Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第7回本部幹部会 勝ち取れ黄金の毎日を、旭日の人生を

1997.1.7 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  広布に行ききった一生は「永遠の幸福」に輝く
 日本の同志の皆さま、そして世界の同志の皆さま、あけましておめでとうございます。本年も、よろしく!
 ここ牧口記念会館を照らす夕日は、まことに美しい。この八王子は、童謡「夕焼け小焼け」に歌われる里である。
 朝に夕に、大いなる光のドラマを演出する太陽――牧口先生の『人生地理学』の「第一編」は、この「太陽」から始まる。
 そこでは「旭暉きょっき燦爛さんらん」――旭日きょくじつが燦然と、爛々と輝く姿――。また「夕陽の煌耀こうよう」――夕日が煌然こうぜんと、赤々と輝きゆく姿――等と表現しておられる。
 太陽の光彩が、美的に、また精神的に、どれほど大きな影響を人間に及ぼすかを指摘されている。
2  思えば牧口先生は、昇りゆく旭日のような勢いで、「価値創造」の青春を生き抜かれた。そして真っ赤な太陽が黄金の光を放ちゆくように、荘厳な人生の総仕上げを飾られた。
 素晴らしき夕日は、素晴らしき明日を約束する。西空を黄金に染めて沈む夕日は、明日の晴天を約束する。同じように今世の偉大なる安祥の「死」は、「永遠の幸福」を約束する。
 悔いなく広宣流布に生き切った一生は、三世永遠に仏界の大境涯へと輝きわたっていく。ゆえに「一生成仏」の大道を進め! 今世を広宣流布に生き抜け! そう日蓮大聖人は、厳しく教えられているのである。
 戸田先生は、大確信をもって語られた。
 「大聖人のおことばを信じて、この(=法華経の)鏡に照らしてみるならば、(=牧口)先生は法華経流布の国のなかの、もっとも徳清らかな王家に、王子として再誕せらるべきこと、堅く信じられるべきで、先生の死後の幸福は、吾人(=私)に何千、何万倍のことか、ただただ、おしあわせをことほぐ(=祝福する)ばかりである」(『戸田城聖全集』第一巻)と。
3  仏法は、この大宇宙に無数の世界があると説く。宇宙は大きい。およそ人知では計り知ることのできない広がりをもっている。その宇宙の根本法則を会得していけるのが仏法である。
 ある哲学者が、かつて語っていた。
 「この大宇宙は科学でも追究しきれないだろう。天文学をもってしても、究明しきれないだろう。いわんや数学でも経済学でも化学でも政治でも、あらゆる次元の学理を駆使しても、究明しきれないだろう。一番、演繹的にとらえているのは、東洋の仏法ではないのか」と。
 その究極である大聖人の仏法を持ち、広宣流布しゆく私どもこそ、最高の幸福者なのである。
 生命が存在する天体にしても、この地球だけではない。数多く存在するとされる。そこには、多くの「法華経流布の国」があると考えられる。
 ゆえに戸田先生は、御書に照らし、法華経に照らして仰せなのである。
 ――牧口先生は素晴らしき「法華経流布の国」の、素晴らしき王家に、王子としてお生まれになられることだろう。それほど牧口先生の幸福は計り知れない。我々の何千何万倍である、と。
4  牧口先生、戸田先生に連なる学会員も、この一生を広宣流布に生き切った時、皆、こうした永遠の勝利と栄光に包まれゆくことは、絶対に間違いない。ゆえに、負けてはならない。何があろうと「毅然たる信心」を貫くことである。
 大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。
 いかなる難にも微動だにしない。恐れない。退かない。戦い続ける。その強き信心自体が「安楽」の証なのである。難と戦ってこそ、永遠の金剛身を築いていけるのである。
 何かあると、すぐに恐れ、おののき、動揺する――そんな弱さのために、信心という幸福の「本道」を外れてはならない。
5  御書に仰せである。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」とある。
 また、「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」と。
 はかない、夢のような一生である。「一生はゆめの上・明日をせず」である。明日がどうなるかさえ、だれもわからない。いわんや永遠はわからない。
