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日蓮大聖人・池田大作

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第九十三回本部幹部会、全国青年部大会、… 青年よ生き抜け!「最後の勝利」へ

1995.11.23 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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1  わが「生命のトランペット」を高らかに
 今回のアジア各国の訪問は、会長はじめ皆さま方のお題目の力によって、大成功裏に終えることができた。この席をお借りし、謹んで御礼を申し上げたい。
 ネパール、シンガポール、香港ホンコン、マカオをはじめ各国のメンバーから「日本の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください」という伝言をいただいた。
 どの国のSGIも、大変に発展し、社会の信頼を勝ち得ておられた。
 ″わが地域のために″″広宣流布のために″という情熱、真剣さ、知恵──これにかなうものはない。その人を諸天善神は、守りに守る。
2  ただ今は、世界的なトランペッター大野俊三さんの名演奏を聴かせていただいた。本当にありがとう。
 トランペットの響きは、「勇気」と「希望」の象徴である。
 法華経には「法のつづみを撃ち、法のかい(ほら貝)を吹き」(普賢菩薩勧発品、開結六七〇㌻)という一節がある。
 今で言えば、ドラムやトランペットのような力強い楽器であろうか。″生命という楽器″は、それ以上に力強い。
 そうした楽器を賑(にぎ)やかに吹き、鳴らし、そして高らかに合唱するように、妙法を語りに語り、「もろもろ魔衆ましゅ」(魔軍)を打ち破れ! これが正義の人生、最高の人生なのだ──法華経は、こう呼びかけている。この「朗らかさ」が、法華経の真髄である。
3  釈尊生誕の国・ネパールを代表する人道詩人サマ。彼は「絶望の哀音を、勇気のトランペットでかき消そう!」とうたった。
 彼自身、民主化運動のなかで投獄されている。
 今回、カトマンズ市のシン市長とお会いしたが、市長も投獄されている。市長のお父さま(ネパール民主化運動の最高指導者、ガネシュ・マン・シン氏)も投獄。お母さま(ネパール女性協会会長、マンガラ・デビィ・シン女史)も投獄。皆、牢に入って戦われた。
 いつの歴史でも、″死ぬか生きるか″の戦いによってこそ、民衆の崩れぬ城壁は築かれる。何の苦労もなく、盤石のものができるはずがない。
4  そうした熾烈な闘争にあって、サマの詩は底抜けに明るい。
 「エベレストのごとく、常に毅然として揺るがず、心に真実と美と永遠を抱こう。
 そして、平和という素朴で優しく心なごむメッセージを、人類の幸福のために絶えず宣揚せねばならない」
 エベレストは雄大で男性的な山である。高さといい、威厳といい、日本の山はおよびもつかない。こういうヒマラヤの峰々のもとに、人間の最高峰である釈尊は生まれたのである。
 ″平和のメッセージを人類のために″──私どもこそ、それをなしている。
 「私は涙をも推進力に変えて、人間主義の車輪を前進させる。
 人類の健康のために、すべての人々を、腹の底から笑わせねばならない。だから私自身も、さらに爆笑するのだ」
 人間主義の闘争には、深刻な悲観や感傷の涙はない。何があっても、カラッと笑い飛ばしていく。皆が心から喜んで、愉快に、痛快に前進できるよう励ましていく。これが本当の詩人である。信心である。
 ──「詩とは何か」をめぐっては、今回、名門・香港大学の王学長との懇談で、同席した陳教授と語り合った。陳女史は、英文学の専攻で、私の詩を授業でも教えたとのことであった。
5  題目は宇宙へとどろく「希望の大音」
 ともあれ、仏法を持てば、自分自身が″楽器″であり″芸術″である。自分自身が″世界″である。自由自在に、人生を開き、人をも楽しませる力が出る。
 日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。妙法を唱える人生は、すべてが喜びとなる。すべてを変毒為薬できる。
