Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第百回本部幹部会 「百福の人生」の歴史をつづれ

1996.5.24 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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1  百回の幹部会で仏法史上、未曾有の勝利が
 白ゆり合唱団の皆さま、素晴らしい合唱をありがとう! 見事です。
 台湾、韓国はじめ海外から来られた皆さまも、ご苦労さま。
 第百回の本部幹部会、おめでとう!
 現在の本部幹部会の第一回が行われたのは、一九八八年(昭和六十三年)の一月であった。以来、創価学会は、月一回の本部幹部会を軸に、仏法史上、未曽有の勝利の歴史を築き上げてきた。
 学会の幹部会について、戸田先生は非常に厳格であられた。
 ある時、先生がご病気になり、幹部会を開催するかどうかが問題になった。本部は、中止しようとした。
 しかし、先生は、中止を許されなかった。
 「絶対にやるのだ。私がいても、いなくても、やるのだ」と厳然と言われた。
 先生は、幹部会を本当に重視しておられた。本部幹部会には、それほど重要な意義がある。
2  百回の幹部会。この間、わが創価学会は、さまざまな難を勝ち越えてきた。
 悪侶の裏切りもあった。世界中にも、歴史上にも、あれほど悪い聖職者はいない――そう、だれもが叫んだ卑劣さであった。
 供養を貪り、皆を奴隷のごとく働かせ、自分たちは遊んでいる。皆が血涙で築き上げたものまで破壊し、また自分のものにしようとする――。仏典には「第六天の魔王」が説かれる。まさに、その眷属の姿であった。
 その他、ありとあらゆる三障四魔が押し寄せた。
 しかし、創価学会は微動だにしなかった。それどころか、かつてない大発展を成し遂げた。偉大なる勝利である。
3  「民が断固として揺るがなければ、どんなに困難があっても大丈夫である」――中国の古典に、このような趣旨の言葉がある。
 (『資治通鑑しじつがん』に「人心揺らがざれば、邦の本おのずから固し」――民の心が動揺しなければ、国家の根本は必ず堅固である――と)
 民衆が根本である。国も、表面でどんなに栄えているようでも、民衆の心が不安定であれば、未来は暗い。
 わが創価学会は、学会員の心が厳然としている。ゆえに勝利する。ゆえに未来は洋々と開けている。創価学会のごとき正法正義の団体は、今後、二度と、永遠に生まれることはないであろう。
 この偉大なる学会とともに進む皆さまは、まことに尊く、不思議なる方々であられる。偉大なる使命をもって生まれてこられた方々である。
4  行動! わが身を「百福」で飾れ
 「百」には、仏法上、深い意義がある。
 仏の三十二相の一つ一つは、修行によって得た「百」の福徳、すなわち「百福ひゃくふく」で荘厳されているとされる。
 法華経の化城喩品に、こうある。
 「世雄せおう等倫とうりんし 百福をもって自ら荘厳しょうごんし 無上の智慧をたまえり」――世の雄者である仏に等しいものはない。百の福徳をもって自らを荘厳し、無上の智慧を得られたのである――。
 皆さまも世を救っておられる。世雄に通ずる。
 「百福」について、大聖人は仰せである。
 「百福と申すは仮令たとい大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを本の如く一時に開けたらんほどの大功徳を一つの福として此の福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり
 ――百福というのは、たとえば大医(偉大な医者)がいて、日本国、中国、全インドの十六の大国・五百の中国(中くらいの国)・一万の小国、さらに一閻浮提、四天下、六欲天、その上にまた、三千大千世界(宇宙)の一切衆生が盲目になっているのを、いっぺんに、もとのように開かせた(ことで得られる)ほどの大功徳を一つの福として、この福を百重ねることによって、仏は三十二相の中の一相を成就したのである――。
