Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九十九回本部幹部会、全国配達員大会、… われらは希望の灯台、威風堂々と前進

1996.4.23 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

前後
2  大座談会運動が、全国各地で、毎月、毎回、大成功、大勝利の歴史をつづっている。その楽しき行進は、大きな反響を広げている。
 法華経の随喜功徳品には、こう説かれている。
 「若し講法こうぼうところいて 人を勧めてして経を聴かしめん の福の因縁いんねんをもって 釈梵転輪しゃくぼんてんりんの座を得ん」(開結五四〇㌻)
 ──もしも仏法を講義する場所において、座って教えを聴くよう、人に勧めたならば、この福の因縁によって、帝釈天、梵天、転輪聖王の座を得るであろう──。
 戸田先生も、よくこの経文を引いて、いろいろお話をしてくださった。帝釈天、梵天、転輪聖王とは、現代的にわかりやすく言えば、大指導者、最高のリーダーといえようか。
 「あの友を座談会に!」と誘い合い、集い合って、仏縁を結び、法を説き、信心を深めていく。こんな尊いことはない。
 法華経に明瞭に説かれているように、皆さまのこの地道な実践は、生々世々、最高の指導者となり、自由自在の活躍をしていく福徳を積んでいるのである。
 私も、若き日に、率先して座談会に取り組んだ。あの地へ、この地へ、駆けずり回った。動きに動いた。語りに語った。この戦いで、永遠にわたる絶大な福運が、わが生命に積まれたと確信している。
 関西では、同志とともに、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた。東京の蒲田支部では、それまでの限界をいっぺんに打ち破って、弘教を倍増させた。
 (昭和三十一年(一九五六年)、大阪支部で、座談会を中心とした活動を展開し、五月度の折伏成果一万一千百十一世帯という金字塔を打ち立てた。また、また、昭和二十七年(一九五二年)二月には、蒲田支部の支部幹事として折伏成果二百一世帯を達成。それまで百世帯前後だった支部の弘教の限界を破り、学会の大前進の突破口を開いた)
3  「行動者」こそ「仏法者」
 仏法は「行動」である。南無妙法蓮華経の「経」には「行動」の意義も含まれる。「行動」がなければ、真の南無妙法蓮華経にはならない。観念のままである。
 「行動」してこそ、妙法の本当の大功徳が全身にみなぎるのである。
 法華経(法師功徳品)は、さらに説いている。
 「いかいわんや一心に聴き 其の義趣ぎしゅ解説げせつし 説のごとく修行せんをや 其の福限るべからず」(開結五四〇㌻)
 ──ましていわんや、(仏法を)一心に聴いて、その教えの意味を人に説き、(仏が)説かれるように修行する福は限ることができない──。
 「其の福限るべからず」──皆さまには、限りない、はかりしれない福徳が積まれていることを確信していただきたい。
 本日の会合に参加されているSGI(創価学会インタナショナル)の春季研修の皆さまに、重ねて、ご苦労さまと申し上げたい。皆さまが、各地の座談会に出席し、さわやかに、大きな歓喜の波動を広げてくださったことに対し、学会を代表して、謹んで御礼申し上げたい。
 法華経に照らし、御書に照らして、皆さま方の福徳もまた無量無辺である。
4  「妙法の世界」即「学会の世界」には無駄がない。
 学会活動には、一切、無駄がない。やった分だけ、全部、生かされる。だから、行動したほうが得なのである。
 学会を支えてきた重鎮中の重鎮であられた故・小泉隆元理事長がよく語っていた。「テレビを見ても、疲れるだけ。喫茶店に行っても、映画を見ても、家で寝そべっていても、結局、疲れて、むなしいだけ。やっぱり、一番、元気になるのは学会活動です」と。