 その大法を持ちながら、シクシクと、下ばかり向いている人は、湿った紙のようなものだ。なかなか火はつかない。すなわち本当の功徳がわからない。
 こうべを上げて、快活に「よし、全部、喜んでいこう!」「全部、乗り越えていこう!」──その強き一念に、功徳はぐんぐんわいてくる。人生と広宣流布の車輪が回転する。
6  大聖人は、仰せである。
 「題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし、たとえば小音なれどもばいに入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり
 ──題目を唱え奉る音声おんじょうは、十方(東西南北の四方と東南・東北・西南・西北の四維しいと上下の二方)の世界に届かない所はない。
 我々の小さな声でも、題目という「大音」に入れて唱え奉るゆえに、大宇宙の中で到達しないところはない。
 たとえば小さな音でも、ほら貝に入れて吹く時、遠くまで響くようなものである。また手の音はわずかでも、鼓を打てば遠くまで響くようなものである。一念三千の大事の法門とはこれである──と。
 妙法は、大宇宙に轟きわたる「希望の音声」である。「勇気の音声」である。人々の心を善の方向へ変え、喜びで包んでいく「智慧の大音声」である。生命の大音楽であり、大シンフォニー(交響曲)とも言えるであろう。
 題目の大音によって、三世間の五陰ごおん、衆生、国土のすべてが変わる。全宇宙の諸天善神、十方の仏・菩薩につながり、勝利の方向へ動かしていく。これが一念三千の法門である。
 ゆえに、題目の大音声にかなうものは何もない。何も心配もなければ、恐れる必要もない。題目にまさる力は何もないのである。
 この「大確信」で進んできたゆえに、学会の今日の大発展がある。これからも朗々と題目を唱えに唱えながら、二十一世紀への「栄光の序曲」を奏でてまいりたい。
7  ″青年は信用こそ財産″
 私は香港で、アジア最高峰の文豪・金庸きんよう氏と対談を開始した。氏から、ご提案をいただき、始まった対談である。中国語文化圏では″知らない人はいない″といわれるほどの巨匠。七十一歳。今も真摯な探究の心をもたれ、謙虚に創造の人生を歩んでおられる。
 お会いした日(十一月十六日)は、輝かしい晴天であった。金庸氏の故郷は中国の浙江せっこう省。天台山がある所である。氏も登ったことはないという。いつか二人で登りたいと私は思った。
 博学の氏は、法華経もよく読んでおられた。私の本も、実にくわしく読んでくださっていた。
 「三銃士」(アレクサンドル・デュマ作)など、金庸氏が「好きな本」として挙げられている幾つかの本は、不思議なことに、私が戸田先生のもとで教材として学んだ作品とぴったり一致した。
 氏が愛読された「プルターク英雄伝」も十代から私の書架にあった本である。
 氏自身、″現代文学のデュマ″と評されるが、氏が青年時代、読み込んだ書に、デュマの「モンテ・クリスト伯」(『巌窟王』)がある。私にとっても、若き日に読んだ忘れ得ぬ一書である。
8  主人公の巌窟王・ダンテスは、なぜ社交界で成功したのか──。このテーマをめぐって戸田先生は、「信用の大切さ」を教えてくださった。
 (ダンテスの成功の理由について、集った青年たちからは、「財力があったから」「知恵と雄弁があったから」などの声があがった。しかし戸田先生は大事なのは「信用」であると答えた)
 「青年には信用が財産である。しかも、信用を得る根本は、約束を守るということである。できないことは、はっきり断る。そのかわり、いったん引き受けた約束は、何を犠牲にしても絶対に守ることだ。これが青年の社交術であり、金はかからないよ」と。
 わかりやすいなかに本質を突いた、戸田先生の人生哲学である。
 金庸氏は、この思い出を綴った私の一文も読んでくださっていた。
 「よくよく考えて、『たしかに戸田先生の言われる通りだ』と思いました」と共鳴しておられた。
 また私どもが、世界にそうした「信用」を結んでいることを高く評価してくださった。
 私が一民間人として、それぞれの国のために、陰ながら努力してきた歴史をお伝えすると、「それが戸田先生の言われた『信用』ですね」と語られていた。
 私は、約束したことは、全力で果たしてきた。戸田先生の教えを、その通りに実行してきた。だから世界に「信用」を得た。だから世界のいたるところに、もろ手をあげて歓迎してくださる方々がおられる。