 「百福」のうちの一つの福をみても、考えられないほどの福徳である。もし、あとの九十九の福を説明しようとすれば、明日までかかってしまう。
 妙法には、それらの福徳がすべて具わっている。それほど皆さまの福徳は絶大なのである。
5  「仏法」のため、「広宣流布」のため、そして「人間」のために、真剣に祈り、走り、行動していく。そこに大いなる福運がついてくる。
 「行動」もなく、ただ拝んでいる――それは日蓮仏法ではない。
 御書には「我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり」と示されている。
 「妙法蓮華経」を体に配せば、「妙」は「頭」。「法」は「喉」――のどは声を出す、すなわち法を説くことに通ずる。「蓮」は「胸」――心臓が二つの肺臓に包まれた姿が蓮に似ている。「華」は「腹」。そして、「経」は「足」にあたる。
 「足」とは、「行動」に通ずるともいえよう。「行動」があって初めて、真の妙法蓮華経となる。
 「行動」とは、日々の学会活動である。そこにこそ「百福」が積まれていく。
 広宣流布への行動を最後まで貫くことである。どんな道でも、歩みを途中で止めれば、目的地に到達できない。
 それと同じく、せっかく仏法の「無上道の軌道」に入っても、途中でやめてしまえば、それまでの努力も無駄になってしまう。成仏の境涯を得ることはできない。
 ゆえに、自らも「行動」し、人にも「行動」への励ましを贈る。それが正しい慈悲の軌道である。
6  百回の本部幹部会。私どもは、一回一回を尊い仏道修行の節目(ふしめ)として、そのたびごとに金剛不壊の福徳を積んできた。
 金剛不壊とは、金剛のように硬く、絶対に壊れないということである。世間の成功や幸運は壊れやすい。幻のようなものである。しかし、仏の境涯は、ひとたび築けば、永遠に壊れない。生々世々にわたって、福運に満ち満ちた、楽しくてしかたがないという人生が続くのである。
 「仏法は勝負」である。成仏できるかいなかである。その勝負は、この一生で決まる。「一生成仏」の信心である。だから「頑張りなさい」というのである。信心し抜いた人が最後の勝利者である。長い目で見れば、題目をあげきった人、行動しきった人には、だれ人もかなわない。
7  ″声″で皆に励ましを、喜びを
 仏の三十二相の一つに、「梵音声」がある。
 「梵音声」とは、声が明瞭で、遠くまで聞こえる、清らかである、聞く人を喜ばせ、勇気をわき出させる――そうしたすがすがしい声である。
 御聖訓に「声仏事を為す」と。
 妙法を唱えることは、御本尊を賛嘆することでもある。その声を聞いて、諸天善神が働き、唱える人を守る。何を言っているのかわからない弱々しい声では、諸天も動かない。
 ゆえに、朗々たる音声で、力強く、欣喜雀躍と題目をあげたい。
 また、指導といい、激励といい、折伏といっても、声で行う。どういう声かが大事である。どなり声、下品な声、冷たい声、威圧感を与える声――それでは仏法の素晴らしさは伝わらない。
 「いい声だな」「聞くと元気になるな」と言われるような、さわやかで温かみのある声で、皆を励ましゆくヒューマン・リーダーであっていただきたい。また、そうなることが、人間革命の一つの実証である。
8  秋谷会長からも紹介があったが、本部幹部会は、私が会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)から八七年(昭和六十二年)十二月までに三百三十九回。八八年(昭和六十三年)一月を再び第一回とし、きょう(二十四日)が第百回となった。
 そこで、皆さまの同意があれば、次回を新たな第一回として出発してはいかがだろうか。
 その場合、二〇〇四年秋に、第百回を迎えることになる。その時を目標に、堂々たる広布の前進の歴史をつづっていきたい。
 その翌年は待望の二〇〇五年――。
 「二〇〇五年五月三日」を記念して、世界の百二十八カ国の同志が集い合い、楽しく、にぎやかに、自由に祝ってはどうだろうか。
9  九州に刻まれた先師牧口先生の勇気
 きょうは、記念すべき第二十回の九州総会である。九州の皆さん、本当に、ご苦労さま。おめでとう!
