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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表研修会(第1回) 君よ挑め!「広布の山」へ

1997.1.31 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  一八六一年の八月。雄大なアルプスの峰マッターホルンに敢然と挑みゆく一人の青年がいた。弱冠二十一歳、イギリスの若き登山家ウインパー(一八四〇年〜一九一一年)である。
 マッターホルンの頂は、ピラミッドのごとく壮麗に天高く、そびえ立っている。標高は四四七八メートル。古来、「魔物が住む山」として恐れられ、「絶対に人間は登ることはできない」と言われてきた。
 数あるアルプスの山々の中でも、最後まで登頂されなかった険難の山である。この前人未踏の峰に、青年は大胆にも挑戦を開始した。しかし、初めての登攀は、あえなく失敗。それでも青年は不屈の負けじ魂を奮い立たせた。
 ″私が山に敗れるか。それとも山が私に敗れるか。決着をつけるまで戦い続ける!″と――。
3  来る年も、また来る年も、青年は険しい山へ勇んで向かった。ある時は、頂上の手前、わずか四百三十メートルにまで迫りながら、足を滑らせて、六十メートルも転落し、重傷を負った。またある時は、落石に襲われ、下山を余儀なくされた。こうして、実に七回にわたって、彼は悔し涙をのんだ。
 しかし、彼はあきらめなかった。巨大な目標に体当たりでぶつかってこそ、青年は、自分の小さなカラを破り、成長していく。
 一八六五年の七月十四日、八回目にして、彼はついに念願の山頂に到達したのである。彼を中心とする一行七人は、晴れ晴れと、勝利の頂上に立った。
 ″私は勝った!! 我らは我らの目標を征覇した!!″二十五歳の青年が成し遂げた快挙であった。
 青年ならば、″自分はこれをやりきった!″と胸を張れる、「青春の栄光の記録」を残していただきたい。
4  青年が動いて「壁」は破れた!
 若き日に、私は地区の役職も、男子部の班長も、一つ一つ、すべてやりきってきた。四十五年前、昭和二十七年(一九五二年)の一月、二十四歳の私は蒲田支部の支部幹事の任命を受けた。
 当時、学会全体の折伏は思うように進まず、戸田先生は「このままでは、広宣流布は何千年もかかってしまう」と嘆いておられた。ゆえに弟子の私が、先頭に立って、折伏の山を登り始めたのである。
 蒲田支部の初代支部長は小泉隆さん(のちの理事長)、初代婦人部長は白木静子さん。
 私は言った。「小泉支部長を日本一の支部長にしてみせます!」と。私は、まず自分が動いた。自分が挑戦した。アパート(青葉荘)の隣人たちにも皆、仏法を語った。
 この折に入信された方々から、今も懐かしい便りをいただく。
 そして任命の翌月の二月、わが蒲田支部は当時の「百世帯」の限界を一挙に打ち破って、二百一世帯の日本一の弘教を堂々と果たしたのである。
 ここから全国に波動が広がり、戸田先生の願業であった七十五万世帯の成就へ怒涛の勢いで前進が始まった。学会興隆の原動力は、永遠に青年の熱と力なのである。
 リーダーは、まず自分が動くことである。自分が自分の目標に挑戦することである。自分がやらないで、人にやらせるのは、ずるい。それでは自分の成仏はない。
 自分が祈り、自分が語り、自分が法を弘めた分だけ、自分の生命を梵天・帝釈が守る。大いなる生命力がわいてくる。智慧と功徳が、慈悲がわいてくる。
5  ところで、マッターホルンの山頂に立った、あの登山家たちは、その下山の途中に転落事故に遭い、一行七人のうち四人もが犠牲となってしまった。栄光の直後の悲劇を、彼は痛恨の思いで振り返っている。
 「一瞬の不注意が、一生の幸福を破滅に陥れる」(ウインパー『アルプス登攀記(下)』浦松佐美太郎訳、岩波書店)と。いわんや、多くのかけがえのない仏子を守る広布のリーダーには、絶対に油断があってはならない。