 学会に対してどんな悪意の中傷があっても、そういう一流の人々は、まったく眼中に置いておられない。「事実」を自分の目で確かめるからである。
9  波瀾万丈の人生の劇を
 ところで、小説の中で、ダンテス青年は裏切りにあい、いわれのない罪で絶海の孤島に幽閉される。十四年間も──。
 そうした場面を描いた作者の意図を、戸田先生は、こう論じられた。
 「デュマは、若々しい生命に対して、ひとつの人生の嵐を吹きかけて、生きるか死ぬかの思いをさせた」
 つまり、青年に、あえて試練を与え、その苦難のなかで、どのように苦しみ、どのように戦い、生きのび、どのように希望と活路を見いだしていくか──そのドラマを描いて、本当の青年らしい生き方を知らせたかったのだと、戸田先生は見ておられた。そのうえで先生は、こう結論された。
 「肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる。ゆえに、青年は、安逸を求めてはいけない」
 人生、耐え抜いた人に「栄冠」がある。最後は、その人が勝つ。その崩れざる信念を貫き通していくなかに、真実の「信用」も自然に残るのである。
10  作家・吉川英治氏は「苦徹成珠くてつたまをなす」と言った。″苦に徹すれば珠となる″──有名な言葉である。
 また松下幸之助氏が、しみじみ語っておられたことも忘れられない。「池田先生、やっぱり、若い時の苦労は、買ってでもせにゃ、あきまへんなぁ」と。
 仏とは「能忍のうにん──く忍ぶ」人をいう。青年は、波乱万丈の人生でよいのである。いわんや人類の精神革命を為さんとする人間は、生きるか死ぬかという苦難を求め、乗り越えてこそ、本物になる。
 青春時代、いかに安穏であっても、それで自分の鍛えを忘れれば、結局、四十代、五十代になってから苦しむ。
 今、私もまた、戸田先生と同じ心で、青年部に申し上げたい。
 「苦労を求めよ! 自分を鍛えよ!」。そして「信用を磨き、信用を広げよ!」と。
11  一生成仏へ「幸福の種子」を育てるのは「苦労」
 十一月二十六日は、任用試験である。試験を受ける方々、また研鑚の指導・育成にあたっておられる先輩の方々、役員の皆さま、大変にご苦労さまです。
 永遠不滅の大哲理を「信じ」「行じ」「学ぶ」ことが、どれほど豊かに人生を飾るか──。
 日蓮大聖人はこう仰せである。
 「たとえば春夏・田を作りうへつれば秋冬は蔵に収めて心のままに用うるが如し春より秋をまつ程は久しき様なれども一年の内に待ち得るが如く此の覚に入つて仏を顕はす程は久しき様なれども一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり
 ──(一生成仏の法理とは)たとえば、春・夏に田を耕して種を植えるならば、秋・冬には(その実りを)蔵に納めて、思うままに用いるようなものである。春から秋を待つ間は長いようであるけれども、一年の内に必ず来るように、この悟りに入って仏の境涯をあらわすまでは長いようであるけれども、一生の内に(仏の境涯を)あらわして、我が身が三身即一身の仏(すなわち法身〈真理〉、報身〈智慧〉、応身〈慈悲の働き〉の三身が一つの身に具わる、仏の境地になること)となるのである──。
12  まかぬ種は、はえない。すでに私どもは、「妙法」という「成仏の種子」を生命に植えたのである。これを育てるのが「仏道修行」である。育て切れば、必ず一生のうちに「仏」という「大境涯」の実りを得る。
 これが大聖人の御約束である。大聖人の御言葉には絶対に間違いはない。
 そして「一生成仏」した人は、次の世も、また次の世も、永遠に仏の境涯を得ることができる。
 だからこそ御本仏は、繰り返し「退転してはならない」「仏道修行を続けよ」と説いておられる。
13  途中が順調でも、最後が不幸であれば、人生は敗北である。そういう人は多い。「一生成仏」は、最後に「勝利の総仕上げ」をするのである。
 ゆえに、焦ることはない。人をうらやむ必要もない。自分は自分らしく、仏道修行を貫き通していけばよい。
 途中で何が起ころうとも、嘆くことはない。最後に勝つ、一生の総仕上げで見事に勝つ──ここに仏法の精髄がある。
14  大聖人は迫害にも「いまだこりず候」と
