質を映し出す「明鏡」である。
 大聖人は、″仏の使いを迫害する社会は、諸天善神の怒りにふれて、必ず滅ぶ″と断言されている。そして、″どんなに世が乱れようとも、たとえ世が滅びゆこうとも、必ず、妙法が広宣流布することは疑いない。いよいよ、この妙法を語りに語っていきなさい″と仰せになっている。
8  今も、まさに乱世である。何の基準も、何の展望も、希望もなくなってきている。何が幸福で、何が不幸かも、わからない。しかし、仏法だけは間違いない永遠不滅の法則である。信心し抜いた人は、絶対に幸福になっていく。
 苦労があり、悩みがあっても、全部、変毒為薬(毒を変じて薬となす)できる。そして頑張った分だけ、生々世々、無上の幸福を満喫しゆくためのエネルギーとなり、今世の楽しき思い出となる。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
 ――すべからく、一心に南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めなさい。それだけが、人間として生まれた今世という一生の思い出となるのです――。
 ゆえに私どもは、御本仏・日蓮大聖人の御使いとして、「いよいよ」また「いよいよ」の信心で、誉れある人生勝利の道を、最高に朗らかに進んでまいりたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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