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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表者会議(第2日) 信仰者だからこそ徹して努力、研究を

1996.11.23 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  「何はともあれ、自分の畑を耕せ」
 間断なく流れる渓流は清らかである。人間も、動いている人は美しい。
 いわんや「仏法は勝負」である。広宣流布は「永遠の闘争」である。ゆえに、リーダーは断じて「折伏精神」を忘れずに行動を続けていく以外にない。
 御書には「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」――(乱世の軍師たちは)幕を張った中で作戦を練り、戦場から千里離れたその場で勝利を決したのである――と仰せである。
 リーダーは常に、「わが地域の広宣流布をどう進めるか」「わが組織の大切な学会員をどう励まし、守っていくか」と祈り、悩み、考え抜いていなければならない。
 そして皆で集い、真剣に語り合っていく。心を合わせ、情報を交換し、智慧を結集していく。ここに勝利への新たな前進が始まる。
 さまざまな課題を緻密に見つめ、そして的確に手を打っていくのが首脳であらねばならない。
2  わが地域こそ、わが本国土である。その地を大切にせずして、広宣流布はない。仏道修行もない。
 『カンディード』といえば、有名な波乱万丈の物語である。作者は、フランス革命に影響を与えた哲学者ヴォルテール(一六九四年〜一七七八年)。
 彼の哲学を象徴する言葉のひとつが、小説『カンディード』の結びの一句である。「何はともあれ、自分の畑を耕せ」――と。
 主人公の「カンディード」は「純真な人」という意味。しかし成人後は、嵐のごとき試練が続く。城を追放され、他国で逮捕され、逃亡したかと思うと嵐にあって難破し、やっと助かったと思うと大地震に見舞われ、宗教裁判で笞打たれ、南アメリカの各地を放浪し……。
 恋と戦争と病気。別れと再会。哲学と疑惑――。ありとあらゆる試練に打ち勝ったあと、主人公は最後に、どういう結論を出したか。それが、最後の一句である。
 「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません」(吉村正一郎訳、岩波文庫)
 すなわち、理屈は理屈、人生は理屈通りにはいかない。何があるか、わからない。世の中も、どう変わるか、わからないものだ。
 だからこそ「何はともあれ、自分の畑を耕せ」と。
3  私どもで言えば、自分の地域、自分の分野、自分の仕事と家庭、自分自身の広宣流布の田園を、「何はともあれ、耕す」ことである。開拓することである。そうすれば、自分の生命も耕される。体も心も頭脳も耕される。
 ヴォルテールは、こうも言う。
 「老年も病気もわたしの元気をくじかない。たとえ、わたしが一つの畑しか開墾し得ず、二十本の木しか植えつけるのに成功しなかったとしても、それでもわたしはやはり跡の消えぬ良いことをしたことになる」
 世の中は浮草のように動いていく。私どもは、それらと一緒に流される人生ではない。二百年後に証明される「万年の王道」を開拓しているのである。
 開拓は、地道である。一歩一歩である。
 家庭訪問、個人指導、弘教・対話こそ、本当の仏道修行である。大勢を集めて話すだけでは修行にならない。自分が動かねばならない。一カ月に何軒、回ったか。一年に何軒、回ったか。そこにしか真の「開拓」はない。
4  「気配り」できるリーダーが偉い
 ともあれ、内外を問わず、会う人をどれだけ味方にできるかの戦いである。
 ある大会社の話を聞いたことがある。モットーは「人を見たら客と思え」。
 たとえば、面接試験で、やむをえず落とす相手にも、担当者は丁重に手紙を書き、会社に悪い印象をもたぬよう気をつかったという。こうした積み重ねで、基礎をつくった。
 ちょっとした「心遣い」である。「気配り」である。気配りのできる人は偉い。気配りのできるところは、きちんと結果を出している。指導者が口を惜しまず、労を惜しまないところは伸びている。リーダーが横着になったら、もう衰退である。
 ちなみに、ヴォルテールは聖職者嫌いでも有名であった。
 『カンディード』の中でも、主人公が南米の黄金郷(エルドラド)に着いて、聖職者がいないのに感心する場面がある。
 「へえ! それじゃお坊さんはいないのですか。教えたり、議論したり、支配したり、陰謀をたくらんだり、意見の違う人間を焼き殺したりする……」(同前)と。
 私どもが目指す″民衆の黄金郷″にも、悪どい聖職者は絶対に必要ない。
5  今、社会は不景気である。
 御書には、こう仰せである。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」――天が晴れれば大地は明るくなり、はっきり見える。法華経を知る者は、世法のことも、はっきりわかるようになるであろう――。
 戸田先生は、この御文を拝して、こう励ましてくださっている。
 「われら御本尊を受持する者は、不景気を嘆くだけであってはならない。偉大な生命力を発揮して、さてどうしたら良いかと考え、かつまた苦心をなして、この苦しい経済界を切り抜けるならば、これこそ地明らかなりとも、世法を識るともいうべきであろう。よく、御本尊を受持しているから、商売の方法などは、考えなくても、努力しなくとも、必ずご利益があるんだという、安易な考え方をする者がいるが、これ大いなる誤りであって、大きな謗法と断ずべきである」
 「信仰を始めて、一、二年の者ならいさ知らず、三年も四年もしておって、自分の商売の欠点とか、改善とかに気のつかぬ者は、大いに反省すべきであろう。されば、自分の商売に対して、絶えざる研究と、努力とが必要である」(昭和三十年八月号の「巻頭言」。『戸田城聖全集』第一巻)
6  「会員に尽くせる自分に」と祈れ
 法華経に「観世音菩薩」が説かれている。
 観世音には「世音を観ずる」という意味がある。世間の音声を、よく観ずるということである。
 広げていえば、世の中の変化を敏感に観じ、その要望(ニーズ)を知り、迅速に対応していく「智慧と生命力」と言えよう。
 観世音菩薩の力は唱題によって、わいてくる。
 要するに、信心というのは、一〇〇%、自分で祈って、自分で努力していく。そうすれば諸天善神が守る。
 ただ漫然と祈り、努力も中途半端なまま、頼るのではいけない。自分の一念の深さと、信念ある人格が大事である。その人が信仰者として一流なのである。
 これを私は戸田先生から学んだ。ゆえに創価学会は、どこにも頼らない。どこかに頼るようであれば、大樹にはなれない。
 ともかく、リーダーは、大切な会員の皆さまが裕福になり、無事故であり、幸福であるように懸命に祈っていくことである。
 そして、会員から慕われる自分となり、会員から信頼される自分となり、会員に尽くせる自分となるよう祈り、成長していくことを忘れてはならないと申し上げて、本日のスピーチとしたい。

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