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日蓮大聖人・池田大作

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第九十二回本部幹部会 民衆よ進もう!「人権の世紀」へ

1995.10.6 スピーチ(1995.5〜)(池田大作全集第86巻)

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2  中部の奇跡的な発展の力は何か。
 一つは、皆が信頼しあい、仲が良い。皆が生き生きと、伸び伸びと、活躍しておられる。
 また、婦人部も、明るく、さわやかななかに、きちっとした「信心の芯」を強くもっておられる。そして、いわゆる見栄とか形式にとらわれないで、心の絆を立派に通い合わせている。
 何か特別なことをしようということではなくて、「地道」と「堅実」と「勝利の大確信の祈り」をもって、前進してこられた。「堅実」と「着実」と「誠実」を貫いてこられた。
 その結果、中部の未曽有の大勝利の歴史が築かれたと私は確信する。
3  ともかく「何があっても乗り越えていこう」という勇気。正義感。「三類の敵を絶対に恐れない」という確信ある祈り。そして、果敢なる闘争。それが歴史をつくった。
 順調な時ばかりではなかった。伊勢湾台風(昭和三十四年)もあった。権力の魔性による弾圧もあった。そのなかにあって、不死鳥のごとく立ち上がり、勝ち進んでこられた。
 「権力よ、思い上がるな!」と立ち上がったのが中部であった。
 今、中部は、世界に光り輝く、そして日本全国を動かしゆく中部となった。本当に中部は立派である。偉大なる「この道」を、「この堅塁」を、さらに二十一世紀へと広げていただきたい。
 さて、この秋、世界五十五カ国・地域から約九百人のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーが来日される。受け入れ準備などで、大変にお世話になることと思うが、ご関係の地域の方々に、よろしくお願い申し上げたい。
 また、静岡の伊東など最近の群発地震を心配している。心より、お見舞い申し上げたい。
4  牧口青年の挑戦──『人生地理学』の完成
 昨日、三重県の会員の方が、牧口先生の大著『人生地理学』の初版本を届けてくださった。貴重な書物であり、東京牧口記念会館内に展示させていただくことになった。感謝の思いを込めて、『人生地理学』から私の所感の一端を語らせていただきたいと思う。
 東京牧口記念会館といえば、先月、中部婦人部の代表の方々が盛大に集われた。大中部の見事な発展を牧口先生も、さぞかし喜んでおられると思う。
5  一九〇三年(明治三十六年)。二十世紀の幕開けの春のことである。
 牧口先生は、ここ愛知の三河に足を運ばれた。先生は、三十一歳。青春の情熱を傾注して、大著『人生地理学』の完成に取り組んでおられた。この年の秋、三十二歳で発刊が実現した。
 このとき、牧口先生は、当時の高名な地理学者であった志賀重昴しげたか氏に原稿の校閲を依頼に来たのである。志賀氏は、愛知・岡崎市の出身で、衆議院議員としても活躍した。牧口先生が訪れた時、志賀氏は選挙のため三河に戻っていた。
 志賀氏は、多忙にもかかわらず、『人生地理学』の校閲を喜んで引き受けた。なぜか。
 志賀氏は、その時の心境を『人生地理学』の序文に記している。
 「衣食の窮乏に耐え、しかも矻々こつこつとしてそのこころざしを成さんとするに感じ、すなわちこれを諾し」と。志賀氏は、無名の青年が衣食の窮乏に耐えながら、こつこつと研究を積み重ねてきたことに感動して、校閲を引き受けたというのである。
 青年の挑戦の姿──これほど尊いものはない。若いからといってバカにしたり、下に見たりするのは大きな間違いである。
 伸びようとしている青年を、心から愛し、大切にして、応援してあげてこそ指導者である。今、そういう指導者は日本では少なくなってしまった。
6  『人生地理学』の当初の草稿は、積み重ねると六寸あまり、今で言えば十八センチ以上の厚さになった。また、出来上がった原稿は二千ページにも及んだ。(出版の都合により、それらの原稿を半分に縮めて刊行された)
 すべて牧口先生が、文字通り「こつこつと」研鑽を続け、書きためたものであった。
 牧口先生は、後に、こう記されている。
 「天上を仰いで歩むよりは、地上を踏み占めて、一歩一歩進め」
 これが、牧口先生の教育哲学であり、人生哲学であった。
7  観念論ではいけない。また、偉くなって格好よく見られたいとか、有名になりたいとか、そんな浮わついた気持ちは微塵もあってはならない。
