Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8回本部幹部会 「広布の人生」ほど美しいものはない

1997.2.8 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  今から二十八年前、昭和四十四年(一九六九年)の夏季講習会の時である。
 講習会に参加した数千人の同志の前に、凛々しき羽織と袴の女子学生の有志が登場した。力強い和太鼓に合わせて、情熱みなぎる歌を、にぎやかに披露してくれた。その光景は、今も私の心に焼きついている。一生、忘れることはできない。
 「一生懸命の人」は美しい。「真剣な人」は健気であり、また美しい。そういう人のことを、私は決して忘れない。
 つい先日、私は、その方々が今、どうしているか調べてもらった。当時、二十歳前後だった彼女たちは、今、充実の四十代。婦人部の中核として、折伏をはじめ、ありとあらゆる学会活動に、はつらつと取り組んでおられるという。
 皆、地域の柱となり、一家の太陽と輝いて、生き生きと人生を生きておられると、うかがった。それを聞いて、私は本当にうれしかった。
 女性の幸福は「四十代から」で決まる。若き二十代や三十代で決まるのではない。これが戸田先生の結論であった。また、トインビー博士も、そう結論しておられた。
 その時のための「青春時代の信仰」である。その時に勝つための信心である。人生の総仕上げで、本当に幸福になるための青春時代の信仰なのである。この″最高の青春″を教えているのが創価学会である。
3  革命の女性ローザ・ルクセンブルクの不屈の人生
 二十八年前、彼女たちが歌った歌は、題して「折伏のローザ」。ローザとは、ローザ・ルクセンブルク(一八七〇年〜一九一九年)のことである。今世紀初めにドイツなどで活躍した、世界的に有名な女性革命家であり、経済学者・教育者でもあった。
 きょうは、ドイツからもSGI(創価学会インタナショナル)の友が参加しておられる。
 彼女については、これまでも何度か語ってきた。人間の真髄の生き方、女性の真髄の生き方を貫いた人だからである。
 彼女の不屈の人生は、仏法にも通じる。
4  彼女は幾度も投獄された(わかっているだけで五度)。それでも「平和」と「人間解放」の信念に生ききった。
 獄中生活は、合わせて、ほぼ四年に及ぶ。牢獄に四年間――それがどれほど過酷か。普通なら一日でも耐えがたいのが、牢獄というところである。
 一九〇六年三月、ポーランドのワルシャワで三十代半ばの彼女は再び投獄された。
 誕生日も牢獄で迎えた。(一人用の)独房に、何と十数人が、すし詰めにされた。
 権力は、あまりにも残酷であった。絞首台が置かれている屋外へ、目隠しをされて連れていかれたこともあった。
 肉体的、精神的な圧迫は激しく、彼女は病気に侵(おか)され、髪の毛も白くなってしまった。しかし、それでも彼女の「心」は赤々と燃え続けた。
5  彼女に比べれば、私たちの広宣流布の革命は、あまりにも恵まれている。それなのに、不平を言ったり、つまらない中傷に紛動されたり――それでは、あまりにも、情けない。
 彼女の最期は虐殺であった。(一九一九年一月、ドイツ革命のさなか、反革命軍によってベルリンで殺された)
 最も正しい人間が、悪人から最も迫害される。これが歴史の常である。また仏法の世界の方程式である。
 御書には「此の世界は第六天の魔王の所領なり」と仰せである。権力の魔性が支配している。
