Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第4回本部幹部会 われらの前進は「万年の長征」

1996.10.25 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

前後
1  青年よ強くなれ、戦って強くなれ
 海外の皆さま、ようこそ! サンキュー・ベリー・マッチ。遠くから本当にご苦労さま。日本の秋を楽しんでください。
 全国の皆さまも、ご苦労さまです。秋の夕べのピアノ演奏も、ありがとう。
 まず、フランスの作家アンドレ・モロワ(一八八五年〜一九六七年)の言葉を紹介したい。
 モロワについては、これまでも何回かスピーチ等で触れた。彼は小説家、伝記作家として有名である。『ヴィクトル・ユゴーの生涯』をはじめ、『バルザックの生涯』『英国史』など、世界的に著名な本を残している。彼の師は「現代のソクラテス」とも言われた、フランスの哲学者アラン(一八六八年〜一九五一年)。アランは『幸福論』で有名だが、モロワは彼の弟子である。
 モロワは青年に呼びかけた。
 「君たちのためには、障害や闘争があった方がいいと思う。闘うことで君たちは強くなるだろう。五十歳または六十歳になったときには、嵐にたたかれたあの古い岩山のように、ごつごつしたたくましい姿になるだろう。敵と闘うことで、君たちの人物が彫刻されるのだ」(「ある何人かの青年に寄せる手紙」、『人生をよりよく生きる技術』中山真彦訳、講談社学術文庫)
 青年の財産は何か。それは闘争である。苦労である。戦わなければ強くなれない。青年時代に戦っていれば、人生の総仕上げの時に、何も恐れるものはない。厳然たる岩山のごとき大境涯である。
 仏法でいえば、何ものにも侵されない「仏の境涯」である。偉大なる人間王者の姿である。そうなるために、若い時は苦労しなさい、戦いなさいと言っているのである。
 これは、仏法でもそう説く。古今東西の哲学者、文学者も、すべて一致する見解である。
2  私も戦ってきた。だから強い。何も恐れない。
 私は偉大なる戸田先生の弟子である。創価学会の崇高な伝統を背負った人間である。ゆえに、だれにも頼らず、一人、獅子のごとく戦ってきた。
 強いことは幸福である。強いこと自体が勝利である。弱さ、臆病に幸福はない。戦いには勝つことも負けることもあろう。しかし、「戦い続ける」こと自体が人間としての勝利なのである。
 「強き心」「強き信心」「強き祈り」。これを鍛え上げれば勝利である。それが「仏界」である。日寛上人は「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(「三重秘伝抄」)と述べられている。
 ゆえに、私は青年部に申し上げたい。「何ものにも屈しない自分自身を彫刻せよ!」と(賛同の大拍手)。
3  自分を鍛えぬいて獅子となれ
 明一九九七年は「新世紀へ前進の年」と決まった。おめでとう。
 前進といっても、さまざまな「前進」がある。
 朗らかな前進。堂々たる前進。忍耐の前進。勝利の前進。スクラムの前進。社会での成功への前進。楽しい前進。生活のすべてが前進。笑いの前進。求道の前進。
 いろいろあるが、ともかく「自分が前進する」ことである。人ではない。号令ではない。人にやらせようという心は、ずるい。「自分は前進する。ついてくる人は、ついていらっしゃい」「ともかく私は一人であっても前進します。私の戦いを見ていてください」。この決心が本当の青年部であり、学会精神ではないだろうか。
 前進――日蓮大聖人も、「進まざるは退転」の精神を教えてくださっている。嵐があろうが、苦難があろうが、前へ進む。何ものも恐れず、「獅子」となって前へ進む。
 大聖人は、「獅子となれ」と仰せである。御自身も死罪、流罪の迫害のなか、厳然と獅子であられた。われわれは大聖人の弟子である。広宣流布をなそうというのである。ならば中傷・非難など覚悟のうえである。
 前進すれば妨害もある。謀略もあろう。おどかしもあろう。しかし私どもは獅子である。いかなる悪縁にも紛動されてはならない。何があっても動じてはならない。強く戦うことである。緻密に前後左右を見つめて、賢く勝ち抜いていくことである。
4  「仏法即人生」である。人生のすべてが即仏法である。「仏法即社会」である。社会も即仏法である。広宣流布も、人生、社会という現実のなかにしかない。
 その現実と格闘した人は自分が鍛えられていく。自分が向上していく。自分の心が「勝利の旗」に包まれていく。
 反対に、戦うべき時に戦わず、前進するべき時に前進せず、愚痴と臆病と無責任と批判ばかり――そういう人は、一見、楽しそうに、また安穏無事にみえても、「心の敗北者」である。卑しく、みじめな道を歩んでいることが自分自身ではわからない。
 形式ではない。格好ではない。見栄ではない。でき上がった組織のなかを泳ぐのでもない。
 自分自身が本当に戦ったのか。前進したのか――それで人生の勝負は決まる。
 「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」――(心地観経に)未来の結果を知ろうとするならば、その現在の因を見なさい(等とある)――。
 これが、「開目抄」での御言葉である。今、自分は、いかなる原因をつくっているのか。今、どう行動しているのか。これで、未来は決まるのである。一生にわたって。三世にわたって。ここに信心の根本がある。この根本法則に生き抜くところに、栄光があり、勝利がある。
 ゆえに、一人一人が獅子となって、今ふたたび広宣流布の闘争を始めていただきたい。
5  中国の長征――前へ、ただ前へ!
