Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表研修会(第4回) 「思いやり」こそ人類に規範

1997.2.2 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  遭難した日本人を救助したロシア水兵
 ドラマは、その二回目の来日の時に起こった。伊豆の下田で、やっと本格的な交渉が始まった時のことである。突然、大地震が下田を襲った。(一八五四年の十一月四日、安政の大地震)
 「マグニチュード八・四」という大地震であった。被害は本州全域に及んだ。大揺れのあと、直ちに津波が襲ってきた。下田湾の水位が十三メートルも持ち上がったほどの、すさまじい津波である。湾内には、プチャーチンはじめロシア人約五百人が、停泊した船に乗っていた。
 船は木造の帆船。右へ左へ、上へ下へ、たたきつけられるように揺れた。
 下田の町は津波を、まともに受けて、一瞬にして壊滅。波が町をなめつくし、家も人も何もかも、さらっていった。湾の中は、破壊された家々が浮かび、流され、泣き叫ぶ人々で、地獄さながらであった。
 怒涛は、湾の中を、ものすごい勢いで循環している。ロシアの船は、三十分間に四十二回も回転した。岩にぶつかりそうになる。積んでいた大砲が動き出して、水兵を押しつぶす。海水が流れこんでくる。湾の中を流されては、また恐怖の旋回が始まった。頭痛と吐き気。生きた心地もない。
3  驚くべきことは、こんななかで、ロシアの船員たちは、日本の民衆を救っていることである。ぐるぐる回る船のそばを、人々が流されてくる。船員たちは、自分が生きるか死ぬかという時に、流されてくる人々に、懸命に救助の手を差し伸べたのである。
 ところが、当時の日本人は、「異人(外国人)と接触してはならない」と教えこまれていた。それで、ほとんどの人が、差し伸べられた手を断り、むざむざ命を捨ててしまった。
 間違った教育の悲劇である。本来、生命以上に尊いものがあるはずがない。
4  ロシアの水兵は、やっと、おばあさん一人と男性二人の計三人を助けた。厚い手当てをして、マッサージで人工呼吸までした。そのうえ、漂流がおさまった後、船の医師団を町に送って、「けが人が出ているのだから、役に立ててください」と申し出たのである。
 このロシア人の人間愛には、幕府の代表であった川路聖謨としあきら(一八〇一年〜六八年)も、ほとほと感心した。
5  「魯人ろじん(ロシア人)は死せんとする人を助け、厚く療治の上、あんままでする也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也」(川路聖謨『長崎日記・下田日記』平凡社東洋文庫)と感想を日記に書いた。ロシア人が民衆を感動させた姿は、恐るべきほどである。心に刻んでおかねばならない――と。
6  船は使いものにならなくなった。しかし、プチャーチンは、へこたれない。すぐに、船の修理を決心し、幕府との交渉も再開した。
 船の修理は、壊滅状態の下田では、できない。他の港では、イギリスやフランスの船に見つかってしまう。ちょうど、クリミア戦争(一八五三年〜五六年)のまっただ中であり、ロシアはイギリス、フランスと交戦中であった。見つかったら攻撃される。そこでロシア側が修理のために見つけてきたのが、西伊豆の戸田村である。今の田方郡にある。戸田先生の戸田と書いて、「へだ」村と読む。幕府の人間さえ知らないような村を見つけてきたのである。
7  被災しながらロシア人を援助した日本の村人
 伊豆半島を東から西へ、ぐるっと回って、戸田村へ向かう。ところが、その途中、またもやロシア船は悲劇に見舞われた。嵐に遭って、難破してしまったのである。(船が座礁したのは十一月二十七日。先の地震から一カ月もたっていない)
 田子の浦(今の富士市)近くの沖合まで流され、やっと錨をおろした。しかし、浸水がひどい。刻一刻と、沈没の危機が迫った。「このままでは、死を待つばかりだ」