 いかなる富も地位も名声も、はかなき夢のごときものである。死後に持って行けるわけでもない。そのなかで、私どもは永遠の妙法を唱え、広め、広宣流布に命を燃焼させている。これ以上の崇高な生き方はない。学会活動にこそ、人生の無上道がある。
 また、大宇宙の一切は、「南無妙法蓮華経」の力用である。その「南無妙法蓮華経」という根本の法は、私どもの胸中にある。何と素晴らしいことか。
 太陽は今日も昇る。私どもも、題目を今日も唱え、胸中に太陽を昇らせていく。ひとたび太陽が昇れば、すべてが照らされていく。
 わが「生命の太陽」を赫々と燃やしながら、今日も祈っていこう、戦っていこう、生き抜いていこう、人生の福運をつくっていこう。ここに究極の幸福の軌道がある。
 どうか本年も、「黄金の一日一日」を信心で勝ち取っていただきたい。この現実の「娑婆世界」「忍耐の世界」で、晴れ晴れと勝っていただきたい。
6  冥益と冥罰――仏法は勝負
 本年も、堂々たる日本第一の新年勤行会で、一年をスタートすることができた。昨年をさらに上回る勢いである。千葉県一県だけで、日顕宗の全国の結集を、はるかに圧倒しているのである。まさに、桁違いのスケールである。
 一年一年、日顕宗は、わびしく衰退。学会は、旭日の勢いで、隆々と発展している。
 仏法では、厳然と、功徳と罰が説かれている。御聖訓に照らして、一番怖いのは、「冥罰」である。何でもないようで、確実に、だんだんと悪くなる。最後は、必ず滅びる。仏法の裁きほど、厳しいものはない。
 御書には「罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰・四候」とある。総罰は、すべての人が受ける罰。別罰は、個々に受ける罰。顕罰(現罰)は、すぐに明らかにあらわれる罰である。
 また、「法蓮抄」では、次のように仰せである。
 「法華経を怨む人に二人あり、一人は先生に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或は口閉ぢ或は頭破る、一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり是はのれども口則ち閉塞へいそくせず
 ――法華経を怨む人に二種類ある。一人は、過去世に善根があって、今世で仏縁を求めて菩提心をおこし、仏になる可能性をもっている者である。この人は、罵ったり、怨んだりすると(顕罰があらわれて)、口が閉じたり、頭が割れたりする(精神状態がおかしくなることも含む)。もう一人は、過去世に謗法を犯した人で、今世にも謗法を犯し、生まれるたびに無間地獄の業を積む者であり、この人は、罵っても(やがて冥罰があらわれるから)、口が閉じ塞がることはない――。
 「たとえば獄に入つて死罪に定まる者は獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、りぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し
 ――たとえば、牢獄に入って死罪に定まっている者は、牢獄の中でどのような悪事を犯しても死罪を行うまでであり、別の咎めはない(最も重い死刑が決まっているので、その時まで他の罪で罰せられることはない)。放免される予定の者は、獄中で悪事があれば、これを戒めるようなものである――。
7  ともあれ「仏法は勝負」である。そして「一切法は皆是仏法」である。ゆえに、一切は勝負である。勝負ならば、勝つ以外にない。
 盤石の勝利は一朝一夕にはできない。人生も、生活も、広宣流布も。顕益も素晴らしいが、それだけでは続かない。「宝くじ」に当たったとしても、いつも当たるわけがない。大事なのは冥益である。
 一歩一歩、一段一段、がっちりと積み上げていく粘りがなければならない。
 目に見えないところで手を抜いたり、派手なポーズや、掛け声だけで、崩れざる城ができるわけがない。
 大樹の森が、がっちりと大地に根を張って伸びていくように、目には見えなくても、時とともに、だんだんと、きちんと結果が出てくる。絶対に崩れない「幸福王」の境涯をつくっていける。これが、冥益なのである。
 牧口先生、戸田先生が命をかけて築いてこられた創価学会である。私も、同じ心で戦ってきた。
 だからこそ、何があっても、「獅子王」のごとく微動だにしない偉大なる創価学会となったのである。
8  栄光のドラマは「一人」から始まる
 晴れやかな「千葉県総会」、おめでとう!