 きたる六月六日は初代会長・牧口常三郎先生のお誕生日(一八七一年〈明治四年〉)。本年で生誕百二十五周年である。
 その佳節を、牧口先生とえにしの深い九州が、はつらつと総会で祝賀した。先生も、にっこりと笑みを浮かべて、九州の皆さん、久しぶりだねと、おっしゃられるにちがいない。
 牧口先生は、何度も九州に足を運ばれた。太平洋戦争が勃発する一カ月前、一九四一年(昭和十六年)の十一月にも、初の九州総会に出席された。もう寒い季節である。この年、先生は七十歳。「九州の友のためならば!」と、遠路もいとわず、列車に揺られ、はるばる九州まで行かれた。
 総会は、特高(特別高等)警察の陰湿な監視のもとで開催された。いつ逮捕されるかわからない。自由に拍手さえできない。戦争の暗雲も近づいていた。そうしたなかで先生は、堂々と総会を行われた。国を救い、民を救うために。何と荘厳なお姿であろうか。
10  軍部権力は、後に牧口先生を「治安維持法」違反の容疑で訴える。その起訴状の一部を紹介したい。
 「昭和十六年十一月五日頃より昭和十八年七月五日頃迄の間十回に亘り地方支部又は地方に在住する信徒の招聘しょうへいに応じ福岡県其の他の地方におもむき、約十五回にわたり福岡市二日市町武蔵屋旅館其の他に於て座談会又は講演会を開催し、其の都度講演、説話、実験証明等の方法に依り参会者数名乃至数十名に対し折伏又は信仰の強化に努め」等と。
 この起訴状それ自体が、牧口先生が九州をどれほど大切にされていたかを示している。
 広布の地盤として、牧口先生は九州に、戸田先生は故郷・北海道に、私は関西に命を注いだ。これで、全日本の要所を盤石にしたことになる。ここに、広宣流布の一つの方程式がある。
11  牧口先生は、逮捕後も勇敢に行動された。その毅然たる振る舞いは、取り調べの刑事・検事が驚くほどであった。すでに七十歳を超えた身である。しかも場所は、警視庁や、拘置所(東京・巣鴨)である。
 勇敢なる師匠であられた。広宣流布のかがみであられた。牧口先生の祈りが、殉教を覚悟した祈りの一念が、大九州の今日の大発展につながったのである。祈りとは、これほど偉大なのである。
 仏法では、功徳と罰について顕益けんやく冥益みょうやく顕罰けんばち冥罰みょうばちと、さまざまに説かれている。
 要は、命をかけた本当の祈り、本当の信心があれば、その時、目に見える結果として現れなくても、子々孫々の時代に必ず花開く。そのことに絶対の確信をもっていただきたい。
 目先ではない。末法万年尽未来際に向けて、私は手を打っている。その心は、日蓮大聖人が、牧口先生、戸田先生が、ご存じであると信ずる。
12  ここ東京牧口記念会館には、世界各国の元首級の方々も訪れるようになった。牧口先生の遺徳が世界に顕彰されている象徴である。
 (同会館には、各国の要人として、このスピーチの時点で、エルサルバドル共和国のクリスティアーニ大統領、タイ王国のガラヤニ王女、コロンビア共和国のガビリア大統領、チリ共和国のエイルウィン前大統領、インドのラジブ・ガンジー元首相夫人のソニア・ガンジー女史、ジブチ共和国のアプティドン大統領、コスタリカ共和国のフィゲレス大統領らが訪れている〈役職は訪問時〉)
 牧口記念会館には、九州広布の原点の地である「八女やめ」の石も埋納されている。
 また、九州の大功労者、故・田中シマ代さん(戦後の九州初の支部・八女支部の初代支部長)のお宅の庭の石も納められている。田中さんは、牧口先生が折伏された方であり、田中宅を先生は三度にわたり訪問されている。
 また現在、「牧口久留米講堂」の建設が進められている場所が池田山(八女郡広川町)である。
 池田山では、一九四〇年(昭和十五年)の秋、牧口先生が九州の学会員の招待で、松茸狩りをなさったことがある。この山の石も牧口記念会館に納められている。
 「牧口久留米講堂」の晴れの定礎(ていそ)式は、この五月二十二日に行われた。待望の講堂の建設を心から祝福申し上げたい。
 記念すべき総会を迎えられた「先駆の九州」の皆さま。ますます、お元気で! ご活躍を!
 そして九州、万歳! と心から申し上げたい。おめでとう!