 自分が力をつけるしかないのである。一歩一歩、進んでいくしかない。一時の名声などは、幻のようなものである。
 「堅実」「着実」「誠実」──これほど、強いものはない。まさに、これが現在の中部の規範である。この牧口先生の生き方に、中部の勝利の淵源を見る思いがする。
 こうして『人生地理学』は、中部ゆかりの志賀氏の応援を受け、また、志賀氏から、心こもる序文も寄せられて、その年の十月に発刊された。今から九十二年前の十月であった。
8  牧口先生「文明国の使命は国民の自由の確保」
 『人生地理学』では、「自然環境」と「人間」との調和が、いち早く提唱されている。
 生態学的な視点など、この一書の偉大なる先見性は、やっと今、世界の知性から大きな注目を集めつつある。
 牧口先生のような本当の偉人が、本当の人格者が、本当の愛国者が忘れられて、見せかけの人間のほうが世間では、もてはやされる。それくらい日本の精神土壌は貧しい。軽薄な人気の人を素晴らしいように思うのは錯覚である。幻にすぎない。
 先師の偉大さを証明し、世界に宣揚するために、私は戦っている。
9  『人生地理学』は、同時に、牧口先生の「平和」と「人権」の闘争宣言でもあった。
 当時は帝国主義の時代。日本においても、日清戦争から日露戦争に向かっており、ナショナリズムが大きく高まっていた時期である。「国家」は、外には他国の侵略へと突き進み、内には国民に対する統制を強めていった。
 その時勢にあって、牧口先生は「地球」「人類」という次元から「国家」を見おろしておられた。
 ちっぽけな日本という「国家」に隷従する″臣民″ではなく、開かれた心で「全人類」に貢献する″世界市民″を育てたい、育てなければならない──ここに牧口先生の戦いの眼目があった。
 牧口先生は、「国家」なかんずく「文明国」の果たすべき根幹の使命を、こう指摘されている。
 「国民個人の自由を確保すること」「個人の権利を保護すること」、そして「国民の生活に対して、その幸福の増進を図ること」であると。
 わかりやすく言えば、「国家」は、国民の「自由」と「権利」と「幸福」のためにある、というのである。まったく正しい主張であると思うが、どうだろうか。
 この簡潔明瞭な原理が、ことごとく踏みにじられてしまったところに、今世紀の悲劇があるといっても過言ではない。
10  牧口先生は『人生地理学』の中で、「言論の自由」「思想の自由」とともに「信教の自由」についても、敢然と擁護されている。
 当時、牧口先生は、まだ信仰していなかった。しかし、その後の著作(『地理教授の方法及内容の研究』)でも、「国家権力の干渉は、人民の無形の精神世界にまで立ち入るべきではない」と主張されている。
 これが牧口先生の一貫した信条であった。
 戸田先生もそうである。私も同じ信条で進んでいる。皆さんもまた同じである。
 牧口先生は、青年らしくきっぱりと、「人間の内面にかかわる″信仰の自由″は絶対に束縛してはならない!」と主張されたのである。
 牧口先生の先駆的な人権思想については、ブラジルの″人権の父″といわれた、ブラジル文学アカデミーの故アタイデ総裁との対談でも語り合った。
11  「民主主義の気骨」をつくれ
 思えば、牧口先生のご生涯は、七十三歳で獄死されるまで、不当な権力との戦いの連続であった。特筆される名校長でありながら、何度も左遷されたのも、理不尽な権力の介入のせいであった。
 なぜ、権力の傍若無人な悪が、まかり通ってしまうのか? 牧口先生は、その背景に、「卑屈にして脆弱な日本の精神土壌」があることを深く憂慮されていた。
 「官」が上で、「民」は下。民衆の公僕でありながら、尽くすべき当の相手の民衆を見くだし、踏みつける。この″転倒″は今も続いている。牧口先生は、この土壌と戦われた。
 例えば、日本人には「結局、″長いものには巻かれろ″という気休めのことわざのままに、あきらめてしまう意気地のなさ」がある、と。(『創価教育学体系』)
 また「上の好む所を、下が素直に見て柔順に従う日本の国民性」(昭和十六年、「価値創造」第五号)がある。権威の言いなり。すぐに沈黙する。戦わない。これでは利用されるだけである。正義の言論で堂々と立ち向かわなければいけない。
 さらに「自分が見もせず、聞きもせず、確かめもせず、みずから認識することをせずに、いたずらに他人の評判を信じて付和雷同してしまう」(『創価教育学体系』)風潮が心配である、と。
 週刊誌などの無責任な記事をうのみにする。自分の目や耳で確認もせず、自分の頭で考えもせず、簡単に世間のうわさに踊らされる。付和雷同が日本人の欠点である。