 牧口先生は、若き日の名著『人生地理学』の中で、「半島は文明の起点である」と論じられた。先生は、その例として、千葉の房総半島が、大聖人という「宗教改革の巨人」を出したことを強調されていた。当時、先生は、まだ入信をされていなかった。しかし、文明論的な次元から、大聖人の故郷・千葉の天地に注目されていた。偉大な先生である。
 その後、先生ご自身が、日蓮大聖人の仏法を奉じ、「宗教改革」に身を投じられたのである。
9  牧口先生は、千葉で立宗された大聖人の御姿を通して、学会員を励まされた。一九三九年(昭和十四年)、折伏のために九州に足を運ばれた時のことである。
 当時は、列車の長旅である。今のように飛行機はない。高齢(六十七歳)のお体には、相当こたえられたはずである。しかし、先生は、法のためならば、いかなる労もいとわれなかった。
 その折、初対面のある婦人も、牧口先生の青年のような清々しい音声、絶対の確信、誠実と慈愛の姿に感動して入会を決意する。
 声が大事である。確信が大事である。姿が大事である。すべて諸法実相である。
 牧口先生は、その発心した婦人に、こう語りかけ、心にクサビを打ち込まれた。先生に中途半端はない。話すかぎりは、全魂を込めて、相手の心に使命と希望の火を灯さなければ――そういう一念であられた。
10  「あなたが御本尊をいただくということは、仏法の原理に照らして、九州の全民衆が不幸という悩みから救われることになるのです!」
 「一人立て!」である。どの地でも、広宣流布は常に「一人」から始まる。
 牧口先生は、その時、「諸法実相抄」の一節を拝された。
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし
 そして先生は、しみじみと語られたのである。
 「大聖人も千葉のかさが森で第一声を放たれたときは、お一人でした。今、あなたが九州で一人、この最高の御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるということは、地涌の義によって、九州にも必ず、二人、三人、百人と御本尊を持つ人があらわれるということなのです」
 この言葉の通り、牧口先生が自ら蒔かれた妙法の種は、今や大九州創価学会となって見事に花開いている。「先駆の大九州、万歳!」と申し上げたい。
11  大聖人は、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と仰せである。
 ただ「拝んでいる」だけでは、「日蓮と同意」にはならない。折伏をやろう! 広宣流布をやろう!――この心の炎が燃えている人が「日蓮と同意」なのである。その意味で、まさしく「日蓮と同意」で戦い抜かれた象徴が牧口先生である。戸田先生である。
 「日蓮と同意」の団体は、現在も、未来においても、断じて創価学会しかない、と申し上げておきたい。ゆえに、学会を守り、発展させゆく人を、日蓮大聖人が最大にたたえられることも間違いない。
 この一年、わが千葉の同志は、大聖人の御心を心とし、牧口先生の魂を魂として、晴れ晴れと「千葉革命」を成し遂げていただきたい。本当に「日蓮と同意」の心をもった、本当の「学会の同志」で一緒に邁進しましょう!
 愛する千葉が二十一世紀の創価文明の出発点として、絢爛と栄えゆくことを祈りたい。
12  千葉の皆さま、壇上のきれいな「菜の花」をありがとう!
