Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1回全国男女記念幹部会 自覚せよ 栄光の使命を

1997.1.11 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  二十一世紀までの、諸君にすべて託したい
 偉大なる若き指導者に、大いなる期待を込めて、私は申し上げたい。「世界一の創価学会青年部、万歳!」と。健闘を祈ります。
 二十一世紀を、どう迎えるか。どう生き残り、勝ち抜いていけるか。今、世界中の人々が、また、あらゆる団体が、その一点を懸命に志向している。新世紀に、どう勝負を決するか。これからの数年間は、そのための「助走の時代」ともいえる。
 わが創価学会もまた、この数年間で、後継の青年部に広宣流布のすべてを託していく以外にない。全部、青年で決まる。青年が全責任を担っていく時代である。その意味から、二十一世紀へ後継のバトンを受け渡す本日の幹部会の開催、本当におめでとう! ご苦労さま!
 (席上、全世界を代表してアメリカSGIの青年部が日本の青年部に歌声をプレゼントした。その真心に応えて、今度は、日本の青年部の関東吹奏楽団が行進曲「旧友」(タイケ作曲)を見事に演奏した)
 「旧友」――なんと美しい響きか。きょうの幹部会には、日本全国から――九州も北海道も――そして世界からも代表が集っている。会合終了後は、「旧友」と握手し、肩をたたいて、互いの成長をたたえ合うようなひとときを過ごしていただきたいと思う。
2  創価学会は、不思議なる仏意仏勅の団体である。偉大なる哲学を持った一千万の人々が、平和のため、文化のために活躍している。広宣流布という恒久平和へ、仏法の大哲理を根本に進んでいる。世界中で、友の幸福のため、地域の繁栄のために働いている。
 これほど偉大な民衆の団体は他のどこにもない。いまだかつてなかったし、これからも永遠にないであろう。その学会の真実の後継が、諸君である。二十一世紀の本舞台は、すべて諸君のものである。どれほどの重大な使命があるか。
 君たちが思う存分、全世界で指揮を執り、活躍できるように、私は毎日、祈っている。命がけで、その土台をつくっているつもりである。
3  「相対的幸福」の時代は終わった
 人生の真の幸福とは何か。だれもが知っているつもりで、じつはよくわかっていないテーマではないだろうか。
 タイ王国のことわざに、こうある。
 「にせものの幸福は、人を図に乗らせ、醜く、高慢にする。ほんものの幸福は、人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たす」
 非常に単純なようで、非常に深い言葉である。「にせの幸福」とは、外面を飾る幸福である。「ほんものの幸福」とは、自分の中から、内面から涌いてくる幸福である。その究極は、仏界を涌かせていくことである。
 「にせの幸福」とは、より多くのものを「持ちたい」と追い求める幸福である。「ほんものの幸福」とは、より豊かな自分に「変わっていこう」とする幸福である。つまり、人間革命である。
 仏教に縁の深いタイ王国の智慧は、さすがに素晴らしい。
 戸田先生も、絶対的幸福の中にのみ、「ほんものの幸福」があると繰り返し語っておられた。
 「幸福には、絶対的幸福と相対的幸福の二つがある。絶対的幸福を得ることが人生の楽しみであり、人間革命である。すがすがしい信心こそ、断じて幸福になれる秘訣である」(一九五五年八月二十日。『戸田城聖全集』第四巻)など、と。
 「にせの幸福」とは相対的幸福。「真の幸福」とは絶対的幸福――戸田先生は、いつも、ずばりと、ものごとの本質を突いておられた。これまで、日本という国は、ずっと相対的幸福を追いかけてきたといえよう。その結果、多くの人が、日本は「図に乗り、醜く、高慢になった」と見ている。タイ王国のことわざの通りである。これでは未来は、まっ暗である。
 これからの日本は、絶対的幸福、すなわち人間革命を追求していかなくては、真の安定も、平和も、幸福もありえないと私は思う。その変革の先駆者こそ、妙法という大哲学を掲げて戦っている諸君である。あらゆる人々が、歓喜と知恵と慈悲ある人生を満喫していける時代。それを開くのは諸君である。進むべき「道」を知っているのは、私ども以外にはない。
4  自覚せよ! 若さは無限の力と
 「若い」ということは、「無限の希望」「無限の力」「無限の財宝」である。いかなる権力者よりも、富豪よりも、著名人よりも、何千億倍も尊く、偉大であり、幸福である。
 戸田先生はよく、若い女性に「お化粧も何もしなくても、若い人は、それ自体で美しいのだ」と言われていた。私もそう思う。
 二十一世紀へ飛びゆく宝の生命――これが青春である。若いというだけで、お金も何もなくても、最高の財産をもっているのと同じである。
 若さには、希望がある。未来がある。無限の力がある。若いうちから、いい家なんかいらない。早く偉くなろう、金持ちになろう――そんな必要はない。自分のなすべき使命に生き抜いていけば、必要なものは、ちゃんとあとからついてくる。
 努力また努力していけば、果実が熟するように、福徳が実っていく。それをあせって、熟す前の青いうちから、もぎとろうとするのは愚かである。
