Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表者会議 リーダーは「四菩薩の力」を発揮せよ

1996.3.29 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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2  生と死は人生の根本問題である。しかし多くの人々は、ここから目をそらして生きている。
 御書には仰せである。
 「涅槃経に云く「人命の停らざることは山水にも過ぎたり今日存すと雖も明日保ち難し」摩耶経に云く「たとえば旃陀羅の羊を駈て屠家に至るが如く人命も亦是くの如く歩歩死地に近く」法華経に云く「三界は安きこと無し猶火宅の如し衆苦充満して甚だ怖畏すべし」等云云、此れ等の経文は我等が慈父・大覚世尊・末代の凡夫をいさめ給い、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり、然りと雖も須臾も驚く心なく刹那も道心を発さず、野辺に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざらんがために、いとまを入れ衣を重ねんとはげむ、命終りなば三日の内に水と成りて流れ塵と成りて地にまじはり煙と成りて天にのぼりあともみえずなるべき身を養はんとて多くの財をたくはふ
 ──涅槃経には「人の命が、この世にとどまらないことは山の水の流れ去るよりも、すみやかである。今日、生きているとしても、明日の命は保ちがたい」と説かれている。摩耶まや経には「たとえば旃陀羅せんだらが羊を追い立てて、(羊が)殺される場に行きつくように、人の命もまた、このように一歩一歩と死地に近づいているのである」と。
 法華経(の譬喩品)には「人の住するこの三界は、安泰ではない。火に包まれた家のようである。もろもろの苦悩が充満して、はなはだ恐るべき世界である」等と説かれている。
 これらの経文は、われらの慈父である大覚世尊だいかくせそん(釈尊)が末代の凡夫をいさめられ、幼子おさなご(衆生)を目ざめさせようとされた経文である。
 しかしながら、少しも目ざめる心がなく、道を求める心を一瞬も起こさない。死んで野辺に捨てられたならば一夜のうちに裸になってしまう身を飾るために、時間をかけて、美しい衣服を重ね着ようと励んでいる。命が終われば三日の内に水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく見えなくなってしまう身を養おうとして、多くの財産を蓄えている──。
 今もまた、この通りの姿であろう。ますます、ひどくなっているかもしれない。生死しょうじという根本問題を避けて、いかなる繁栄をみても、根なし草であり、砂上の楼閣ろうかくである。
3  わが生命に「仏界の大地」を固めよ
 「無常の人生」──しかし、ただ無常を自覚しただけでは、しかたがない。世をはかなんでも価値はない。問題は、この「無常の人生」で、どう「永遠の価値」を創っていくかということである。それができるというのが法華経である。
 日蓮大聖人は、法華経を行ずる人間の生死を、簡潔に、こう仰せである。
 「自身法性の大地を生死生死とぐり行くなり」と。
 すなわち妙法を信仰した者は、法性の大地、仏界の大地の上を、「生」の時も、「死」の時も悠々と前進していく。大白牛車という壮麗な最高の車に乗って自在に進むのである。
 「仏界の大地」とは、絶対に崩れない幸福境涯のことである。大地のごとく盤石に固めに固めた自分自身の成仏の境涯である。その境涯を固めたら、三世永遠に続く。だから「今世で頑張りなさい」というのである。
 自分自身が「法性の大地」の上を、「生も歓喜」「死も歓喜」と前進する。これが「生死生死とめぐり行くなり」である。
4  進むのは「自身の大地」の上である。「他人の大地」で進むわけにはいかない。幸福は絶対に、自分自身で築くものである。人から与えられるものではない。人から与えられたものは崩れてしまう。
 親に頼っても、いつか親はいなくなる。夫に頼っても、いつ夫が先立つかわからない。また時代の変化で、いつどうなるかわからない。五十年前の戦争の前後にも無数の悲劇があった。
 本当の幸福は、自分自身の力、自分自身の智慧、自分自身の福運、これが根本である。それを固めるための信心であり、自分自身が強くなるための学会活動である。それが「自身法性の大地を」と説かれた意義である。
 「いかなる処にて遊びたはふるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」──いかなるところで遊びたわむれても何の障害もないであろう。どこに遊び行こうとも恐れがないことは、師子王のごとくなるであろう──
 必ず、この御文のようになる。三世永遠になる。そのための信仰である。
 「自身の大地」を永遠に進むのである。死んで「天国」へ行くのでもなく「地の底」へ行くのでもない。同じ「大地」の上で、また「生死」「生死」と使命のドラマを演じる。三世の果てまで、「広宣流布」の黄金の大道を進むのである。
 「わが仏界の大地の上を、生も歓喜、死も歓喜と進め!」「その大地を固めよ!」──これが日蓮大聖人の仏法の燦然たる生死観である。
5  昨日(二十八日)は、インドのモハン博士と有意義な語らいをもった。博士はインド最高裁判所の判事を務めた法学者であると同時に、著名な詩人でもあり、インドの良識を代表する人物である。その折、ネルー首相(独立インドの初代首相)のことも話題になった。
 インド独立への炎が、力強く燃え上がっていた一九二一年の十二月──。若きネルー(三十二歳)は、不当に逮捕される。以来、投獄されること実に九回、通算三千二百六十二日(約九年)に及ぶ獄中闘争を行った。打ち続く艱難にあっても、ネルーは、またインドの民衆は、たくましく朗らかであった。
6  前進!「人道の勝利」へ戦う喜び
 ネルーは獄中から、娘(のちのインディラ・ガンジー首相)に書き送っている。
 「男も、女も、そして少年も少女も、すこしばかりの苦労や苦痛をなんとも思わず、微笑をうかべながら、インドの道を前進するありさまをみることは、なんとすばらしいことではないか!