 現在、館山市には堂々たる「千葉研修道場」が建設中(一九九八年二月、愛称「菜の花研修道場」として完成)である。新しい会館の計画も進んでいる。千葉は今後、ますます重要になってくる。
 千葉は広い。活動に車を使うことも多い。くれぐれも交通事故には注意していただきたい。
 使命の人生である。大切な宝の命である。やむなく長時間の運転をする場合には、決して無理をしてはいけない。必ず途中で休憩を取るなど、賢明な工夫をお願いしたい。
13  ゴールの警鐘に背を向けた日本の悲劇
 このほど、二百年以上の伝統を誇る、インドの「アジア協会」から「タゴール平和賞」をいただくことになった。今回が、同賞の栄えある第一回の受賞とうかがっている。
 皆さま方を代表しての受賞であり、皆さま方が受けられるのと同じである。そして私は、この賞を、戸田先生、牧口先生に捧げる思いで、お受けしたい。
 (アジア協会は、インドの国会で「国家重要機関」として決議された東洋学研究の世界的殿堂。今回の名誉会長への授賞理由について、同協会は「平和に向けて人類の和合を促進するため創造的な貢献を果たされてきたことを鑑みての決定」とうたっている)
 タゴールは、歴史にそびえる偉大な人物である。これまでも何回となく論じてきたが、きょうは、一点だけ、彼の「日本への警鐘」に触れておきたい。それは、現代にも通ずる警鐘とされている。
14  一九一六年(大正五年)五月三日、タゴールは日本へ向けて、インドを出発した。船は、日本汽船「土佐丸」。暴風雨に見舞われ、揺れに揺れて、やっとのことで日本に到着した。
 「アジア人で初めてのノーベル賞受賞者」として、世界的に有名なタゴールである(一九一三年、文学賞を受賞)。日本人は大歓迎した。到着の際には、この「インド最高の大文豪」「世界の詩聖タゴール」を大勢の人々が熱狂的に出迎え、取り巻いた。
 タゴールはそれを「日本の埠頭に着くやいなや、人間台風が襲来した」(「日本紀行」森本達雄訳、『タゴール著作集』10所収、第三文明社)と回想している。
 ところが、三カ月後、彼が日本を去る時には、見送りはわずかな友人だけ。実にわびしく、来日の時とは打って変わった扱いであった。
 一体、その間に何が起こったのか。何が日本人の態度をこのように大きく変えてしまったのか。
 その背景には、タゴールの率直な「日本への警鐘」があった。忠言が耳に逆らって、日本はタゴールに背を向けたのである。
 日本で、タゴールは、次のように叫んだ。
 ――日本は国家主義を捨てなさい! 国家に人間が押しつぶされ、必ず滅びることになります。人間主義をとりなさい! その道こそ、日本の輝ける使命の道です――と。
 八十年前のタゴールの叫びは、今の私どもの主張と一致している。
15  慶応大学の講演では、日本が大きく掲げたモットーの意味することについて、次のように語っている。『さっさと、自分の好きなことをやれ。そしてそれが他人にどんな損失をもたらそうが気にとめるな』ということであります。しかしそれは盲目的な人間のモットーであります」「道徳的盲目さを養う国民は、やがて突然の死によって、その存在を終わるでありましょう」(「日本の精神」高良とみ訳、同著作集8所収)
 日本は、道徳的に目が見えないのだ。ゆえに危険な道が見えないのだ。目を開きなさい! と。
16  「力の文明」は人間の奴隷に
 タゴールは、日本が西洋の「力の文明」を真似して、「武器によって魂を殺し」「金もうけのロボットとなる」危険を訴えた。
 「人が力を欲するあまり、己れの魂を売って武器を増やすとき、敵以上に大きい危険は己れ自身である」「神の最も見事な創造物である男女が、哀れな機械、浅間しいメカニズムの極致である、滑稽なほどの空虚な、金儲け用のロボットとして、『国民』工場から大量造出された」(「ナショナリズム」蝋山芳郎訳、同第8所収)
 悲しいことに、タゴールの危惧の通り、その後も、日本は「武器」によってアジアの国々を侵略していった。
 また、「金もうけ用のロボット」――自分たちの利益だけを求め、国際的な信義もなく、大勢の人に尽くすという精神性もない。それでは世界からの信用を失うであろう。
17  「力の文明」で隣国の民を圧迫するのではなく、「魂の文明」によってアジアを連帯させよ!