 皆さまにも、同じような経験があるのではないだろうか。たまにさぼるからいいのであって、毎日さぼっていたら、むなしいだけである。
 座談会という、仏法運動の先頭に立って活躍している皆さま方が、二十一世紀、二十二世紀、そして末法万年にわたり、大指導者として生まれ、活躍していくことは、はっきりと法華経に約束されている。今は、そのための訓練なのである。
 永遠の生命である。私たちの舞台は、今世だけではない。目先だけを見ていてはならない。目先にとらわれるのは、畜生界の境涯である。私たちは、三世を舞台に、壮大なる広宣流布の行進を続けてまいりたい。
5  瞬間瞬間を賢明に生きた輝き
 現在、東京富士美術館で「ラジブ・ガンジー写真展」が開催されている。
 写真というのは、二度とない″瞬間″を切り取って″永遠″に残すものである。
 瞬間瞬間を、どれだけ懸命に生きたか。どれだけ生命を注いだか──これが人生万般にわたる重要な問題である。芸術やスポーツでも同じである。
 その意味で、ラジブ元首相の写真には、真剣に生き抜いた生命の輝きを感じる。
 仏の別名を「如来」という。如来とは、如々にょにょとしてきたる、すなわち瞬間瞬間の生命という意義があるといわれる。
 「過来からい」「如来」「未来」──過去と未来に対して、今、この瞬間瞬間に、躍動し、創造し、拡大し続ける偉大な生命力を意味すると考えられる。
 瞬間たりとも妙法の軌道をはずれない。宇宙の根本のリズムをはずれない。それが仏である。妙法と一体である。
 瞬間でも軌道をはずれてしまえば、列車でも脱線である。「無上道」という、この上ない軌道の上を、瞬間瞬間、最も楽しく、最も力強く生き抜いていく。その信心即生活にこそ「如来」の生命は輝いている。
6  私も折々に写真を撮影している。しかし、決して趣味や遊びで撮っているわけではない。写真を撮り始めたのは、以前、体調を崩した際に、カメラ会社の方から「気分転換に、いかがですか」と、お見舞いにカメラをいただいたことが、きっかけであった。
 その後、ある人から「絵は高いので写真を会館に置いてはどうでしょう。随分と明るくなるのでは」との提案があった。たしかに絵は高い。全会館を飾ることを考えたら、いくらお金があっても足りない。かといって何もないのでは殺風景である。
 以来、「会員の皆さまが少しでも心を潤していただければ」との思いで、撮影した写真を会館に飾らせていただいている。
 これも、ひとつの知恵である。仏法は知恵である。生活も知恵である。知恵さえあれば一切を生かしていける。幸福へと向かわせていける。
7  インディラ・ガンジー女史「私は使命に進む!生ある限り」
 ラジブ元首相のお母さんは、インドの第三代首相であるインディラ・ガンジー女史である。女史もまた、息子のラジブ元首相と同じように暗殺された。凶弾に倒れたのは、一九八四年、享年六十六歳であられた。
 暗殺の危険は、女史に絶えずつきまとっていた。しかし女史は最後まで、神々しいほどに毅然たる姿を貫いた。今回の写真展にも肖像写真が展示されているが、その一端がうかがえる。
 何があっても恐れない──これが幸福の根本である。何があっても厳然と前へ進む──これが人間の勝利の境涯である。
 低次元の批判や中傷を気にしたり、圧迫を恐れていては、一歩も前へ進めない。何も残せない。何であれ、本気で戦えば、ねらわれるのは当然である。いわんや信仰の究極は殉教である。
8  女史は、自身の宿命を覚悟していたのか、暗殺される前、ラジブ氏と夫人のソニア女史に、自分の葬式の段取りについて言い残したという。また、当時、十代の半ばであった孫のラフル少年に、こう語った。
 「私が死ぬときが来ても、あなたは勇者でありなさい。私は人生を生き切りました。なすべきことをすべてなし遂げ、できることをすべてやり切りました。だから私のために泣いてはなりません」