13  香港の方女史――波瀾万丈に生きた楽観主義の母
 ご存じのように、さる五月三日、「香港総合文化センター」が落成した。山を背に、海に面した風光明美の景勝の地にある。
 開所式には、香港・マカオ各界の名士が、来賓として集ってくださった。その一人に、現代中国文化圏を代表する文豪・金庸きんよう氏もおられた。
 同センターへの期待を、氏は次のように語ってくださった。
 「今こそ、健全で、人生や社会に対して積極的な宗教、すなわち皆さんの『創価』の思想が望まれています。その意味で、この地(香港)に、新時代の平和を語る″対話の広場″ができた意義は大きい」と。
14  氏が創刊した雑誌の一つに、有名な月刊誌『明報』がある。その五月号に、小説『新・人間革命』(中国語〈繁体字〉版第一巻)の書評が掲載され、香港の方が届けてくださった。
 その雑誌を開くと、この三月、香港大学の名誉文学博士号を私とともに受けられた、著名な画家・方召麐ほうしょうりん女史の半生が、数ページにわたって紹介されていた。
 方女史については、今春の創価中学・高校の卒業式(一九九六年三月十七日)の折もスピーチさせていただいた。きょうは婦人部結成四十五周年のお祝いでもあり、女史のことをさらに紹介させていただきたい。
 女史は、私との出会いを喜んでくださり、先日も、ご自身が描かれた書画と見事な作品集などを贈ってくださった。大変、信義に厚い方であられる。
 (名誉会長は方女史と、香港大学の学長の招待による夕食会で、「人生」と「歴史」と「芸術」をめぐり語り合った)
15  女史は今年、八十二歳。波乱万丈の人生である。動乱の時代に生まれ、十一歳の時に父親を暗殺されてしまった。結婚してまもなく、日本軍の侵略に遭い、戦火の中、一家は中国の各地を転々とする。そのため、八人のお子さんは全員、出生地が別であるという。
 そのうえ、さらに大きな悲しみが襲いかかった。最愛の夫を病で亡くしてしまったのである。
 残された八人のお子さんは、一番上が十一歳。末っ子が三歳。まだ幼い。しかし、その逆境のなかから、女史は″よし! 立ち上がってみせる!″と奮起する。
 立派である。強い。生きて、生き抜いておられる。こういう大闘争にこそ人生の真髄がある。
 また仏法の真髄もある。少しのことで、すぐに文句を言ったり、ひるんだり――それでは真の信仰者ではない。
16  女史は、八人の子ども全員に、最高の教育を受けさせた。
 教育こそ、子どもへの最高の財産であろう。いつの時代にあっても、いずこの地であっても、教育で「人間をつくる」しかない。
 同時に、女史は、絵の修業も続けた。泥沼の中から真っ白い蓮華が咲くように、美しい絵を描いて一生を送ると決めていたからである。
 現在、八人のお子さんは国連職員、弁護士、医師、会社社長等と、各界の分野で立派に活躍されている。香港の行政長官というトップの要職に就かれたご令嬢は、今回、お母さん(方女史)とともに、香港大学の名誉博士号を授与された。
 女史は勝った。「母」として。「女性」として。「人間」として。本当に立派な生き方であると私は思う。
17  「働ける時に断固、働くのです」
 悠々自適の境涯となった現在でも、女史は、これまでと変わることなく、毎朝七時半に起きて、すがすがしく絵の練習を始められる。
 「私はこう生きる」――人生は結局、自分で決めるしかない。人に決めてもらうものではない。女史は「絵描きになる」と決めたから絵を描く。同様に、仏法者は仏道修行を行う。これが道理である。
 かつて女史は、師匠から次の言葉を贈られた。
 「人は三〇%の才能と、七〇%の努力で決まる」
 この師の一言を、彼女は片時も忘れたことはないという。
 「師匠」をもつ人は幸せである。師弟の道によってこそ、人間は「向上と成長の軌道」を進んでいける。「師匠」をもたない人は自由に見えるかもしれない。しかし、基準がなく「無軌道」の人生となっていこう。
 「一日に六、七時間も働いて疲れませんか?」との質問に、女史はこう答えている。
 「できる時に(絵を)描いておくのです。いつ何どき、働けなくなるか、わかりませんからね」
 「環境が許す時に、断固として筆をとって、努力を続けなければなりません」
 「環境が許す時」とは、健康の時ともいえる。病気になれば、働きたくても、動きたくても、思うようにはできない。自らが決めた道を歩めること自体、幸福なのである。ゆえに、健康な時に労を惜しまず、広宣流布のために働くことである。努力することである。
 要領よく、表面だけは、やっている格好をして、その実、大変なことは人にやらせ、うまく泳いでいく――それでは人生は失敗である。自分で自分を崩してしまう。中途半端は、最後には必ず後悔するであろう。
 「徹する姿勢」――これこそ、幸福のカギである。
 人生、あっという間に過ぎてしまう。わが道に徹して、「後悔なき所願満足の人生」をつづってまいりたい。
18  人生の幾山河を乗り越えてきた方女史。
 女史が描く人物は皆、伸びやかに楽しそうな表情をしているといわれる。
 彼女自身、とても楽観的な方であり、大(おお)らかな境涯を感じさせる方である。その楽観主義の泉は、どこにあるのか――。女史は語っている。
 「小さいところから物ごとを見てはいけません。小さなことに悩んでいると、いざという時、小さなことにとらわれて、解決できることまでも解決できなくなってしまいます。
 大きいところから物ごとを見れば、解決できないようなことも、おのずと解決できるようになるものです」
 大局観に立てば、人生は開ける。なすべきことが見えてくる――これも人生の重要な智慧であろう。
 きょうは記念すべき「第百回」おめでとう!長時間ご苦労さま。ありがとう!

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