Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第2回本部幹部会 創価の大道を獅子と走れ

1996.8.29 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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2  エンクルマ初代大統領が一九六〇年、国連総会で獅子吼したスピーチは有名である。
 ちょうど私が第三代会長に就任した年である。
 「一人のアフリカ人である私は、いま……平和と自由の声をもって、全世界に、新しい時代の夜明けを告げようとしているのであります……私たちは数知れぬ迫害と苦難のために鋼鉄のようにきたえられ、不屈の勇気の城塞となり、私たちのクサリを粉砕するために、鉄のような意志をかためているのであります」(『わが祖国への自伝』野間寛二郎訳、理論社)
 鍛えられた人間には、かなわない。その人は何も恐れない。
 仏法は自身を鍛えるためにある。自分が強くなるためにある。強くなることが勝利である。最高の功徳である。その人が「幸福」になる。その人が「仏」になる。
 アフリカは立ち上がった。私は「二十一世紀はアフリカの世紀である」と言い切ってきた。今、その通りの方向になろうとしている。
3  ガーナを大変、愛し、たたえた詩がある。
 黒人解放の世界的リーダーであったデュボイス博士(一八六八年〜一九六三年)は、こう謳った。
  ガーナが能力と実力を 示すのは
  その色彩や花においてではなく
  その不思議な 魂の息吹きである
  その生命の 喜びであり
  その惜しみなく与える
  私心のない役割においてである
   (「ガーナは招く あがない主クワメ・エンクルマに捧ぐ」、「フリーダムウェイズ」編『黒い巨人――W・E・B・デュボイス』小林信次郎訳、山口書店)
 人間の価値も同じである。目に見える姿よりも、「魂の息吹」である。
 格好ではない。形だけの役職でもない。信心である。信念である。その人の心がどうかである。行動がどうかである。
4  難がなければ大聖人の弟子ではない
 日蓮大聖人は仰せである。
 「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」――少々の難は数しれない。(流罪などの)大きな難は四度である――。
 この御言葉通り、大聖人は数えきれないほど多くの迫害にあわれた。ゆえに、大聖人を拝し、直系の門下として進む私どもに難が起こるのは当然である。難を受けないのは、大聖人の弟子ではない。
 日蓮大聖人の流罪、大難は、「讒言ざんげん」(「讒言」とは、人を陥れるため、事実を曲げ、偽って、その人を悪く言うこと)によるものであった。
 「謗法人等の讒言に依つて聖人・頭に疵を負い左手を打ち折らるる上・両度まで遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され
 ――謗法の人間らの讒言によって、聖人(日蓮大聖人)は、頭に傷を負い、左手を打ち折られたうえ、二度まで遠い国に流罪された。弟子たちは、各所で射殺され、切り殺され――。
 「讒言」は常に、「正義の人」を陥れる手段である。事実をねじ曲げ、真実にまったく反するウソをつくりあげ、それによって攻撃する。これが迫害の方程式である。
5  大聖人は叫ばれた。
 「日蓮は日本国のはしらなり」と。
 しかし、当時の日本は、大聖人を迫害し、「日本国の柱」を倒そうとしたのである。その結果、大聖人の仰せの通り、蒙古が襲来し、大動乱の世の中となった。そして、これが遠因となって、鎌倉幕府は滅びた。
 今の日本も、善悪の基準がなくなり、このままでは世界から孤立し、衰亡してしまうだろうと、多くの人々が指摘している。
 大聖人は仰せである。
 「一切の人はにくまばにくめ」――一切の人は、憎むなら憎めばよい――。
 「然どもいまだこりず候」――(流罪され、殺されそうにもなった)しかし、いまだに懲りてはおりません――。
 いかなる迫害も、大聖人を屈服させることはできなかった。何があろうとも、正義を叫び抜かれた。
 正法の行者を迫害する人間たちは、生命の因果の理法によって必ず裁かれる。苦しんだあげく、ようやく目がさめるのである。
 今、わが創価学会こそが、日蓮大聖人の御言葉通りの実践をしている。これこそ、最高の誉れである。
 私は、皆さまに叫びたい。
 「獅子となれ! 強くなれ! 自分を鍛えよ! 何ものも恐れるな!」と。
 勇敢なる獅子として、創価の大道を走り抜いていただきたい。
6  世界と語り、世界を味方に
 ご存じのように、「世界の指導者と語る」第二部(=『私の世界交友録』〈読売新聞社〉として一九九八年に発刊)の執筆を開始した。
 私は、これまで、世界のさまざまな分野の方々とお会いし、語り合ってきた。
 一つの出会いは、小さな″点″のようなものかもしれない。しかし、そうした″点″と″点″が、やがて″線″となり″面″となっていく。
 また、「法」と言っても、「人」を離れて、「法」の広がりはない。
 世界の多くの指導者が、SGI(創価学会インタナショナル)を守り、たたえ、励ましてくださっている。諸天善神の梵天ぼんてん帝釈たいしゃくの働きとなっている。
 その意味からも私は、こうした方々との語らいを大事にし、その記録を後世に残しておきたいのである。書きたいと思う人物を挙げると、二百人以上にもなった。第二部でご紹介できるのは、その一部であることをご了承いただきたい。
 第一回は、やはり「女性の時代」であり、インドのソニア・ガンジーさん(ラジブ・ガンジー元首相の夫人)にした。お嬢さまのプリヤンカさんも大変に立派な方である。
 次に、ネパールのビレンドラ国王。最初の出会いの折(九五年十一月)、「これから何度もお会いしたい」と歓迎してくださった。
 第三回は、旧ソ連のコスイギン首相。二回、お会いした。お嬢さま(グビシャーニ女史)もまた、立派な方であった。
 次に、先日(六月)訪問したコスタリカのフィゲレス大統領。また、亡くなられたアメリカのノートン教授(デラウエア大学)。そして英国のアン王女、エジプトのホスニ文化大臣等と続く。
 毎週、書いていきますので、楽しみにしていただきたい。
7  先日、ゴルバチョフ元ソ連大統領の側近の方が、こう語っておられたという。報告があったので、ありのままに、お伝えしておきたい。
 「池田先生とゴルバチョフ元ソ連大統領との対談が実現したことは、だれよりもゴルバチョフ自身が一番、満足しています」
 「ゴルバチョフは、池田先生との対談で、初めて、自分の心の内を明かしたのではないでしょうか」
 「ゴルバチョフは、池田先生との対談によって、自身の宗教観を一変させました。どれほど『人間のための宗教』が大事であるかを、実感したようでした」
 「対談ができて一番喜んでいるのは、ゴルバチョフ自身だと思います」
 私とゴルバチョフ氏との対談を見守ってこられた方の率直な感想である。
 (二人の語らいは、対談集『二十世紀の精神の教訓』として、一九九六年七月、潮出版社から発刊。本全集だい105巻収録)
8  きょうは、「満月」。あいにく雲に隠れているようだが、そういう時も、心の中に「満月」を持てば、いい。心こそ大切である。
 これからが、「広宣流布」を実現する「本門のなかの本門の時代」である。
 戦いましょう! 獅子となって! 本日は、本当にご苦労さま。ありがとう!

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