 「煩悩即菩提」であるゆえに、悩みがあっても、全部「成仏への滋養」となる。やがて、金秋きんしゅうの豊かな実りのような「熟達じゅくたつの人生」をもたらす。三世永遠に無量の福徳を広げる果実となる。
 そして、この最も尊き「幸福の種子」を、世界の人々の心田しんでんにまきゆくことが、広宣流布の大運動なのである。
 これほどの崇高な作業はない。目先の欲にとらわれた人々には、とうてい、想像もできない聖業なのである。
 すでに皆さまは、心に一生成仏の種を植えておられる。「苦労」があっても、それはすべて種子を果実とするための″肥やし″なのである。この大確信で生き抜いていただきたい。
15  また、大聖人はこう仰せである。
 「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり
 ──この法門を日蓮が説くゆえに、「忠言は耳に逆らう(正しい忠告ほど聞き入れられにくい)」という道理で、流罪され、命にも及んだのである。しかしながら、いまだにこりてはいない。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである──。
 御本仏は「いまだこりず候」と仰せである。どこまでも、どこまでも「一生涯、妙法流布」。これでいきなさいとの仰せと拝される。
16  「生涯、広宣流布」が学会精神
 この大聖人正統の「不屈の大闘争心」が、学会精神であり、関西魂である。
 関西が立てば、東京が立ち、全国が立つ。まさに「世界の関西」である。関西こそ、学会の″心臓″であり、私の命を置いた場所である。
 関西創価学会がどれほど偉大か──今、いよいよ、それを示しゆく時である。ますますたくましく、「哲学」と「幸福」と「正義」の連帯を、関西から拡大してまいりたい。いよいよ、日本と世界の模範の関西をつくっていただきたい。
17  大聖人の最晩年、若き門下・南条時光が大病をわずらった。それを知られて大聖人は、烈々たる気迫で時光を激励されている。
 「日蓮が法門をばかみ一人より下万民まで信じ給はざる上たまたま信ずる人あれば或は所領・或は田畠でんぱた等に・わづらひをなし結句は命に及ぶ人人もあり信じがたき上・はは故上野は信じまいらせ候いぬ、又此の者子となりて人もすすめぬに心中より信じまいらせて・上下万人にあるいは・いさめ或はをどし候いつるに・ついに捨つる心なくて候へば・すでに仏になるべしと見へ候へば・天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か、命はかぎりある事なり・すこしも・をどろく事なかれ
 ──日蓮の法門を、上は一人(国主)から下は万民にいたるまで、ご信じになられない上、たまたま信じる人があれば、あるいは所領、あるいは田畑等のことで苦しめ、あげくは命に及ぶ人々もある。(これほど)信心することは難しいのに、(時光の)母上や(父の)故・上野殿は信仰なされた。時光はその後継ぎとなって、人も勧めないのに心の底から信仰され、上下万人から信心をやめるように諫められ、あるいは脅されながらも、ついに捨てる心がなく、「間違いなく仏になる」と見えたので、天魔・外道が病気をつけて脅そうと試みているのであろうか。人の命は限りがある。少しも驚いてはならない──。
 ″人間、一度は必ず死ぬ。ゆえに何も恐れるな。何ものにも負けるな。信心で、厳然と前へ進め。病気にも断じて打ち勝て。
 必ず仏になることが決まっているからこそ、病気や障害で試されているのだ。乗り越えれば、仏の大境涯が開けるのだ″──大聖人の大慈悲の激励であった。
 大聖人は、この時、「鬼神きじんらめ」と病気を起こした鬼神を厳しく叱咤しったされた。
 この励ましに、時光は奮い立った。そして病気を克服した。やがて再び、大聖人の弟子として、立派に広宣流布の指揮をとるのである。
 広宣流布の「後継ぎ」に対する、大聖人の深き深き思いを拝したい。
18  創価学会は、大聖人の真実の御精神を体した仏勅の団体である。全世界に、ほかにはない大「創価学会」である。その真実の直系、広宣流布の後継者こそ、わが青年部である。
 ゆえに私は「青年よ、断じて、生き抜け。断固、勝ち抜け」と強く強く念願し、私のスピーチを終わりたい。ありがとう!

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