 そうだ、かれらはにこやかにわらい、幸福を感じている。偉大なインドの道に奉仕するよろこびをかれらのものにしているから」(『父が子に語る世界歴史』1、大山聰訳、みすず書房)
 ネルーは、自分たちの闘争が「窮乏と悲惨とに終止符を打つための、人類の偉大な闘争の一部だ」と確信していた。
 「人道の発展」のために今、こうやって苦労しているのだ、と。だから誇り高かった。だから喜びがあった。
 私どもも、濁悪の世にあって、美しき「人道の勝利」のために戦っている。これほどの誇りはなく、喜びはない。
7  吉田松陰は、次の言葉を残した。
 「死して不朽ふきゅうの見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」(死刑の年に、江戸の獄中から弟子の高杉晋作にあてた手紙)〉
 生死を超えて、ただ大目的のためだけに、わが身を捧げきる覚悟を教えたのである。
 また、緒方洪庵おがたこうあん(江戸時代末期の蘭学者・医学者・教育者)は、つづっている。
 「安逸を思はず、名利をかえりみず、唯おのれをすてて人を救はんことをねがふべし」
 医師としての自戒であるが、すべてのリーダーの根本要件であろう。
8  大聖人は仰せである。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」──日蓮と同じ心であるならば、地涌の菩薩であろう──と。
 戸田先生は常に語っておられた。
 「広宣流布をなさんとする学会員こそ地涌の菩薩である」「地涌の菩薩と定まれば、思う通りの生活ができないわけは絶対にない」と。
 法華経従地涌出品には、こう説かれている。
 「皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」(開結四七四㌻)「智慧思議しぎがたし 其の志念しねん堅固けんごにして 大忍辱力だいにんにくりきり衆生の見んとねがう所なり」(開結四八〇㌻)と。
 すなわち、この地涌の菩薩は、体が金色に輝き、仏の三十二相を備え、無量の光明を放っている。智慧は測りがたく、志の一念は堅く、偉大なる忍耐の力がある。まさに衆生が皆、ぜひとも見てみたいと憧れる姿であった──と。
 これが私どもの本来の姿なのである。
9  宇宙のあらゆる働き──根本は四菩薩の働き
 法華経では、地涌の菩薩のリーダーとして「四菩薩」が登場する。上行じょうぎょう菩薩、無辺行むへんぎょう菩薩、浄行じょうぎょう菩薩、そして安立行あんりゅうぎょう菩薩である。
 四菩薩は、どのような意義をもっているのか。さまざまに論じることができるが、大聖人は、その一面を御義口伝で「地水火風ちすいかふう四大しだい」と関連して論じておられる。地水火風に代表される宇宙のあらゆる働きが、その根本において、四菩薩の働きであり、妙法蓮華経の慈悲の働きなのである。
 御義口伝の仰せを根本として、きょうは、リーダーの在り方に即して、わかりやすく敷衍して申し上げたい。
10  上行──先頭に立て、勇気の炎を点火せよ
 まず上行菩薩の働きは「火」と対応できよう。
 「火は物を焼くを以て行とし」と。
 火は物を焼く働きがある。妙法の勇者は、煩悩を焼いて智慧の光を出し、世間の闇を照らしていく。燃えさかる火が天に向かって隆々と炎を上げるように、ほとばしる勢いに満ち、周囲の人々を我が熱き一念に包んでいく。
 先頭に立って働き、すべての人に勇気と情熱の炎を点火する。そして進むべき道を照らす。社会にあっても、世界にあっても、大指導者としての働きを示すのである。
 これは上行菩薩の徳の一面と言えるのではないだろうか。
 仏法のリーダーは常に自身を向上させ、常に人々の先頭に立って、勇気凛々と行動しなければならない。自分が楽をして、「人にやらせよう」「人を使おう」とする傲慢な指導者であってはならない。
11  無辺行──行き詰まらない「智慧」と「生命力」を
 無辺行菩薩は「風」と対応できよう。
 御義口伝には「風は塵垢を払うを以て行とし」と。
 風は塵や埃を吹き払う働きがある。
 風が「無辺」に吹き渡って塵や埃を払っていくように、いかなる困難をも「風の前の塵なるべし」と吹き飛ばして、自由自在に活躍していける。これが無辺行菩薩の徳と言えるのではないだろうか。
 何があろうと決して行き詰まることなき「智慧」と「生命力」をもっているのである。
12  浄行──みずみずしく、心清らかに
 浄行菩薩は「水」と対応できよう。
