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日蓮大聖人・池田大作

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5・3記念祝賀式典 勇気で勝て「栄光の人生」

1996.5.3 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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1  永遠に「大聖人とともに」「同志とともに」
 「創価学会の日」、本当におめでとう。
 きょうの晴れやかな五月の空。この素晴らしき快晴こそ、諸天善神が私どもを守り、祝福している象徴と感じる。
 各部の代表をはじめ、全国、全世界の同志の皆さまに心からお祝い申し上げたい。
 この会場(創大記念講堂)には、アメリカ、ブラジルの名士、多くの国々の来賓をお迎えしている。
 また日蓮大聖人直系の僧侶方をお迎えでき、大変にうれしく、心から御礼申し上げたい。
2  昭和五十四年(一九七九年)五月三日。あの日の歴史を一緒に刻んだ神奈川の同志のことを、私は忘れない。
 この年の四月二十四日、会長を勇退。その直後の五月三日であった。あの時も、勇退の陰に、私を追い落とそうとする策謀があった。
 その5・3の集いは、創価大学の体育館で行われた。(名誉会長に拍手さえしないよう、しむけられた異様な会合であった)終わってすぐ、東京の本部ではなく、神奈川(神奈川文化会館)へ向かった。そこで、時を待ち、次の戦いを準備しよう、と。
 神奈川の同志は、一面は悲しかったかもしれない。しかし、温かく迎えてくださった。「先生は必ず立ち上がる」と信じておられた。同志の真心を、私は永遠に忘れない。
 一番、大変な時に、何を決意し、どう行動したか。これで人生は決まる。ここに人間の真価があり、偉さがある。
 思えば、神奈川の先達である四条金吾は、あの「竜の口の法難」の時、「どこまでも大聖人とともに!」と勇敢に戦った。
 ″永劫に大聖人と離れない″──この決意、この境涯が「師弟」の道である。信心の究極である。
3  「強い自分」をつくるのが修行
 まことに有名な御書であるが、今一度、拝したい。
 「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・かなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみなぐるが如くこそ候はんずれ
 ──返す返す今も忘れないことは、頸を切られようとした時、殿(四条金吾)が私の供をして馬の口に取りつき、泣き悲しまれたことです。これを、いかなる世に忘れることがありましょうか。
 たとえ殿の罪が深くて地獄に堕ちられたとしても、その時は、日蓮に「仏になれ」と釈迦仏がどんなに誘われようとも、従うことはないでありましょう。あなたと同じく、私も地獄に入りましょう。日蓮と殿とが、ともに地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も地獄にこそおられるに違いありません。たとえば闇の中に月が入るようなものであり、湯に水を入れるようなものであり、氷に火をたくようなものであり、太陽に闇を投げつけるようなものでありましょう。(それと同じように地獄であっても寂光土となるでしょう)──。
 権威でもない。利害でもない。あまりにもあたたかな「人間性の精髄」の御言葉である。
4  社会には数多くの未知の人がいるが、そのなかで、青年は一体、どういう人々に近づくべきか? いつの時代にも変わらぬ重大な課題である。
 十九世紀フランスの歴史家ミシュレは、こう答えた。(『学生よ』大野一道訳 藤原書店)
 「強い人々に、(自分を)強くしてくれる人々に近づきなさい」と。
 弱い人々に近づけば、自分も一緒に安易な堕落の方向に向かってしまう。
 それでは、強い人とはだれか?
 この歴史家によれば、それは「天才」と「民衆」である。しかも「天才」とは、「あらゆる人々の中で最も近づきやすい人」であり、「最も気さくな人」である。いわば「民衆以上に民衆」である。
 気むずかしく、いばっているのが天才なのではない──と。卓見であると思う。
 私にとってはまさに、戸田先生がその「天才」であった。
 また「最も強い人」とは、日蓮大聖人であられる。
5  仏道修行とは、一次元からいうならば、民衆の中に飛び込んで、「わが生命を限りなく強くする」修行である。「何があっても乗り越えていける!」「どこに行っても切り開いていける!」──そういう強い強いダイヤモンドのごとき自分をつくりあげるための学会活動である。
 そして「難」とは、永遠に崩れない「金剛不壊の自分自身」を一気に鍛え上げるチャンスなのである。
 大聖人は大難を恐れるなと仰せである。「妻子眷属けんぞくを憶うこと莫れ」、「縦ひ頸をば鋸にて引き切り」云々と、厳しく殉教の精神を教えてくださっている。それも、すべて「仏になる道」を示してくださっているのである。
6  識者も「宗教者こそが人類を癒す」と期待
 わが青年部は、あの四条金吾のごとく、「大聖人とともに!」の一念で進んでいただきたい。また「牧口先生とともに」「戸田先生とともに」、私とともに進んでいただきたい。
 この師弟共戦の心が、創価学会の真髄であり、真の「民衆のスクラム」であると断言したい。どうか、最高に価値ある青春の歴史を残していただきたい。
 「青年の時代」である。二十一世紀は目前である。諸君が立つ以外にない。全部、諸君に託す時代が来た。
7  先日(四月二十四日)、ハワイ大学のチャペル教授と対談した。対談の二日前には、教授は東洋哲学研究所とボストン二十一世紀センターの共催による特別公開講座で、「二十一世紀における菩薩の公共的役割」と題し、講演された。