 そうした「民主主義の気骨」のない風土との戦いの果てに、牧口先生は″民衆仏法の人間主義の哲学を、確たる精神の柱としていく以外にない″と結論された。日蓮大聖人の仏法に到達されたのである。
 先生は「誰かが言わねば、社会はついに改まる時はない!」と、ご自身の信念を堂々と伝えておられた。
 「我が弟子も続け!」──こうおっしゃっておられることは間違いない。私たちの手で、本当の民主主義の社会をつくってまいりたい。
12  忘れてはならないことは、牧口先生の人権闘争には暗い悲壮感はなかったということである。ここがまた偉大である。
 牧口先生が笑っておられる写真は見たことがないが、実は先生は「楽観主義」の指導者であられた。
 牧口先生は、淡々と、こうつづっておられる。
 ″自分たちに不正がなく正邪善悪を明らかにして、道理に従う自信と度量があるならば、百の干渉があったとしても何も恐れることはない″と。
 「仏法は道理」である。自分たちに不正がなければ、批判があっても、うわさをつくられても、悪口雑言されても、何も恐れてはならないし、恐れる必要もない。これが人格の証である。信念の道である。仏法の真髄なのである。
 また、これが、一点のくもりもなく大理想に生きゆかれた牧口先生の強さであり、朗らかさであった。悲壮感など、ありえない。我々にもあるはずがない。
13  牧口先生は期待された──青年に、そして母たちに
 その牧口先生が信頼を託したのはだれか──。
 青年であった。正義のためには「敢然として闘うだけの気概ある青年」を、先生は信じた。
 戸田先生も「青年」に託された。戸田先生の指導は、牧口先生の指導と全部、一貫して同じであった。淵源はすべて牧口先生にあった。どこまでも「師弟不二」であられた。
 そして、牧口先生が青年と並んで期待を寄せたのはだれか──。それは母であった。婦人部の方々である。
 先生は、母たちこそ「未来に於ける理想社会の建設者」であると断言しておられた。そして今こそ″大いなる母性が覚醒すべき時機″であると呼びかけられた。
 今から六十年以上前のことである。戦後の婦人参政権の確立や、今日の婦人リーダーの登場を考えると、すごい予見である。
 その意味で、婦人部はスクラムを組んで、遠慮なく正義の声を上げていくべきである。婦人が叫んだ分だけ、理想社会の建設は進む。
14  牧口先生は、若き日に『人生地理学』の発刊に際してお世話になった志賀氏の恩を決して忘れなかった。
 一九二七年(昭和二年)、志賀氏は入院して危篤状態に陥った。それを聞くや牧口先生は即座に病院に駆け付け、自分の血を採って志賀氏に輸血するよう申し出ている。輸血が日本では、まだよく知られていないころのことである。この崇高な「報恩の人」が私たちの先師である。
 「信義」には、あくまでも「信義」で応える。「真心」には、どこまでも「真心」で報いる。この「人間の道」が「仏法の道」である。「創価学会の道」である。
 日顕宗は、この「仏法の道」を完全に捨て去ったのである。
15  「国家悪の世紀」から「民衆の勝利の世紀」へ
 『人生地理学』では(織田)信長、(豊臣)秀吉、(徳川)家康という三人の天下人を輩出した、ここ中部の三河・尾張・美濃の大平野についても言及されている。志賀氏が補説して書いた部分である。
 ここでは、三河・尾張・美濃の大平原を例に「博大はくだい(広く大きな)なる人物、博大なる事業」は平原より生まれると、書かれている。
 スケールが大きな人材。スケールが大きな事業。その意味で、世界の友を中部に呼んで、盛大に世界青年平和文化祭をやりましょう!(一九九八年十一月に開催)
 二十一世紀初頭には、リニア中央新幹線が開通し、時速五百キロの″夢の超特急″が走る計画もある。第二東名・名神自動車道も開通、さらに中部新国際空港の開港も予定されている。
 二十一世紀には「世界の中部」になることは間違いない。「日本の偉大なる光・中部」万歳と申し上げたい。
 わが大中部は天下をのむ天下人の意気込みで進んでいただきたい。そして「戦争と抑圧の『国家悪の世紀』」(二十世紀)から「人道と人権の『民衆の勝利の世紀』」(二十一世紀)へ、大いなる歴史回天の劇を、大中部から、つづっていただきたい。
16  先ほども「母」について触れたが、女性の皆さまへの励ましの意味を込めて、少々、お話ししたい。
 女性にとって、人生で一番、輝いている時期は、いつか──。このテーマに、自らの一生を通して、答えを出した女性がいる。アメリカのエレノア・ルーズヴェルト女史である。(一八八四年〜一九六二年。フランクリン・ルーズヴェルト第三十二代大統領夫人)