 「水は物を浄むるを以て行とし」と。
 水は物を清める働きがある。滔々と流れる水のごとく、常に清らかな境涯をたもち、現実の汚濁おじょくに染まることなく、万物を清めていく。
 濁世の真っただ中に飛び込みながら、みずみずしく、美しき生命を汚されることがない。かえって周囲にも清浄な流れを広げていく。これが浄行菩薩の徳と言えるのではないだろうか。
13  安立行──不動の確信で皆に「安心」を
 安立行菩薩は「大地」と対応できよう。
 「大地は草木を長ずるを以て行とするなり」と。
 大地は草木を育成する働きがある。多様な草木を育む大地のごとく、すべての人を公平に守(まも)り、平等に慈しんでいく。
 皆をどっしりと支え、励ましの栄養を送っていく。何があっても揺るがない。動じない。そして皆に「この人と一緒にいれば大丈夫だ!」という、限りない安心感を与える。これが安立行菩薩の徳と言えるのではないだろうか。
14  地涌の菩薩のリーダーであられる御本仏・日蓮大聖人と「同意」の信心で、広宣流布へ生き抜く限り、この四菩薩の力用が、私どもの生命にも、わいてくるのである。何と素晴らしいことであろうか。
 この四菩薩のすべてに「行」の字が含まれていることは、まことに意義が深い。「行」がなければ菩薩ではない。「行動」してこそ仏になる。
 自分のためだけの人生では、むなしく、卑しい。人を尊敬し、人のために動いてこそ地涌の菩薩である。皆さまは、「上行」のごとく広宣流布の一切の先頭に立ち、「無辺行」のごとく自由自在に、「浄行」のごとく心清らかに、「安立行」のごとく不動の確信で、尊き学会員を厳然と守っていただきたい。
 私欲を捨て、毀誉褒貶など見おろして、ただひたすらに人々のため、未来のために生き抜くことである。それでこそ力がわく。その人が仏になる。
15  不退の人を「十方の諸仏」が守る
 最後に、重ねて御書を拝したい。
 「一期を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこ稜鉾を以て・つつき・足にはほだしを打つてきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死にしぬるならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女は受持の者を擁護し諸天・善神は天蓋を指しはたを上げて我等を守護してたしかに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや
 ──一生は、つかのまに過ぎてしまうのだから、いかに強敵ごうてきが重なろうとも、決して退する心があってはならない。恐れる心があってはならない。たとえ頸をのこぎりで引き切られ、胴をひしほこで突きさされ、足には足かせをつけられてきりで、もまれたとしても、命ある限り、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えに唱え通して死んだならば、釈迦・多宝・十方の諸仏が、霊山会りょうぜんえでの御約束であるゆえに、たちまち飛んで来られて、手を取り、肩にかけて霊山へと走られるので、(薬王菩薩と勇施菩薩の)二聖、(持国天王と毘沙門天王の)二天、それから十羅刹女が、妙法受持の者を抱きかかえて保護し、諸天善神は天蓋てんがい(立派な装飾の傘)をさし、旗を掲げて、我らを守護して、たしかに常寂光の仏国土に、送り届けてくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか──。
16  さらに御書を拝したい。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 ──我ならびに我が弟子は、諸難があっても疑う心がなければ、必ず自然に仏界にいたるのである。諸天の加護がないからといって疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない。我が弟子に朝に夕に、このことを教えてきたけれども、疑いを起こして皆(信心を)捨ててしまったのであろう。愚かな者のつねとして、約束したことを肝心の時には忘れるのである──。
 この御聖訓を再び生命に刻み、「4・2」、そして大勝利の「5・3」を晴れ晴れと飾ってまいりたい。

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