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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会春期彼岸勤行会 陰の労苦に「ありがとう!」と

1996.3.20 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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2  また本日は、春季の彼岸法要にあたり、和歌山をはじめ全国・全世界の友ならびに先祖代々の追善をねんごろにさせていただいた。
 日蓮大聖人は「上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う」と仰せである。
 皆さま方の信心によって、七代前の先祖まで、また七代先の子孫まで成仏させられる、また無量の先祖と子孫を仏にできると約束されているのである。
 それほど素晴らしい妙法である。それほど不思議なる、大事な存在の皆さまなのである。最高に親孝行な方々でもある。
 がっちりと宇宙の根本法則にのっとった人であり、これ以上はないという「無上道」の人生である。それを確信していただきたい。どんな有名人よりも、高位の人よりも尊い皆さま方なのである。
 愛する和歌山の友がお元気で、これほどうれしいことはない。和歌山の地涌の勇者は、本当に、けなげに頑張ってこられた。「連戦連勝」の和歌山である。
 皆さま方が、誠実に、堅実に、粘り強く、友好の波を広げておられる様子も、よくうかがっている。機関紙の拡大も見事である。
 皆さま方の日々の労苦は、すべて大聖人がご照覧である。この素晴らしい文化会館も、皆さまの無量無辺の福徳の証であろう。
 偉大なる健闘をたたえつつ、少々、記念に語っておきたい。
3  大聖人は嵐の中で門下に全魂の励まし
 今は乱世である。乱世で大切なことは何か。
 それは、陰の人に「ありがとう」と声をかけることである。
 建治三年(一二七七年)の春、身延の日蓮大聖人のもとに、一人の婦人門下が参詣に来た。
 彼女の名前はわからない。ただ池上兄弟にゆかりの人であったと思われる。彼女は馬に乗ってやって来たが、馬は池上兄弟の弟・宗長むねながの一家の配慮だったからである。今で言えば、車で送ってあげたり、車を手配してあげることに通じるかもしれない。
 日蓮大聖人は、この時、家長の宗長にではなく、その奥さんに御礼の手紙を書かれた。
 「此度此の尼御前大事の御馬にのせさせ給いて候由承わり候、法にすぎて候御志かな・これは殿はさる事にて女房のはからひか
 ──(先日は、仏器を御供養されたうえ)このたびは、この尼御前(婦人の在家門下)を大事な御馬に乗せてくださったとうかがいました。とても通常では考えられないほどの信心の真心です。これは、ご主人(池上宗長)は言うまでもありませんが、むしろ夫人のあなたのお心づかいであろうかと思います──。
 大聖人はこのように、「陰の人」である夫人に対して、わざわざ感謝の手紙を書かれたのである。
 御手紙をもらった夫人もどんなにか、うれしかったことであろう。
 その喜ぶ姿に、夫の宗長も、大聖人のこまやかな御配慮を感謝したに違いない。
 このころ、池上兄弟は、父親からの迫害の真っただ中にあった。その裏には大聖人を憎む邪悪な僧、良観の策謀があった。
 今また、和歌山の仏子も宗門の悪侶に苦しめられた。しかし、皆さまは勇敢に戦い、そして勝った。皆さまは広い和歌山の天地を、たがいに励ましあい、支えあって、駆けめぐっておられる。大聖人が、どれほど皆さまをたたえておられることであろうか。
4  また蒙古の二度目の襲来がうわさされ、国全体が一種のヒステリー状態にあった。「この国はつぶれるのではないか」。そういう不安は支配者層ほど強かった。幕府の基盤も盤石ではなかった。
 ゆえに幕府は、幕府に批判的な日蓮大聖人と門下の存在が怖かった。そこで狂ったように弾圧したのである。
 本当は、大聖人は日本の国を救おうとされていたのであり、幕府のやり方は「子どもが親を打つ」ような愚かな姿であった。たとえば、「佐渡御書」に「父母を打子あり阿闍世王あじゃせおうなり」等とあるとおりである。
5  大聖人は、池上兄弟に、別の御手紙で、こう仰せである。
 「世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ讒人ねいじん佞人わざん和讒きよくり曲理の者のみこそ国には充満すべきと見へて候