 女史は、世界的な社会運動家、平和活動家として、今なお、アメリカで最も尊敬されている女性の一人である。
 偉大な人物は皆、「活動」している。「行動」している。平和のため、人権のために働かない人は、ある意味で動物と同じである。社会のため、人のために勇んで働いてこそ、真の「人間」といえよう。
 エレノア・ルーズヴェルト女史とともに、「世界人権宣言」の採択に尽力した故アタイデ総裁も、私との対談集において、女史への深い敬愛の念を述べておられた。
 (「私たちが〈「世界人権宣言」草案の〉実質的な合意に達することができたのは、ルーズヴェルト女史の熱意によるものと思います。彼女は、不眠不休の努力を続けていました」「彼女は、ジャーナリストとしても立派で、その記事は、純粋で崇高な民主の精神にあふれ、人類の幸福を願う心に満ちていました」〈『二十一世紀の人権を語る』潮出版社〉)
17  エレノア・ルーズヴェルト「成長するかぎり女性は輝く」
 エレノア女史は、つづっている。
 「いつ頃が女性の最盛期にあたるかは、その女性がどのように成長するかにかかってくると思います。その女性がいつも人生から最高のものを得ようと努力しているならば、たぶんどの時期も最高のものにすることができるでしょう」(『生きる姿勢について──女性の愛と幸福を考える』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳、大和書房)
 つまり、「成長しよう」と努力する女性は、人生のどんな時をも、最高に輝かせるというのである。
 自己の成長を願わず、目先の楽しみだけを追い求める人生の、どこが幸福であろうか。あまりにも、むなしい人生であろう。
 それに対し、学会の婦人部・女子部の皆さまは、日々、自己の成長を祈り、人のため、社会の平和のために行動しておられる。
 そこには、限りない向上がある。成長がある。学会活動のなかに、人生を最高に輝かせる一切の要素が含まれているのである。
 年齢ではない。環境でもない。心である。人生は、心一つで、いつでも、どこでも、最高に輝かせることができる。
 いわんや、仏法では「年は・わかうなり福はかさなり候べし」──年はますます若くなり、福運はますます重なっていくでしょう──と説かれる。この偉大なる仏法を、皆さまは実践しているのである。
18  エレノア女史が三十六歳の時、夫のフランクリン・ルーズヴェルトは、突然、大病を患い、半身不随となってしまう。
 夫も、夫の母も、深い悲しみに沈んだ。「政界から身を引いて、静かに療養した方がよい」と言う人も多かった。しかし、女史は、この苦難に屈しなかった。
 彼女は、夫を力強く励まし、献身的な看護を続けた。夫は政治への意欲を取り戻し、数年のうちに、政界へ復帰。そしてついに一九三三年、アメリカの第三十二代大統領に就任した。これは、有名なドラマである。
19  勝利とは自分が″勝ち取る″もの
 人生には、思いもよらない苦難が、たくさんある。しかし女史は語っている。
 「一つが切り抜けられたら、次には何でも切り抜けられるはずではないか。立ち止って、恐怖と正面から対決する度に、人には力と勇気と自信がついてくる。そして、『この恐ろしいことが切り抜けられたのだから、次にどんなことが来ても大丈夫だ』と言えるようになる」(前掲書)と。
 まったく、その通りである。婦人部の皆さまが、よくご存じの通りである。
 大きな困難と戦うからこそ、自分を大きくできる。眠っていた力を呼びさまし、発揮できる。そこにこそ新たな飛躍が生まれていく。
 反対に、「どこに行っても逃げて歩いていたなら、自信は失われるばかりである」(同前)と女史は言う。
 臆病では、いけない。臆病では、結局、自分がみじめである。
 「勝利はかち取らなければならない」(同前)──これが、女史の人生の結論であった。
 女史は、七十五歳を超えてなお、アメリカの国連代表などの要職を務めた。社会への貢献を貫いた彼女の生涯は、今も多くの人々の心に刻まれている。
20  ともあれ、大切なのは、「自分に勝つ」ことである。″今、目の前にある苦難″に負けず、見事な勝利の劇をつづっていただきたい。
 そのための「信心」である。「法華経の智慧」である。
 「きょう」という一日を輝かせゆくのは、信心の「光」である。信心の「光」で最高に輝きゆく一日一日を生き抜いていただきたい。
 皆さまのご多幸と、ご健康を心から祈り、本日のスピーチとしたい。全国の同志の皆さま、ご苦労さま! ありがとう!

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