6  法のため、人のために「一念に億劫の辛労」を尽くせば尽くすほど、仏界という境涯の頂上に近づいていくことを確信していただきたい。
 戸田先生は、広宣流布とは全人類の境涯を最高の価値にまで引き上げ、地球上に真の幸福と平和を実現しゆくことであると教えられた。これほど壮大な、そして永遠に輝きわたる栄光とロマンの峰はない。
 戸田先生とめぐりあって五十年――。私は険難の山また山を、数限りなく踏破してきた。私には悔いはない。
7  「日蓮は日本国の柱なり」
 そして今こそ、「わが門下よ、新たなる世紀の山へ登りゆけ!」と申し上げたい。
8  「我、日本の柱なり」――日蓮大聖人は、繰り返し、叫ばれた。
 「日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ」――日蓮は日本国の柱である。日蓮をなきものにすれば日本国の柱を倒すことになる――と、時の権力者・平左衛門尉はじめ数百人の押し寄せた兵士たちに叫んだ。
 「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦はしらを倒すなり」――(平左衛門尉らに向かっていわく)日蓮は日本国の大将である。私をなきものにするのは、日本国の柱を倒すことである(必ず滅びることになる)――。
 今から七百二十六年前(文永八年=一二七一年)、日蓮大聖人の庵室に、平左衛門尉が数百人の兵士を引き連れて逮捕にやってきた。その裏には、悪僧・良観がいた。
 彼は、大聖人に醜い正体を明らかにされ、乱れた生活を皆に知られた。そして、権威を失墜させられた復讐に、権力者に泣きついたのである。
 また権力者のほうも、自分たちを批判する大聖人の勢力が、どんどん大きくなることに我慢ならなかった。
 蒙古襲来の予言が当たったので、このころ、信者が急速に増えたのである。いわば「この人(大聖人)に、日本の進むべき道を教えてもらうしかない」と。この時、大聖人の言葉に謙虚に耳を傾ければいいものを、権力者は反対に大聖人をなきものにしようとした。
 少人数の大聖人を捕らえるのに、数百人も連れてきたほど、なりふりかまわぬ狂いであった。
9  正義は広がる、″声″の力で
 大聖人は悠々と、大声で叫ばれた。
 「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをす」――ああ面白(おもしろ)い。平左衛門尉が、ものに狂うを見よ! 貴殿らは、ただ今、日本国の柱を倒しているのだぞ!――。
 すると「これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか」――兵隊たちは驚き、あわてて、顔色を変えた。我々は、まちがったことをしているのかもしれない――。
 捕らえられる大聖人のほうが顔色を変えるのでなくて、反対であった。大声で言い切る勇気が、正義には必要である。
 大聖人が叫ばれたごとく、鎌倉幕府はこのあと、急速に衰退し、滅亡していった。平左衛門尉も、一族もろとも滅んだ。
 この時、「ものに狂っていた」平左衛門尉は、ある意味で、すでに仏罰を受けていたとも言えよう。何も正しい判断ができなくなっていたからである。
10  この事件(竜の口の法難・佐渡流罪――発迹顕本)から、ちょうど六百年後(一八七一年=明治四年)、佐渡のある新潟に、牧口先生が生まれた。
 そして、不思議なる仏勅の団体、創価学会を創立されたのである。不可思議のリズムである。
 牧口先生は言われた。「所詮宗教革命によって心の根底から建て直さなければ、一切人事(人間社会に起こること)の混乱は永久に治すべからず」と。
 戸田先生は叫ばれた。「創価学会こそ日本の柱である」と。
 そして今、「世界の希望」となっている。この偉大なる学会とともに生き抜く皆さま方も、また不思議なる方々である。どれほど深き使命があるか、計り知れない。
 その誇りに燃えて、どうか「あの人を見よ、あの模範の指導者を見よ」と慕われる自分自身に成長していただきたい。

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