 中国の「長征」について、周恩来総理の話を紹介したい。
 長征は、一九三四年から三六年までの二年間、紅軍が行った戦略上の大遠征。「万里長征」ともいわれ、後に″二十世紀の奇跡″とたたえられた。
 人間の二本の足で一万二千五百キロ(二万五千華里)を歩いた「長征」。何と、アメリカを横断して往復する距離になる。それに比べたら、日本のどんな地域も「広すぎる」とか、「遠すぎる」とか言えない。
 長征の行軍は過酷を極めた。何十機もの飛行機に連日、爆撃される。地上でも、敵の大軍に追われ、包囲される。病気にも、飢えにも苦しめられる。
 だが、″歩き通す″ほかなかった。″戦う″しかなかった。″前進する″しかなかった。何が起ころうと、前進また前進し続けて、勝利したのである。途中でやめたら、絶対に勝利はない。
 しかも、ただ、歩いただけではない。この間に通った広大な十一の省、二億の人民を、着実に味方にしていった。話し合い、自分たちの理想を教えながら。
 派手な姿は、ひとつもなかった。静かに山々を越え、村々を回りながら、未来の「勝利」の種を植えていったのである。仏法で言えば「下種」である。
6  新中国ができて十年ほど後、著名なアメリカ人記者が、周総理にインタビューする(一九六〇年)。
 (以下、『今日の中国――もう一つの世界――』〈上〉松岡洋子訳、『エドガー・スノー著作集』5所収、筑摩書房)
 二人は新たな国家建設の展望を語り合う。やがて話題は二十四年前の長征に及ぶ。周総理の苦渋の思い出を聞いて、記者は述べる。
 「それに比べれば、他の国家的な問題も比較的容易に解決できると考えておられるに違いない」
 すると周総理は答えた。鋭い口調であった。「容易ですって? 容易なものは何一つとしてありませんよ」さらに、厳しく釘をさした。「容易なものがあるとわたしが言ったなどと、決して書かないで下さい」
 簡単にできることなど何ひとつない。それを簡単に考えるから失敗する。油断である。傲慢であり、無責任である。
 ″こんなに、たくさん人がいるのだから、だれかがやるだろう″。この安易さ。解決すべき問題を避けて、″最後は何とかなるだろう″。この慢心、ずるさ。周総理には、いささかも、そうした甘さはなかった。
 「十年前全中国は第二の長征をはじめたのです。われわれは第一歩を踏み出した。そう、第一歩にすぎないのです」
 「第一の長征」は勝利した。しかし今、私たちは「第二の長征」を始めたのだ、と――。この一念、この気概。総理は、「もう、これでいい」などとは思わなかった。民衆を救いきるまでは、永遠に前進する決心であった。
7  創価学会も、広宣流布の「万年の長征」を前進している。明(一九九七年)「新世紀へ前進の年」は、その本格的な第一歩である。
 日蓮大聖人は末法万年の広宣流布について、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」、「今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり」と仰せである。
 戦いは、今まさに始まったばかりである。
 一万メートル走でいえば、まだ五十メートルぐらいしか走っていない。これからである。これからが本当の「前進!」である。
 私どもの前には、洋々たる舞台が開けている。
 「『万年の長征』へ、私たちは今、一年一年を歩んでいるんだ!」――この思いで、勇んで「信心の前進」をお願いしたい。
8  「必死の一人」がいればよい
 あの文化大革命の、すさまじい嵐。建国以来、営々として築いてきた成果が、すべて破壊されようとしていた。周総理は一人、裏切り者の″四人組″と戦った。命をかけて。