 何と崇高な言葉であろうか。こういう決意で、民衆のために戦っている指導者が、今、どこにいるのか。
 『私の世界交友録』(読売新聞社)にもつづったが、インディラ女史は、暗殺される直前の「最後のスピーチ」で語っている。
 「私が生きるか死ぬかは問題ではありません。生ある限り、私は使命に進みます。そして私が死んだなら、私の血の一滴一滴は、『自由』にして『分断されない』わが祖国を養い強める糧となるでしょう!」
 民衆よ、「自由」を失ってはならない。悪人によって「分断」されてはならない。団結して前へ進め! そのために私はこの身を捧げましょう、という叫びである。
 この一念、この信念、この誇りをもって一生をつづった──立派である。
9  それは学会の生き方であり、仏法の生き方に通ずる。私は女史の姿に、学会の草創の婦人部を思い起こす。
 わが草創の同志は皆、名もなく、貧しく、言うに言われぬ宿命を抱えながら、毅然と戦い抜いた。生き抜いた。そして、それぞれに勝利の姿を示しながら、人生を終わっている。子どもたちを立派な人材に育てようと苦労し、また育て抜いて人生を飾っている。
 この草創の精神こそ、学会の骨格なのである。
10  今回の写真展に際して、ソニア女史とともに、りりしい青年に育ったラフル氏と、令嬢のプリヤンカさんが来日され、私も親しく語らいを重ねた。
 まさに「宿命」を「使命」に変え、偉大なる使命の道を堂々と進まれているご一家である。
 感傷もない。悲観もない。悲嘆もない。祖国インドのために、夫の、そして父の遺志をついで、私たち一家は戦います──こういう決心であられた。
 ソニア女史をラジブ・ガンジー家の私邸に訪ねたのは、元首相暗殺の悲劇から九カ月の時であった。(九二年二月)
 最愛の夫を亡くした悲しみは、癒えようはずもない。私は、せめてもの励ましを贈った。
 「難しいでしょうが、振り向かず、前へ、前へと進んでください。それが、貴国が生んだ釈尊の教えです。ご主人の一番、喜ばれることです」
 私は、一生涯、ご一家とインドのますますの繁栄を祈っていく。
11  すべての人を常楽我浄の航路へ
 日蓮大聖人は、建治四年(一二七八年)二月二十八日の御手紙でこう記されている。
 「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり
 ──末法の凡夫が、この法門を聞くならば、ただ自分一人のみが成仏するのではない。父母もまた即身成仏するのである。これが第一の親孝行である──。
 また「父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり」──父母の成仏は、すなわち子どもの成仏である。子どもの成仏は、すなわち父母の成仏である──と仰せである。
 お父さん、お母さんが、信心で立ち上がれば、子どもを必ず救える。また子どもの成仏は父母の成仏を約束するのである。
 「一つの灯台」があれば、その明かりに照らされて、多くの船は皆、「安全な航路」へと導かれる。同じように、一人が信心で立ち上がれば、その人が、一家・一族の「希望の灯台」である。自分が輝けばよいのである。そうすれば、お父さんも、お母さんも、また縁するすべての人を三世永遠の「常楽我浄の航路」へと導いていける。「与同利益よどうりやく」を与えていける。
 ゆえに、焦る必要はない。お父さん、お母さんを尊敬し、大切にし、心から幸福を祈っていけばよいのである。その真心が通じることが根本である。
 周囲ではない。環境ではない。組織がどうとか、幹部がどうとかではない。それらに紛動されては自分が損である。
 大切なのは「一人」である。「自分自身」である。自分自身が厳たる灯台として喜びに輝き、堂々と生き抜いていけばよいのである。自分が輝けば、人生に闇はない。
12  大勝利は深き信心の「陰徳陽報」
 神奈川の総会、おめでとう!