 ──世が末になれば聖人・賢人も、みな隠れて、ただ讒言ざんげん(ウソで人をおとしいれる)の者や佞人ねいじん(強い者にこびへつらう者)や和讒わざん(表面は親しくしながら陰にまわって人をおとしいれる)の人間や曲理きょくり(自分勝手に道理を曲げる)の人間ばかりが国中に充満すると経文に書かれています──。
 たしかに、その通りの世相である。
 今の世に、学会ほど麗しく、純粋で温かい世界はない。あまりにも清らかな世界なので、反逆者たちは、いられなくなってしまったのである。
 また「代のおさまれるには賢人見えず代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ」と。
 ──世の中が平穏な時には、だれが賢人かわかりません。世の中が乱れている時にこそ、聖人と愚人は明らかになるのです──。
 乱世だからこそ、賢人か、愚かな人か、信心強き人か、弱き人か、はっきりする。
 そのことを大聖人は、「松のしもの後に木の王と見へ菊は草の後に仙草と見へて候」──松は霜が降りたあとも枯れないので『木の王』とわかり、菊はほかの草が枯れたあとも花を咲かせるので「仙草せんそう」(妙なる草)とわかる──とたとえられている。
 乱世で、けなげに信心を貫いておられる皆さま方こそ、「人間の王」である。「妙なる草」菊のごとく「不思議なる人々」であられる。
6  大聖人が、池上宗長の夫人に感謝の御手紙を送られたのは、こういう乱世であり、激しい攻防戦のなかであった。大聖人は、御自身が迫害の嵐のなかにあろうと、いな、嵐であればあるほど、門下一人一人への御慈愛は深まるばかりであられた。
 迫害が強まるほど「陰の人」に励ましを送られた。大聖人のこの御慈愛に触れて、門下は結束し、また本当の仏法はどういうものかを学んだのである。
7  サーチライトで皆に「光」を
 大聖人の御慈愛は、尼御前が乗ってきた馬にまで注がれた。たしかに、乗せてきた馬こそ功労者である。「陰の人」ならぬ「陰の馬」である。
 大聖人は、釈尊の出家の時に帝釈天が馬となって釈尊を乗せ、中国に仏教が伝わる時も、十羅刹女が白馬となって経文と仏法者を乗せていったという話を例に、こう、讃えられた。
 「此馬も法華経の道なれば百二十年御さかへの後・霊山浄土へ乗り給うべき御馬なり
 ──この馬も法華経のための道を歩んできたのですから、あなた(宗長の夫人)が百二十歳まで長寿で栄えられた後に、霊山浄土へ行かれる時、お乗りになる御馬となることでしょう──。
 法華経の軌道に入ったのだから、馬も霊山へ行くでしょう。あなたも百二十歳まで人生を楽しんで、その後、この馬で霊山へと向かっていかれるがよい。
 同志に馬の配慮をした女性に対して、大聖人は、こうまで言われて激励されたのである。
 百二十歳は仏法で説く「上品じょうぼんの寿命」である。皆さまも、うんと長生きしていただきたい。うんと人生を楽しみきっていただきたい。
8  私どもも、組織主義であってはならない。陰で働いてくれている人を、当たり前のように思っては絶対にならない。
 また未入信のご家族等への配慮を忘れてはならない。
 活躍している友の陰には、必ず、その人を支えている人がいる。
 一言の御礼が、相手の心を変える場合もある。幹部は祈り、よく考えて、「御礼を言い忘れている人はいないか」「励ますべき人を忘れてはいないか」、サーチライトを当てるようにして、探し出していただきたい。その一念、その行動があれば、広宣流布は、いよいよ限りなく広がっていく。
9  私は、ずっと思ってきた。「和歌山に住んでみたい。もし、東京から引っ越すとすれば和歌山を選ぶに違いない」と。
 和歌山で広布の指揮を執り、また詩をつくり、書きものをしたいと願ってきた。
 『老人と海』などで有名なアメリカの文豪ヘミングウェイも、紀州に憧れをいだいていたという。
 白浜の空港もジェット便がスタートし、東北はじめ各地の同志が関西研修道場での研修を喜んでおられる。関西国際空港からも近く、世界の友との往来も、ますます、にぎやかになるに違いない。
10  二十一世紀へ、「理想の和歌山」をつくっていただきたい。日本一の偉大なる「人材の城」を残していただきたい。
 広宣流布を進めた分だけ、自分が功徳を受け、永遠の財産を生命に積む。
 立派な「人材の城」をつくった分だけ、自分の生命が堅牢な城のごとく強くなり、健康になる。
 「責任」を自覚した分だけ、「喜び」もある。これが仏法の方程式である。
 特に「副役職」の人は、自分の責任範囲を明確にすることである。具体的に責任を自覚し、責任を果たすことによって、成長も歓喜も功徳も生まれる。
 私は、これからも何回も、和歌山に来させていただきます。
 本日、お目にかかれなかった皆さまに、どうか、くれぐれもよろしくお伝えください。

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