 学会も何人にも裏切られてきた。
 総理は一人、満身創痍で戦いながら、ある時、親しい人に、こうもらした。
 「心配はいらない。すべてうまくいくよ。もしそうでなかったら、私たちは山へもどってまたはじめからやりなおす。それが私たちのやらなければならないことだとしたら、やるだけだ」(シリン・パタノタイ『ドラゴン・パール』田村志津枝訳、講談社)
 ″心配はいらない。私がいる! 私が必ず、すべてをいい方向へ転換してみせる!″――この周総理の一念。こういう「必死の一人」がいるかどうか。それで一切は決まる。
 人に頼らず、人まかせでなく、一〇〇%、自分の責任で戦う人。なりふりかまわず、死にもの狂いで、民衆のために行動する人。その人こそ真の指導者である。真の仏法者である。
9  周総理は、文革の大混乱のさなかでも、民衆に尽くす「革命の炎」だけは絶対に消さなかった。永遠に革命に進む。いつでも変革を続ける。この「革命精神」だけは断じて残すのだ、と。
 私どもでいえば、広宣流布への信心である。大闘争心である。その「魂」を失って形だけ残しても「第二の長征」は戦えない。広宣流布はできない。
 「人民を幸福にする」という根本目的を、総理は夢にも忘れなかった。
 根本の目的を忘れたら、終わりである。ゆえに広宣流布を忘れてはならない。学会精神を失ってはならない。
 ″また山にもどってでも、もう一回、戦おう″――この炎の一念で、周総理は人民の胸に火を点した。四人組は打倒された。
 ″私たちの戦いは「人民のため」だ!″″何が権力が恐ろしいか!″。この心で戦い抜いたのである。
10  広宣流布の長征も同じである。
 「いかなる状況になっても戦おう! 前進しよう! 必ず勝とう!」。この学会精神で、楽しく、朗らかに、ともに進んでまいりたい。
 万年の長征である。先は長い。その土台を今、つくっている。学会こそ仏勅の団体であり、本当の人間の団体である。心の底から、民衆の幸福を考えている団体である。
 ゆえに、わが創価学会を、さらに強くしてまいりたい。拡大してまいりたい。
11  「新世紀へ前進の年」は「新世紀へ人材をつくる年」
 そのために、若い人材が、ぐんぐん成長してもらいたい。二十一世紀は青年部に託す以外にない。青年部が焦点である。青年部は伸びてはいるが、もう一回、本格的に鍛えたい。育てたい。そして、立派に一切の総仕上げをお願いしたいのである。
 「新世紀へ前進の年」とは「新世紀へ人材をつくる年」である。こう決めて、全力をあげていただきたい。
12  人材は「実戦」のなかでしか、現実の戦いのなかでしか育たない。模擬練習では絶対に育たない。観念や組織上の形で、でき上がるのではない。口先だけ、形式だけ、気取った格好だけ――そんなうわべだけのものではない。
 本当の「実戦」しかない。人まかせでなく、自分が全責任をもつか、もたないか。人材の成長は、これで決まる。
 戸田先生の遺言は「上だよ」と。「会員じゃない。幹部で決まるんだ」と言い遺された。
 会長はじめ全幹部が先頭に立ち、もう一度、青年部を育てていきたい。
13  本年を有意義に総仕上げし、来年また、よき一年を迎えたい。
 すべてが仏道修行である。「すべてが仏になる修行なんだ」と、大きな心で進んでいきたい。
 また、いつも会場を提供してくださっている皆さまに、幹部は「誠実」と「礼儀」と「感謝」と、真心の「ねぎらい」がなければならない。当たり前と思ったら、大変である。
 きょうはご苦労さま。本当にありがとう! きょう、お会いできなかった皆さまにも、くれぐれもよろしく伝えていただきたい。楽しく、朗らかに進みましょう!

1
1