 大聖人御自身も、生涯、権力悪と命をかけて闘争された。「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と。
 私も広宣流布に身を投じて以来、迫害は、もとより覚悟のうえである。妻との結婚の時も、その決意を確認し合った。
6  リーダーは″皆の心″を軽やかに
 獄中のローザのもとに報告が入った。″革命組織が混乱し、皆の勇気や決断が薄れている″と。
 すると彼女は、こう叫んだのである。
 「そこへ一刻も早く行きたいものです!……私なら百雷を響かせて人々を一ぺんにめざめさせてやるのですが!」(パウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク』伊藤成彦訳、東邦出版社。以下、ローザの言葉は同書から)
 私が行けば、いかなる戦いも勝ってみせる! 自分が渦を巻き起こしてみせる!――すごい決心である。
 「一人」で決まる。「あの組織が弱い」「あの人が動いてくれない」と嘆いたり、他に責任を押しつけているうちは何も変わらない。
 リーダーが一人、「私がやります!」と決意することである。その決意で、自然のうちに皆の心も炎と燃えていくのである。
 ゆえに、ローザは言い切った。「″大衆への絶望″などというのはいつでも政治指導者として失格の証拠です」
7  彼女は獄中にあっても、人々を励まし続けた。ある人には「私があなたを支えてあげます。誰も私を倒すことはできません……私の心の中には動揺のかけらもないのですから」と手紙を書いている。
 「獄中から」励ます――普通は「獄中の人を」励ますものである。正反対であった。強き、また強き女性であった。
 また、ある人には、こう書いて励ました。
 「どんなことがあろうとも、心を落着け、明るい気持でいましょう(中略)勇気をだし、あきらめることなく、そしてほほえみながら――どんなことがあろうとも」
 この余裕。この大きさ。普通であれば、こんな時、人のことまで考えられないであろう。しかし、彼女は強かった。
8  真のリーダーは、いばらない。
 「自分には厳しく」「友には温かく」
 「自分は真剣勝負」「皆の心は軽くしてあげる」
 「まず自分が動く」「皆は優しく励ましてあげる」
 「自分が率先して苦労する」「皆の疲れを取ってあげる」
 「自分が魔と戦い、叫びきっていく」「皆には安心を与えていく」
 これが仏法の指導者である。
 自分が動かずして、人は動かない。上から一方的に押しつけるような独りよがりは、絶対にあってはならない。
 私たちは学会家族である。上も下もない。皆、御本尊のもとに平等である。ゆえに、現実に広宣流布のために苦労している人が偉い。
 リーダーは、自分自身が希望に燃えて、人生を生き生きと楽しむことである。会合でも、深々とおじぎして、「皆さま、ようこそいらっしゃいました!」と、周りの人が目を見張るくらいの、はつらつたる振る舞いをお願いしたい。
 皆の「心を軽く」し、「足どりを軽く」してあげていただきたい。
9  第八回本部幹部会、第二十一回九州総会、第八回埼玉総会の開催、おめでとう! 皆さんは勝ちました! 本当によく戦われた。
 海外からは二十一カ国・地域のSGIの方々が参加されている。青森、山形の代表、県長会のメンバーも、ご苦労さま。他にも、中野兄弟会、地域部、農村部、教育部、白樺グループ、「無冠の友」(新聞配達員の友)の代表も晴れやかに集われている。
 また、今回から衛星中継が開始された沖縄の「沖縄国際平和会館」、兵庫の「神戸中央文化会館」の皆さま、本当におめでとう!
