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日蓮大聖人・池田大作

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中部・北陸池田学校総会 青年よ「事の信仰」で勝て!

1995.10.6 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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1  広布の″智慧の王子″として自在に活躍を
 総会おめでとう。
 わが「使命の青年」「福運の乙女」の成長した姿は本当にうれしい。
 ここ中部・北陸でも、創価大学出身のメンバーがりりしく活躍している。
 創価大学のキャンパスがあるのは「八王子」。まことに人材輩出の天地にふさわしい地名である。
 「八王子」という地名は、東京都の八王子市以外にも、たとえば全国に次のような所がある。
 (1)埼玉県与野市八王子(2)新潟県刈羽郡小国町八王子(3)愛知県名古屋市中川区八王子(4)愛知県瀬戸市八王子町(5)愛知県渥美郡渥美町八王子(6)三重県四日市市八王子町(7)京都府京都市下京区八王子町(8)山口県防府市八王子(9)山口県宇部市八王子町。このうち四カ所は、この中部にある。うれしいことに全国の「八王子」で、学会員の皆さまが健闘されている。
2  地名とは直接の関係がないとされているようだが、法華経序品第一にも「八王子」が登場する。序品には、二万の日月燈明仏にちがつとうみょうぶつが説かれている。二万の仏が同じ名前で呼ばれたのである。そのうちの最後の仏には、出家以前に八人の王子がいた。
 「の八王子、威徳いとく自在にして、おのおの四天下してんげりょうす」──この八人の王子は、威厳のある徳を自在に発揮して、各が四つの天下を領土とした──。
 彼らは皆、王位を捨てて出家し、数々の善根を植えて成仏する。
 ここで説かれる″八人の王子″の名称と意味は、次の通りである。
  (1) 有意うい=智慧がある。
  (2) 善意ぜんい=善き智慧。
  (3) 無量意むりょうい=無限の智慧。
  (4) 宝意ほうい=宝の智慧。
  (5) 増意ぞうい=優れた智慧。
  (6) 除疑意じょぎい=疑念を打ち破る智慧。
  (7) 響意こうい=雄弁な智慧。
  (8) 法意ほうい=法の智慧。
 諸君も、広宣流布の王子・王女として、自在に智慧を発揮し、「民衆が勝つ」新世紀へ、道を開いていただきたい。
3  「信心の炎が燃えあがる」教学を
 先日(九月十日)は「青年部教学試験二級」、大変にご苦労さま。
 また来月二十六日には「任用試験」が行われる。教学に挑戦し、信心を磨いておられる皆さまの姿は、まことに尊い。心から賛嘆申し上げたい。
 受験者の面倒をみてくださっている先輩の方々、そして役員の方々には、大変にお世話になります。どうか有意義に無事故でお願いしたい。
4  御書を、どう拝すべきか。戸田先生は、こう教えてくださった。
 「民衆救済の大確信と、燃ゆるがごとき大聖人の情熱が、その根底をなしていることを、読みとらなくては、また無意味になることを知らなくてはならない。われら凡愚といえども、絶対なる大聖人の確信と情熱とにふるるとき、信心の火が、いやがうえにも、燃えあがるのを、感ぜざるをえないのである」(昭和三十年一月、巻頭言「御書の拝読について」)
 大聖人の大確信の御境界を拝し、我が信心を炎と燃やす──これが教学の魂である。
 私どもは、「確信の教学」「決意の教学」「行動の教学」で進む。ここに真実の仏法興隆運動がある。
5  仏法は「理」と「事」を立て分ける。戦前の学会草創期、戸田先生は、こう呼びかけられている。
 「僕等はあくまでも『事』の信仰でゆこう。一歩も踏み外さずに『事』でゆこう。理の信仰というのは、頭だけの信仰だ。思想の上だけの信仰だ。口先ばかりの信仰だ。
 『事』の信仰というのは、信仰と人生のあらゆる生活の上に、事実をもって、すなわち実証的に信仰を発揮していくことだ。
 本屋なら本屋、学校の教師なら教師の本職の上に、あるいは私生活の上に、信仰を活かしていくのだ」(昭和十七年、『価値創造』第九号。表記は現代表記に改めた)
 信仰と生活、信心と仕事は、別のものではない。一体である。信心は信心、仕事は仕事と分けて考えるのは、「理」の信仰である。
 そうではなく、両者を一体と自覚して、仕事も一〇〇%、信心も一〇〇%、全力で徹していく。そうハラを決めたとき、人生は「勝利の軌道」に入っていく。
 信心とは、厳然たる事実をもって、現実の社会に、自身の生活に、勝利の実証を示しきっていくことである。
 広宣流布の闘争は観念論ではない。抽象論ではない。現実にどれだけ行動したか。どれだけ祈ったか。語ったか。手を打ったのか。現証はどうか。その積み重ねが一切を決する。
 「青年」の異名は「行動」である。今こそ広布の全責任を担って立て! 先頭をゆけ! そして、すべてに勝て! こう私は青年部に申し上げたい。
6  「強敵と戦う心」が真の力を引きだす
 日蓮大聖人は佐渡流罪中の御境界を振り返られて、「種種御振舞御書」にこう仰せである。
 「国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信かげのぶ・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんばいかでか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ
 ──国主等が敵としてねらうということは、こちらが既に正法を行じているということである。釈迦如来のためには、提婆達多こそ第一の善知識であった。今の世間を見ると、人を良くするものは、味方よりも強敵が人をよく成長させるのである。(中略)日蓮が仏になるための第一の味方は、(大聖人を憎み、命までねらった)東条景信であり、僧侶では(権力と結託し、大聖人を圧迫した)極楽寺良観、建長寺道隆、道阿弥陀仏であり、また(権力を発動して大聖人を迫害した)平左衛門尉、北条時宗殿である。彼らがいなかったならば、日蓮はどうして法華経の行者になれたであろうかと悦んでいる──。
 権力者から憎まれることは、正法を行じている証拠である。
 敵もいない、批判もない、迫害もない、すべてが順調ななかで信心できれば、良いように思えるかもしれない。しかし、それでは「真実の大聖人門下」とはいえない。
 敵がいるからこそ、本当の力が出る。迫害があるからこそ、真剣な仏道修行ができるのである。そうとらえて、「悪」をも「善知識」に変えていくのが仏法である。諸君の戦いである。
7  学会が強いのはなぜか。
 それは、狂った権力者の魔性によって牧口先生が獄死させられ、戸田先生が迫害された。
 その魔性を「断じて許さない」心があるから強いのである。
 この「魂」を忘れない限り、学会は断じて敗れない。ますます発展していく。そう私は厳然と言い残しておきたい。
8  民衆よ叫べ! 黙すれば権力が喜ぶ
 民衆が臆病で、我慢強く、何も言わないから、権力は安泰なのである。だから「人権闘争」「精神闘争」「言論闘争」が必要なのである。
 哲学者カントの名言がある。
 「自分を蛆虫うじむしとする人は、足で踏みつけられても、それで文句はいうことはできない」(「徳論の形而上学的基礎論」森口美都男・佐藤全訳、『世界の名著』32所収、中央公論社)
 迫害され続けたユダヤの人々は、それを知っているゆえに、絶対に妥協しないのである。
 何があっても、戦い抜く。永遠に「正義」の旗を振り続ける。この「戦う心」それ自体が、人間としての「勝利」であることを強く申し上げ、記念のスピーチとしたい。
 きょうは、おめでとう。

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