 自分をつくることである。自分が素晴らしい人間になることである。そのための修行が青春である。
 結婚も、自分が立派に輝いていけば、周りのほうで、ほうっておかない。お婿さん候補が千人、お嫁さん志望者が千人くらい現れるに違いない。自分である。自分で決まる。
 生命の輝きが大事である。人格においても「本有無作ほんぬむさ(本来のありのままの姿で、つくろったりしないこと)」が一番尊い。
5  若さは素晴らしい。しかし、その素晴らしさを「自覚」するかどうかは別問題である。
 諸君の使命の大きさは計り知れない。しかし、その福運を「自覚」するかどうかで人生の結果は、まったく違ってくる。
 「自覚」が大事である。人から言われて、いやいやするのではない。自覚――自らが目覚めることである。「自覚」すれば、もっともっと世界が広がる。もっともっと深い人生の次元に入っていける。
 私は青年時代に決めた。「私は戸田先生という師匠をもった。師匠の言うことを、全部、実行しよう。この師匠のもとで、訓練を受けよう」と。
 この「自覚」があったがゆえに、何の悔いもない。
6  「目標のない人生は わびしい」
 私のもとには、毎日、世界中から、多くのファクスが寄せられる。きょうは、そのうち、アメリカのパーム・ビーチの、有名な実業家から寄せられた便りを紹介したい。
 パーム・ビーチは、フロリダ州のマイアミの近くにある保養地で、多くの富豪の別荘があることで有名である。寄せられた便りには、次のようにつづられていた。
 「お金がどれほどあっても、身分がどれほどあっても、財産が数え切れないほどあっても、自分を磨くことのできない人生は本当にはかないし、また、自分を引き上げてくださる方をもたない人生は、うつろな宙をただよっているようなものです。
 私たちは、このパーム・ビーチで、世界中の大富豪という人々を存じています。しかし、夫に先立たれた老婦人の最後のはかなさや、目標のない人生、財産をつくり目的を遂げてから、いざ自分に立ち戻った時にわびしい人生を、本当に数多く見ています。
 とくに私どもは、長年、生きていますので、そういうお友達が、たくさんいます。(その友人たちに)池田先生のご指導を話すと、砂が水を吸うように理解するのです」と。
 この方は、信心を始めて本当によかったと、しみじみと述べておられる。
 諸君のこれからの人生のために、深くかみしめていただきたい言葉である。
7  本年(一九九七年)、八月二十四日、私は入信五十周年を迎える。
 この半世紀、一度、病気で十日間だけ休んだほかは、一日たりとも休まなかった。ただ広宣流布のため、学会員のために働きに働いた。動きに動き、書きに書いた。諸君の千倍、万倍やってきた。この厳然たる事実が私の誇りである。
8  獅子吼せよ、正義を!
 仏の身は「金剛身」と説かれる。金剛のように、何よりも堅固である。壊れない。
 いわばダイヤモンドのごとく強い生命。何があろうと壊れない福徳。燦然と光る人格。そういう自分自身になるには、どうすればよいのか――これが大聖人の御書の一貫したテーマである。その結論は「徹底して悪を責めよ!」ということである。
 すなわち折伏である。戦いである。法戦である。極悪を責めれば極善になる。
 「悪を責めよ! 悪を責めなければ、自分が地獄である。悪を責めれば、自分が金剛身になる。仏になる」。これが仏法の要諦である。
 釈尊もそう教え、日蓮大聖人も自らそう実践された。
9  「開目抄」には、こう書かれている。
 「迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり(中略)師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり
 ――(釈尊は弟子の迦葉に次のように言った)迦葉よ、私は悪人の迫害のなか正法を護持しきった因縁によって、今、この常住にして永遠に壊れない金剛身をつくり上げることができたのである。(中略)(仏法を破る悪人がいる時に、彼らを打ち破るための)師子吼をできず、正法を踏みにじる悪人を降し伏させることができない。このような僧(仏弟子)は、自分にも功徳はないし、衆生に功徳を与えることもできない。まさに知るべきである。こういう吼えるべき時に吼えられない輩は懈怠懶惰の人間である(だらけた人間であり、実践をなまける謗法者である)――。
 要するに、戦うべき時に戦うことである。邪悪と絶対に戦い抜くことである。悪を責めた分だけ、自分の悪は消える。罪業は消える。反対に、叫ぶべき時に叫べない人間。悪をこらしめることのできない人間。そういう「懈怠懶惰」の人間は、結局、自分まで「謗法」になっているのである。この原理を、大聖人は繰り返し繰り返し説かれた。御書全編を貫く指導がここにある。
 懈怠は「十四誹謗」(十四謗法)の一つである。法に背いているのだから、いくら題目をあげても、真の功徳は出ない。金剛身は得られない。仏にはなれない。
10  大聖人は仰せである。
 「謗法ほうぼうを責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし
 ――謗法を責めないで成仏したいというのは、火の中に水を求め、水の中に火を探すようなものだ。はかないことである。はかないことである――。
 有名な御言葉である。謗法を責めてこそ、功徳がある。仏になる。金剛身になれる。