 プチャーチンは「決死隊」をつのった。船から陸へロープをわたして、船を引っぱろうというのである。さかまく波にボートをおろし、太いロープを押さえながら、こいでいく――命の保証はない。
 しかし、「私がやります!」と、次々に船員たちが申し出た。
 このありさまを、岸で日本人たちが見ていた。「よし、助けよう!!」
 漁民たちは、決死隊のボートを助け、ロープを引っぱり、ずぶぬれになって、波と闘いながら、船員たちを岸へ引っぱりあげた。
 最後まで、一人、船に残っていたのは――提督のプチャーチンであった。
 彼は、ロープにつかまって岸へ向かったが、波に押し流されそうになった。その時、勇敢な村人が、彼を救うために海へ飛びこみ、助けたのである。
8  村人は、船員たちを厚くもてなした。ある人は大急ぎで、木で囲った納屋をつくってあげる。ある人々は上等なゴザや着物をもっていく。食べものをもっていく。また、何人かの日本人は、目の前で上着を脱ぎ、体の冷えきった水兵たちに着せてあげたのである。それは、幕府(官)がいくら「異人とつき合ってはならぬ」と言っても、とめようがない民衆の人間愛であった。
 一方、この時、幕府の要人の一人は「ロシア人を全滅させる、いい機会ではないか」という暴言を吐く始末だったという。
 しかも、村人たちは、自分たちも地震のために、「無事な家は一軒もない」ほど悲惨な状態だったのである。そんななか、無償でロシア人を救ったことを、プチャーチンたちは、生涯、忘れなかった。
9  戸田村から「近代造船」が幕開け
 船は沈没した。しかし、プチャーチンは、まだ、へこたれない。「船がないのなら、造ろう!」と言い出した。巌のごとき不屈の闘争心である。そして戸田村に着いて、船の建造が始まった。
 人口が三千人しかない戸田村に、五百人のロシア人がやってきたのである。大騒ぎになった。しかも、やはり地震のため、村は、どん底の状態である。しかし、人々はロシア人に懸命に協力した。
 「遠くふるさとを離れ、家族と別れ、はるばると日本まで来て、災難に遭った人々だ。これが見捨てておかれようか」
 国は違っても「働く海の男」の心意気は、似かよっていた。
 幕府は例によって、村人に交際を禁じ、「(ロシア人に物を)もらうな」「やるな(与えるな)」「つき合うな」という三カ条を押しつけた。しかし、村人たちは陰に陽に、ロシアの船員たちを守り、仲良くなっていった。そして、近隣の船大工たちが集められ、「日ロ協力」が進められたのである。
10  約百日で、小型の帆船ができた。これが、「日本で初の本格的な西洋式帆船」の完成であった。
 船大工たちにとって、これは西洋の技術を学ぶ絶好の機会であった。事実、この時に手つだった大工たちの中から、明治の「日本の造船業のリーダー」がたくさん出ているのである。
 (上田寅吉、緒明嘉吉、石原藤蔵、堤藤吉、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門の各氏などが、長崎伝習所や石川島造船所などで活躍した)
 のちに勝海舟は、「これこそ我が国の近代造船の始めである」(「海軍歴史 巻の二」、江藤淳・勝部真長編『勝海舟全集』12所収,
 、勁草書房を参照)と特筆大書している。
 ロシア人との「友情の船」が、のちの「海運大国・日本」「造船大国・日本」の礎だったのである。
 プチャーチンたちは、この「友情の船」に、村の名前をとって、「ヘダ号」と名づけた。進水式の時には、村人が総出で祝った。
 「おれだって、この船を造ったんだ!」と、皆、胸を張っていた。誇りをもって、ロシア人も日本人も一体になって喜んだ。この友情の風景が、日本の「近代造船の夜明け」の風景なのである。
 残念なことに、のちの日本は、この恩義の歴史を忘れていった。恩を忘れるところに、文化はない。
11  造船のことだけではない。民衆と船員のこうした友情を背景にして、幕府の代表とプチャーチンとの外交交渉も、終始、他に例がないほど友好的に進展し、ついに「日露和親条約」が締結されるのである。まさに、「民が官を動かす」――″民衆の友情の波″の上を、国と国との友好の船が進んだのである。