10  「私には何の惑いもありません」
 ここで、第二東京の素晴らしい「宝寿会」の一人のご婦人を紹介させていただきたい。(宝寿会は、全国では多宝会あるいは錦宝会)
 その方の名は、青梅区の安楽花子さん。生まれは、東京の港区(明治四十二年〈一九〇九年〉生まれ)。今年、八十八歳。米寿を迎えられた。今も、はつらつと広布の庭で活躍しておられる。
 安楽さん――いいお名前である。法華経の「安楽行品」の「安楽」でもある。住んでおられる「青梅」の名もいい。第二東京には、「梅坪」や「秋川」など、いい地名がたくさん残っている。
 弁護士であったご主人のご実家は、鹿児島の島津藩の有力士族であった。凛々しき紳士であったご主人に早く先立たれたあと、安楽さんは一人、毅然と生き抜いてこられた。
 入信は、昭和三十三年(一九五八年)の三月。戸田先生のご逝去の直前であった(逝去の九日前)。この春で、入信四十年目となられる。
 これまで、お一人で、六十世帯を超える折伏を実らせた。また「私は、役職も、功徳もいりません。私が折伏した方たちに、みな差し上げます」と言って、黙々と進んでこられた。その姿は、皆から「折伏の王者」と賛嘆されている。
 いつも、すっきりして、愚痴ひとつない。「信心して四十年、私は、何の悔いもありません。何の惑いもありません」とも言われていた。
 社会的地位でも役職でもない。こういう方々こそが、学会を支えてくださっているのである。高い地位になっても、「忘恩」のゆえに堕ちていく人間もいる。
11  安楽さんの祈りは、まことに美しい。
 「私は″広宣流布の婦人部長″として戦います。だから御本尊様、金剛不壊の信心にしてください」――毎日、こう祈ってこられた。
 その安楽さんは、十数年前から、目が不自由になられた。それでも、けなげに弘教を続けて、身近な何人もの方々を今でも仏法に導いておられる。
 どんなに曇っていても、雲を突き抜けた天空には、太陽が輝いている。月の光が輝いている。
 それと同じように、安楽さんの胸中には「心眼」――つまり「心の眼」が輝いておられるにちがいない。
 思えば、釈尊の十大弟子で「天眼第一」と言われた阿那律あなりつ尊者は、厳しい修行のために失明した。
 しかし、肉眼の光を失ったかわりに、「三千大千世界」をいっぺんに見通していける「天眼」を開いたと経典にある。そして法華経では「普明如来」――全宇宙を(妙法の光で)あまねく照らしていく仏――になると約束されている。
 安楽さんも同じである。広宣流布一筋に生き抜いて、学会を守るために、尊い真心を尽くしてくださった。大功労者であられる。
 いくつかの和歌も詠まれている。その一つに、こうある。
  
  師と共に
   ひとたび決めた
       道なれば
     ゆくまで戦う
        広布の庭に
  
 「ゆくまで戦う」とは、「逝くまで戦う」という意味であろう。これが学会精神である。本当の「菩薩」である。
12  御聖訓「妙法の女性を四菩薩が守り抜く」
 こうした「一生懸命の人」を、私は最大にたたえ、励まし、永遠に守って差し上げたい。そして、後世の歴史に厳然と残していきたいと決意している。
 大聖人は仰せである。
 「此の良薬を持たん女人等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立そひて・此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ
 ――この妙法の良薬を持った女性等を、上行菩薩をはじめとする四人の大菩薩が前後左右に立ちそって(守り)、この女性が立たれたなら、この大菩薩たちも立たれ、この女性が道を行く時には、この大菩薩たちも、その道を行かれるのです――。
 そのように、瞬時も離れず、妙法を持った女性を守りに守ると、約束されている。その人は、三世永遠に「常楽我浄」の黄金の大境涯に包まれゆく方である。こういう方々が、学会には数限りなくおられる。私は、尊き多宝会の方々の代表として、また、後に続くであろう多くの婦人部の方々の代表として、安楽さんに申し上げたい。どうか、いついつまでも、お達者で! お元気で! お幸せに!
13  牧口先生――青年を尊敬、青年よ自在に!