 この御金言通りを貫いたところに、創価学会の偉大さがある。
11  また大聖人は、天台大師の師である南岳大師の次の言葉を引いておられる。
 「若し菩薩有りて悪人を将護しょうごして治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん
 ――もし菩薩がいて、悪人をかばい、その悪を罰することができず、そのため、かえって悪を増長させ、善人を悩ませ乱し、正法をやぶり壊してしまうならば、その人はじつは菩薩ではない。この者は、外に向かっては、人を詐りあなどって、常に、こう言うであろう。「私は忍辱の行をしているのです(耐え忍んでいるんです)」と。こういう人間は、死んだならば(自分が責めなかった)もろもろの悪人と一緒に地獄に堕ちるであろう――。
 「悪人が悪いのは、わかっております。しかし、今はいろいろ事情があるので」などと言って、戦わない。「耐え忍んでいるのです」などと言う。そういう偽善者を厳しく破折しておられる。
 仏法は厳しい。いくら理屈を言っても、たとえ幹部であっても、悪と戦わなければ地獄に堕ちる。大聖人が、そう仰せである。
 いかに表面を飾ろうとも、妙法だけは、だますことはできない。だれ人たりとも、妙法によって必ず裁かれる。
 妙法を迫害する社会は、必ず滅びる。そうさせたくないから、今、厳しく言うのである。
12  「われ金剛の身なり」と人生飾れ
 法華経に「此経難持(此の経は持ち難し)」とある(宝塔品)。この経を持つ人には必ず難がある。御義口伝には「此の法華経を持つ者は難に遇わんと心得て持つなり」と。
 難と戦わなければ仏にはなれない。広宣流布もできない。ゆえに私は一人、耐えに耐えて戦っている。
 「金剛身」にならなければ損である。これ以上の絶対の幸福はない。何があっても、ダイヤモンドのように光る。何があっても、「打ち出の小槌」を持っているのと同じである。何があっても楽しい。毅然たる姿である。
 一人も残らず、そうなっていただきたい。そのための仏道修行であり、信心であり、戦いなのである。
 日蓮大聖人は、高らかに宣言なされた。
 「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 ――われは日本の柱となろう(主の徳)、われ日本の眼目となろう(師の徳)、われ日本の大船となろう(親の徳)等と、すなわち主師親の三徳をもって末法の一切衆生を地獄の苦しみから救い出そうとの誓いは絶対に破ることはないのである――。
 御本仏のこの大確信を拝して、戸田先生もまた師子吼された。「創価学会こそ日本の柱である」と。
13  大聖人という「日本の柱」を鎌倉幕府は倒そうとした。佐渡流罪の折には、大聖人ただお一人を捕らえるために、時の実力者・平左衛門尉は、武装した数百人の軍勢を引き連れてやってきた。
 日本をあげて、大聖人を極悪人あつかいであった。そういうなかにあって、大聖人は、「大高声」で言い放たれた。
 「日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをすと
 ――ああおもしろい、平左衛門尉が、ものに狂うを見よ! 貴殿らは、ただ今、日本国の柱を倒しているのだぞ!――。
 厳然たる大確信の御姿である。
 この悠々たる御姿の前に、大聖人を逮捕しにきた連中のほうが、かえって、びくついてしまった。
 「日本の柱」である大聖人を倒そうとした平左衛門尉の末路は、悲惨であった。自身は斬罪。一族は滅亡。迫害した幕府は蒙古襲来を機に、急速に滅亡の坂を落ちていった。日本の社会に総罰があり、また個々に別罰があった。
14  今は「混迷の時代」である。もはや、「世界の希望」は学会しかない。これは、世界の心ある多くの人が語っているところである。この「偉大なる自覚」に立って、真の大聖人門下の「信心の底力」を発揮しましょう!
 大聖人は、一番の大難の時にこそ、発迹顕本なされた。「難来るを以て安楽と意得可きなり」である。
 諸君も、大闘争のなかで、自分らしく「偉大なる発迹顕本」「人生の発迹顕本」を遂げていただきたい。
15  目標に向かって賢明に、楽しく
 目標もなく、ただ何となく生きているだけでは、つまらない。信心していても、弘教の目標、教学の目標など明確な目標があってこそ、自分が成長できる。その意味で、賢明な「目標」を示していくことは「慈悲」なのである。
 また、慈悲であるゆえに、その人を苦しめるような無理な目標ではなく、本人が心から納得できるものでなければいけない。悲壮感ではなく、真剣ななかにも悠々と、「楽しく」前進していただきたい。そのためには「智慧」が大事である。「確信」が大事である。
 人生、最後に、だれが勝つか。「苦労した人」である。苦労を避けた人は、あとから苦しむ。御書の通りに、また学会精神のままに、仏法の真髄を行じた人が最後に勝つ。信心だけは愚直なまでに誠実に、やりきった人が得をする。幸福になる。これが五十年間、数限りない人々を見てきた私の結論である。
 二十一世紀へ、毎月の幹部会を、「広宣流布のバトンタッチの儀式」として、立派に進めてまいりましょう! 私は諸君の勝利を見届けていきます。

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