 もともと日ロの交流は、日本の漂流民が、ロシアで日本語学校の教師になるなど、幕府の鎖国政策をよそに、「民間レベル」で進んでいた。この人々は、無名にして偉大なる″友情の英雄″であった。
12  縁の歴史・伊豆は新時代の電源地
 のちにプチャーチンは、遺言で、戸田村に百ルーブルを寄贈した。忘れ得ぬ友情の故郷であった。プチャーチンから繰り返し話を聞いていたのだろうか、彼の娘のオリガは――彼女は皇后付きの女官でもあった――明治二十年(一八八七年)に、はるばる戸田村を訪れ、謝礼金を置いて帰っている。ひとたび受けた「恩義」は忘れない一家であった。その後も、ロシア人のひ孫や親戚が戸田村を訪れ、村人との交流は現在でも続いている。
13  ドラマの舞台は伊豆であり、そのひとつは下田であった。伊豆そして下田は不思議な天地である。新しい時代の夜明けに、ゆかりが深い。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝も伊豆に流され、伊豆で挙兵した。彼は熱心な法華経の信者であった。日蓮大聖人御出現の前であり、″文上の法華経″ではあったが――。
 吉田松陰は、近代の″夜明け前″、下田沖から海外渡航に挑戦した。安政元年(一八五四年)、金子重之助とともに、小舟で米艦に乗り込むが、密航に失敗。幕府に逮捕される。
 松陰は、日蓮大聖人の「権力との戦い」を、そして「民衆との連帯」を胸に刻んでいた。彼の「草莽そうもう崛起くっき」(民衆決起)の思想は大聖人を範としていた。そのことを、自ら書簡に記している。
 そして、言うまでもなく伊豆は日蓮大聖人が流罪された地である。伊豆ではじめて、大聖人は「法華経の行者」を名のられ始めたのである。
 そして牧口先生(創価学会初代会長)は、下田で逮捕された。(一九四三年七月)ここから軍部権力との獄中闘争が始まったのである。戸田先生も下田を訪問され、恩師の死闘を偲びつつ、広宣流布の大構想を練られていた。まさに伊豆は″闘争の電源地″であった。
14  ロシア作家ゴンチャロフ――「立派な人間は、どの国でも共通」
 そこで申し上げたいのは、これからの地球一体化時代においては、日ロの友情のドラマのごとく、苦楽をともにする「人間と人間のつき合い」こそが基本であるということである。
 世界は多様である。文化も違う。価値観も、暮らしも違う。決して、単純に「世界はひとつ」ではない。その多様性を尊重しながら、ともに栄えていくには何が必要か。
 それは、唯一最大の共通点である「人間」という一点を拡大していく以外にない。
15  「人間として」立派か、否か。
 プチャーチンについて、幕府の代表である川路聖謨は、こうたたえた。
 「思えば、プチャーチンは、国(=ロシア)を出ること、すでに十一年。家をへだてて一万里余り。波の上を住みかにして、自分の国のために心をつくしている。いくたびも日本へ来て、しかも津波にあい、船を沈め、それでも、臆することなく、また船をつくり、仕事(=条約の交渉)に取りかかる。
 (=日本の役人である)自分などの苦労よりも、十倍といおうか、百倍といおうか、実に自分などに比べれば、真の豪傑である」(前掲『長崎日記・下田日記』から。要旨)
 一方、プチャーチンのほうも、川路を「ヨーロッパのどんな社交界に出しても一流の人物であろう」(前掲『ペテルブルグからの黒船』)と、たたえた。
 プチャーチンとともに来た、有名な作家ゴンチャロフ(一八一二年〜九一年)も、こう書いている。
 「川路は非常に聡明であった。(中略)明知はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違ひ、人生観までも違ってゐても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」(『日本渡航記』、井上満訳、岩波文庫)
 「人格」は万国共通である。「英知」は世界共通である。