 教授は次のように述べられた。
 「国家が宗教を支配すると、宗教弾圧に道を開くことになる。一方、宗教と国家がまったく隔絶されれば、安穏だが社会に何の役にも立たない宗教となってしまう。
 核兵器や環境破壊などの危機にさらされた現代世界を、貪欲な人たちに任せるのは危険です。
 宗教者こそ人類を癒嫌し、世界に価値を創造することができるのです。決して宗教者を孤立させてはなりません」(要旨)
 (チャペル教授は一九九五年、「信教の自由」を守る信念から、日本の「宗教法人法」改悪に反対し、日本政府に二度にわたる抗議書簡を送っている)
8  また、教授は「二十一世紀に私たちが必要とするのは、『宗教的になること』です。そして、その方途を模索することであり、その答えは菩薩道にあります」と語っておられる。
 仏教における菩薩の精神に大変、注目され、「創価学会こそ、そうした菩薩の精神を体現した団体である」と期待を寄せてくださっている。
 私どもは、こういう世界の期待に応え、獅子のごとく、何ものも恐れず、堂々と前進してまいりたい。
9  母の微笑みは世界をつつむ
 きょうは「創価学会母の日」である。学会のお母さま方に、心から感謝申し上げたい。
 また、素晴らしい合唱ならびに演奏、ありがとうございます。
 世界的な音楽家であるビエイラ氏には、「母」の曲で「創価学会母の日」を祝福していただき、深く御礼申し上げたい。
 感謝の思いを込めて、ビエイラ氏の祖国・ブラジルの「母の詩」を紹介したい。ブラジル文学アカデミーの会員であった著名な作家コエーリョ・ネット(一八六四年〜一九三四年)の詩の一節である。
 その詩は──
  「『母』は 悲しい涙があっても微笑みを忘れず 勇み立ちゆく!
   『母』は 何も持たずとも世界を包みこんでゆく!
   『母』は 皆の楽土を創るために悩みゆく!」
10  わが創価学会を築いてくださったのも、こうした「母」のたくましさであり、朗らかさであり、真剣さである。地位も名声もない「母」の力である。
 庶民の母たちが、悪口を言われながらも、一生懸命、くる日も、くる日も、人を救い、広宣流布を進めてくださったから、今日の学会がある。
 学会は、そういう母の祈りと行動でできた、世界一の「民衆の城」である。
 ゆえに、学会を大切にしていただきたい。婦人部を大切にしていただきたい。
11  また、ブラジルの有名な女性詩人・コラリナ女史は、母たちにこう呼びかけた。
 「貴女(あなた)には、生まれついての母性がある!
 ゆえに貴女の胸には『人類』そのものが抱かれている!」
 母は偉大である。広宣流布の地道な活動も、すべて支えてくださっている。「男性は口ばかり」という人もいる。母には、かなわない。この世で最も尊いのは、母の心である。
 皆さまも、お母さんを大切にしていただきたい。親孝行できる人が偉い人である。
 仏典には、親孝行の究極に仏法があり、仏とは最高に親孝行の人であると説かれている。
 わが偉大なる「創価の母」たちに、最大の敬意と感謝を込めて拍手を贈りたい。
12  きょう五月三日を世界中で祝賀している。
 香港では「香港総合文化センター」が盛大にオープン。素晴らしい景勝の地であり、香港各界の名士が集って式典が行われている。
 また地球の反対側の南米・アルゼンチンでは、絢爛たる「SGI平和講堂」の開館式。これにも、国を代表する来賓が見えられる予定である。
 アメリカ・マイアミには「フロリダ自然文化センター」が、まもなくオープンする運びである。きょうの来賓のブラスナー博士が名誉館長、夫人が名誉副館長に就任される。
 サンパウロ市郊外の「ブラジル自然文化センター」も整備が進んでいる。
 あの国にも、この地にも──「太陽の仏法」が大きく広がり、世界中を照らしている。大聖人の仰せの通りである。
 また、世界中の会館は、すべて我が同志の皆さまの宝である。将来、ぜひ訪問していただきたい。
 これほどの世界的発展であるゆえに、妬まれるのも、しかたがない。
 牧口先生は「妬むよりも妬まれるほうがよい」と言われた。まったく、その通りである。
13  アルゼンチンの著名な文学者・ボルヘスはうたった。
 「あらゆることのなかで、ただ一つ
  後悔しないことがある
  この地上において、だれ一人として
  それは″勇敢であった″ということだ
  勇気は常に最高のものである」
 人生を″勇気で勝て″ということである。後悔に苦しむ人生は不幸である。
 「私は勇敢だった」「私は戦った」。そう言い切れる人生は幸福である。
 勇気はタダである。だれにでも勇気は出せる。勇気こそ学会精神の異名である。
 戸田先生は言われた。
 「仏様は大慈悲であられる。しかし、私たち凡夫が慈悲を出そうとしても、なかなか出るものではない。その慈悲に代わるのは勇気である」と。
 「勇気」をもって、広宣流布に動くとき、結果として「慈悲」の行動になっているのである。
 牧口先生は牢に入れられても厳然と戦われた。勇気で勝ったのである。
 戸田先生は投獄されようとも、事業が倒れようとも戦い抜かれた。勇気で勝ったのである。
 私も、勇気で勝った。これからも勝っていく。
 皆さまも、勇気で勝利し、日蓮大聖人にほめられる一生をつづっていただきたい。「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」である。大聖人にほめられてこそ、永遠の名誉である。
 これからも、「何ものをも恐れぬ勇気」で、偉大なる悔いなき人生の栄光を飾っていただきたいと申し上げ、記念のスピーチを結びたい。きょうは、ありがとう! おめでとう!

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