 このタゴールの叫びを、当時の日本は無視した。それどころか、多くの日本人が、タゴールに向かって、非難と中傷を投げつけ、嫉妬まじりの軽薄な批判を繰り返した。そのくせ、彼の書いたものを、きちんと読んで批判している人は、ほとんどいなかったのである。
 正確な認識もなく、ただ、人の尻馬に乗って騒いだ。「日本国家を批判するとは、何とけしからん奴だ」と。その結果が、二十九年後の亡国――すなわち敗戦である。
 こういう日本人の性格は今も変わっていないと言われる。
 かつて私は、あるインタビューで言った。
 「戦前の日本は、軍備のあとを人間がついて行った。戦後は経済のあとを人間がついて行った。これを人間中心に変えなければ日本の未来はない」と。
 この警鐘には、海外から共感のメッセージをいただいた。
18  タゴールは、当時、「弱い国」と見られていた中国が、やがて巨大な力を発揮することも予言していた。
 私も、三十年以上前、日本が華やかな繁栄の上り坂にあったころから、やがて中国が大いなる発展を遂げるであろうと予見し、主張してきた。
 タゴールは言う。
 「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」(日本の野口米次郎への手紙。我妻和男『人類の知的遺産61――タゴール』講談社)
 それに比べて、当時の日本の見かけの繁栄は、借りものの文明のおかげであり、「魂を滅ぼした」代償としての繁栄にすぎなかった。それでは絶対に長続きしない――こう彼は言いたかったのではなかろうか。そして彼は叫んだ。
 ――国家悪を見抜きなさい! 国家の悪魔性の奴隷になってはいけない! 国家には人格はありません。むしろ日本は、全世界に通じる普遍的な人間性を興隆しなさい!――と。(「ナショナリズム」「日本の精神」、前掲著作集8を参照)
 魂なき国は、必ず滅びる。タゴールの警鐘は今こそ、謙虚に耳を傾けるべきであろう。タゴールを石もて追った八十年前の過ちを、日本は今、再び繰り返そうとしているように思えてならない。
19  「魂の文明」の主役は女性
 タゴールは、女性に大変に期待していた。
 「歴史の現段階においては、文明はほとんど男性のものであり、力の文明である」「人間は膨大な機械的組織に適合しようとして、自己の自由と人間性を失ってしまった。次の時代の文明は(中略)互恵という精神的理想の上に打ち立てられることをわれわれは望んでいる。それを実現するときには、女性は自らの真の位置を見出すだろう」
 「女性が自己の責任を自覚するなら、彼女の新鮮な心と思いやりの力を、精神的な文明の建設というこの新しい仕事に持ち込んでくることができる」(「女性について」山口三夫訳、第三文明社『タゴール著作集』9所収)
 ――現在の動物的な「力の文明」をつくったのは男性である。そこでは、人間が手段にされ、「機械」となる。これからは「魂の文明」を打ち立てねばならない。それを育てるのは、女性が主役である。私は女性に期待する!――と。
 私も、まったく賛成である。何かというと、「力」を誇示し、いばりたがる男性は、大いに反省する必要があろう。
 世界の各分野で、また、広布の世界においても、女性の活躍は本当に目覚ましい。さらに、もっともっと女性が活躍できる時代へと、変えていかなくてはならない。また、実際にそう変わりつつある。私は、とくに最近、その思いを深くしている。
 いよいよ「女性の時代」である。
20  今年も、私は、広宣流布の指揮を三百六十五日、毎日、執り抜いてまいります。断じて戦います。
 皆さま方もどうか、健康第一で、朗らかに、何ものをも乗り越えて、一日一日、福運を積んでいっていただきたい。
 私も、皆さまの健康・長寿・幸福・裕福を祈り続けて、一年を送りたいと思っている。
 本年も、どうかよろしく。本日、お会いできなかった方にもくれぐれも、よろしくお伝えいただきたい。長時間、ありがとう!

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