 ゆえに、これからの世界大航海時代には、「人格」を磨いた人が真の国際人となる。そして、人間主義の「英知」を全身にみなぎらせた若者こそが、時代の創造者となろう。それこそ、私が青年に期待する成長である。
16  日本とロシアの「友情のドラマ」が繰り広げられている、ちょうど同じ時、かのロシアの文豪ドストエフスキー(一八二一年〜八一年)は、シベリアにいた。
 秘密警察によって逮捕され、シベリアの刑務所で四年、そしてシベリアの軍隊で兵役につかされた。その苦しみのなかで、彼は何を考えていたのか。それは、「全人類よ、ひとつになれ!」ということであった。
 彼は言う。「他人に対してもっとやさしく、もっと気を使い、もっと愛情を持つことです。他人のために自分を忘れること、そうすればその人たちもあなたを思い出してくれます。
 自分も生き、他人をも生かすようにする――これがわたしの信条です! 堪え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て――これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです!」(「スチェパンチコヴォ村とその住人」小沼文彦訳『ドストエフスキー全集』2所収、筑摩書房)
 また「思いやりこそは最も重要な、そしておそらくは全人類の唯一の生活の規範なのだ」(「白痴」、同全集7所収)と言っている。
 (日本・ロシアの「友情の秘話」については、和田春樹『開国――日露国境交渉』〈日本放送出版協会〉、高野明『日本とロシア』〈紀伊国屋新書〉、藤野順『日ソ外交事始』〈山手書房新社〉を参照した)
17  人類の「5分の3」はアジア人
 今、「アジア・ルネサンス」と言われるほど、アジアの興隆はめざましい。人口も多く、人類の五分の三はアジア人である。(世界の総人口は現在五十八億人。アジア全域で三十五億人にのぼる)
 「アジア・ルネサンス」の本質は、何か。それは、四百年ほど続いた「西洋的価値観が世界をリードする時代」の終焉であろう。
 といっても、「西洋に東洋がとってかわる」というのではない。西洋も東洋も含めた「地球文明」の時代である。それは、美しい合唱のように、「多様な旋律」「多様な文化」がハーモニーを奏でる時代である。
 それぞれの地域に、かけがえのない文化がある。それらを互いに尊敬しながら、学び合い、互いに豊かになっていく時代である。
18  「友好」――それは簡単な仕事ではない。さまざまな障害がある。思いがけない出来事もあろう。妨害もあるかもしれない。しかし、障害があればあるほど、「だから友好をやめよう」というのではなく、「だからこそ友好を進めよう」という信念が必要になる。それが人間信頼である。人間主義である。
19  「人間」こそ、一切の中心である。私は二十三年前、反対の嵐の中、冷戦下のソ連を初訪問した。
 日本は、反ソ連の風潮が強かった。″宗教否定の国に、なぜ宗教者が″とも批判された。その時に私は言った。「私は断じて行く。そこに人間がいるのだから」――。
 これまでの近代日本は、ある意味で「人間である前に、まず日本人」であった。だからであろうか、他国の人には、いくらでも残酷になれた。
 「日本人に対しては、とてもできないこと」を、アジアの侵略戦争でやってきた。この転倒を正さないかぎり、いくら「アジア・ルネサンスの時代」といっても、″平等に栄えゆく″幸福は、つくれない。
 事実、戦後の日本については「軍事の侵略が、経済の侵略に変わっただけ」という批判もされてきた。これからは「まず人間」でなければならない。
 第一にも第二にも、人間であれ。
 第一にも第二にも、人間としての自分を磨け。その「人間主義」にこそ、世界に通用する根本の道があり、日本が進むべき真の国際化の道がある。
 その人間主義を拡大している英雄こそ皆さまであると申し上げ、本日のスピーチとしたい。

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