 神奈川の大先輩ともいうべき四条金吾──彼は、いわば″神奈川支部″のリーダーであった。大聖人が金吾に送られた御書を拝したい。
 「人のよに・すぐれんとするをば賢人・聖人と・をぼしき人人も皆そねみ・ねたむ事に候、いわうや常の人をや、漢皇の王昭君をば三千のきさき是をそねみ帝釈の九十九億那由佗のきさきは憍尸迦きょうしかをねたむ、前の中書王をば・をの小野の宮の大臣是をねたむ、北野の天神をば時平のおとど大臣是をざんそう讒奏して流し奉る、此等をもて・をぼしめせ
 ──ある人が世のなかで傑出しているようであると、賢人・聖人と思われる人々さえも、皆そねみ、妬むものです。まして、ふつうの人々は、いうまでもありません。中国・漢の元帝げんていの宮廷にいた王昭君を、三千人の宮女たちが嫉みました。(王昭君が美人であったためです)。帝釈天の九十九億那由佗の后は、憍尸迦きょうしか夫人を妬みました。
 (また日本では)「前の中書王」兼明親王かねあきらしんのうを、藤原実頼さねよりが妬みました。菅原道真すがわらのみちざねを、左大臣の藤原時平は讒言ざんげんし、(九州ヘ)流したてまつりました。これらの例をもって考えれば、おわかりでしょう──
 大聖人は、歴史をひもときながら、「嫉妬」という、どうしようもない人間社会の業を、わかりやすく教えてくださっている。
 (賢人・聖人と思われる人々でさえ嫉妬する──賢人・聖人ではないが、日顕は法主の身でありながら優秀な信者を妬んだ。その姿の本質を大聖人が教えてくださっていると拝される)
 今は、この嫉妬による迫害が、より大規模に、より日常的に行われている時代かもしれない。ともあれ、嫉妬するよりも、されたほうが、すごいのである。優れている証明なのである。
13  この道理を教えたうえで、四条金吾の苦境について、大聖人は次のように仰せである。
 「入道殿の御内は広かりし内なれども・せばくならせ給いきうだち公達は多くわたらせ給う、内のとしごろ年来の人人・あまたわたらせ給へば池の水すくなくなれば魚さわがしく秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らんに度度の仰せをかへし・よりよりの御心にたがはせ給へばいくそばくのざんげん讒言こそ候らんに、度度の御所領をかへして今又所領給はらせ給うと云云
 ──あなたの主君・江間入道殿のご領地は、広かったのですが、今は狭くなられた。(そのうえ)一族の子息たちは多く、長年の家来も大勢いらっしゃいます。それゆえ、池の水が少なくなれば魚が騒がしくなり、秋風が立つと小鳥が争って梢を奪い合うのと同じように、どんなにか領内の人々が、(領地をもらった)あなたを嫉んでいることでしょう。
 あなたは、(信仰のゆえに)度々(たびたび)の主君の仰せも聞かず、折々の主君のご希望にもそわなかったので、どれほど多くの讒言があったことでしょうか。ところが、たびたび頂戴した領地も返上していながら、今また領地をいただいたと、うかがいました──。
 信心強き四条金吾は周囲から讒言されて、主君の不興を買っていた。それが今、主君から領地を賜ることになった。これは、あなたの信心の勝利なんですよ、と述べられている。
 いわば職場で立派な実証を示した、勝ったということである。仏法即社会である。信仰即生活である。社会で勝ち、生活で勝ってこそ、信仰者なのである。
14  四条金吾の勝利を、大聖人は、こうたたえておられる。
 「此れ程の不思議は候はず此れひとえに陰徳あれば陽報ありとは此れなり」──これほどの不思議はありません。まさに「陰徳あれば陽報あり」とは、このことです──。
 「ひとえに貴辺の法華経の御信心のふかき故なり」──ひとえに、あなたの法華経(御本尊)へのご信心が深いからです──。
 「深き信心」が大事である。「深き祈り」こそ勝利の力である。目に見えない祈り、陰の真剣な行動。その「陰徳」に徹した時に、必ず「陽報」が現れる。これが信心であり、妙法である。
15  「最高の5・3」を全世界の同志と祝福
 今年も「栄光の五月三日」を、全国、そして全世界の同志とともに、威風堂々と迎えることができた。
 これだけの嫉妬と策略が渦巻くなか、わが創価学会は、三類の強敵を迎え撃ち、ますます威光勢力を増しながら、「最高の五月三日」を飾ることができた。
 大聖人も、また牧口先生も、戸田先生も「あっぱれ! 見事である!!」と喝采しておられると信ずる。
 御書に仰せの通り、この大勝利も、すべて皆さま方の気高き「陰徳」があればこそである。そして、わが学会員に「深き信心」がみなぎっている証拠である。全同志に、心から感謝申し上げたい。
 楽しく「五月三日」を迎えましょう! ありがとう!

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