 第二次大戦中の昭和十七年(一九四二年)四月、東京に空襲が始まったときのことである。
 牧口先生(初代会長)のもとに、空襲の被害を心配する便りが届けられた。鹿児島出身の一教員からである。
 かつて牧口先生の薫陶を受けた教員であった。当時、信心はしていなかったが、牧口先生に寄せる敬愛は、まことに深かった。
 牧口先生は、真心の見舞いに、さっそく礼状を書かれる。先生は、だれに対しても礼儀を尽くされた。内外を問わず。また知っている人だけでなく、知らない人に対しても。
 牧口先生は丁重に感謝を述べられながら、淡々と、次のように、つづっておられる。
 「おかげさまで、わが家は空襲の通路にありましたが、無事でした。我々の同志の中には、前後左右の家が四軒とも焼夷弾に見舞われた、その中央にありながら、何ともなかったという人もおりました。偶然と思う中にも、数々の実証があり、『必ず守られ安全である』という信念をもっております。この妙法を、いかなる人も『生活の原理』として、自分のものにしていただきたいのです」
 何があっても、妙法があるかぎり大丈夫である――牧口先生の確信である。いささかの迷いもない。牧口先生は、空襲の″破壊″の爆撃のなかにあって、広宣流布という平和の″建設″を、悠然と続けておられたのである。この教員の方は、後に入会されている。
14  思えば牧口先生は、すでに昭和十三年、折伏のため鹿児島まで訪問されている。
 この時、先生は、東京で入会した鹿児島出身の学生たちの両親にもあいさつに出向いて、信仰への理解を深めさせておられた。
 このこまやかな心配り、丁寧さ――この大誠実が根っことなって、学会は大樹となったのである。
 このように、一人一人の青年を大切にし、尊敬して育成していく。これが真の指導者である。冷たい組織主義ではいけない。人間主義でなければならない。
15  青年部に対しては、怒ってはいけない。皆、これからの人である。「自分以上に偉くしよう」――こういう決心で尊敬していくべきである。
 決して見下げてはならない。親分子分のように利用するなどということは、絶対にいけない。
 私は戸田先生に厳しい″訓練″は受けた。しかし、感情で怒鳴られたりしたことは、いっぺんもない。常に、尊敬をもって接していただいた。ゆえに私も先生に尊敬の念で報いた。
 青年を尊敬し、励ましながら、何でも語り合い、教えてあげる。思う存分に力を発揮できるよう、「道」を開いてあげる。
 これが人生の先輩であり、本当の仏法の指導者ではないだろうか。
16  牧口先生は「一人の人」のために、三等の列車の硬い座席に揺られて、何度も九州に向かわれた。老齢の身にもかかわらず――。
 何と崇高なお姿であろうか。その九州から、晴れ晴れと勝利の同志を、牧口先生を記念する大殿堂(東京牧口記念会館)に迎えることができた。牧口先生も喜んでおられると私は思う。
 私は牧口先生に代わって、九州の皆さま方を仏を迎えるがごとく、お迎え申し上げたい。皆さま方の胸に「心の大勲章」を差し上げたい思いである。
17  ユイグ氏――学会は「人類社会の悪化を防ぐ原動力」と
 先日(二月五日)、フランス学士院会員であり、ヨーロッパ最高峰の知性であったルネ・ユイグ氏が天寿を全うされた。享年九十歳であられた。
 「モナ・リザ」をはじめルーブル美術館の至宝を、ナチスから守り抜いた戦いも有名である。
 何度もお会いしたが、本当に素晴らしい紳士であられた。凛々しく知性的な風貌が際立っておられた。
 私の代理が、お悔やみにうかがったところ、ご夫人が、こう語っておられたという。
 「夫はいつも池田会長のことを話しておりました。人生の最後の瞬間を迎えるまで、池田会長のことを思っておりました」
 ありがたいお言葉である。ユイグ氏は私の「精神闘争の盟友」であった。(両者は対談集『闇は暁を求めて』を発刊。本全集第五巻収録)
18  ユイグ氏は、私どもSGIの行動が「人類社会の悪化を防ぐ原動力である」と期待を寄せてくださった。十年前の語らいの折、氏は、しみじみと言われた。
 「歴史の法則からみれば、精神の失われた物質文明は、滅びざるをえません」「今や、合理主義と精神性が結びつかなければなりません。そして再び『生命』の分野から出発しなければならないのです」
 「生命」――これこそ、私どもの恩師である戸田先生が獄中で悟達された「人類の闇を打ち破る光明」であった。
 西暦二〇〇〇年は、この戸田先生の生誕百周年であり、創価学会創立七十周年である。どうか絢爛たる「生命の世紀」の暁を飾っていただきたい。
 風邪を引かれませんように。大切な皆さま方のご健康、ご多幸、ご長寿をお祈り申し上げ、記念のスピーチを終わります。長時間、ご苦労さま!

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