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日蓮大聖人・池田大作

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滋賀県最高協議会 民衆が「本」、権力者は「末」

1995.10.8 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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1  大聖人は「王は民を親とし」と御断言
 大関西と滋賀県の最高協議会、おめでとう。
 ここ滋賀の文化会館は、琵琶湖畔の素晴らしい環境にある。歴史があり、湖があり、詩心がある。琵琶湖は、平安の紫式部をはじめ多くの文人・歌人が訪れた詩情の里である。
 このほど新たに、地域貢献の「滋賀ルネサンス運動」がスタートすると伺った。大変、有意義なことである。
 滋賀は、基本がしっかりしている。粘りがある。″コシ″がある。強い心が光っている。
 県長、県婦人部長とともに団結して、「一人を大切に」「会員を中心に」進んでいただきたい。
 素晴らしい「琵琶湖の時代」「滋賀の時代」をつくっていただきたい。
 皆さまに感謝し、エール(声援)を送る意味で、本日は指導者のあり方について、少々述べさせていただきたい。
2  群雄が割拠した中国の戦国時代(前四五三年〜前二二一年)──。
 そのなかにあって、栄えゆく国、勝ちゆく時代には、やはり指導者に、それなりの哲学があり、人格があった。
 当時、戦国七雄として栄えていた国の一つにちょうの国がある。この国では、国王の母の太后たいこうの存在が大きかった。
 彼女のもとに、新しく王位に就いた隣国のせいの国の国王(王建)が、あいさつの使者を送った。
 使いの手紙を開く前に、太后は使者にたずねた。
 まず″作物の実りに変わりはありませんか″。次いで″人民にも変わりはありませんか″。そして最後に″王さまにもお変わりはありませんか″と。
 使者は、この質問の仕方は無礼だと思った。
 「なぜ、王のことよりも先に、作物の実りや、人民のことを尋ねるのですか」
 太后は切り返した。
 「作物の実りが悪ければ、人民は安穏ではありません。そして、人民が安穏でなければ、国王も安泰ではない。『ほん』である民衆のことをさしおいて、『まつ』である王のことを問うのは、間違ってはいませんか」(『戦国策』斉巻第四から)と。
 民衆が「本」、権力者が「末」である。その「末」である権力者が、「本」である民衆をいじめる。困らせる。それこそ、本末転倒の社会である。そこには、もはや衰亡しかない。
 大聖人は、「王は民を親とし」──王は民を親のように大切にし──と仰せである。この御言葉を、よくよく拝さなくてはならない。
3  権勢よりも人格 財産よりも信念
 同じく中国の戦国時代、の国に文侯ぶんこうという国王がいた。文侯は、潅漑事業や農業の発展を進め、魏の国を繁栄に導いた。
 文侯の心の深さをしのばせるエピソードがある。
 当時、魏の国には、段干木だんかんぼくという有名な賢者がいた。すでに官職を辞め、村で静かに暮らしていた。
 ある時、国王は、車でその村の門の前を通ると、車の中から深々と頭を下げて、最高の礼を尽くした。
 それを見て臣下が尋ねた。
 「段干木がいくら賢者であるといっても、たかが平民ではないですか。どうして王が、わざわざそこまで、礼を尽くすのですか」
 国王は答えた。
 「この賢者には人格が光っている。しかし、私には権勢が光っているにすぎない。この賢者は義(正義の信念)に富んでいる。しかし、私は財産に富んでいるにすぎない。権威や権力は人格にかなわない。財産も正義の信念にはかなわない。(よって、私よりも、この賢者のほうが、ずっと尊いのだ)」(『淮南子えなんじ』第十九脩務訓)と。
4  偉い指導者とは、どういう人か。それは、真摯に生きゆく民衆を、心から尊敬できる人、民衆に敬虔に礼を尽くし、仕えていく人である。本物の指導者かどうかの基準は、ここにある。
 民衆が″権力者は偉い″と盲目的に従い、卑屈に頭を下げているようでは、進歩の未来はない。民衆が、いかなる権威にも、堂々と胸を張り、毅然とこうべを上げていく──そうした真の民主の国土を築いてまいりたい。
5  正法の人を憎む故に三災七難が
 御書の「治病大小権実違目」に、こう仰せである。
 「此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず日本・一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚しんにを起せり(中略)結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし
 ──この三十数年間の三災・七難等の原因は全く他のことではない。日本一同に日蓮をあだみ、国ごと、郡ごと、郷ごと、村ごと、人ごとに、上一人より下万民にいたるまで(大聖人に対して)前代未聞の大瞋恚(怒り、うらみ)を起こしているからである。(中略)結局は、勝負を決する以外に、この災難を止めることはできない──。
 自然の災害、悪賊による騒乱、また内乱、他国からの攻撃、飢饉など深刻な経済の不況、身の病・心の病の蔓延など……。なぜ次から次へ、三災七難が打ち続くのか?
 その根本原因が、この御文に明快に示されている。そして、この苦悩の流転を止めんがために、大聖人は、権威・権力の魔性と戦い、三類の強敵に真っ向から挑まれたのである。
 この正義の大闘争こそが広宣流布である。
 時代の混迷を目の当たりにしながら、何もせず、ただ傍観している──それほど無責任な、卑怯なことはない。
 今、創価学会が立ち上がり、全力で、誠実に行動している。これこそ大聖人の御心に適っていると確信する。
 「仏法は勝負」である。ひとたび戦いを開始したからには、断じて負けるわけにはいかない。師子として仏敵を打ち破り、勝ち抜いていく以外ない。すべては、ただ民衆の安穏のためである。
6  あなたは「幸福の種をまく人」
 ここで、大聖人が婦人門下の妙法尼に送られた「法華初心成仏抄」の一節を拝したい。
 この御書でも「女人成仏にょにんじょうぶつ」の法理が明快に示されている。
 ご存じのように、法華経以前の仏典や仏教以外の多くの教えでは、女性は不当に差別されてきた。しかし、大聖人は、女性が「やすやすと仏になるべし」──やすやすと仏になれる──と高らかに宣言なされている。
 この一点から見ても、日蓮大聖人の仏法こそ、女性の時代たる二十一世紀をリードしゆく「平等」と「調和」の哲理なのである。
 大聖人は、妙法尼に、こう語りかけておられる。
 「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり
 ──とにもかくにも法華経を、あえて説き聞かせるべきである。(それを聞いて)信ずる人は仏になる。謗る者も、それが″毒鼓の縁″となって仏になるのである。どちらにしても仏の種は法華経よりほかにはないのである──。
 (「毒鼓の縁」とは、毒薬を塗った太鼓(毒鼓)の音を聞けば、聞くつもりがなくても死に至るとされていることから、不信の者でも正法を「聞く」ことによって成仏に至ることを譬えたもの)
7  皆さまが勇気をもって、仏法を語れば語るほど、人々の心の奥に、最高の「幸福の種」をまくことができる。たとえ、今は相手が反対したとしても、必ず花開く時が来る。
 なかんずく、婦人部の確信の弁舌は、観念論ではない。言葉だけの空まわりでもない。強き一念、深き体験より発する、我が婦人部の一言一言には、人々の心を打つ響きがあり、心を動かしていく力がある。
 皆さまが祈り、しゃべった分、仏縁を結び、広宣流布のすそ野は広がっていく。
 ところで、大聖人は御書のさまざまなことろで、よき僧侶の条件を明確に挙げておられる。
 すなわち、(1)これといった世間的な罪がない(2)権力などに、いささかもへつらわない(3)少欲知足しょうよくちそく(4)慈悲がある(5)経文の通りに法華経を読み持つ(自ら修行する)(6)人にも勧めて法華経を持たせる(布教する)──である。
 この基準に、ことごとく違背しているのが、日顕宗の悪僧なのである。
 (1)世間的な罪、反社会的な行為(2)権力に迎合(3)貪欲(4)無慈悲(5)修行しない(6)布教しない。
 ゆえに、御聖訓に照らして、厳然たる仏罰、なかんずく冥罰みょうばち(すぐに表面には出ないが、後々に必ずあらわれる罰)は絶対にまぬかれない。
8  ″一切衆生の仏性を妙法の一音が呼び顕す″
 大聖人は、この御書の結びにこう仰せである。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 ──ひとたび妙法華経と唱えれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵天・帝釈・閻魔法王・太陽と月・星々・天神・地神ないし地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天界という一切衆生の心の中の仏性を、ただ一声で呼びあらわせる、その功徳は無量無辺である──。
 妙法の音声おんじょうに、どれほどの力が秘められていることか。
 それは、全宇宙のあらゆる衆生が具えている尊極の仏性を呼び覚ましていく。ゆえにすべてを仏天の加護に変え、味方へと転じられるのである。
 功徳の「功」とは、「悪を滅する」こと。功徳の「徳」とは、「善を生ずる」ことである。
 学会の正義が、このように堂々と証明されゆくのも、学会員なかんずく婦人部の皆さまの懸命な祈りと戦いの功徳なのである。
 皆さま方の大闘争に呼応して、今、諸天善神もグングン勢いを増し、働いている。
 さらに朗々と、妙法を世界へ宇宙へ響かせながら、人々の心に「希望の種」をまく一日一日でありたい。
9  私は、これからも世界を回る。日本全国を回る。「希望の種」「幸福の種」をまき続ける。
 関西は、名実ともに「世界の関西」になった。民衆の手と手で築いた大関西である。皆さまとともに、世界に「妙法の種」すなわち「平和の種」をまきながら、晴れ晴れと、永遠の歴史をつくってまいりたい。三世の思い出をつくってまいりたい。
 今回は、滋賀の方々には代表にしかお会いできなかったが、お会いできなかった皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。
 素晴らしき滋賀に、また、まいります。本当に皆さま、ありがとう。

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